◇


 タイムリミットまで、残り約三十分。その三十分の間に、四人に罪を自覚させ、罰する必要がある。あまりのんびりはしていられない。
「笠原悠って、死んだでしょ」
「死んだな」
「死んじゃったね」
「死んだのに、何で今ここでその名前が出んの?」
 まとめて張っ倒したくなった。彼の死を、誰一人として、自分のせいかもしれないとは思っていないことに、まるで他人事のような発言をしてみせたことに、不快感を覚えた。
 罰が下る心配がなければ、きっと、目の前にいる男から順番にぶん殴っていただろう。すぐに暴力に走ることは、彼らと同類だと理解していながらも。
 ゲームのルールが、罰が、この異常事態が、夏樹の衝動を制御する役目を果たしてくれていた。
「笠原は自分で自分を殺した。その原因がお前らに、もしかしたら俺にも、ないとは言えないだろ。自分の犯罪にそれぞれ心当たりがないっていうなら、お前らは全く自覚していない笠原の件がそれであること以外、俺には考えられない」
 三ヶ月ほど前のことだった。夏樹たちのクラスメートである悠が自殺した。自殺してしまった。自宅で首を吊って、自殺してしまった。夏樹は後悔していた。自分を責めていた。龍たち四人だけでなく、夏樹自身も、悠の自殺の原因になっているかもしれない。助けられなかったことが、救えなかったことが、夏樹の罪なのかもしれない。
「何だよそれ。笠原は勝手に自殺しただけじゃん。俺らは何もしてねぇよ」
「確かに。マジで冤罪なんだけど」
「自分にも原因があるかもって思うなら、それは間宮のせいじゃない?」
「間宮のせいで笠原が自殺したなら、自殺させた罪が間宮にはあるな」龍が嫌味たっぷりに片頬を吊り上げた。「やっぱり間宮が犯罪者じゃねぇの」
「その言葉、そっくりそのままお前らに返す」
「はあ? 返される理由ないんだけど?」
「いちいち揚げ足を取って一斉に責める今の構図も原因の一つだろ。自殺させた罪はそっちにもあるはずだ。お前らも犯罪者」
 犯罪者、と夏樹ははっきりと口にした。
 言葉で詰り、嬲る行為を、龍たちは毎日のように悠にしていた。大人しく、控えめな性格だった悠が、夏樹のように言い返せたことなど一度もない。何か物を言えば、それすらも、彼らの遊びの道具となってしまう。
 そう、遊びだ。客観的に見れば明らかに酷く惨い所業であっても、彼らにとっては全て遊びの範疇なのだ。胸糞が悪い。
「坂井はさっき、何もしてないって言った?」
 夏樹は今一度、大和に照準を合わせた。密かにボタンを触る。不意打ちで誰かに五のボタンを押される可能性も視野に入れながら、夏樹は大和の返答を待たずに続けた。
「毎日毎日、笠原が嘔吐するまで暴力を振るっておいて、何もしてない?」
「間宮はそれが自殺の原因だって言いたいのかよ」
「直接的でなくても、間接的には関わってるだろ」
「あんなのただの遊びじゃん」
「一方的に、それも吐くまで、殴ったり蹴ったりすることが遊びなわけがない」夏樹は自身の頭を指先でトントンと叩いた。「ここで少し考えれば分かることだろ。それなのに、何も分かってない。だから、頭悪すぎって馬鹿にされる羽目になる」
「ぶん殴られたいのかよ」
「頭が弱いからもう忘れた? 殴ればそっちに何かしらの罰が下る。そうやってすぐ暴力で解決しようとするのも幼稚すぎる。寧ろそれが、笠原にしてきたその暴力行為が、坂井の罪そのものだろ」
 体育で着替える時に見えた悠の身体は、腹部を中心に痣だらけになっていた。夏樹以外で彼の身体を見てしまった人は誰もが気まずそうに顔を背け、その生々しく痛々しい傷を負わせた張本人に至っては、気持ち悪いと態とらしく嘲笑し、揶揄し、更に暴力を振るった。唯一その行動を穏便にやめさせられるはずの龍は大和を止めようとはしなかった。寧ろ嗤っていた。
 悪循環だった。卑劣だった。見ていられなくなった夏樹が大和の手を掴んで止めるまで、それは続いた。邪魔されたことに機嫌を悪くした大和は最後に一発、夏樹への苛立ちをぶつけるように、自分より立場の弱い悠を打って立ち去った。
 殴られ続けていた悠は苦しげに喘ぎ、許しを乞うように謝ってばかりだった。夏樹に対しても同じだった。夏樹は悠が落ち着くまで彼の傍にいて、ただ静かに見守ることしかできなかった。かける言葉が見つからなかった。いつも、見つけられなかった。
