きっと、復讐だ。
数字の刻まれた赤いボタンが五つあるスマホサイズのリモコンのようなものを手にし、一人口を閉ざしている間宮夏樹はそう悟った。息も指先も冷えていた。
季節は冬。十二月。日々、寒さは厳しくなるばかりではあったが、この冷えは、それだけが原因ではないと言えた。
見慣れた教室。暗闇に包まれた外。閉め切られ、なぜか開けることができない窓や扉。他に人の気配を感じない校舎。
ここには、夏樹を含めた男女五人が集められていた。全員、何者かに襲われ、眠らされ、拉致され、訳も分からずこの教室に連れて来られたのだ。五人ともクラスメートだった。
一体何が起きているのか。夏樹も目覚めた時は酷く混乱していたが、ゲームらしき何かに強制的に参加させられ、ゲームらしき何かが強制的に開始された今となっては、多少なりとも察するものがあった。このメンバーであることが、最大のヒントだ。そして、そのことに気づいているのは、恐らく、夏樹だけだ。
「ねぇ、何なのこれ。どうすんのこれ。全然意味分かんないんだけど」
胸を覆う不安を掻き消すかのように、落ち着きのない植岡凛花が誰にともなく声を荒らげた。そうしながら、違和感が拭えないのかしきりに首を触っている。その首には、金属製の首輪が嵌められていた。アクセサリーのように装着されている錠のような部分には数字が刻まれている。四だ。
「俺も全然意味分かんないんだけど」
装置を手にしたまま、まだ混乱している様子の坂井大和が凛花の声に反応を示し、その後、彼女に釣られるようにして首を摩った。その首にも、凛花と同じものが嵌められている。数字は三だ。
夏樹は言葉を発さず、二人に倣うように首に触れた。冷たく硬い金属の感触。夏樹にも同じものが施されていた。自分の数字は視認できないが、他の四人の数字は見えるため、消去法で五だと判断した。夏樹に割り振られた番号は五だ。この数字は、手元にあるボタンの数字と連動しているようだった。
「何でこんなことになってるのか私も分かんないけど、とにかくあれをやれってことでしょ」
席に座り、指先で髪の毛を弄っている多田光莉が、顎で黒板の方を示した。光莉の番号は二である。
「本気で言ってる? ここに犯罪者なんかいるわけないのに?」
「いなかったらこんな馬鹿げたゲームをする意味ないんじゃねぇの」
気怠そうに凛花に応えたのは、椅子の背凭れに体重を預けている廣瀬龍だった。龍の首元には数字の一。
「それなら、この中に犯罪者がいるってこと? 誰が隠れて罪を犯したわけ?」
「それを見つけて、これで罰を下せってことだろ」
龍がボタンのある装置を凛花に見せて言った。簡単に言えば、そういうことだった。
先程光莉が示した黒板には、不穏なゲームのルールが達筆な文字で書かれていた。概要はこうだ。
・一人一人に与えた装置のボタンを押し、犯罪者に罰を下す
・ボタンの数字は、首輪の錠の数字と連動
・犯罪者ではない者のボタンを押した場合、それは冤罪であるため押した者に罰が下される
・器物損壊及び暴力行為を図った者にも罰が下される
・制限時間は一時間
・時間内に犯罪者に罰を下すことができれば、その瞬間、残った者を解放する
・時間内に犯罪者に罰を下すことができなければ、犯罪者ではない者含め残った者全員に罰が下される
・犯罪者は一人とは限らない
犯罪者やら罰やら冤罪やら、暗い影を落とす言葉たちが並んでいる黒板の前の机の上には、体育で使用するようなタイマーが設置してあり、既に一時間のカウントダウンが始まっていた。全員が目覚めた時に、それは自動的に動き始めていた。遠隔で操作されているようだ。誰かがどこかで自分たちのいる教室を監視しているに違いない。その誰かとは、このゲームの首謀者であり主催者であろう。
「つまり、訳の分からない状況で、訳の分からないゲームをするしかないってことか」大和が言い、邪魔くさそうに首輪を触る。「何なんだよ、意味分かんねぇことばっかだな」
「とにかく、さっさと犯罪者を見つけてさっさと終わらせない? ここ寒いし早く帰りたいし、スマホも触りたくてたまらない」
髪の毛を指先にくるくると巻きつけながら、事態をそれほど深刻には捉えていない光莉が呑気なことを口にする。悪趣味なただのゲームだと思っているのだろう。
