◯
平野神社の近く、ひと気のない路地を選んで猫神様は着地した。
物理の法則を完全に無視して、ふわりと音もなく降り立ったその様を見ると、やっぱり神様なんだなぁと改めて思う。
「さあ、着きましたよ」
猫神様はまた伏せの体勢になって、私たちが降りやすいようにしてくれる。
そうして私と蜜柑くんが背中から降りると、ポンッと白煙を上げて元の白い青年の姿に戻った。
時刻は午後七時半。
辺りは暗く、人の姿も見えないけれど、平野神社がある方角からは確かな賑わいが聞こえてくる。
蜜柑くんはキョロキョロと辺りを見渡して、オレンジ色の耳をピンと立てた。
「ボク、この場所を知ってる……。あの人といつも通ってた道だ」
そう呟くなり、彼は居ても立っても居られなくなったのか、道の先へと駆け出した。
一拍遅れて、私たちも慌ててその後を追う。
平野神社の周りをぐるりと半周ほどしてから、細い道へ入る。
と、右手に見えてきた木造一軒家の前で蜜柑くんは足を止めた。
「ここ、かも。……ボクがあの人と一緒に住んでいた家」
彼が見上げたその家は、かなり年季の入った二階建てだった。
敷地は板塀で囲まれていて、中はよく見えないけれど、人が住んでいそうな気配はある。
ただ、今は家の明かりが点いておらず、留守の可能性が高かった。
「どこかに出かけたはるのかもしれませんね。ここで待つだけなのも何ですし、一度平野神社の方も見てみますか?」
猫神様が提案して、蜜柑くんは頷く。
蜜柑くんがまだ普通の猫だった頃、その人はよく平野神社を訪れていたという。
ならば桜の咲く今の季節は、夜桜を見に行っていることも考えられる。
私たちは三人横一列に並んで、平野神社へ続く道を歩いていく。
一番左側に立つ私は、真ん中を歩く蜜柑くんのふわふわの耳を見下ろして言った。
「会えるといいね、その人に」
「うん……」
と、小さく返事をした蜜柑くんの顔がなんだか曇っているように見えて、私は首を傾げた。
「どうしたの? 何か心配なことでもあるの?」
「……会えるかどうか、自信がないんだ」
ぽつりと呟くように言った彼の言葉の意味を、私は正しく理解できなかった。
いつになく神妙な顔をする彼の代わりに説明してくれたのは、猫神様だった。
「我々あやかしは、人間と比べると長い年月を生きます。蜜柑さんがその人と一緒にいたのも、おそらくは二十年以上前のことになります。二十年もあれば、人間は年老いていきますから……」
「あ……」
二十年。
その年月は、人間にとっては多くの変化をもたらすのに十分な時間だった。
二十年もあれば、もともと赤ん坊だった子は成人しているし、若者は中年になる。
そして老齢の人間ならば、寿命を迎えていてもおかしくはない。
「あの人は……きっと、そんなに若い人じゃなかった。だから早く会いに行かないと、もう二度と会えなくなるかもしれないって思ったんだ」
蜜柑くんははっきりとは言わなかったけれど、最悪の場合、その人はもう生きてはいないかもしれない。
だから、できるだけ早く会いにいくために、彼はまだ半人前なのにも関わらず、この現世へと迷い込んだのだ。
「……そっか」
それまでひとり楽観的に構えていた私は、事の深刻さを理解する。
せっかく蜜柑くんがここまで来たのに、このまま会えないなんて可哀想だ。
どうか会えますようにと、二人の再会を心から願ってやまなかった。
◯
平野神社の境内では、ちょうど夜桜のライトアップが行われていた。
入口の大鳥居を潜り、楼門まで続く参道を歩くと、両脇には朱塗りの燈篭が等間隔で並んでいる。
その周りでは、多くの種類の桜が見頃を迎えていた。
薄桃色の花びらが五枚ついたものもあれば、白い花びらに葉っぱがついたもの、桃色の花をつけた枝垂桜まで。
「綺麗……。本当に、たくさんの種類の桜があるんだね」
夜の境内で、淡い光に照らされたそれらを眺めながら、私は恍惚の溜息を吐く。
(でも、お店はない……のかな?)