 結局、何も言えないまま月日だけが過ぎ、遂に悠は、その命を自ら絶った。
 夏樹は手にしていた装置を大和に見せた。夏樹の指は三のボタンに触れている。いつでも押せる。押す覚悟はできている。
「坂井は犯罪者だ」
「ふざけんな。俺は犯罪者じゃねぇから」
「犯罪者じゃないなら、ボタンを押されても問題ないだろ」夏樹は徐々に指に力を入れた。「ミスれば俺に罰が下るだけ。それで終わり」
「ねぇ、ちょっと、間宮の奴、気が狂っちゃってるじゃん」
「暴走してんじゃないの」
「間宮、それでお前が罰せられたら、お笑いものだな」
「でもそうなったら結構胸がすくかも。喋り始めてからの間宮、うざすぎるし」
「俺を犯罪者だって思ってるの、お前だけっぽいな。完璧な冤罪なのに押すつもりかよ」
 想像以上に、救いようのないゴミクズどもだ。
 夏樹は、煽られるままに、ではなく、至って冷静な調子で勝負に出た。決して引かなかった。悠の身体に傷が残るほどの、嘔吐させるほどの暴行を加え続けた坂井は犯罪者だ。夏樹は自分の見解を信じた。
 指に力を込め続ける。弾みと共に、カチ、という微かな音がした。夏樹の指は確かに、三のボタンを押していた。もう、後戻りはできない。進むか、その場に落ちるかしか道はない。
 緊張が走る。夏樹を煽り、責めていた龍たちも、固唾を飲んで様子を窺っている。今更抵抗はできない。態度を変えることもできない。
 果たして、何かの機械の作動音が、教室の空気を小さく揺らした。思わず首を触った。金属の硬い感触が指先に伝わった。夏樹に装着されているその首輪からは、音はしていない。つまりそれが、三のボタンを押したらどうなるかの答えであった。
 目の前に立っている、先程まで口論していた大和の顔が、唐突に歪んだ。皮膚に触れ、呼吸を妨げない程度にぴったりのサイズにされていた首輪の間に無理やり指を入れ込もうとしている。まるでそこに隙間を作ろうとするかのように。
 何かを求めるように口を開き、身体を曲げて苦しげに喘ぎ始めるその姿は、まともな呼吸ができていないことを明白にしていた。目覚めた時から嵌められていた首輪が、大和の首を絞めているのだ。夏樹がボタンを押したことで。大和が罪を犯していたことで。
 大和が夏樹の眼前で膝から崩れ落ちた。その首からは、赤い液体が垂れ始めていた。血液だった。また何か、首輪の仕掛けが作動したようだった。
 首を絞められ、その首から血を流す大和が、今度は吐血した。吐き出された血が、夏樹の足元に飛び散った。夏樹は避けなかった。大和に手を貸すこともしなかった。無残なその光景に、何の感情も湧いてこなかった。心が酷く、冷えていた。
 床に頽れた大和の呼吸が完全に止まった。口や首を真っ赤に染めて動かなくなった。最期の最期まで苦しんでいた。苦しみながら、大和は死んだ。そう、死んだのだ。苦しんで、死んだのだ。
 ボタンを押して下される罰は、残酷な死だ。大和がそれを、証明した。夏樹がそれを、証明させた。
 暫しの間、時が止まったかのような静寂に包まれた。夏樹以外の三人は、呆然と大和の亡骸を見つめている。大和が踠き始めても誰も反応を示さなかったのは、あまりの衝撃に動けなかったからだろう。当惑しているのが見て取れた。
 よく連んでいた人が死んだことでショックを受けたとしても、同情などしない。ここで終わるわけにはいかない。ここで手を引くわけにはいかない。あと三人だ。三人、残っている。
 謎に包まれていた罰が死であることが判明しても、半端なところでやめるつもりなどなかった。それだけのことを、彼らはしている。
 夏樹の中の理性が大きく振り切れた。自身が極悪人になったとしても、全員に罰を下す。それ以外、今は、どうでもいい。生きては帰らせない。絶対に。
「待って、待って、嘘、嘘でしょ」混乱している凛花が場の沈黙を破り、無理やり笑おうとしているような引き攣った笑みを浮かべながら大和に近づいた。「大和、嘘だよね? 冗談だよね? 流石にこれは笑えないんだけど?」
 床に血を流して倒れ伏している大和を凛花が恐る恐る覗き込む。素人目で見ても、やはり死んでいることは明らかだ。
 決して覆ることのない事実を突きつけられた凛花が言葉を失くす。重苦しい空気が漂っていた。龍と光莉の間にも同じ空気が流れていた。
「人殺し」凛花が呟いた。顔を上げ、ボタンを押して大和を罰した夏樹を睥睨して声を荒らげた。「人殺し、人殺し、人殺し」
