迷子のあやかし案内人 〜京都先斗町の猫神様〜

 
 なんとかして、蜜柑くんがここまで会いにきてくれたことを彼女に伝えたい。

 だから、

「あの。すみません」

 どうしても我慢できずに、私はその人に話しかけてしまった。

 見知らぬ女子高生から急に声をかけられた彼女は、不思議そうにこちらを振り返る。

「あなたは……?」

 そう問いかけられて、私はやっと我に返った。

(しまった)

 何の考えもなしに、衝動的に体が動いてしまった。
 これから彼女にどう説明をするのかも、何の準備もしていない。

 けれど時すでに遅し。
 相手の意識はもうこちらに向いてしまっている。

 もはや腹を括るしかなく、私はしどろもどろになりながら、なんとか言葉を紡ぐ。

「えっと、その……いきなり話しかけてしまってすみません。もし、ご気分を悪くされたら申し訳ないのですが」

 そう前置きしてから、私は改めて彼女の目を見て、恐る恐る尋ねた。

「あなたは昔、猫ちゃんを飼っていませんでしたか? 二十年くらい前に」

「猫?」

 その質問を耳にした瞬間、彼女の瞳が確かな動揺を示す。

「……なんで、そのことを知ったはるんですか?」

 当然の疑問だった。
 お互いに面識すらない人間が、急に過去のことを言い当てたのだ。
 不審に思われるか、気味悪がられるに違いない。

 今までもそうやって、私は人から避けられてきた。

 彼らが私に向けてくる、異様なモノを見る視線。
 あれを思い出すだけで、たまらず体が震えそうになる。

 けれど私は、それでも今は、真実を伝えたかった。

「実は私、人には見えないものが見えるんです。あなたの目には映っていないかもしれないけれど……あなたのそばには今、猫ちゃんがいるんです。ずっと遠いところから、あなたに会いにやってきたんです」

 たどたどしくも、そう私が伝えきった直後。

 彼女は痩せた両手で自らの口元を覆って、

「……ミカンのことですか?」

 信じられないといった表情で、私の顔をまっすぐに見つめた。

「あの子がいま、私のそばにいるんですか?」

 どうやらわかってくれたらしい。

 ミカンという名前は、この現世で彼女と一緒に暮らしていた頃からのものだったのだ。

 当時の蜜柑くんは、人間の言葉をよく理解できなかったと言っていた。
 けれど、彼女が何度も呼んでくれたこの名前の響きだけは、しっかりと覚えていたのだ。

「ミカンは……私のせいで死んでしもたんです。あの日は私の不注意で、窓を開けっぱなしにしてたから……そこから外に出て、車に轢かれてしもうて。私のせいで、可哀想なことをしてしまいました」

 当時のことを思い出しているのか、彼女は口元を覆ったまま、眉根に深いシワを刻む。

 やはり蜜柑くんはその日、事故に遭ったのだ。
 もう二十年も前のことを、女性はつい今しがた起こったことのように、悲痛な面持ちで振り返る。

「私には、あの子の世話をする資格なんてなかったんです。ほんまに、可哀想なことをしてしもて……。あれからもう、命あるものを引き取ることはせんようになりましたけど、それが償いになるはずもありませんから……」

 蜜柑くんはもともと捨てられていた仔猫で、冬の寒い夜に段ボールの中で震えていたという。
 それを不憫に思った彼女が拾って、一緒に暮らし始めたのだ。

「私なんかが拾わなければ……もっと別の人に拾われてれば、あの子は幸せになれたかもしれません。だから……私はあの子に恨まれても仕方がないんです」

 恨まれている、と彼女は言う。

 蜜柑くんがここへ来たのはそんな理由じゃないのに、彼女は勘違いをしている。

「ちがう。ちがうよ」

 いつのまにか、蜜柑くんがすぐ隣までやってきていた。
 彼は女性の目の前に立って、うんと背伸びをして、今にも泣きそうな彼女の頭を撫でている。

 けれどその温もりは、お互いに感じ取ることはできない。
 
 
「ボクはしあわせだったよ。だから、そんな風に言わないで」

 よしよし、と子どもをあやすように蜜柑くんが言う。

 この人と一緒に暮らせて幸せだった。
 そう蜜柑くんは言っている。

 だから私は、目の前で懺悔の言葉を口にするこの人の手をとって、両手でぎゅっと包み込んで言った。

「ミカンくんは、あなたと一緒にいられて幸せだったと言っています。彼があなたに会いにきたのは、あなたが寂しい思いをしているんじゃないかと心配だったからです。だから、どうかそんな風に言わないで。ミカンくんの気持ちをわかってあげてください」