スマホなどの持ち物は全て取り上げられていた。連絡を取ることもできない。助けを呼ぶこともできない。教室にあるはずの時計も取り外されていて、今が何時かすらも把握できない。
分からない状況に侵されている中で、本当にこれが悪趣味なゲームで済む話なのか、夏樹は光莉ほど自信を持つことができなかった。
「さっさと終わらせるって、どうやって。誰が犯罪者か分かんないんだよ? 適当に選ぶわけにはいかないし、それで犯罪者じゃない人のボタンを押したら自分に罰が下るって書いてあるじゃん。罰が何なのかも分かんないし」
凛花が早口に捲し立てる。無闇に行動を起こせない理由は、そこにあった。
ルールにある罰がどんな類のものなのか分からない。分からないから、発言してばかりで誰も迂闊に動くことができないのだ。開かない扉を蹴破って逃げることもできない。器物損壊という言葉が、行動を制限している。
しかし、このまま何もせずに時間切れになれば、全員に罰が下される。その罰もまた、どのようなものなのか判然としない。
結局全ての行動が、自分か、あるいは他人の罰に繋がるのだ。堂々巡りである。
犯罪者を見つけられたとて、夏樹を除いた四人は、仮にもよく連んでいる友人同士である。何をされるか分からない罰を下すことができるのか。
これが、夏樹の思うように復讐であるとするならば、この場にいる全員が、犯罪者になってしまうのではないか。
そう思っていても、夏樹は口にはしなかった。夏樹以外の全員が、自分は犯罪者ではないといった態度なのだ。自覚がない。罪悪感すらない。彼らからは、それらの感情が一切伝わってこなかった。
本人が気づいていないことを下手に指摘してしまうと、感情に突き動かされるがまま、誰かに五のボタンを押されてしまうかもしれない。
夏樹は徐に首輪に触った。指先は冷えたままだった。
この期に及んで、夏樹は自分に罰が下されるのを回避しようとしてしまっていた。犯罪者であれば、夏樹が自覚していることが犯罪になり得るのであれば、遅かれ早かれ、絶対に罰は下されてしまうのに。
黒板に書かれたルールをそのまま飲んだ限りでは、このゲームで罰を下されずに済む可能性のある人は、犯罪者ではない人だけだ。罪を犯している人には、問答無用で罰が下る。それだけ、恨んでいるということだろうか。復讐であるならば。
「犯罪者が誰なのか確信は持てないけど、怪しく見える奴ならいるよな」
「それ、誰のこと言ってるの?」
「分かるだろ。目が覚めてから一言も喋ってない奴」
吐き捨てるように龍が言った瞬間、一番端の席で専ら息を潜めていた夏樹に注目が集まり、沈んでいたところを無理やり引き上げられた。
全員の目が、夏樹の隠された内面を探っている。怪しいか、怪しくないか。罪を犯しているのか、いないのか。
ゲームを早く終わらせるために、自分が罰を受けないようにするために、唐突に犯罪者探しが始まった。龍が夏樹に目をつけたのも、彼が夏樹のことをあまり気に入っていないからだろう。良く思われてはいないことは、夏樹も察している。
夏樹が龍たち四人と行動を共にするようなことは全くないと言ってよかった。夏樹を除いた他の四人は、大体いつも揃って行動している。常に固まっているのだ。
クラスには、スクールカーストというものが自然とできあがっている。今現在教室に囚われている夏樹たち五人は、所謂一軍に属しているグループだった。
その中でもまた、一人と四人に分けられる。夏樹はその一人で、群れを好んでいなかった。故に、スクールカーストにも興味がなく、二軍や三軍に分けられている生徒に対しても、彼は態度がほとんど変わらない。良い意味でも悪い意味でも、彼は平等なのだ。
誰も龍たち一軍の日々の言動に物申すことができなくとも、同じ立ち位置でもある夏樹であればそれができる。夏樹の知らないところで、一軍に属する一匹狼の夏樹は、クラスの現状を変える頼みの綱にされていた。
「この中では、間宮のことが一番分からないだろ」
「確かに。基本的に何考えてるのか分かんないしね」
「でもそれだけでボタン押すのは危なくない?」
「間宮が犯罪者だっていう確証が欲しいよな」
四対一だった。犯罪者であると確信を持たれた時には、真っ先に五のボタンを押されてしまうだろう。同じ一軍であっても、それほど好いているわけでもないクラスメートを罰することへの躊躇いなど、彼らにはない。
「そんなに俺が怪しいと思うなら押せばいい」