夜桜を求めて、境内にはたくさんの人が集まっている。
けれど蜜柑くんの言っていたような屋台はどこにもなかった。
「ここ数年は、桜の木の保護のために、屋台やお茶屋さんの出店は廃止されたようなんです」
と、まるで私の思考を読み取ったかのように教えてくれたのは猫神様だった。
「桜の保護? そうだったんですか」
時代は移り変わっていく。
蜜柑くんの記憶とは異なる現在の様子は、確かな時間の流れを感じさせた。
「あ!」
と、先頭を歩いていた蜜柑くんが不意に声を上げた。
足を止め、顔だけを右に向けて固まっている。
釣られて私たちも同じ方角を見てみると、視線の先には一人の女性の姿があった。
淡い光の中に浮かび上がる、見事な枝垂桜。
それを静かにじっと見つめている老年の女性。
トレンチコートを纏った体は細く、短く切りそろえられた髪はグレイヘアだった。
もしかして、と。
私は猫神様の顔を見上げる。
猫神様も、私と目を合わせてこくりと頷く。
女性を見つめたままの蜜柑くんの隣へ、私はそっと歩み寄った。
すると蜜柑くんは、
「……あの人だ」
と、小さく息を吐くようにして言った。
「あの女の人が、蜜柑くんの捜してた人?」
「うん。年はとってるけど、たぶん」
おそらくは七十代くらいの、上品な佇まいの女性だった。
一人で来ているのか、他に同伴者らしき人物は見当たらない。
「あの人はいつもあんな風に、この神社でぼーっと桜の木を眺めてたんだ。それで家に帰ったら、この風景を思い出して、よく絵を描いてた」
蜜柑くんの記憶によると、彼女は絵画教室の先生か何かをやっていたという。
家の中には描きかけのキャンバスがたくさんあって、桜の絵もよく描いていたらしい。
子どもはおらず、夫も早くに亡くした彼女は、あの家で蜜柑くんと一緒に暮らしていた。
だから蜜柑くんがいなくなった後、彼女はひとりぼっちで寂しい思いをしているんじゃないか——と、蜜柑くんはそれだけが気がかりだったようだ。
「ボク、最後にお別れの挨拶ができなかったんだ。どうしてだか、よく覚えてないんだけど……最後の日は、家の窓が開いていて、ボクは勝手に外に出ちゃって。そしたらいつのまにか、ボクはあやかしになってた。こっちの世界で死んじゃったから、ボクは生まれ変わって幽世に行ったんだって、教えてもらった」
家の窓から外に出て、その先で、おそらく何かがあったのだ。
もしかしたら事故にでも遭ったのかもしれない。
そうして命を落とした蜜柑くんは、最後にあの人とお別れをすることができなかった。
「ボクが急にいなくなっちゃったから、寂しい思いをさせちゃっただろうなって。あの人が泣いてるんじゃないかって、ずっと心配だったんだ。……でも、思ったよりも元気そうでよかったよ。相変わらず、ここで桜を見てたんだね」
そう言った彼の横顔は、慈愛の温もりに満ちていた。
大切なものを見守る目。
安堵の笑みを浮かべた口元。
けれど、彼はもう二度と彼女と触れ合うことはできない。
せっかくこうして会いにきたのに、こちらの存在に気付いてもらうことさえできない。
その事実が歯がゆくて、私は胸の奥がギュッと締め付けられる。
なんとかして、蜜柑くんがここまで会いにきてくれたことを彼女に伝えたい。
だから、
「あの。すみません」
どうしても我慢できずに、私はその人に話しかけてしまった。
見知らぬ女子高生から急に声をかけられた彼女は、不思議そうにこちらを振り返る。
「あなたは……?」
そう問いかけられて、私はやっと我に返った。
(しまった)
何の考えもなしに、衝動的に体が動いてしまった。
これから彼女にどう説明をするのかも、何の準備もしていない。
けれど時すでに遅し。
相手の意識はもうこちらに向いてしまっている。
もはや腹を括るしかなく、私はしどろもどろになりながら、なんとか言葉を紡ぐ。
「えっと、その……いきなり話しかけてしまってすみません。もし、ご気分を悪くされたら申し訳ないのですが」
そう前置きしてから、私は改めて彼女の目を見て、恐る恐る尋ねた。
「あなたは昔、猫ちゃんを飼っていませんでしたか? 二十年くらい前に」
「猫?」
その質問を耳にした瞬間、彼女の瞳が確かな動揺を示す。
「……なんで、そのことを知ったはるんですか?」
当然の疑問だった。
お互いに面識すらない人間が、急に過去のことを言い当てたのだ。
不審に思われるか、気味悪がられるに違いない。
今までもそうやって、私は人から避けられてきた。