 こんな見ず知らずの女子高生の言葉を、どこまで信じてもらえるかはわからない。

 それでも、どうか伝わってほしい。

「あの子が、そんなことを……?」

 彼女は瞳を揺らしながら、今度は手元のカバンから一枚のポストカードを取り出した。
 そこには繊細なタッチで描かれた水彩画——一匹の猫のイラストが印刷されてあった。

 ふわふわのオレンジ色の毛を持った、茶トラの男の子。
 やんちゃそうな飴色の瞳は、今の蜜柑くんとそっくりだ。

「昔、私が描いたあの子の絵です。いつも元気いっぱいで、イタズラすることも多かったけど、私が風邪をひいたらじっとそばに寄り添ってくれる、優しい子でした」

 まるで笑っているようなその猫の顔に指を這わせて、彼女は消え入りそうな声で呟く。

「そうやね……。あの子は、人を恨んだりするような子やない。心優しくて、かわいくて。ほんまに、大事な宝物でした」

 そう言い終えたとき、彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。

 それをすぐ隣で見ていた蜜柑くんもまた、飴色の瞳から、一粒の雫をこぼした。


          ◯


「ありがとう、猫神様。それから桜おねえちゃんも。ボク、こっちの世界にこれてよかったよ」

 女性と別れた後。
 私たちはまた、ひと気のない路地に戻っていた。

 さっきの平野神社では私が勝手な行動をしてしまったので、猫神様に怒られるんじゃないかと思ったけれど。
 彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、「ありがとうございます」と、蜜柑くんと一緒にお礼を言ってくれた。

「桜さんのおかげで、蜜柑さんの心残りもなくなったようですね。これで私も心置きなく、蜜柑さんを幽世へと送り帰せます」

 こちらの世界へ迷い込んだあやかしを、あちらの世界に送り帰す。
 それが猫神様の役目だと言っていた。

 まだ半人前のあやかしである蜜柑くんは、本来ならまだこちらの世界へやってくることはできない。

 そしていずれ一人前になって再びこちらへ来る頃には、私ももう生きているかどうかはわからない。

 だからきっと、私と蜜柑くんが顔を合わせられるのは、これが最後になるだろう。

「蜜柑くん。今日は、あなたに会えてよかったよ。あっちの世界に帰っても、元気でね」

「うん! 桜おねえちゃんも元気でね!」

 蜜柑くんはそう明るい声で言うと、猫神様の前に立って彼の顔を見上げた。

 猫神様はその場に(ひざまず)いて、蜜柑くんの右手をとる。

 そして、その小さな手の甲に、そっと口づけを落とす。

 するとたちまち蜜柑くんの体は真っ白な光に包まれて、春の夜の星空へと、ゆっくりと溶けて消えていった。
 
 
          ◯


 再び獣の姿になった猫神様は、その背中に私を乗せて家の前まで送ってくれた。

「桜さん。今日はほんまにありがとうございました」

 別れの挨拶の際にまた白い青年の姿になった彼は、穏やかな笑顔で恭しく頭を下げる。

「い、いえ! 私は別に何もしてないので……」

「そんなことないですよ。蜜柑さんが晴れやかな気持ちであちらの世界へ帰れたんは、あなたのおかげですから」

 そんな風に優しく褒められてしまうと、私はなんだか顔が熱くなってしまう。

 あやかしが見えることで、こうして誰かの役に立てる日がくるなんて、今まで想像したこともなかった。

「ところで、こんな時間まで連れ回してしまって大丈夫でしたか? お家の方が心配したはるのでは……」

「あっ、それは大丈夫です。私、小さい頃に両親を亡くしてて……。いま一緒に住んでいる人は、いつも仕事で遅くなりますから」

 幼い頃に母を病気で、父を事故で亡くした私は、今まで親戚の家を転々とする形でたくさんの人たちにお世話になってきた。

 彼らと違ってあやかしが見える私は、あらゆる場面で気味悪がられてきたけれど、先月からお世話になっている(あかね)さんはそういうことを気にしないタイプの人なので、私は色んな意味で助かっている。