無言を貫いていた夏樹は、ゲームが開始されてから初めて口を開き、その第一声で一か八かの賭けに出た。否定も肯定も、そのどちらを選んでも、恐らく状況は変わらない。沈黙し続けることも得策ではないだろう。嫌でもまずは喋らなければ、普段の自分たちの行いをこの四人に改めさせることはできないのだ。
そして、もしこれでボタンを押され、夏樹に罰が下ったとしたら、夏樹自身が想像していることが彼の罪だと言えた。皮肉にも、それが罪だと証明される。それ以外の罪はないはずだ。真っ当に生きているはずだ。
「五だ。押したければ押せ」夏樹は手にしている装置を四人に見せた。「俺が犯罪者かどうかは、これを押せば分かる」
緊迫した空気が流れた。押せば分かることも、自分に罰が下される恐れがある以上、いくら挑発されても簡単には押せないのだろう。場が静まり返る。
しばらく待ってみたが、四人の指が五のボタンを押す気配はなかった。夏樹が犯罪者ではない可能性を、誰も捨て切れずにいるのだ。
不意に、舌打ちが聞こえた。龍だ。夏樹に煽られ苛立っているのか、心理戦が勃発したことに苛立っているのか、原因は定かではなかった。
罰が何か分からない以上、安易な行動を取ることはできない。誰も思い切ることができない。それは夏樹にも言えることであった。
何かしらの犯罪を、誰かが犯している。それを主催者側は調べ上げ、犯罪者ではない者まで巻き込み、ゲームに強制参加させている。夏樹、龍、光莉、大和、凛花。この五人を選別しているのは、決してランダムなどではなく、何か明確な意図があるはずだ。
考えれば考えるほど、夏樹の中で、そうであるという信憑性が増していく。これはやはり、復讐であると。ならば、犯罪者は、全員なのか。犯罪者ではない者というのは、はったりのようなものなのか。
まだ何も変わらず、進展もしない現状では、かもしれないという仮定を取り除き、そうだと断定することは早計だろう。誰かがボタンを押し、誰かが罰を受ければ、また違った情報を得られるはずだ。それまでは、夏樹の仮説は、文字通り、ただの仮説でしかなかった。
自分以外の誰かがボタンを押し、自分以外の誰かが罰を受け、ゲームの実態を把握することを、この場の全員が求めている。自分以外にやらせることで。
時間切れで罰が下されて終わりか、犯罪者を見つけ出し、罰を下して終わりか。互いの様子を探り合うように目を合わせている間にも、タイマーは規則正しく残り時間を消費し続けている。
「何も進まねぇじゃん。マジでどうすんだよこの状況。怪しいだけじゃ流石に押せねぇよ」
膠着状態が続き、大和が堪えかねたように沈黙を破った。首を摩り、装置を触る。その側で、イライラした様子の龍がまたしても舌を打つ音が響いた。
確証がない。確信を持てない。自信を持って、夏樹が犯罪者であるとは言えない。怪しいだけでは、誰もボタンを押せない。無闇に賭けには出られない。勇敢な誰かがその賭けに出るのを期待するしかない。
いつも四人で連んでいる彼らにとっては、蚊帳の外である夏樹が犯罪者であってほしいのだ。その方が、仲の良い人たちを疑わなくて済む。その仲に亀裂を入れなくて済む。自分を含め、仲間たちが犯罪者であるはずがない。そう信じようとしている。あるいは、そう信じて疑っていない。
全くもって、救いようのないクズの集まりだ。
夏樹は胸が悪くなった。他人の生死に直結するような残酷なことをしておいて、誰一人としてその行為を罪だとは思っておらず、誰一人として自覚していないことに、その素振りすら窺えないことに、夏樹は胸が悪くなった。
腹が立つ。分かっていたのに、最悪になる前に手を打てなかった自分にも、腹が立つ。腹が立って、仕方がない。
だからこそ、自覚している自分が、腹を括るべきだ。向き合うべきだ。向き合わせるべきだ。このまま何もしないわけにはいかない。
「俺からしたら、怪しいのはそっちだ」
自ら喧嘩を売るようにして、夏樹は告げる。例に漏れず固まっている四人の目が鋭くなった。明らかに機嫌の悪くなっている龍が、強気に鼻を鳴らす。
「じゃあ、適当にボタン押せば?」
「押さない。今どのボタンを押したって意味がない」
「押す度胸がないだけだろ」
「それを言うなら、俺を怪しいと思ったのに押さなかった廣瀬も同じだ。もちろん廣瀬だけじゃない。多田も坂井も植岡もそう。小心者で臆病者で、度胸がない」