 無様に人殺しと叫ぶ姿は滑稽に見えた。人の心を徹底的に殺し、死に至らしめた人間の言う台詞ではない。
 夏樹自らの手でボタンを押して大和を罰したこと、それ自体は凛花の言う人殺しだと言えなくもないが、それも大和が罪を犯していたからに他ならない。潔白であれば、夏樹が首を絞められ血を流して死んでいたのだ。罪さえ犯していなければ、大和が死ぬことはなかった。
「俺は人殺しじゃない」
「大和を殺しておいて何言ってるの?」
「殺してない。坂井が犯罪者だったから罰が下っただけ。そういうルールだろ。犯罪者じゃなければ坂井は死なずに済んだ。自業自得」
「最低」
「最低なのはお前だ。散々人を辱めといてこんな時だけ被害者面するとか都合良すぎ。全部自分が悪いことにまだ気づかないのも馬鹿すぎる」
「うざい。意味分かんない。人殺しの気狂いの言うことなんか信用ならない」
「俺も、性犯罪者の言うことなんか信用ならない」
「は、何? 性犯罪者?」
「性犯罪者だろ。植岡と、それから、多田は」夏樹は凛花と光莉を順に顎で示して言った。「卑劣な性犯罪者」
 大和が死んでも、ゲームが終わる気配はない。即ちそれは、まだこの中に犯罪者がいるということだ。凛花と光莉が隠れて悠にしていた性的な暴行が、犯罪ではないわけがない。
「私と光莉が性犯罪者? ありえないんだけど。だって私たち女だよ? 性犯罪なんてほとんど男がするものじゃん」
「確かに性的な犯行に及んでいる人は男である印象が強いし、実際に男が多い。でも女が一人もいないわけじゃない。服を脱ぐことを強要して、その様子をへらへら嗤いながら写真や動画に撮ったり、お前らの方から同意のない性行為を迫って襲ったり、女であることを利用して好き勝手やってたんだろ。いざとなった時だって、男よりも女の方が被害者にしてもらいやすいから」
「勝手なこと言わないで。証拠がないじゃん」
「スマホは取り上げられてるから、そこにあるであろう証拠の写真や動画の提示はできない」
「だったら、私たちが性犯罪者かどうかなんてやっぱり分からないじゃん」
「ボタンを押せばいい。今はそれができる。今度こそ俺が死ねば、お前ら二人は犯罪者ではないことが証明される。逆にお前らが死ねば、お前らが犯罪者であることが証明される」
「何それ、脅し?」暫し黙っていた光莉が強気な口調で割り込み、髪をくるくると指に巻きつけ始めた。「大和を罰せたからって調子に乗ってる?」
「脅しだって思うなら、そういうことをした事実があることを認めたことになる。してなければ脅されてボタンを押されても何の問題もないだろ。疑った俺が勝手に死ぬだけ。でも多田は反応した。今のは明らかに、他人事だと思ってる人間の発言じゃない。当事者の発言だ」
 服の乱れた悠が、人気のない空き教室に取り残されているのを夏樹は見たことがある。ズボンをしっかり履く気力すら奪われているのか、隠す箇所だけを隠して、あとは埃っぽい床に座り込んで放心していた。大和によって痣だらけにさせられた上半身が、ズタズタにされた服の下から覗いている。
 見て見ぬ振りはできなかった。見過ごすわけにはいかなかった。事情を知らない誰かに見られ、二次被害が起きないとも限らない。
 悠が夏樹に気づいたのは、夏樹が着ていたブレザーを悠に差し出した時だった。徐に顔を上げた悠が、夏樹を認めてボロボロと涙を流し始めたのも、その時だった。やはり謝りながら、そうしながら啜り泣く悠に、夏樹は依然として何も言ってやれなかった。何を言っても、傷ついた悠の心を救える気がしなかった。下手にその傷に触れてしまえば、逆効果となってしまうかもしれない。
 夏樹は何も言葉を発せないまま悠の肩にブレザーをかけてやり、その後は悠が大和に暴力を振るわれた時と同じように、ただ、彼の近くに居続けた。隣ではなく、近くだ。机を一つか二つほど挟んだくらいの距離だ。
 夏樹のブレザーの中で震える悠が嗚咽しながら、夏樹の返事を求めることなく訥々と吐露し始めたその内容で、この惨劇は光莉と凛花によるものであることを夏樹は知った。
 光莉と凛花は、服を脱いで自慰をすることなどを悠に強要し、その様子をスマホに収め、脅しに使った。泣いて嫌がる悠に更に恐怖を与え、性行為をも強要し、悠に性器の挿入をさせたり、自分たちの性器を舐めさせたりするなどして、自分勝手に欲求を満たしていたのだ。