「そうやったんですね。では、お夕食はいつも一人で?」

「はい。茜さんはいつも遅くまで仕事を頑張ってるので。晩御飯ぐらいは私が作らないと……——あっ」

 そこまで言ったところで、私は大事なことを思い出す。
 そういえば今日はもともと、食材の買い出しに行こうと思っていたのだ。

 すかさずスマホを取り出して見ると、時刻はすでに午後九時を回っている。
 今からスーパーに寄って帰ってから作るとなると、かなり遅くなってしまうかもしれない。

「お夕食、今から作ると遅くなりますよね。よかったら、こちらをどうぞ」

 猫神様はそう言うなり、ポンッとまた白煙を上げて、まるで魔法のように何かを出現させた。
 彼の手元に現れたのは、小豆色の風呂敷に包まれた四角いものだった。

「こんなこともあろうかと、先ほど召し上がっていただいた私の料理をお弁当に詰めてます。よければこちらをお持ちください」

「えっ……い、いいんですか!?」

 あの美味しい料理がこの中に詰まっている。
 思いがけない彼からの厚意に、私は嬉しすぎて涙が出そうだった。

 差し出された風呂敷を受け取り、私は何度も何度も頭を下げる。
 そんな私を見ながら、猫神様はいつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。

「桜さんは、優しい人です。誰かに優しくできるいうのはとても素晴らしいことです。けれど、そのために自分のことを後回しにしてしまうのは、あなたの悪い癖やと思います。ですから、もっと自分のことも大切にしてくださいね」

 自分を大切にしろ——そういえば、茜さんもそんなことを言っていた気がする。

 やがて猫神様はまた獣の姿に戻ると、音もなく地面を蹴って、月夜の中を天高く飛び去っていった。

 私はその姿を見届けてから、ようやく自宅マンションの入口へと向かった。
 オートロックの扉を開け、エレベーターに乗り、部屋の鍵を開けて中まで足を踏み入れた瞬間。

「桜ぁ——っ!」

 と、リビングの方から大声を上げ、バタバタとこちらへ駆け寄ってくるアラサー女性が一人。
 すらりとしたモデル体型にポニーテールがトレードマークの、もちろん茜さんだ。

「あ。茜さん、ただい……」

「こんな時間までどこをほっつき歩いてたんや!? 心配したやんかー!!」

 がばり、と私の体に抱きついてくる茜さん。
 普段からスキンシップの多い彼女はこれが通常運転だ。

「ご、ごめんね茜さん。ちょっと寄り道しちゃって。茜さんは、今日は早かったんだね?」

「うんうんー。今日はちょっとトラブルがあってな、店も早めに閉めてん。それより、桜はもうご飯食べたんか? 和菓子やったらあるけど食べるか!?」

 京都駅前の和菓子カフェで働いている茜さんは、いつもお洒落な和菓子をたくさん貰ってくる。
 私がここへ転がり込んでくるまで一人暮らしだった彼女は、その和菓子をよく夕飯がわりにしていたのだった。

「私はもうお腹いっぱいだから大丈夫。それよりこれ。お弁当をもらってきたから、よかったら食べてね」

「えっ。もらってきたってこれ、もしかして誰かの手作りなん? 桜、友達できたんか!?」

 友達、と聞かれて、私は言葉に詰まる。

 この京都へ越してきてから、私はまだ友達と呼べる友達を作れていない。
 そしてあの猫神様たちのことは、『友達』と呼べる存在なのかどうかはよくわからない。

 私が返答に困っているのに気づいたのか、茜さんはそれ以上深く聞いてこようとはせず、「お弁当、さっそくもらうでー!」と嬉しそうに風呂敷を開けた。
 彼女のこういうところに、私は救われている。
 
「あっ。せやせや、桜。今日の空、もう見た? 星がめっちゃ綺麗やねんで!」

 茜さんが言って、私は先ほど見た空を思い出す。

 猫神様の背中に乗って、天高くから見下ろした京都の夜景。
 白いふわふわの毛並み。
 蜜柑くんが握ってくれた手の温もり。

 それらが走馬灯のように頭に浮かんで、胸があたたかくなる。

(また、会えるといいなぁ……)