「そんなに言うなら俺が押してやるよ」
「やめろ、大和。単純な挑発に乗ってんじゃねぇよ」
「押して自分に罰が下ったら、間宮の術中に嵌まっちゃうでしょ。間宮が犯罪者だって決まったら押してもいいけど」
夏樹に見下され、煽られ、感情的になる大和を龍と光莉が諭す。ボタンに触れて今にも押してしまいそうになっていた大和の手が、悔しそうにその位置から離れた。夏樹が犯罪者であるという証拠は何も出てきていないのだ。押すにはまだ、リスクが高い。
夏樹が挑発をしても、龍と光莉は冷静である。舌を打つくらいには苛立ちを募らせてはいるだろうが、だからといって衝動的な発言はしない。その逆で、感情的になりやすいのは、大和と、しばらく口を閉ざしている凛花であった。
タイプは違うが、四人全員に、自分たちがしてきた所業を自覚させなければならない。そうしなければ、夏樹もボタンを押せない。それが確かな犯罪とは言えず、夏樹が罰を受けることになっても、そうしなければならない。
この異常事態は皮肉にも、彼らと面と向かって討論ができる、最初で最後のチャンスだった。みすみす逃すわけにはいかない。
「全員が、犯罪者だ」
「は? 今度は何訳分かんねぇこと言ってんだよ」
「そう思うなら押したらいいじゃない」
「そうだよ。でも、私らは犯罪者じゃないからね」
「ムカつく。俺らに罪を擦りつけてんじゃねぇよ」
口々に文句を言う彼らに、夏樹は心を乱すことなく落ち着いて続ける。そうしながら、挑発も忘れない。
「犯罪に関して全く身に覚えがないって思ってる中でボタンを押して罰が下っても、それこそ意味が分からないってそっちは思うだろ。だから、俺はちゃんと理解させてから、分からないまま罰が下されないようにしようとしてる」
「押せば俺らに罰が下る前提で言ってんの?」
「俺を含めた全員にその可能性があるってだけ」
「それなら間宮だけが犯罪者だろ。こっちは罪なんか犯してないってみんな思ってる」
「そう。なら、今すぐ押せ」夏樹は敵対する龍を煽るように睥睨する。「押せるだろ。犯罪者がいなかったら、こんな馬鹿げたゲームをする意味がないって言ったのは廣瀬なんだから」
言質を取られた龍が舌を打つが、すぐに何かに気づいたかのように鼻で笑った。彼の余裕は簡単には崩れない。しかし、きっと、ストレスは着実に溜まっている。夏樹を何とか言い負かしたいと思っている。
「俺もお前の言質取るわ。ボタンを押して俺に罰が下ったら、お前がついさっき言った、分からないまま罰が下されないように、ってのが成し遂げられなくなるけど?」
「その心配はない。いくら煽ったとしても、廣瀬は押さない。押せば俺に屈したことになる。誰かの上に立ってないと気が済まない廣瀬が、自分が一番嫌ってる俺の言うことを聞くわけがない」
龍の性格を見越しての勝負だった。押されてしまうかもしれないという不安がないわけではなかったが、押す素振りを見せることのない龍を見て、ひとまずは乗り越えられたと夏樹は密かに胸を撫で下ろす。ここで押されてしまうわけにはいかないのだ。
「お前如きが、俺の何を知ってんだよ」
「そうやってすぐに人を煽って見下すのを、俺は知ってる」
「喋ったと思ったらうざったいほど挑発しまくってくるお前には言われたくねぇよ」
「誰かを貶めて傷つけて、死ぬまで追い詰めるような人間に比べたら可愛いもんだろ」
「はあ? 誰のこと言ってんの?」
「廣瀬と多田と坂井と植岡のことを言ってる」
場に数瞬の沈黙が走った。夏樹と龍の言葉での殴り合いを黙って聞いていた三人が、揃いも揃って夏樹に攻撃的な目を向ける。
「黙って聞いてれば好き勝手言ってくれるじゃない」
「私らがそんな人間だって言ってるわけ?」
「間宮は人をイライラさせる天才だな」
「天才はそっちだろ」嘲るように夏樹は言った。「ここまで言ってまだピンと来ないなんて、頭悪すぎて逆に天才」
「お前、ふざけんじゃねぇよ」
感情の昂りを抑えられなくなった大和が、そのグループのトップの立場でもある龍の制止も聞かずに床を踏み鳴らした。机と机の間を縫い、夏樹に近づいて来る。
夏樹は逃げも隠れもせず、ただじっと大和を見据えた。その態度が更に、大和を熱くさせることを、夏樹は知っている。煽られるままに握って振り上げたその拳で、人を何度も殴っていることも、夏樹は知っている。
