「ボクはしあわせだったよ。だから、そんな風に言わないで」

 よしよし、と子どもをあやすように蜜柑くんが言う。

 この人と一緒に暮らせて幸せだった。
 そう蜜柑くんは言っている。

 だから私は、目の前で懺悔の言葉を口にするこの人の手をとって、両手でぎゅっと包み込んで言った。

「ミカンくんは、あなたと一緒にいられて幸せだったと言っています。彼があなたに会いにきたのは、あなたが寂しい思いをしているんじゃないかと心配だったからです。だから、どうかそんな風に言わないで。ミカンくんの気持ちをわかってあげてください」

 こんな見ず知らずの女子高生の言葉を、どこまで信じてもらえるかはわからない。

 それでも、どうか伝わってほしい。

「あの子が、そんなことを……?」

 彼女は瞳を揺らしながら、今度は手元のカバンから一枚のポストカードを取り出した。
 そこには繊細なタッチで描かれた水彩画——一匹の猫のイラストが印刷されてあった。

 ふわふわのオレンジ色の毛を持った、茶トラの男の子。
 やんちゃそうな飴色の瞳は、今の蜜柑くんとそっくりだ。

「昔、私が描いたあの子の絵です。いつも元気いっぱいで、イタズラすることも多かったけど、私が風邪をひいたらじっとそばに寄り添ってくれる、優しい子でした」

 まるで笑っているようなその猫の顔に指を這わせて、彼女は消え入りそうな声で呟く。

「そうやね……。あの子は、人を恨んだりするような子やない。心優しくて、かわいくて。ほんまに、大事な宝物でした」

 そう言い終えたとき、彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。

 それをすぐ隣で見ていた蜜柑くんもまた、飴色の瞳から、一粒の雫をこぼした。


          ◯


「ありがとう、猫神様。それから桜おねえちゃんも。ボク、こっちの世界にこれてよかったよ」

 女性と別れた後。
 私たちはまた、ひと気のない路地に戻っていた。

 さっきの平野神社では私が勝手な行動をしてしまったので、猫神様に怒られるんじゃないかと思ったけれど。
 彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、「ありがとうございます」と、蜜柑くんと一緒にお礼を言ってくれた。

「桜さんのおかげで、蜜柑さんの心残りもなくなったようですね。これで私も心置きなく、蜜柑さんを幽世へと送り帰せます」

 こちらの世界へ迷い込んだあやかしを、あちらの世界に送り帰す。
 それが猫神様の役目だと言っていた。

 まだ半人前のあやかしである蜜柑くんは、本来ならまだこちらの世界へやってくることはできない。

 そしていずれ一人前になって再びこちらへ来る頃には、私ももう生きているかどうかはわからない。

 だからきっと、私と蜜柑くんが顔を合わせられるのは、これが最後になるだろう。

「蜜柑くん。今日は、あなたに会えてよかったよ。あっちの世界に帰っても、元気でね」

「うん! 桜おねえちゃんも元気でね!」

 蜜柑くんはそう明るい声で言うと、猫神様の前に立って彼の顔を見上げた。

 猫神様はその場に(ひざまず)いて、蜜柑くんの右手をとる。

 そして、その小さな手の甲に、そっと口づけを落とす。

 するとたちまち蜜柑くんの体は真っ白な光に包まれて、春の夜の星空へと、ゆっくりと溶けて消えていった。