 今日は本当に、素敵な体験をしたんだなぁと思う。

 今まで生きてきた中で、あやかしが見えてよかったと思えたのは、この日が初めてだった。
 
 
「なぁなぁ、帰りに鴨川デルタ寄っていかん?」

「ええよー。行こ行こ!」

 放課後。
 二年一組の教室では、あちこちから友達同士で盛り上がる声が聞こえてくる。

 私はそれらに聞こえないフリをして、スクールバッグを肩にかけて早々に廊下を目指す。

「あっ。ねえ、天沢さん! よかったら天沢さんも一緒に行かへん?」

 時折こうして、ひとり寂しそうにしている私に声をかけてくれるクラスメイトもいる。

 優しいな、と思うし、一緒に遊んでみたいなって気持ちも少しだけある。
 けれど、

「ありがとう。でもごめんね、今日はちょっと用事があるから」

 そんな嘘をついて、私は教室を後にする。

 友達と遊んでみたいという気持ちはある。
 けれど、いざ友達を作ったところで、何かの拍子に嫌われてしまう可能性は高い。

 人には見えないあやかしの姿が見える私は、これまで何度も周りから気味悪がられて避けられてきた。
 今はできるだけ見えないフリをしているけれど、ふとした時に素が出てしまうことはある。

 だから、最初から深く関わらない。

 大事なものを作ってしまうと、それを失ってしまったときが、一番つらいから。


          ◯


 学校を出てバスに乗り、四条河原町で途中下車をする。

 今晩の食材の買い出しと、それからちょっとだけショッピングをするのはいつもこの辺りだった。

 京都屈指の繁華街。
 この四条通には百貨店を始めとして、ありとあらゆる店が集まり、学生や仕事帰りの人々、観光客などで賑わっている。

 そこへ垂直に交差する形で流れる鴨川は、これまた風情のある観光スポットだ。
 春の陽気に包まれた今日は、多くの人が河川敷に腰を下ろして談笑している。

(楽しそうだなぁ……)

 友達同士で笑い合う彼らの様子を、私は四条大橋(しじょうおおはし)の上から見下ろす。

 私も周りのクラスメイトたちと仲良くしていれば、今頃はここでこんな風に楽しくやっていたのかもしれない。

 まあ、無いものねだりをしていても仕方がないか——と、(きびす)を返そうとしたそのとき。

 橋の欄干(らんかん)に、上半身を預けている少年の姿が目に入った。

「はぁ…………」

 大きな大きな溜息を吐く、中学生くらいの男の子。

 紺色の浴衣姿で、焦茶色の髪の上には、同じ色をしたふわふわの丸い耳。
 お尻の辺りからはこれまた焦茶色の丸っこい尻尾が垂れている。

 どう見ても、人間ではない。

(この子は(たぬき)……かな?)

 丸っこい耳と尻尾を見る限り、おそらくは狸のあやかしだろう。
 深い溜息を吐いて途方に暮れているところを見ると、何か困っているのかもしれない。

 さてどうしようか、と私は考える。

 できれば何か力になってあげたいけれど、あやかしの中にはたまに人間に悪さをしようとする存在もいる。
 過去には私も、安易に接触して祟られそうになったことも何度かあった。

 けれど、先日の蜜柑くんのような子もいる。
 この現世に迷い込んで、助けを必要としている場合もある。

 ここで見て見ぬフリをしてしまったら、この子はずっと困ったままかもしれない。

 だから、

「ねえ、あなた。何か困ってるの?」

 私はそう、隣から声をかけてみた。
 
 
 すると、

「…………あ゛?」

 男の子はそう低い声で言って、心底不機嫌そうな目をこちらに向けた。

 思わぬ反応に、私はわずかに後ろへ仰反る。

「なんだよ、お前。何か文句でもあるのか?」

「あ、いや。そういうわけじゃなくて。あなたが何か困っているように見えたから、どうしたんだろうと思って」

 私がしどろもどろに苦笑いを浮かべていると、彼は「ふん」と鼻を鳴らして言う。

「お前、人間か。人間のくせに俺たちの姿が見えるのか」

 ものすごく上から目線だ。

 やっぱり話しかけない方がよかったかな——と後悔し始めていると、

(あれ?)

 よくよく見てみると、彼のお尻にある丸っこい尻尾がフリフリと左右に揺れている。
 さっきまでしょんぼりと垂れているだけだったそれが、今はぴょこりと立ち上がって、何かを訴えるようにしきりに動いている。

(これってもしかして、喜びの表現だったりする?)