彼らが私に向けてくる、異様なモノを見る視線。
あれを思い出すだけで、たまらず体が震えそうになる。
けれど私は、それでも今は、真実を伝えたかった。
「実は私、人には見えないものが見えるんです。あなたの目には映っていないかもしれないけれど……あなたのそばには今、猫ちゃんがいるんです。ずっと遠いところから、あなたに会いにやってきたんです」
たどたどしくも、そう私が伝えきった直後。
彼女は痩せた両手で自らの口元を覆って、
「……ミカンのことですか?」
信じられないといった表情で、私の顔をまっすぐに見つめた。
「あの子がいま、私のそばにいるんですか?」
どうやらわかってくれたらしい。
ミカンという名前は、この現世で彼女と一緒に暮らしていた頃からのものだったのだ。
当時の蜜柑くんは、人間の言葉をよく理解できなかったと言っていた。
けれど、彼女が何度も呼んでくれたこの名前の響きだけは、しっかりと覚えていたのだ。
「ミカンは……私のせいで死んでしもたんです。あの日は私の不注意で、窓を開けっぱなしにしてたから……そこから外に出て、車に轢かれてしもうて。私のせいで、可哀想なことをしてしまいました」
当時のことを思い出しているのか、彼女は口元を覆ったまま、眉根に深いシワを刻む。
やはり蜜柑くんはその日、事故に遭ったのだ。
もう二十年も前のことを、女性はつい今しがた起こったことのように、悲痛な面持ちで振り返る。
「私には、あの子の世話をする資格なんてなかったんです。ほんまに、可哀想なことをしてしもて……。あれからもう、命あるものを引き取ることはせんようになりましたけど、それが償いになるはずもありませんから……」
蜜柑くんはもともと捨てられていた仔猫で、冬の寒い夜に段ボールの中で震えていたという。
それを不憫に思った彼女が拾って、一緒に暮らし始めたのだ。
「私なんかが拾わなければ……もっと別の人に拾われてれば、あの子は幸せになれたかもしれません。だから……私はあの子に恨まれても仕方がないんです」
恨まれている、と彼女は言う。
蜜柑くんがここへ来たのはそんな理由じゃないのに、彼女は勘違いをしている。
「ちがう。ちがうよ」
いつのまにか、蜜柑くんがすぐ隣までやってきていた。
彼は女性の目の前に立って、うんと背伸びをして、今にも泣きそうな彼女の頭を撫でている。
けれどその温もりは、お互いに感じ取ることはできない。
「ボクはしあわせだったよ。だから、そんな風に言わないで」
よしよし、と子どもをあやすように蜜柑くんが言う。
この人と一緒に暮らせて幸せだった。
そう蜜柑くんは言っている。
だから私は、目の前で懺悔の言葉を口にするこの人の手をとって、両手でぎゅっと包み込んで言った。
「ミカンくんは、あなたと一緒にいられて幸せだったと言っています。彼があなたに会いにきたのは、あなたが寂しい思いをしているんじゃないかと心配だったからです。だから、どうかそんな風に言わないで。ミカンくんの気持ちをわかってあげてください」
こんな見ず知らずの女子高生の言葉を、どこまで信じてもらえるかはわからない。
それでも、どうか伝わってほしい。
「あの子が、そんなことを……?」
彼女は瞳を揺らしながら、今度は手元のカバンから一枚のポストカードを取り出した。
そこには繊細なタッチで描かれた水彩画——一匹の猫のイラストが印刷されてあった。
ふわふわのオレンジ色の毛を持った、茶トラの男の子。
やんちゃそうな飴色の瞳は、今の蜜柑くんとそっくりだ。
「昔、私が描いたあの子の絵です。いつも元気いっぱいで、イタズラすることも多かったけど、私が風邪をひいたらじっとそばに寄り添ってくれる、優しい子でした」
まるで笑っているようなその猫の顔に指を這わせて、彼女は消え入りそうな声で呟く。
「そうやね……。あの子は、人を恨んだりするような子やない。心優しくて、かわいくて。ほんまに、大事な宝物でした」
そう言い終えたとき、彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。
それをすぐ隣で見ていた蜜柑くんもまた、飴色の瞳から、一粒の雫をこぼした。
◯
「ありがとう、猫神様。それから桜おねえちゃんも。ボク、こっちの世界にこれてよかったよ」
女性と別れた後。
私たちはまた、ひと気のない路地に戻っていた。
さっきの平野神社では私が勝手な行動をしてしまったので、猫神様に怒られるんじゃないかと思ったけれど。
彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、「ありがとうございます」と、蜜柑くんと一緒にお礼を言ってくれた。
「桜さんのおかげで、蜜柑さんの心残りもなくなったようですね。これで私も心置きなく、蜜柑さんを幽世へと送り帰せます」
こちらの世界へ迷い込んだあやかしを、あちらの世界に送り帰す。
それが猫神様の役目だと言っていた。
まだ半人前のあやかしである蜜柑くんは、本来ならまだこちらの世界へやってくることはできない。
そしていずれ一人前になって再びこちらへ来る頃には、私ももう生きているかどうかはわからない。
だからきっと、私と蜜柑くんが顔を合わせられるのは、これが最後になるだろう。
「蜜柑くん。今日は、あなたに会えてよかったよ。あっちの世界に帰っても、元気でね」
「うん! 桜おねえちゃんも元気でね!」
蜜柑くんはそう明るい声で言うと、猫神様の前に立って彼の顔を見上げた。
猫神様はその場に跪いて、蜜柑くんの右手をとる。
そして、その小さな手の甲に、そっと口づけを落とす。
するとたちまち蜜柑くんの体は真っ白な光に包まれて、春の夜の星空へと、ゆっくりと溶けて消えていった。
◯
再び獣の姿になった猫神様は、その背中に私を乗せて家の前まで送ってくれた。
「桜さん。今日はほんまにありがとうございました」
別れの挨拶の際にまた白い青年の姿になった彼は、穏やかな笑顔で恭しく頭を下げる。
「い、いえ! 私は別に何もしてないので……」
「そんなことないですよ。蜜柑さんが晴れやかな気持ちであちらの世界へ帰れたんは、あなたのおかげですから」
そんな風に優しく褒められてしまうと、私はなんだか顔が熱くなってしまう。
あやかしが見えることで、こうして誰かの役に立てる日がくるなんて、今まで想像したこともなかった。
「ところで、こんな時間まで連れ回してしまって大丈夫でしたか? お家の方が心配したはるのでは……」
「あっ、それは大丈夫です。私、小さい頃に両親を亡くしてて……。いま一緒に住んでいる人は、いつも仕事で遅くなりますから」
幼い頃に母を病気で、父を事故で亡くした私は、今まで親戚の家を転々とする形でたくさんの人たちにお世話になってきた。
彼らと違ってあやかしが見える私は、あらゆる場面で気味悪がられてきたけれど、先月からお世話になっている茜さんはそういうことを気にしないタイプの人なので、私は色んな意味で助かっている。
「そうやったんですね。では、お夕食はいつも一人で?」
「はい。茜さんはいつも遅くまで仕事を頑張ってるので。晩御飯ぐらいは私が作らないと……——あっ」
そこまで言ったところで、私は大事なことを思い出す。
そういえば今日はもともと、食材の買い出しに行こうと思っていたのだ。
すかさずスマホを取り出して見ると、時刻はすでに午後九時を回っている。
今からスーパーに寄って帰ってから作るとなると、かなり遅くなってしまうかもしれない。
「お夕食、今から作ると遅くなりますよね。よかったら、こちらをどうぞ」
猫神様はそう言うなり、ポンッとまた白煙を上げて、まるで魔法のように何かを出現させた。
彼の手元に現れたのは、小豆色の風呂敷に包まれた四角いものだった。
「こんなこともあろうかと、先ほど召し上がっていただいた私の料理をお弁当に詰めてます。よければこちらをお持ちください」
「えっ……い、いいんですか!?」
あの美味しい料理がこの中に詰まっている。
思いがけない彼からの厚意に、私は嬉しすぎて涙が出そうだった。
差し出された風呂敷を受け取り、私は何度も何度も頭を下げる。
そんな私を見ながら、猫神様はいつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。
「桜さんは、優しい人です。誰かに優しくできるいうのはとても素晴らしいことです。けれど、そのために自分のことを後回しにしてしまうのは、あなたの悪い癖やと思います。ですから、もっと自分のことも大切にしてくださいね」
自分を大切にしろ——そういえば、茜さんもそんなことを言っていた気がする。
やがて猫神様はまた獣の姿に戻ると、音もなく地面を蹴って、月夜の中を天高く飛び去っていった。
私はその姿を見届けてから、ようやく自宅マンションの入口へと向かった。
オートロックの扉を開け、エレベーターに乗り、部屋の鍵を開けて中まで足を踏み入れた瞬間。
「桜ぁ——っ!」