「ちょっと大和、やめなよ。殴ったら罰が下るって」
夏樹の顔面を殴りかけていた大和の手が、凛花の声でピタと止まる。この場でのルールを思い出したのか、クソ、と乱暴な言葉を吐き捨てた大和が夏樹を睨みつけた。せめてもの攻撃のようだった。痛くも痒くもなかった。
それよりも、こんな時だけ、暴力沙汰を起こそうとする仲間の行動をしっかり止めに入ることに反吐が出た。
「罰が下るから、坂井に殴らせないようにした?」
夏樹は凛花に向かって言い放った。夏樹と目が合った凛花が強気に応える。
「そうだけど? だって間宮のことを大和が殴ったら、大和に罰が下るし」
「罰が下るルールじゃなければ殴らせてた?」
「何が言いたいわけ?」
「殴らせたかどうか聞いてる」
「そりゃ殴らせてたかもね。間宮の発言、いちいち癪に触るし」
「それで俺が殴り殺されようとしても、植岡は止めない。廣瀬も多田も止めない。坂井に罰が下る心配はないから」
「さっきから意味分かんない。頭おかしくなっちゃった?」
「頭がおかしいのは俺じゃなくてお前らだろ」
夏樹は心を鬼にする。こんな調子では埒が明かない。生温い方法では勝ち目がない。時間も無限ではないのだ。そろそろ行動を起こさなければ、ボタンを押して状況を変えなければ、何も成し遂げられないまま全員に罰が下ってしまう。
一触即発の空気の中、夏樹は徐に席を立った。憤りを必死に抑え込んでいる大和に照準を合わせるように視線を移動させる。
まずは、此奴からだ。
夏樹は手にしている装置のボタンを指先で軽くなぞった。覚悟を決めて、三のボタンから押す準備を進める。
その前に念のため、大和の首元を一瞥した。確かに三だった。夏樹の予想が間違っていなければ、このボタンを押すことで、確実に大和を罰せられるはずだ。
夏樹は歩みを進め、大和の前に立った。夏樹よりも少し背の低い大和が、ほんの僅かに彼を見上げる。睨み合った。
夏樹の剣呑な雰囲気を感じてか、龍たち三人は誰も口を挟もうとはしなかった。それでも、刺すような鋭い視線を夏樹へと向けていた。夏樹は気に留めずに唇を開く。
「坂井はこれまで、その手で何回人を殴った? 何回同じ人を殴った?」
「あ? 何だよいきなり。さっきまで凛花と話してたくせに、急に俺に話振るの理解不能なんだけど」
苛立ちを爆発させないよう堪えていながらも、いくらか冷静になった大和が言う。無自覚に話をすり替えられた。
「それは俺の求めてる答えじゃない」
「だったら何? 殴ったか殴ってないかを聞きたいのかよ。ますます意味分かんねぇ」
「違う。何回殴って、何回同じ人を殴ったのかを聞いてる」
「殴ってることは決定事項かよ」
「実際、理不尽に、一方的に、人を殴ってるだろ。一回や二回じゃない。何回かなんて、数え切れないくらい」
「数え切れないくらいって分かってんなら聞くなよ」
「それだけ暴力を振るってきたことを認めるなら、その主な対象が誰だったか、結果、その人がどうなったか、少しも覚えてないほど馬鹿じゃないだろ」
「お前、何言って」
そこで大和は言葉を止め、口を閉ざしている三人を振り返った。これまでその三人と一緒に、誰に何をしてきたのか、ようやく思い出したのだろうか。
思い出したという表現が合ってしまっていることに、夏樹は歯噛みした。それほどまでに、あの行為の数々が悪だという自覚がないのだ。大和に振り返られ、彼と目を合わせた龍も、光莉も、凛花も。
夏樹は自分に視線を戻す大和だけでなく、彼と同じでようやっと、その事実に関して、思い出した程度に頭を働かせたであろう龍たちにも向けて言い放った。
「笠原悠。彼のことを、彼にしたことを、忘れたとは言わせない」
宣戦布告だ。
数字の刻まれた赤いボタンが五つあるスマホサイズのリモコンのようなものを手にし、一人口を閉ざしている間宮夏樹はそう悟った。息も指先も冷えていた。
季節は冬。十二月。日々、寒さは厳しくなるばかりではあったが、この冷えは、それだけが原因ではないと言えた。
見慣れた教室。暗闇に包まれた外。閉め切られ、なぜか開けることができない窓や扉。他に人の気配を感じない校舎。
ここには、夏樹を含めた男女五人が集められていた。全員、何者かに襲われ、眠らされ、拉致され、訳も分からずこの教室に連れて来られたのだ。五人ともクラスメートだった。