 動物は、犬や猫なら尻尾で感情を表現することが多い。

 狸のことはよくわからないけれど、これだけ尻尾を振っているなら何かしら感情が動いているはずだ。

 もしかすると彼は、表面的にはぶっきらぼうな態度を取っているだけで、実は人懐こい性格だったりするのではないか? なんて思う。

「おい。何とか言ったらどうだ。お前、俺の声が聞こえてるんだろ?」

 彼はさらに尻尾をブンブンと振りながら、私の鼻先にまで背伸びをして顔を近づけてくる。

 ああ、やっぱりそうかも。
 これだけ人と距離を詰められる子が、人間嫌いだとはとても思えない。

 この子はたぶん言葉遣いが乱暴なだけで、中身はきっと好奇心旺盛な仔狸なのだ。

 そう思って、私はできるだけ彼のご機嫌を損ねないようにしつつ、提案してみる。

「うん。私、あやかしの姿が見える人間なの。だから、もしもあなたが何か困っているなら力になれると思うの。あなたさえ良ければ、何か手伝わせてもらえないかな?」

 彼は私の顔をじっと至近距離から見つめて、しばらくするとまた「ふん」と鼻を鳴らして背中を向けた。

「……まあ、お前がどーしてもって言うなら、手伝わせてやらないこともないけど」

 ツンデレか。

 彼の性格をなんとなく理解できたところで、私は改めて質問する。

「さっきはすごい溜息を吐いてたけど、何かあったの? 悲しいことがあったとか……それとも、道に迷っちゃったとか?」

「別に迷ってない。行きたい場所はわかってるんだ。ただ、そこまでの道がはっきりしないだけで」

 迷子か。

 どうやら彼は先日の蜜柑くんと同じで、道に迷っているらしい。

 もしかしたらこの子も、幽世からこの現世へと迷い込んだ半人前のあやかしなのかもしれない。

「行きたい場所って、どんなところ? 何か目印になりそうなものはある?」

「木が生えてた。あと人間もけっこう見かける場所だったな」

「うーん……」

 さすがにこの手掛かりだけでは場所を絞り込めそうにない。

 迷子のあやかしが困っている。
 となれば、やはり今回もあの猫神様に助けを求めるべきなのだろうか。

「ねえ、あなた。猫神様って知ってる?」

 そう私が聞くと、彼は丸い耳をピクッとさせて、

「あ、知ってる。猫神様のところにいけば、何か助けてくれるって」

 もはや案内人を通り越して、何でも相談屋と化している猫神様。

 しかしこの様子なら、今は彼のところへ案内するのがやっぱり最善策なのだろう。

「よかったら、猫神様のところへ行ってみる?」

 男の子はこちらに背中を向けたまま、無言でこくりと頷く。

 そうして意見が一致した私たちは、まっすぐ先斗町を目指して歩き始めた。
 
 
          ◯


 四条大橋の(たもと)を北へ曲がると、すぐに先斗町の入口がある。
 その先は車の通れない小路がまっすぐに伸び、左右には日本情緒あふれる町家が並んでいる。

「猫神様って、この辺りにいるのか?」

「そう。この通りの途中で右に曲がるとね、猫神様のところにたどり着けるの」

「途中って、どこだ?」

 聞かれて、私はハッとする。

 そういえば、前はどこの角を曲がったんだっけ?

「えーと……。確か、もうちょっと先に行った辺りだったような……?」

 先日、蜜柑くんと一緒にここを訪れたときは、猫神様が白猫の姿になって私たちを案内してくれた。

 あのときはただがむしゃらに彼の後を追いかけていたので、どこの角を曲がったのかはっきりとは覚えていない。

「おいおい。もしかして迷子になってるのか?」

 呆れた、という顔をして彼が私を見る。

 いやいや。
 もともと迷子になっていたのはあなたの方なのに。

 そうこうしている内に、私たちは先斗町を通り抜けてしまった。
 ずっと右側を確認しながら歩いていたはずだけれど、先日見たような入口は見つからなかった。

「あれー? おかしいなぁ」

 まるで狐につままれたような心持ちで、私は首をひねる。
 このままでは猫神様の元へこの子を送り届けることができない。

 うんうん悩む私を見て、狸の彼はまた呆れたように溜息を吐くと、

「その入口ってさ、日没あたりにならないとこの世に現れないんじゃないか?」

「え?」

 彼の口にしたことの意味が理解できなくて、私は目を(しばたた)く。

「俺たちのようなあやかしは、こっちの世界で活動する場合、夜の方が何かと都合がいいんだ。だから、その猫神様がいる場所への入口も、日没あたりになったら現れるんじゃないか?」