 話を聞いた夏樹は、警察に行った方がいいと提案したが、悠は首を左右に振った。警察に行ったことがバレてしまえば、撮られてしまった写真や動画をネット上にアップされてしまうかもしれない。掠れた声で、震えた声で、悠はそう言った。
 ポルノ写真やポルノ動画は、強い脅迫の道具になり得るものだった。それ故に、自分の裸体や強要された恥辱的な行為が晒されてしまうくらいなら我慢した方がいいと、悠は泣き寝入りすることを選んだ。警察に行けば、何をされたのか詳細を聞かれてしまうはずだ。誤魔化しても問題のない素人の夏樹に話すのとはわけが違う。
 被害者である悠の気持ちを思うと、夏樹も強くは言えなかった。どうすればいいのか分からなかった。どうすれば悠を傷つけずに済むのか分からなかった。
 正解が見つからないまま、悠を安心する場所へ連れて行けないまま、夏樹の手から、その命は音もなく零れ落ちてしまった。
 夏樹は握り締めている装置のボタンを改めてなぞった。二と四を押す準備は整っている。罰が死だと分かっても、それをすることに躊躇はなかった。
 光莉も凛花も、性暴力を犯している悪人だ。おまけにその意識もほとんど欠如している。揃いも揃って、悠に恥辱を与え襲ったことを犯罪だとは思っていないのだ。
「私と凛花の数字のボタン、押すわけ?」光莉が勝負に出るように席を立ちながら言い、夏樹を睨みつけた。「それなら私も押すから」
「押すなら勝手に押せ。死ぬのはお前の方だ」
「凄く自信があるじゃない。犯罪者である証拠も、犯罪者ではない証拠も、どっちもないのに」
「それでも押そうする多田は、賭けに出すぎだろ」
「二分の一の確率じゃない。生きるか、死ぬか」
「追い詰められてやけくそになってる?」夏樹は光莉を扇動する。「俺を脅迫してるつもりなら盛大に失敗してるし、脅迫するってことは押してほしくない心理の表れだ。今更犯罪かもしれないと思ってももう遅い」
 遅すぎる。何もかもが。光莉たちが死んでも、自殺した悠は生き返らない。夏樹がいくら後悔したとしても同じだ。悠は決して生き返らない。誰が懺悔しても、誰が死んでも無駄なのだ。自殺した事実だけが、自殺するまで追い込んだ事実だけが、永遠に残る。
 悠の死を、その原因となったであろう事柄を、軽く流していいわけがない。有耶無耶にするわけにはいかない。始末しないといけない。
「ほんとうざい。何なの? 妄想で私らを犯罪者、しかも性犯罪者に仕立て上げないでよ」
「妄想?」夏樹は横槍を入れる凛花に向かって小首を傾げ、大和の死体を避けて彼女に近寄った。「妄想で笠原を性被害に遭わせるわけがないし、その犯人をお前ら二人にするわけもない。それで興奮するような性癖は持ってないし、一般的に考えて、性的な妄想をするなら自分が犯すか犯されるかのどっちかだろ」
「女子に向かって何言っちゃってるの? とうとう頭おかしくなっちゃった? 気持ち悪いんだけど。まさか私のこともその妄想の材料にしてるわけ?」
 凛花が身を守るようにして自分の身体を掻き抱いた。得意の被害者面である。
 とことんまで罪を認めるつもりはないようだ。敵意の籠もった目で夏樹を睨み続け、まるで見せびらかすように五のボタンに触れている光莉も。性加害に関しては一切関係がないとばかりに、二人を擁護することも非難することもせずに息を潜めている龍も。
 夏樹はタイマーを目だけで一瞥した。残り十五分を切っている。いつまでも口論していては間に合わない。感情が麻痺してしまっているうちに全てを終わらせる。そうするべきだ。
「妄想の材料?」言いながら夏樹は嘲笑を浮かべ、しかしすぐに真顔になると、凛花を上から見下ろした。「お前みたいな犯罪者に性欲なんか湧くわけないだろ。自意識過剰の勘違いクズ女が」
 冷酷な声で吐き捨てた夏樹は、躊躇なく四のボタンを押す。カチ、と数分前に聞いた音と同じ音がした。処刑の合図だ。夏樹か、凛花か。
 乱暴に侮辱され、ボタンの押される音をも耳にしたであろう凛花が、拳を握って夏樹を睨め上げた。敵愾心丸出しの表情には、不安や恐怖は垣間見えない。
「ぶっ殺してやる」
 正真正銘の窮地に立たされたことで本性を表したかのように暴言を吐いた凛花が、手にしている装置のボタンを、五のボタンを押そうとした。その寸前で、首輪が作動する。凛花の首輪だった。