と、リビングの方から大声を上げ、バタバタとこちらへ駆け寄ってくるアラサー女性が一人。
すらりとしたモデル体型にポニーテールがトレードマークの、もちろん茜さんだ。
「あ。茜さん、ただい……」
「こんな時間までどこをほっつき歩いてたんや!? 心配したやんかー!!」
がばり、と私の体に抱きついてくる茜さん。
普段からスキンシップの多い彼女はこれが通常運転だ。
「ご、ごめんね茜さん。ちょっと寄り道しちゃって。茜さんは、今日は早かったんだね?」
「うんうんー。今日はちょっとトラブルがあってな、店も早めに閉めてん。それより、桜はもうご飯食べたんか? 和菓子やったらあるけど食べるか!?」
京都駅前の和菓子カフェで働いている茜さんは、いつもお洒落な和菓子をたくさん貰ってくる。
私がここへ転がり込んでくるまで一人暮らしだった彼女は、その和菓子をよく夕飯がわりにしていたのだった。
「私はもうお腹いっぱいだから大丈夫。それよりこれ。お弁当をもらってきたから、よかったら食べてね」
「えっ。もらってきたってこれ、もしかして誰かの手作りなん? 桜、友達できたんか!?」
友達、と聞かれて、私は言葉に詰まる。
この京都へ越してきてから、私はまだ友達と呼べる友達を作れていない。
そしてあの猫神様たちのことは、『友達』と呼べる存在なのかどうかはよくわからない。
私が返答に困っているのに気づいたのか、茜さんはそれ以上深く聞いてこようとはせず、「お弁当、さっそくもらうでー!」と嬉しそうに風呂敷を開けた。
彼女のこういうところに、私は救われている。
「あっ。せやせや、桜。今日の空、もう見た? 星がめっちゃ綺麗やねんで!」
茜さんが言って、私は先ほど見た空を思い出す。
猫神様の背中に乗って、天高くから見下ろした京都の夜景。
白いふわふわの毛並み。
蜜柑くんが握ってくれた手の温もり。
それらが走馬灯のように頭に浮かんで、胸があたたかくなる。
(また、会えるといいなぁ……)
今日は本当に、素敵な体験をしたんだなぁと思う。
今まで生きてきた中で、あやかしが見えてよかったと思えたのは、この日が初めてだった。
「なぁなぁ、帰りに鴨川デルタ寄っていかん?」
「ええよー。行こ行こ!」
放課後。
二年一組の教室では、あちこちから友達同士で盛り上がる声が聞こえてくる。
私はそれらに聞こえないフリをして、スクールバッグを肩にかけて早々に廊下を目指す。
「あっ。ねえ、天沢さん! よかったら天沢さんも一緒に行かへん?」
時折こうして、ひとり寂しそうにしている私に声をかけてくれるクラスメイトもいる。
優しいな、と思うし、一緒に遊んでみたいなって気持ちも少しだけある。
けれど、
「ありがとう。でもごめんね、今日はちょっと用事があるから」
そんな嘘をついて、私は教室を後にする。
友達と遊んでみたいという気持ちはある。
けれど、いざ友達を作ったところで、何かの拍子に嫌われてしまう可能性は高い。
人には見えないあやかしの姿が見える私は、これまで何度も周りから気味悪がられて避けられてきた。
今はできるだけ見えないフリをしているけれど、ふとした時に素が出てしまうことはある。
だから、最初から深く関わらない。
大事なものを作ってしまうと、それを失ってしまったときが、一番つらいから。
◯
学校を出てバスに乗り、四条河原町で途中下車をする。
今晩の食材の買い出しと、それからちょっとだけショッピングをするのはいつもこの辺りだった。
京都屈指の繁華街。
この四条通には百貨店を始めとして、ありとあらゆる店が集まり、学生や仕事帰りの人々、観光客などで賑わっている。
そこへ垂直に交差する形で流れる鴨川は、これまた風情のある観光スポットだ。
春の陽気に包まれた今日は、多くの人が河川敷に腰を下ろして談笑している。
(楽しそうだなぁ……)
友達同士で笑い合う彼らの様子を、私は四条大橋の上から見下ろす。
私も周りのクラスメイトたちと仲良くしていれば、今頃はここでこんな風に楽しくやっていたのかもしれない。
まあ、無いものねだりをしていても仕方がないか——と、踵を返そうとしたそのとき。
橋の欄干に、上半身を預けている少年の姿が目に入った。
「はぁ…………」
大きな大きな溜息を吐く、中学生くらいの男の子。
紺色の浴衣姿で、焦茶色の髪の上には、同じ色をしたふわふわの丸い耳。
お尻の辺りからはこれまた焦茶色の丸っこい尻尾が垂れている。
どう見ても、人間ではない。
(この子は狸……かな?)
