「……間違いない。ここは、自分の故郷だ」
栗彦くんが呟く。
京都の市街地から北東に位置する田園地帯、大原。豊かな自然に囲まれたそこは、京の奥座敷とも呼ばれている。
広々とした田んぼのそばへ、猫神様はゆっくりと着地した。それから周りに人がいないのを確認して、私と栗彦くんを背中から降ろす。
この瞬間が、いつも緊張する。
猫神様と栗彦くんの姿は普通の人の目には映らない。けれど私の姿は誰にでも見えるので、この瞬間を目撃されてしまうと、私はまるで何もない空間から急に現れた人のように見られてしまうのだ。
「なつかしいな。ここは、あの頃とほとんど変わっていない」
栗彦くんは背中の羽を広げて浮き上がり、辺りをぐるりと見渡す。
「栗彦くんが捜している人も、この辺りに住んでるのかな?」
同じように私も辺りを眺めながら言うと、栗彦くんの顔はわずかに曇る。
「それは……わからない。もともと地元の人間だったのかどうかもわからないし、もしそうであったとしても、あの子どもが今も同じ場所に住んでいるとは限らない。自分がこの世を去ったのは、もう二十年ほど前のことだからな」
あやかしと比べて、人間の生きる時間はとても短い。
二十年も経てば、人間の子どもはとっくに成人している。大人になったその子はどこか別の地へ働きに出ているかもしれないし、あるいはすでに家族ごと移住してしまったかもしれない。
もしかしたらもう、その子とは会えないかもしれない。
その可能性を思うと、私も胸が苦しくなる。
「一度、三千院の方まで向かってみますか? 参道にはお店もありますし、運が良ければ地元の方とお話しできるかもしれません」
猫神様が言って、栗彦くんは頷く。
そうして私たちはさらに北東へ向かって歩き出した。
アスファルトで舗装された道に出ると、すぐ隣にある畑には『シソ畑』という看板が立っていた。すでに収穫を終えた後のようで、今は土の周りに赤い彼岸花がいくつも咲いている。
「大原は赤シソの名産地で、しば漬け発祥の地と言われてるんですよ」
私が畑の方を眺めていると、隣から猫神様がそう教えてくれた。
さすがは案内人の神様。土地鑑だけでなく、その地域の特色についてもしっかり把握している。
緩やかな坂道をさらに進んでいくと、道の脇には少しずつお店が増えてきた。お茶屋さんや和雑貨を取り扱う店、それから温泉旅館などもある。昔ながらの日本家屋が並び、その反対側には清流が流れている。
三千院を挟んで北と南には、一つずつ川があった。それぞれの名前は『呂川』と『律川』といって、『呂律が回らない』の語源となっているのだと、それも猫神様が教えてくれた。
「さすがにこの時間帯だと、どこの店も閉まっているな」
栗彦くんが言った。
その言葉通り、道の脇に並ぶ店はどこも入口を閉めてひっそりとしている。日没前のこの時間は参拝客もいないようで、参道を歩くのは私たち三人だけだった。
坂を上るにつれて、辺りは木立に囲まれていく。
やがてほんのりと足に疲労感を覚え始めた頃。視線の先に、立派な石段が見えてきた。
その隣には石柱が立ち、表面には『梶井 三千院門跡』と彫られている。