 瞬く間に首を絞められ装置を取り落とした凛花が、夏樹の眼前で、大和と同じように苦しみ始めた。威勢の良さはあっという間に消失し、今はただ、必死に酸素を求めるように大きく口を開いて喘いでいる。やはり、指を首輪と皮膚の間に食い込ませて隙間を作ろうとしながら。それが意味のない行動だと頭では分かっていても、そうせずにはいられないのだ。苦しいから。息ができないから。気道を確保したくて、首を掻き毟ってしまうのだ。
 痛々しい引っ掻き傷がつけられていく首から、血が流れ始めた。立っていられなくなった凛花が咳き込むように吐血し、その血が夏樹の服に飛散する。
 大和の血液だけでなく、凛花の血液すらも飛ばされた。本人たちにその意識はないだろうが、それはまるで、ボタンを押した夏樹に対するせめてもの攻撃かのようだった。
 床に倒れ込み、苦悶の表情を浮かべながら死にゆく凛花を夏樹は冷めた双眸で見下ろした。大和の時と同様、何も感じなかった。称賛されるような正しい行いをしたとも、批判されるような悪い行いをしたとも、思わなかった。自分がボタンを押したことで死んだ二人は、予想通り、犯罪者だった。その事実だけが、夏樹の胸には残っていた。
 あとの二人も、そうだ。この流れでいけば、確実に、犯罪者だ。ゲームはまだ終わっていないのだから。
「凛花」悲壮感を漂わせ、呟いた光莉が凛花に歩み寄った。死んだ凛花を目にしてから、湧き立った殺意を夏樹へと向ける。「大和だけじゃなく、凛花まで」
「二人は犯罪者だったからこうなっただけ」
「間宮がボタンを押したから、二人は死んじゃったんでしょ」
「ボタンを押さなくたって、時間が過ぎれば全員に罰が下るだろ。犯罪者ではないとしてもだ。生き残るには罪を犯していないことが絶対条件で、何かしらの罪を犯している人はみんなここで死ぬ」
「だったら、このままボタンを押さずに、犯罪者かどうかは関係なく、間宮も巻き添えにしてやるから」
「五のボタンを押すんじゃなくて、タイムオーバーで俺を死に巻き込むことに変更していいわけ? 俺だけならともかく、まだ廣瀬がいるだろ。お前らのリーダーみたいな廣瀬まで巻き添えにするつもり? 廣瀬の下に金魚の糞にみたいにくっついてるお前に、その権限があるとは思えない」
「汚い言葉で適当なこと言って煽らないでくれない? 龍は分かってくれるから」自信たっぷりに言い、光莉がずっと黙っている龍を振り返った。「このまま間宮のことを巻き添えにする案、龍なら飲んでくれるでしょ?」
 龍が気怠そうに光莉に顔を向けた。光莉の案を飲んでも飲まなくても、夏樹は残りの一と二のボタンを押すつもりでいる。巻き添えを食らうつもりはない。自分の罪があろうがなかろうが。死ぬのなら、全員を罰してから、最後に死ぬ。
「悪いけど、俺は光莉と心中する気はねぇし、まず間宮が黙ってるわけねぇだろ」龍が夏樹を顎で指し示した。「彼奴はボタンを押す気でいるんじゃねぇの。これまでの言動から鑑みても」
 冷静な判断であり、その通りであった。龍の言っていることは間違っていない。夏樹はボタンを指先で摩る。いつでも、不意打ちでも、押せる。
 苛立ちを募らせることはあれど、それ故に取り乱す、というようなことはなく、いつもどこか落ち着いている印象を受けるのが龍だった。夏樹と同じで、挑発などをされても、熱くなることはあまりないタイプだと言える。それはつまり、挑発をしてもそれほど効果が期待できないということでもあった。大和や凛花、光莉にしていたような方法では通用しないかもしれない。
「そんなことよりさ、驚いたことがあるんだけど」
「そんなこと? 大事なことでしょ? 話逸らさないでくれない?」
「逸らそうとしてるのは光莉の方だし、そもそも何でそんなに焦ってんの?」
「焦ってる? 私が?」
「焦ってるだろ。その様子だと、間宮の言ってることって本当なんだな」
「何のことよ」
「レイプのことだよ、レイプ」
 そこで夏樹は違和感を覚えた。龍のその言い草は、光莉と凛花が悠にしていた性暴力について知らなかったと言っているようなものではないか。だから、他人行儀だったのだろうか。自分が知らない事柄だったために、驚きを秘めつつも下手に口を挟もうとはしなかったのかもしれない。
 蚊帳の外で傍観している夏樹を目の前に、龍と光莉の言い争いが加熱する。仲間割れが起きていた。
「光莉と凛花って、本当にレイプしてたんだな」