 言われて、そういえば、と私は思い出す。

 前に蜜柑くんとここへ来たとき、時刻はちょうど日没を迎えた辺りだった。

 通りに並ぶ店の提灯が、淡い光を灯す頃。
 猫神様は私たちの前にふらりと現れたのだ。

「そっか。じゃあ、日没までここで待っていれば、その場所までたどり着けるかもしれないんだね?」

「まあ、ただの予想だけどな。こっちの世界だと、あやかしの力は夜の方が強まる。だから低級なあやかしほど、日没から夜明けまでの間に行動することが多いんだ」

「そう言われてみれば、私もあやかしと遭遇するのは夜の方が多かったかも」

「とはいえ、猫神様くらいの存在になると、そういうのは関係ない気もするけど……」

「私がどうかしはりましたか?」

 と、いきなり背後から大人の男性の声が降ってきて、私たちは飛び上がった。

「ひゃっ! ……って、猫神様!?」

 すぐさま後ろを振り向いてみると、そこには白く美しいあやかしの神様——ではなく、今は短い黒髪にブラウンの瞳を持つ、妖艶な雰囲気の青年が立っていた。

(あ、今日はこっちの姿なんだ)

 人間バージョンの猫神様。
 すらりとした長身は、黒い着流しと真紅の羽織に包まれている。

 この姿の時は、私以外の人間からも見えるようになっていると彼は言っていた。

「ちょっと買い出しに出掛けてたんです。こっちの世界で買い物をする時は、この姿やないと何もできないんで」

 私が彼の姿を見つめすぎたせいか、彼はぽりぽりと頬を掻きながら説明してくれる。

 思わず見惚れてしまっていた自分に気づいて、私は慌てて視線を逸らした。

「あんたが猫神様、なのか?」

 隣の狸くんはまだ少し警戒した様子で聞く。

 そんな彼に、猫神様はいつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。

「ええ。私がそうです。そういうあなたは、豆狸(まめだぬき)のあやかし……ですね? よかったらうちに上がってってください。まだご飯の用意はできてませんけど、すぐに支度しますから」
 
 
          ◯


 トン、トン、トン……と、台所の方から包丁がまな板を叩く音がする。
 一定のリズムで優しく刻まれるその音は耳に心地よくて、なんだか眠くなってしまう。

 猫神様に連れられて、私はまた例の『狭間』の場所へ来ていた。

 一見すると老舗旅館のような雰囲気。
 その奥にあるお座敷で、私と狸の彼は猫神様の手料理を待っている。

 座卓を挟んだ向こう側で、彼は気難しげに腕をこまねいていた。

「なあ。あんた、猫が好きなのか?」

「えっ」

 出し抜けにそんなことを聞かれて、私はつい『猫』のことを『猫神様』と勘違いしてしまった。

(え。そりゃあ、猫神様は綺麗で優しくてお料理も上手で、素敵な人だとは思うけど……でも人間じゃなくて神様なんだから、好きとかそういうのは——)

 と、そこまで考えたところで、私はやっと気づく。

 狸の彼が見つめる視線の先には、私のスクールバッグ。
 ……の、持ち手部分に付けている猫のキーホルダー。

(ああ。猫ってそっちか)