一体何が起きているのか。夏樹も目覚めた時は酷く混乱していたが、ゲームらしき何かに強制的に参加させられ、ゲームらしき何かが強制的に開始された今となっては、多少なりとも察するものがあった。このメンバーであることが、最大のヒントだ。そして、そのことに気づいているのは、恐らく、夏樹だけだ。
「ねぇ、何なのこれ。どうすんのこれ。全然意味分かんないんだけど」
胸を覆う不安を掻き消すかのように、落ち着きのない植岡凛花が誰にともなく声を荒らげた。そうしながら、違和感が拭えないのかしきりに首を触っている。その首には、金属製の首輪が嵌められていた。アクセサリーのように装着されている錠のような部分には数字が刻まれている。四だ。
「俺も全然意味分かんないんだけど」
装置を手にしたまま、まだ混乱している様子の坂井大和が凛花の声に反応を示し、その後、彼女に釣られるようにして首を摩った。その首にも、凛花と同じものが嵌められている。数字は三だ。
夏樹は言葉を発さず、二人に倣うように首に触れた。冷たく硬い金属の感触。夏樹にも同じものが施されていた。自分の数字は視認できないが、他の四人の数字は見えるため、消去法で五だと判断した。夏樹に割り振られた番号は五だ。この数字は、手元にあるボタンの数字と連動しているようだった。
「何でこんなことになってるのか私も分かんないけど、とにかくあれをやれってことでしょ」
席に座り、指先で髪の毛を弄っている多田光莉が、顎で黒板の方を示した。光莉の番号は二である。
「本気で言ってる? ここに犯罪者なんかいるわけないのに?」
「いなかったらこんな馬鹿げたゲームをする意味ないんじゃねぇの」
気怠そうに凛花に応えたのは、椅子の背凭れに体重を預けている廣瀬龍だった。龍の首元には数字の一。
「それなら、この中に犯罪者がいるってこと? 誰が隠れて罪を犯したわけ?」
「それを見つけて、これで罰を下せってことだろ」
龍がボタンのある装置を凛花に見せて言った。簡単に言えば、そういうことだった。
先程光莉が示した黒板には、不穏なゲームのルールが達筆な文字で書かれていた。概要はこうだ。
・一人一人に与えた装置のボタンを押し、犯罪者に罰を下す
・ボタンの数字は、首輪の錠の数字と連動
・犯罪者ではない者のボタンを押した場合、それは冤罪であるため押した者に罰が下される
・器物損壊及び暴力行為を図った者にも罰が下される
・制限時間は一時間
・時間内に犯罪者に罰を下すことができれば、その瞬間、残った者を解放する
・時間内に犯罪者に罰を下すことができなければ、犯罪者ではない者含め残った者全員に罰が下される
・犯罪者は一人とは限らない
犯罪者やら罰やら冤罪やら、暗い影を落とす言葉たちが並んでいる黒板の前の机の上には、体育で使用するようなタイマーが設置してあり、既に一時間のカウントダウンが始まっていた。全員が目覚めた時に、それは自動的に動き始めていた。遠隔で操作されているようだ。誰かがどこかで自分たちのいる教室を監視しているに違いない。その誰かとは、このゲームの首謀者であり主催者であろう。
「つまり、訳の分からない状況で、訳の分からないゲームをするしかないってことか」大和が言い、邪魔くさそうに首輪を触る。「何なんだよ、意味分かんねぇことばっかだな」
「とにかく、さっさと犯罪者を見つけてさっさと終わらせない? ここ寒いし早く帰りたいし、スマホも触りたくてたまらない」
髪の毛を指先にくるくると巻きつけながら、事態をそれほど深刻には捉えていない光莉が呑気なことを口にする。悪趣味なただのゲームだと思っているのだろう。
スマホなどの持ち物は全て取り上げられていた。連絡を取ることもできない。助けを呼ぶこともできない。教室にあるはずの時計も取り外されていて、今が何時かすらも把握できない。
分からない状況に侵されている中で、本当にこれが悪趣味なゲームで済む話なのか、夏樹は光莉ほど自信を持つことができなかった。
「さっさと終わらせるって、どうやって。誰が犯罪者か分かんないんだよ? 適当に選ぶわけにはいかないし、それで犯罪者じゃない人のボタンを押したら自分に罰が下るって書いてあるじゃん。罰が何なのかも分かんないし」
凛花が早口に捲し立てる。無闇に行動を起こせない理由は、そこにあった。