「ふざけてるの? その話はもう終わったじゃない」
「終わってねぇよ。間宮の言ってることが本当なら、光莉は性犯罪者だし、凛花が死んだことでそれが証明されてんだよ。凛花がまた別の犯罪を隠れて犯してたなら話は変わるけど」
「龍は私たちの味方でしょ? なんで私を責めるようなこと言うわけ?」
「俺と、多分大和にも隠れて、二人が勝手に決めて勝手にやり始めたことまでフォローできるわけねぇじゃん。こっちは今さっき初めてレイプのことを知ったんだよ」
「私はレイプなんかしてない」
「じゃあ何で凛花は死んだんだよ」
「それは、私たちの知らない他の罪があったのかもしれないじゃない」
「漠然としてんな。レイプなんかしてないって意地になってるのもダサすぎるし」
「だって本当にしてないんだから、してないっていうしかないじゃない」
「そんなに言うなら俺にも考えがある。光莉は絶対にレイプなんかしてなくて、他の罪も絶対に犯してないんだな」
「当たり前じゃない。私は犯罪者じゃないから。間宮の言うことなんか信じないでよ」
 平然と嘘を吐いてみせる光莉に、夏樹は思わず歯噛みする。意地になっているというのはあながち間違いでもないだろうが、それでも、一切認めようとしないのは胸が悪い。
 夏樹はこっそり、二のボタンに指を置いた。光莉を罰することのできるボタンだ。
 ふと、龍と目が合った。何かを企んでいるように僅かに口端を持ち上げられる。何気なく彼の手元を見た。机の下で装置を手にしている。その指が、五、ではなく、二、に触れているように夏樹の目には見えた。若干熱くなっている光莉は視野が狭まっているのか、龍のそれに気づいていない。
 今は言い争ってはいても、元々はよく連んでいた人を、龍は自らの手で罰するつもりでいるのだろうか。放っておいても、夏樹が押すであろうことを予想していながら。
 夏樹は暫し思考を巡らせてから、徐にボタンから指を離した。自分が押さなくても済むのなら、それに越したことはない。何より、仲間と思っている人に裏切られるような形で罰せられる方が、精神的なダメージは大きいはずだ。
 龍と敵同士であるはずの夏樹は、光莉に罰を下すという目的のために、彼に協力することを選んだ。自分の性格の悪さには目を瞑った。
「光莉、無実なら問題ないよな」
「問題ないって何が?」
「間宮の言ってることが嘘で、光莉の言ってることが真実なら、光莉が望んだ通り、間宮を巻き添えにできるかもな」
「だから龍は何言って」
 光莉が言い終わらないうちに、龍の指が二のボタンを押した。躊躇がなかった。カチ、と小さな音が、一番龍と距離のある夏樹の耳にまで届いた。その微音すら拾ってしまうほどに、神経が過敏になっていた。
 座っていた龍が席を立った。強気な態度を示していながら困惑を隠し切れていない光莉に近づき、彼女の様子を窺う。もしかしたら冤罪で、自分に罰が下るかもしれないという恐怖のようなものは、彼からは感じられなかった。
 程なくして、機械の作動音がし、龍がボタンを押したその結果を告げた。どこからか、空気の漏れるような音がした。光莉からだった。光莉の口からだった。光莉が悶絶し始めた。
「嘘吐きだな」龍が苦しみ喘ぐ光莉を軽蔑した目で見下ろす。「流石に性犯罪は引くから。俺も大概やることやってるけどさ、本気で嫌がってる奴を犯すことに興奮なんかしねぇよ」
 呼吸困難でパニックに陥っている光莉に龍の声が聞こえているのかどうか定かではないが、仮に聞こえていたのだとしたら、味方だと思っていた相手から裏切られ、辛辣な言葉で叩きのめされる気分は一体どのようなものなのだろう。屈辱的なのではないか。夏樹は光莉を眺めながら、他人事のようにそう思った。
 罰の方法は、大和と凛花の時と同じであった。首を絞められ、しばらくしてから血を流し、反射によるものであろう吐血をして、力なくその場に臥す。そして、死ぬ。息ができずに苦しみながら、死んでいく。
 ひたすら首を絞められ続け、そこから流血している光莉を冷静に観察している夏樹の目も心も、随分と冷めていた。
 よく連んでいた龍に罰せられた光莉を可哀想だとは思えない。真っ当に生きていれば、きっと、こんな悲惨な目には遭わずに済んだのだから。光莉に限らず大和も凛花も、そして龍も、そうしてくれていれば、悠が自分の心臓を自分の手で握り潰して人生を終わらせることもなかったはずだ。