丸っこい耳と尻尾を見る限り、おそらくは狸のあやかしだろう。
深い溜息を吐いて途方に暮れているところを見ると、何か困っているのかもしれない。
さてどうしようか、と私は考える。
できれば何か力になってあげたいけれど、あやかしの中にはたまに人間に悪さをしようとする存在もいる。
過去には私も、安易に接触して祟られそうになったことも何度かあった。
けれど、先日の蜜柑くんのような子もいる。
この現世に迷い込んで、助けを必要としている場合もある。
ここで見て見ぬフリをしてしまったら、この子はずっと困ったままかもしれない。
だから、
「ねえ、あなた。何か困ってるの?」
私はそう、隣から声をかけてみた。
すると、
「…………あ゛?」
男の子はそう低い声で言って、心底不機嫌そうな目をこちらに向けた。
思わぬ反応に、私はわずかに後ろへ仰反る。
「なんだよ、お前。何か文句でもあるのか?」
「あ、いや。そういうわけじゃなくて。あなたが何か困っているように見えたから、どうしたんだろうと思って」
私がしどろもどろに苦笑いを浮かべていると、彼は「ふん」と鼻を鳴らして言う。
「お前、人間か。人間のくせに俺たちの姿が見えるのか」
ものすごく上から目線だ。
やっぱり話しかけない方がよかったかな——と後悔し始めていると、
(あれ?)
よくよく見てみると、彼のお尻にある丸っこい尻尾がフリフリと左右に揺れている。
さっきまでしょんぼりと垂れているだけだったそれが、今はぴょこりと立ち上がって、何かを訴えるようにしきりに動いている。
(これってもしかして、喜びの表現だったりする?)
動物は、犬や猫なら尻尾で感情を表現することが多い。
狸のことはよくわからないけれど、これだけ尻尾を振っているなら何かしら感情が動いているはずだ。
もしかすると彼は、表面的にはぶっきらぼうな態度を取っているだけで、実は人懐こい性格だったりするのではないか? なんて思う。
「おい。何とか言ったらどうだ。お前、俺の声が聞こえてるんだろ?」
彼はさらに尻尾をブンブンと振りながら、私の鼻先にまで背伸びをして顔を近づけてくる。
ああ、やっぱりそうかも。
これだけ人と距離を詰められる子が、人間嫌いだとはとても思えない。
この子はたぶん言葉遣いが乱暴なだけで、中身はきっと好奇心旺盛な仔狸なのだ。
そう思って、私はできるだけ彼のご機嫌を損ねないようにしつつ、提案してみる。
「うん。私、あやかしの姿が見える人間なの。だから、もしもあなたが何か困っているなら力になれると思うの。あなたさえ良ければ、何か手伝わせてもらえないかな?」
彼は私の顔をじっと至近距離から見つめて、しばらくするとまた「ふん」と鼻を鳴らして背中を向けた。
「……まあ、お前がどーしてもって言うなら、手伝わせてやらないこともないけど」
ツンデレか。
彼の性格をなんとなく理解できたところで、私は改めて質問する。
「さっきはすごい溜息を吐いてたけど、何かあったの? 悲しいことがあったとか……それとも、道に迷っちゃったとか?」
「別に迷ってない。行きたい場所はわかってるんだ。ただ、そこまでの道がはっきりしないだけで」
迷子か。
どうやら彼は先日の蜜柑くんと同じで、道に迷っているらしい。
もしかしたらこの子も、幽世からこの現世へと迷い込んだ半人前のあやかしなのかもしれない。
「行きたい場所って、どんなところ? 何か目印になりそうなものはある?」
「木が生えてた。あと人間もけっこう見かける場所だったな」
「うーん……」
さすがにこの手掛かりだけでは場所を絞り込めそうにない。
迷子のあやかしが困っている。
となれば、やはり今回もあの猫神様に助けを求めるべきなのだろうか。
「ねえ、あなた。猫神様って知ってる?」
