◯
再び獣の姿になった猫神様は、その背中に私を乗せて家の前まで送ってくれた。
「桜さん。今日はほんまにありがとうございました」
別れの挨拶の際にまた白い青年の姿になった彼は、穏やかな笑顔で恭しく頭を下げる。
「い、いえ! 私は別に何もしてないので……」
「そんなことないですよ。蜜柑さんが晴れやかな気持ちであちらの世界へ帰れたんは、あなたのおかげですから」
そんな風に優しく褒められてしまうと、私はなんだか顔が熱くなってしまう。
あやかしが見えることで、こうして誰かの役に立てる日がくるなんて、今まで想像したこともなかった。
「ところで、こんな時間まで連れ回してしまって大丈夫でしたか? お家の方が心配したはるのでは……」
「あっ、それは大丈夫です。私、小さい頃に両親を亡くしてて……。いま一緒に住んでいる人は、いつも仕事で遅くなりますから」
幼い頃に母を病気で、父を事故で亡くした私は、今まで親戚の家を転々とする形でたくさんの人たちにお世話になってきた。
彼らと違ってあやかしが見える私は、あらゆる場面で気味悪がられてきたけれど、先月からお世話になっている茜さんはそういうことを気にしないタイプの人なので、私は色んな意味で助かっている。
「そうやったんですね。では、お夕食はいつも一人で?」
「はい。茜さんはいつも遅くまで仕事を頑張ってるので。晩御飯ぐらいは私が作らないと……——あっ」
そこまで言ったところで、私は大事なことを思い出す。
そういえば今日はもともと、食材の買い出しに行こうと思っていたのだ。
すかさずスマホを取り出して見ると、時刻はすでに午後九時を回っている。
今からスーパーに寄って帰ってから作るとなると、かなり遅くなってしまうかもしれない。
「お夕食、今から作ると遅くなりますよね。よかったら、こちらをどうぞ」
猫神様はそう言うなり、ポンッとまた白煙を上げて、まるで魔法のように何かを出現させた。
彼の手元に現れたのは、小豆色の風呂敷に包まれた四角いものだった。
「こんなこともあろうかと、先ほど召し上がっていただいた私の料理をお弁当に詰めてます。よければこちらをお持ちください」
「えっ……い、いいんですか!?」
あの美味しい料理がこの中に詰まっている。
思いがけない彼からの厚意に、私は嬉しすぎて涙が出そうだった。
差し出された風呂敷を受け取り、私は何度も何度も頭を下げる。
そんな私を見ながら、猫神様はいつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。
「桜さんは、優しい人です。誰かに優しくできるいうのはとても素晴らしいことです。けれど、そのために自分のことを後回しにしてしまうのは、あなたの悪い癖やと思います。ですから、もっと自分のことも大切にしてくださいね」
自分を大切にしろ——そういえば、茜さんもそんなことを言っていた気がする。
やがて猫神様はまた獣の姿に戻ると、音もなく地面を蹴って、月夜の中を天高く飛び去っていった。
私はその姿を見届けてから、ようやく自宅マンションの入口へと向かった。
オートロックの扉を開け、エレベーターに乗り、部屋の鍵を開けて中まで足を踏み入れた瞬間。
「桜ぁ——っ!」
と、リビングの方から大声を上げ、バタバタとこちらへ駆け寄ってくるアラサー女性が一人。
すらりとしたモデル体型にポニーテールがトレードマークの、もちろん茜さんだ。
「あ。茜さん、ただい……」
「こんな時間までどこをほっつき歩いてたんや!? 心配したやんかー!!」
がばり、と私の体に抱きついてくる茜さん。
普段からスキンシップの多い彼女はこれが通常運転だ。
「ご、ごめんね茜さん。ちょっと寄り道しちゃって。茜さんは、今日は早かったんだね?」
「うんうんー。今日はちょっとトラブルがあってな、店も早めに閉めてん。それより、桜はもうご飯食べたんか? 和菓子やったらあるけど食べるか!?」
京都駅前の和菓子カフェで働いている茜さんは、いつもお洒落な和菓子をたくさん貰ってくる。
私がここへ転がり込んでくるまで一人暮らしだった彼女は、その和菓子をよく夕飯がわりにしていたのだった。
「私はもうお腹いっぱいだから大丈夫。それよりこれ。お弁当をもらってきたから、よかったら食べてね」
「えっ。もらってきたってこれ、もしかして誰かの手作りなん? 桜、友達できたんか!?」
友達、と聞かれて、私は言葉に詰まる。
この京都へ越してきてから、私はまだ友達と呼べる友達を作れていない。
そしてあの猫神様たちのことは、『友達』と呼べる存在なのかどうかはよくわからない。
私が返答に困っているのに気づいたのか、茜さんはそれ以上深く聞いてこようとはせず、「お弁当、さっそくもらうでー!」と嬉しそうに風呂敷を開けた。
彼女のこういうところに、私は救われている。
「あっ。せやせや、桜。今日の空、もう見た? 星がめっちゃ綺麗やねんで!」
茜さんが言って、私は先ほど見た空を思い出す。
猫神様の背中に乗って、天高くから見下ろした京都の夜景。
白いふわふわの毛並み。
蜜柑くんが握ってくれた手の温もり。
それらが走馬灯のように頭に浮かんで、胸があたたかくなる。
(また、会えるといいなぁ……)
今日は本当に、素敵な体験をしたんだなぁと思う。
今まで生きてきた中で、あやかしが見えてよかったと思えたのは、この日が初めてだった。