「とうとう俺と間宮の二人だけになったな」
 龍が動かなくなった光莉から目を上げた。そこに後悔などはないように見えた。
 夏樹と龍の足元には、光莉を含めた三人の死体が転がっている。非現実的であった。それでもこれは、紛れもなく現実であった。
「終わる気配はなさそうだな」止まらないタイマーを見た龍が言う。「あと十分もねぇよ」
「まだここには犯罪者が残ってる」
「あ? まさか俺のこと言ってんの?」
「廣瀬だけか、俺と廣瀬の両方か」
「俺は犯罪者で確定かよ」
「犯罪者だろ」
「死んだ三人と同じように責めんの?」
「そのつもりだから、認めるのなら今のうち」
「認める認めないは罪を聞いてからにしてやる」
 光莉の死体を挟んで、夏樹は龍と睨み合った。龍の服には、光莉の吐いた血が散っていた。
 夏樹は確かめるように一のボタンに触れる。これを押さずに終える選択肢はない。必ず龍を罰する。
「廣瀬は率先して、笠原から金をせびってたんだろ」夏樹は親指以外の四本の指を突き立てた。「一人一万で、計四万。最低四万」
 悠から奪った四万は、言うまでもなく、龍、光莉、大和、凛花の趣味や娯楽に使われていた。彼らは数日でその全てを使い終えると、また悠を脅迫し、金を持って来させることを繰り返した。四万という学生にとってはそれなりの大金を悠が用意できてしまったのも、彼の家が、所謂富裕層に値するからであった。金がないわけがないと、時には暴力を振るって恐怖を与え、龍は悠から金を毟り取り続けたのだ。
 悠は日に日に憔悴していった。金を奪われ、殴る蹴るなどの暴力を振るわれ、性的暴行もされ、それで元気に日々を過ごしていけるわけがない。夏樹が龍たちに隠れてフォローしても、龍たちと正面切って対立しても、無駄だった。無駄に、悪化させてしまっただけだった。夏樹への不平不満を、夏樹本人ではなく、悠へぶつけることで発散する彼らによって、悠の傷は更に深くなるに至ってしまったのだ。
 夏樹は責任を感じている。龍たち四人の悪行をエスカレートさせてしまったのは、自分の行動のせいなのではないかと。見えないところで寄り添うことも、面と向かって物を言うことも、事態を良くするどころか更に悪くさせているのではないか。金を奪う回数が増えたのも、その金額が高くなったのも、嘔吐から血反吐になるまで暴行されるようになったのも、全ては自分の半端な行動のせいなのではないか。
 悪化させてしまうくらいなら、悠には下手に関わらない方がいい。見て見ぬ振りをするという残酷な選択肢が、夏樹の脳裏を掠めた。でも、できなかった。一人で泣いている悠を見て、放って置けるわけがなかった。例えそれが悠ではない別の誰かであったとしても、夏樹はきっと放っては置けなかっただろう。偽善者だと思われてもいい。それで自分に攻撃をしてもいい。その行動で少しでも心が楽になるのなら、自分がそこにいる意味を見出せる気がした。
 泣いていた悠の傍にいた時、夏樹は悠に縋られたことがあった。見捨てないで。どこにも行かないで。間宮くんがいないと生きていけない。泣きながら、震えながら、悠は夏樹にそう零した。そこで初めて、夏樹は自分が、悠の生きるよすがになっていたことを知った。
 身も心もボロボロになっている悠を抱擁することで夏樹はそれに応えたが、結局、夏樹の存在は、悠が受けた苦痛には勝てなかった。勝たせてあげられなかった。何も、できなかった。何も、してやれなかった。払拭できない後悔と責任が、夏樹の心を支配していた。
 夏樹は一のボタンに触れた指で、その箇所をなぞった。悠に金を渡させていたことを指摘しても、龍は平然としている。罪の意識がないのか、開き直っているのか、そのどちらとも取れそうなリアクションであった。
「それが、間宮の思う俺の罪?」小首を傾げた後、龍が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「レイプに比べたら取るに足らないな」
「レイプに比べたらしょうもないと感じることでも犯罪は犯罪だろ」
「でも、四万くらいどうってことなくね? 彼奴の家、相当金持ってるの間宮も知ってんだろ? あの家にとっては、四万なんか端金じゃねぇの」
「そういう問題じゃない。裕福なことが、金をせびってもいい理由になんかなるわけないだろ」