ルールにある罰がどんな類のものなのか分からない。分からないから、発言してばかりで誰も迂闊に動くことができないのだ。開かない扉を蹴破って逃げることもできない。器物損壊という言葉が、行動を制限している。
しかし、このまま何もせずに時間切れになれば、全員に罰が下される。その罰もまた、どのようなものなのか判然としない。
結局全ての行動が、自分か、あるいは他人の罰に繋がるのだ。堂々巡りである。
犯罪者を見つけられたとて、夏樹を除いた四人は、仮にもよく連んでいる友人同士である。何をされるか分からない罰を下すことができるのか。
これが、夏樹の思うように復讐であるとするならば、この場にいる全員が、犯罪者になってしまうのではないか。
そう思っていても、夏樹は口にはしなかった。夏樹以外の全員が、自分は犯罪者ではないといった態度なのだ。自覚がない。罪悪感すらない。彼らからは、それらの感情が一切伝わってこなかった。
本人が気づいていないことを下手に指摘してしまうと、感情に突き動かされるがまま、誰かに五のボタンを押されてしまうかもしれない。
夏樹は徐に首輪に触った。指先は冷えたままだった。
この期に及んで、夏樹は自分に罰が下されるのを回避しようとしてしまっていた。犯罪者であれば、夏樹が自覚していることが犯罪になり得るのであれば、遅かれ早かれ、絶対に罰は下されてしまうのに。
黒板に書かれたルールをそのまま飲んだ限りでは、このゲームで罰を下されずに済む可能性のある人は、犯罪者ではない人だけだ。罪を犯している人には、問答無用で罰が下る。それだけ、恨んでいるということだろうか。復讐であるならば。
「犯罪者が誰なのか確信は持てないけど、怪しく見える奴ならいるよな」
「それ、誰のこと言ってるの?」
「分かるだろ。目が覚めてから一言も喋ってない奴」
吐き捨てるように龍が言った瞬間、一番端の席で専ら息を潜めていた夏樹に注目が集まり、沈んでいたところを無理やり引き上げられた。
全員の目が、夏樹の隠された内面を探っている。怪しいか、怪しくないか。罪を犯しているのか、いないのか。
ゲームを早く終わらせるために、自分が罰を受けないようにするために、唐突に犯罪者探しが始まった。龍が夏樹に目をつけたのも、彼が夏樹のことをあまり気に入っていないからだろう。良く思われてはいないことは、夏樹も察している。
夏樹が龍たち四人と行動を共にするようなことは全くないと言ってよかった。夏樹を除いた他の四人は、大体いつも揃って行動している。常に固まっているのだ。
クラスには、スクールカーストというものが自然とできあがっている。今現在教室に囚われている夏樹たち五人は、所謂一軍に属しているグループだった。
その中でもまた、一人と四人に分けられる。夏樹はその一人で、群れを好んでいなかった。故に、スクールカーストにも興味がなく、二軍や三軍に分けられている生徒に対しても、彼は態度がほとんど変わらない。良い意味でも悪い意味でも、彼は平等なのだ。
誰も龍たち一軍の日々の言動に物申すことができなくとも、同じ立ち位置でもある夏樹であればそれができる。夏樹の知らないところで、一軍に属する一匹狼の夏樹は、クラスの現状を変える頼みの綱にされていた。
「この中では、間宮のことが一番分からないだろ」
「確かに。基本的に何考えてるのか分かんないしね」
「でもそれだけでボタン押すのは危なくない?」
「間宮が犯罪者だっていう確証が欲しいよな」
四対一だった。犯罪者であると確信を持たれた時には、真っ先に五のボタンを押されてしまうだろう。同じ一軍であっても、それほど好いているわけでもないクラスメートを罰することへの躊躇いなど、彼らにはない。
「そんなに俺が怪しいと思うなら押せばいい」
無言を貫いていた夏樹は、ゲームが開始されてから初めて口を開き、その第一声で一か八かの賭けに出た。否定も肯定も、そのどちらを選んでも、恐らく状況は変わらない。沈黙し続けることも得策ではないだろう。嫌でもまずは喋らなければ、普段の自分たちの行いをこの四人に改めさせることはできないのだ。
そして、もしこれでボタンを押され、夏樹に罰が下ったとしたら、夏樹自身が想像していることが彼の罪だと言えた。皮肉にも、それが罪だと証明される。それ以外の罪はないはずだ。真っ当に生きているはずだ。
「五だ。押したければ押せ」夏樹は手にしている装置を四人に見せた。「俺が犯罪者かどうかは、これを押せば分かる」
