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 平野神社の境内では、ちょうど夜桜のライトアップが行われていた。

 入口の大鳥居を潜り、楼門まで続く参道を歩くと、両脇には朱塗りの燈篭が等間隔で並んでいる。

 その周りでは、多くの種類の桜が見頃を迎えていた。
 薄桃色の花びらが五枚ついたものもあれば、白い花びらに葉っぱがついたもの、桃色の花をつけた枝垂桜(しだれざくら)まで。

「綺麗……。本当に、たくさんの種類の桜があるんだね」

 夜の境内で、淡い光に照らされたそれらを眺めながら、私は恍惚の溜息を吐く。

(でも、お店はない……のかな?)

 夜桜を求めて、境内にはたくさんの人が集まっている。
 けれど蜜柑くんの言っていたような屋台はどこにもなかった。

「ここ数年は、桜の木の保護のために、屋台やお茶屋さんの出店は廃止されたようなんです」

 と、まるで私の思考を読み取ったかのように教えてくれたのは猫神様だった。

「桜の保護? そうだったんですか」

 時代は移り変わっていく。

 蜜柑くんの記憶とは異なる現在の様子は、確かな時間の流れを感じさせた。

「あ!」

 と、先頭を歩いていた蜜柑くんが不意に声を上げた。
 足を止め、顔だけを右に向けて固まっている。

 釣られて私たちも同じ方角を見てみると、視線の先には一人の女性の姿があった。

 淡い光の中に浮かび上がる、見事な枝垂桜。
 それを静かにじっと見つめている老年の女性。
 トレンチコートを纏った体は細く、短く切りそろえられた髪はグレイヘアだった。

 もしかして、と。
 私は猫神様の顔を見上げる。

 猫神様も、私と目を合わせてこくりと頷く。

 女性を見つめたままの蜜柑くんの隣へ、私はそっと歩み寄った。
 すると蜜柑くんは、

「……あの人だ」

 と、小さく息を吐くようにして言った。

「あの女の人が、蜜柑くんの捜してた人?」

「うん。年はとってるけど、たぶん」

 おそらくは七十代くらいの、上品な佇まいの女性だった。
 一人で来ているのか、他に同伴者らしき人物は見当たらない。

「あの人はいつもあんな風に、この神社でぼーっと桜の木を眺めてたんだ。それで家に帰ったら、この風景を思い出して、よく絵を描いてた」

 蜜柑くんの記憶によると、彼女は絵画教室の先生か何かをやっていたという。
 家の中には描きかけのキャンバスがたくさんあって、桜の絵もよく描いていたらしい。

 子どもはおらず、夫も早くに亡くした彼女は、あの家で蜜柑くんと一緒に暮らしていた。

 だから蜜柑くんがいなくなった後、彼女はひとりぼっちで寂しい思いをしているんじゃないか——と、蜜柑くんはそれだけが気がかりだったようだ。

「ボク、最後にお別れの挨拶ができなかったんだ。どうしてだか、よく覚えてないんだけど……最後の日は、家の窓が開いていて、ボクは勝手に外に出ちゃって。そしたらいつのまにか、ボクはあやかしになってた。こっちの世界で死んじゃったから、ボクは生まれ変わって幽世に行ったんだって、教えてもらった」

 家の窓から外に出て、その先で、おそらく何かがあったのだ。

 もしかしたら事故にでも遭ったのかもしれない。

 そうして命を落とした蜜柑くんは、最後にあの人とお別れをすることができなかった。

「ボクが急にいなくなっちゃったから、寂しい思いをさせちゃっただろうなって。あの人が泣いてるんじゃないかって、ずっと心配だったんだ。……でも、思ったよりも元気そうでよかったよ。相変わらず、ここで桜を見てたんだね」

 そう言った彼の横顔は、慈愛の温もりに満ちていた。
 大切なものを見守る目。
 安堵の笑みを浮かべた口元。

 けれど、彼はもう二度と彼女と触れ合うことはできない。

 せっかくこうして会いにきたのに、こちらの存在に気付いてもらうことさえできない。

 その事実が歯がゆくて、私は胸の奥がギュッと締め付けられる。