 間髪入れずに言い返すと、暫しの沈黙が続いた。その後、龍が盛大に鼻から息を吐く。
「ダメだな。やっぱり、レイプの後だと金絡みの話は弱すぎる」
「弱くてダサくて幼稚で格好悪くて、心底頭の悪い低レベルなことをしてきたのはお前だろ」
「口悪すぎ。普通に誹謗中傷じゃね?」
「そんな単純なことも分からない奴にはしっかり言い聞かせるしかないから言ってるだけ」夏樹は扇動するように僅かに首を傾けた。「俺がお前を徹底的に調教してやろうか」
「キモイこと言ってんなよ。どうせあと数分で、俺かお前か、もしくはどっちも死ぬ運命だろ」
「罪を認める?」
「死ぬまで否定して抗っていた三人が醜く見えたから、俺は素直に認めてやるよ」
「三人からしたら、清々しいくらいの裏切り者だ」
「その三人も死んでんだから、俺に文句は言えねぇよ」
 夏樹と龍は目を合わせた。罪を認めても認めなくても、ボタンは押す。夏樹は龍に装置を見せ、何も言わずに一を押そうとした。
「ちょっと待て」
 龍に手のひらを向けられ、止められる。まだ何か言いたいことがあるのか、再び口を開いた龍に夏樹は無言で応えた。時間は既に五分を切っている。
「気に入らねぇ」なぜか不服そうに舌を打った龍が、装置を夏樹に向けて突きつけた。「お前の番号でもある五を誰も押すことなく終わるのは、どう考えても気に入らねぇ。だから、俺が責任を持って押してやる」
 龍の指が五のボタンを触る。それが威嚇でも脅迫でもないことは、龍の口調から察することができた。
 あと少しで、きっと、全てが終わる。ゲームが終わる。この手で終わらせる。
 夏樹は龍の最後の遊びに付き合うように、装置を持っていない方の手を龍の顔面に突きつけた。人差し指と親指を立て、まるで銃口を向けるように。
「こっちの方が見栄えはいいだろ」
「ふざけてんな。見栄えなんか求めてんじゃねぇよ」おかしそうに鼻で笑いつつも、龍も夏樹に倣うように手で銃を作り、それを夏樹の顔面に向ける。「本物の拳銃だったらもっと映えたのにな」
 指で作っただけの、当然弾も何も込められていない、何も飛ばすこともできない、攻撃力皆無のちゃちな拳銃を夏樹と龍は突きつけ合った。殺すつもりで、照準を合わせる。
「もしかしたら間宮も犯罪者で、このまま罰を受けて死ぬんじゃねぇの」
「その時はその時だ。一緒に死ねてラッキーだろ」
「笑わせんなよ。お前と死ぬくらいなら一人で死んだ方がましだわ」
「面白いくらい俺は廣瀬に嫌われてるな」
「そうだよ。俺はお前のことが嫌いだよ」
「俺もお前のことは、お前らのことは、嫌いだ。一生、許せない」
 二人は酷く嫌い合い、憎み合い、睨み合い、そして、どちらからともなく、引き金を引くようにボタンを押した。夏樹は一を、龍は五を。
 何度目かの音を、ほぼ同時に重なった音を、夏樹は聞いた。片方だけが死ぬか、それとも、相討ちか。
 その答えは、すぐに明らかとなった。ボタンを押したことで作動した首輪が、死を前にしても余裕を保っていた龍の首を絞め始めたのだ。
 それまで落ち着いていた龍も、苦しさには勝てないのか、初めて顔を歪ませた。
 悶える龍を黙って見ながら、夏樹は銃の形を作っていた手を下ろす。夏樹の首輪は絞まっていない。
 犯罪者、ではなかった。夏樹だけが、犯罪者ではなかった。犯罪者ではないとされた。悠を救おうとして、救いたいと思って、しかしそれができなかった夏樹を、このゲームを企画して実行に移した者は、罪だとはしなかった。
 生還したことを、素直に喜んでいいのか。罪には問われなかったのだから、自分が悠にしてきた言動は、正しいことだったとして自信を持ってもいいのか。
 考えを巡らせたが、どのように考えてみても、自殺者を出していることは揺るぎのない事実で、そのことが、夏樹の胸に大きなしこりとなって残っていた。
 たらればを繰り返して後悔しても、責任を感じても、過去にはもう絶対に戻れない。悠が自殺した原因となった者たちが全員絞首され吐血して死体となっても、溜飲が下がることはなかった。挑発を含んだ冗談すら交わした龍が床に血を吐いて倒れても、夏樹の気分が晴れることはなかった。
 誰も彼も、間違いだらけだ。
 そんな間違いを犯した者たちの、罪を犯した者たちの、命の灯火が全て消えたことを証明するかのように、タイマーが音もなく停止した。それは、ゲームが終了したことを告げてもいたのだった。