 そりゃそうか、と一人納得しつつ、私は何事もなかったように彼に向き直る。

「うん。猫ってかわいいから、好きだなぁ。まだ自分で飼ったことはないんだけどね」

 猫に限らず、動物はみんな好き。

 できれば一緒に住んでみたいと思うけれど、今まで親戚の家を転々としてきた私には、そういう機会はあまりなかった。

「ふーん。じゃあ狸は?」

「狸?」

 こちらをじっと注意深く見つめてくる彼の耳が、ピコピコと小刻みに動く。
 お尻の後ろにある丸っこい尻尾も、フリフリと左右に揺れている。

「うん。狸もかわいいよね。冬は特に毛がモコモコで……まだ触ったことはないけど」

「触ってみるか?」

 彼はそう言うと、座卓の上に上半身を預け、私の方へ頭を突き出す形になった。

 私の目の前に、ふわふわの耳が差し出される。

「えっ……触っていいの!?」

 ガタッと私は座卓を揺らして前のめりになる。
 こんなモフモフのかわいい耳、触りたいに決まっている。

「好きなんだろ。なら一度くらい撫でてみろよ」

 狸の彼はそうぶっきらぼうに言いながら、尻尾を振り続ける。

 願ってもない展開だった。

 ツンとした態度ながらも、どこか人懐こそうな雰囲気は確かに感じていたけれど、まさかここまでとは。

「え、えっと。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 私はそう言い終えるより先に、その魅惑の丸い耳に手を伸ばしていた。

 ふに、と。
 やわらかい感触が指先から伝わってくる。

「どうだ?」

「んっとね……」

 ふにふにふにふに、と。
 私はそれを確かめるべく、何度も何度も指を動かす。

「ちょっ……くすぐったいからやめろって!」

「あっ。ごめん、つい」

 途端に彼は私から離れ、部屋の隅まで逃げてしまった。
 両手で耳を押さえて顔を真っ赤にしているところを見ると、本当にくすぐったかったのだろう。

 や、やわらかかった……。

 猫に比べると毛は少し硬いけれど、代わりに長さがある分、もふっとした触り心地がたまらない。

 全体的に毛は茶色いのかと思いきや、よくよく見てみれば耳の縁の辺りは黒っぽくて、それもまたかわいい。

「お待たせしました。ごはんの用意ができましたよ」

 と、そこへ部屋の入口から猫神様が優しく声をかけてくれる。

 台所からは美味しそうなにおいがして、私のお腹は卑しくも「ぐぅ」と返事をした。
 
 
          ◯


 落とし芋のお味噌汁に、ほかほかの揚げ出し豆腐。
 アサリと菜の花の酒蒸しに、新玉ねぎのふろふき。
 そしてメインはアスパラガスの肉巻き。

 相変わらず旬の食材を贅沢に使った、猫神様の手料理が目の前に並ぶ。

「どうぞ。冷めないうちに召し上がれ」

 白く美しいあやかしの姿に戻った猫神様が、私の隣に腰を下ろして言った。

「い……いただきます!」

 もはや待ちきれずに、私はすぐさまお箸を手に取る。
 そうして最初に口へ運んだのは、アスパラガスの肉巻きだった。

 醤油ベースの甘辛いタレと一緒に、豚バラ肉の旨みと、シャキッと歯応えのあるアスパラガスの風味が口に広がる。

「うっ……。お、おいしい」

 たまらず嬉し泣きしそうになる私の顔を見て、向かいに座る狸くんは若干引いていた。

「さあ。あなたも遠慮せんと、どうぞ」

 猫神様に笑顔で促されて、狸くんも恐る恐るお箸を手に取る。
 そうして湯気の立つ揚げ出し豆腐を小さく切って口へ運ぶと、途端に「ほぅ……」と蕩けそうな顔になった。

「どうです。お口に合いますか?」

「ん……悪くない」

 そう答えるなり、彼は他のおかずも次々に口へ運ぶ。
 どうやらお気に召したようだ。

「そういえば、まだお名前を伺ってませんでしたね」

 猫神様が急須からお茶を注ぎながら言うと、口いっぱいにおかずを詰め込んだ狸くんは、

茶々丸(ちゃちゃまる)

 と、短く名乗った。

(か、かわいい名前……)

 思いのほか愛らしい名前に、私はたまらずお味噌汁を噴き出しそうになった。

 かわいい、なんて口にしたら怒られそうなので、絶対に本人には言わないけど。

「茶々丸さん、ですか。素敵な名前ですね。ところで、あなたは豆狸の……まだ半人前のあやかしですよね? この現世へ一人で来たのには、何かわけがあるんですか?」

 半人前、と猫神様が言って、私は「ああ、やっぱり」と思う。

 茶々丸くんもまた、先日の蜜柑くんと同じで、まだ半人前なのにも関わらずこの世界へやってきたのだ。

 となると猫神様の言った通り、何かのっぴきならない事情があるのだろう。

「あんた、幽世への案内人なんだろ。俺が勝手にこっちの世界に来たこと、咎めたりしないのか?」

「ええ。こちらの世界に迷い込むあやかしは、事情を抱えた方ばかりですからね。こちらに来た目的を果たして、すっきりとした気持ちで帰ってもらった方が、私も嬉しいですから」