そう私が聞くと、彼は丸い耳をピクッとさせて、
「あ、知ってる。猫神様のところにいけば、何か助けてくれるって」
もはや案内人を通り越して、何でも相談屋と化している猫神様。
しかしこの様子なら、今は彼のところへ案内するのがやっぱり最善策なのだろう。
「よかったら、猫神様のところへ行ってみる?」
男の子はこちらに背中を向けたまま、無言でこくりと頷く。
そうして意見が一致した私たちは、まっすぐ先斗町を目指して歩き始めた。
◯
四条大橋の袂を北へ曲がると、すぐに先斗町の入口がある。
その先は車の通れない小路がまっすぐに伸び、左右には日本情緒あふれる町家が並んでいる。
「猫神様って、この辺りにいるのか?」
「そう。この通りの途中で右に曲がるとね、猫神様のところにたどり着けるの」
「途中って、どこだ?」
聞かれて、私はハッとする。
そういえば、前はどこの角を曲がったんだっけ?
「えーと……。確か、もうちょっと先に行った辺りだったような……?」
先日、蜜柑くんと一緒にここを訪れたときは、猫神様が白猫の姿になって私たちを案内してくれた。
あのときはただがむしゃらに彼の後を追いかけていたので、どこの角を曲がったのかはっきりとは覚えていない。
「おいおい。もしかして迷子になってるのか?」
呆れた、という顔をして彼が私を見る。
いやいや。
もともと迷子になっていたのはあなたの方なのに。
そうこうしている内に、私たちは先斗町を通り抜けてしまった。
ずっと右側を確認しながら歩いていたはずだけれど、先日見たような入口は見つからなかった。
「あれー? おかしいなぁ」
まるで狐につままれたような心持ちで、私は首をひねる。
このままでは猫神様の元へこの子を送り届けることができない。
うんうん悩む私を見て、狸の彼はまた呆れたように溜息を吐くと、
「その入口ってさ、日没あたりにならないとこの世に現れないんじゃないか?」
「え?」
彼の口にしたことの意味が理解できなくて、私は目を瞬く。
「俺たちのようなあやかしは、こっちの世界で活動する場合、夜の方が何かと都合がいいんだ。だから、その猫神様がいる場所への入口も、日没あたりになったら現れるんじゃないか?」
言われて、そういえば、と私は思い出す。
前に蜜柑くんとここへ来たとき、時刻はちょうど日没を迎えた辺りだった。
通りに並ぶ店の提灯が、淡い光を灯す頃。
猫神様は私たちの前にふらりと現れたのだ。
「そっか。じゃあ、日没までここで待っていれば、その場所までたどり着けるかもしれないんだね?」
「まあ、ただの予想だけどな。こっちの世界だと、あやかしの力は夜の方が強まる。だから低級なあやかしほど、日没から夜明けまでの間に行動することが多いんだ」
「そう言われてみれば、私もあやかしと遭遇するのは夜の方が多かったかも」
「とはいえ、猫神様くらいの存在になると、そういうのは関係ない気もするけど……」
「私がどうかしはりましたか?」
と、いきなり背後から大人の男性の声が降ってきて、私たちは飛び上がった。
「ひゃっ! ……って、猫神様!?」
すぐさま後ろを振り向いてみると、そこには白く美しいあやかしの神様——ではなく、今は短い黒髪にブラウンの瞳を持つ、妖艶な雰囲気の青年が立っていた。
(あ、今日はこっちの姿なんだ)
人間バージョンの猫神様。
すらりとした長身は、黒い着流しと真紅の羽織に包まれている。
この姿の時は、私以外の人間からも見えるようになっていると彼は言っていた。
「ちょっと買い出しに出掛けてたんです。こっちの世界で買い物をする時は、この姿やないと何もできないんで」
私が彼の姿を見つめすぎたせいか、彼はぽりぽりと頬を掻きながら説明してくれる。
思わず見惚れてしまっていた自分に気づいて、私は慌てて視線を逸らした。
「あんたが猫神様、なのか?」
隣の狸くんはまだ少し警戒した様子で聞く。
そんな彼に、猫神様はいつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ええ。私がそうです。そういうあなたは、豆狸のあやかし……ですね? よかったらうちに上がってってください。まだご飯の用意はできてませんけど、すぐに支度しますから」
◯
トン、トン、トン……と、台所の方から包丁がまな板を叩く音がする。
一定のリズムで優しく刻まれるその音は耳に心地よくて、なんだか眠くなってしまう。
猫神様に連れられて、私はまた例の『狭間』の場所へ来ていた。
一見すると老舗旅館のような雰囲気。
その奥にあるお座敷で、私と狸の彼は猫神様の手料理を待っている。
座卓を挟んだ向こう側で、彼は気難しげに腕をこまねいていた。
「なあ。あんた、猫が好きなのか?」
「えっ」
出し抜けにそんなことを聞かれて、私はつい『猫』のことを『猫神様』と勘違いしてしまった。
(え。そりゃあ、猫神様は綺麗で優しくてお料理も上手で、素敵な人だとは思うけど……でも人間じゃなくて神様なんだから、好きとかそういうのは——)
と、そこまで考えたところで、私はやっと気づく。
狸の彼が見つめる視線の先には、私のスクールバッグ。
……の、持ち手部分に付けている猫のキーホルダー。
(ああ。猫ってそっちか)
そりゃそうか、と一人納得しつつ、私は何事もなかったように彼に向き直る。
「うん。猫ってかわいいから、好きだなぁ。まだ自分で飼ったことはないんだけどね」
猫に限らず、動物はみんな好き。
できれば一緒に住んでみたいと思うけれど、今まで親戚の家を転々としてきた私には、そういう機会はあまりなかった。
「ふーん。じゃあ狸は?」
「狸?」
こちらをじっと注意深く見つめてくる彼の耳が、ピコピコと小刻みに動く。
お尻の後ろにある丸っこい尻尾も、フリフリと左右に揺れている。
「うん。狸もかわいいよね。冬は特に毛がモコモコで……まだ触ったことはないけど」
「触ってみるか?」
彼はそう言うと、座卓の上に上半身を預け、私の方へ頭を突き出す形になった。
私の目の前に、ふわふわの耳が差し出される。
「えっ……触っていいの!?」
ガタッと私は座卓を揺らして前のめりになる。
こんなモフモフのかわいい耳、触りたいに決まっている。
「好きなんだろ。なら一度くらい撫でてみろよ」
狸の彼はそうぶっきらぼうに言いながら、尻尾を振り続ける。
願ってもない展開だった。
ツンとした態度ながらも、どこか人懐こそうな雰囲気は確かに感じていたけれど、まさかここまでとは。
「え、えっと。それじゃあ、お言葉に甘えて」
私はそう言い終えるより先に、その魅惑の丸い耳に手を伸ばしていた。
ふに、と。
やわらかい感触が指先から伝わってくる。
「どうだ?」
「んっとね……」
ふにふにふにふに、と。
私はそれを確かめるべく、何度も何度も指を動かす。
「ちょっ……くすぐったいからやめろって!」
「あっ。ごめん、つい」
途端に彼は私から離れ、部屋の隅まで逃げてしまった。
両手で耳を押さえて顔を真っ赤にしているところを見ると、本当にくすぐったかったのだろう。
や、やわらかかった……。
猫に比べると毛は少し硬いけれど、代わりに長さがある分、もふっとした触り心地がたまらない。
全体的に毛は茶色いのかと思いきや、よくよく見てみれば耳の縁の辺りは黒っぽくて、それもまたかわいい。
「お待たせしました。ごはんの用意ができましたよ」
と、そこへ部屋の入口から猫神様が優しく声をかけてくれる。
台所からは美味しそうなにおいがして、私のお腹は卑しくも「ぐぅ」と返事をした。