 ふーん……と、茶々丸くんは少しだけ疑わしい目を向けた後、湯呑みのお茶を一気に飲み干して、口の中をすっきりさせてから言った。

「俺は、恩返しをしに来たんだ」

「恩返し?」

 私と猫神様の声が重なった。

「俺がまだこっちの世界で生きていた頃に、世話になった相手がいる。恩ってのは、受けたら返すものだろ? だからそいつにもう一度会うために、俺はここまで来たんだ」
 
 
 鶴の恩返しならぬ、狸の恩返し。

 彼は以前、現世で生きていた頃——おそらくは普通の狸としてここで暮らしていた頃に、恩を感じた相手がいたのだ。

 ぶっきらぼうに見えるけれど、この少年は私が思っているよりもずっと誠実な子なのかもしれない。

「恩返しですか。素晴らしい心がけですね。なら、そのお相手を早く捜さなあかんいうことですね」

 茶々丸くんはこくりと頷いて、新玉ねぎのふろふきに手を伸ばす。

 玉ねぎを丸々一個炊き上げて作られたふろふきは、お箸がスッと通るくらいにやわらかくて、簡単に切り分けることができた。

 上に載った肉味噌と、お出汁が染み込んだ玉ねぎの甘みが絶妙にマッチしている。

「…………うま」

 茶々丸くんもとうとう無意識に呟くくらいに、猫神様の手料理に魅了されてしまったのだった。

「さて。目的の人を捜すには、まずはおおよその場所を特定する必要がありますね。茶々丸さん、あなたがその人から恩を受けたときのことを、私たちにも話してもらえますか?」

 そう猫神様が優しく言って、茶々丸くんはチラチラと彼の顔を探るように見る。
 やがて敵意はないと判断したのか、彼はぽつりぽつりと語り始めた。

「あやかしになる前の俺は、現世に住む狸だった。家族と一緒に、木がたくさん生えてる場所に住んでて……近くに人間の姿が見えることも多かった。食べ物をくれたり、たまに撫でてくる奴もいて、基本的には友好的だったけど……一度だけ、複数人で乱暴してくる奴らがいた。そのときに助けてくれたのが、その恩人なんだ」

 人間に乱暴された、という事実に、胸の奥がズキンと痛む。

 たとえ少数派だとしても、そんなふうに生き物を傷つける人間は、この現世のどこかにいるのだ。

「優しい人に助けてもらったんですね。その人のことを、もう少し詳しく教えてもらえますか?」

「女だった。たぶんまだ子ども……だったと思う。俺に乱暴してた奴らに、棒みたいなものを持って殴りかかってた」

 勇敢な女の子だ。
 野生の狸に乱暴していた人間に、真正面から止めに入ったのか。

「当時は子どもやったいうことは、今はきっと大人になったはるでしょうね。少なくとも三十歳前後か、それ以上かと」

 三十歳前後か、それ以上の女性。
 そこまではわかったけれど、これだけではさすがに人物の特定までは難しいだろう。

「木がたくさん生えているところ、というと、やはり山の中でしょうか。人間の姿もよう見かけたいうことは、近くに集落があったのかもしれませんね」

「いや。山の中じゃなかった。地面は平らだったし、集落にしては、毎日の人間の出入りが多すぎたと思う」

 地面が平らだったということは、確かに山の中ではなさそうだ。
 しかしそうなると、木がたくさん生えている場所というのは一体どこなのだろう?


 その後もいくらか問答を続けてみたものの、決定打になるような情報は得られなかった。

 やがて時刻も遅くなってきたので、今日のところは一旦保留にして、また明日あらためて話し合おうということになった。

 明日は土曜日なので、私も学校は休みだから朝から出てこれる。

 茶々丸くんは今夜の宿がないということで、猫神様のところでお泊まりすることになった。


「それじゃあ、また明日」

「あ、桜さん。夜道は危ないので、家まで送っていきますよ」

 私が帰ろうとすると、猫神様は例の獣の姿になって、そのもふもふの背中に私を乗せて家まで送ってくれた。

 茜さんの分のお弁当もしっかり持たせてくれて、なんだか至れり尽くせりで、私は恐縮しながらも、彼の優しさにまた心満たされてしまったのだった。