緊迫した空気が流れた。押せば分かることも、自分に罰が下される恐れがある以上、いくら挑発されても簡単には押せないのだろう。場が静まり返る。
しばらく待ってみたが、四人の指が五のボタンを押す気配はなかった。夏樹が犯罪者ではない可能性を、誰も捨て切れずにいるのだ。
不意に、舌打ちが聞こえた。龍だ。夏樹に煽られ苛立っているのか、心理戦が勃発したことに苛立っているのか、原因は定かではなかった。
罰が何か分からない以上、安易な行動を取ることはできない。誰も思い切ることができない。それは夏樹にも言えることであった。
何かしらの犯罪を、誰かが犯している。それを主催者側は調べ上げ、犯罪者ではない者まで巻き込み、ゲームに強制参加させている。夏樹、龍、光莉、大和、凛花。この五人を選別しているのは、決してランダムなどではなく、何か明確な意図があるはずだ。
考えれば考えるほど、夏樹の中で、そうであるという信憑性が増していく。これはやはり、復讐であると。ならば、犯罪者は、全員なのか。犯罪者ではない者というのは、はったりのようなものなのか。
まだ何も変わらず、進展もしない現状では、かもしれないという仮定を取り除き、そうだと断定することは早計だろう。誰かがボタンを押し、誰かが罰を受ければ、また違った情報を得られるはずだ。それまでは、夏樹の仮説は、文字通り、ただの仮説でしかなかった。
自分以外の誰かがボタンを押し、自分以外の誰かが罰を受け、ゲームの実態を把握することを、この場の全員が求めている。自分以外にやらせることで。
時間切れで罰が下されて終わりか、犯罪者を見つけ出し、罰を下して終わりか。互いの様子を探り合うように目を合わせている間にも、タイマーは規則正しく残り時間を消費し続けている。
「何も進まねぇじゃん。マジでどうすんだよこの状況。怪しいだけじゃ流石に押せねぇよ」
膠着状態が続き、大和が堪えかねたように沈黙を破った。首を摩り、装置を触る。その側で、イライラした様子の龍がまたしても舌を打つ音が響いた。
確証がない。確信を持てない。自信を持って、夏樹が犯罪者であるとは言えない。怪しいだけでは、誰もボタンを押せない。無闇に賭けには出られない。勇敢な誰かがその賭けに出るのを期待するしかない。
いつも四人で連んでいる彼らにとっては、蚊帳の外である夏樹が犯罪者であってほしいのだ。その方が、仲の良い人たちを疑わなくて済む。その仲に亀裂を入れなくて済む。自分を含め、仲間たちが犯罪者であるはずがない。そう信じようとしている。あるいは、そう信じて疑っていない。
全くもって、救いようのないクズの集まりだ。
夏樹は胸が悪くなった。他人の生死に直結するような残酷なことをしておいて、誰一人としてその行為を罪だとは思っておらず、誰一人として自覚していないことに、その素振りすら窺えないことに、夏樹は胸が悪くなった。
腹が立つ。分かっていたのに、最悪になる前に手を打てなかった自分にも、腹が立つ。腹が立って、仕方がない。
だからこそ、自覚している自分が、腹を括るべきだ。向き合うべきだ。向き合わせるべきだ。このまま何もしないわけにはいかない。
「俺からしたら、怪しいのはそっちだ」
自ら喧嘩を売るようにして、夏樹は告げる。例に漏れず固まっている四人の目が鋭くなった。明らかに機嫌の悪くなっている龍が、強気に鼻を鳴らす。
「じゃあ、適当にボタン押せば?」
「押さない。今どのボタンを押したって意味がない」
「押す度胸がないだけだろ」
「それを言うなら、俺を怪しいと思ったのに押さなかった廣瀬も同じだ。もちろん廣瀬だけじゃない。多田も坂井も植岡もそう。小心者で臆病者で、度胸がない」
「そんなに言うなら俺が押してやるよ」
「やめろ、大和。単純な挑発に乗ってんじゃねぇよ」
「押して自分に罰が下ったら、間宮の術中に嵌まっちゃうでしょ。間宮が犯罪者だって決まったら押してもいいけど」
夏樹に見下され、煽られ、感情的になる大和を龍と光莉が諭す。ボタンに触れて今にも押してしまいそうになっていた大和の手が、悔しそうにその位置から離れた。夏樹が犯罪者であるという証拠は何も出てきていないのだ。押すにはまだ、リスクが高い。
夏樹が挑発をしても、龍と光莉は冷静である。舌を打つくらいには苛立ちを募らせてはいるだろうが、だからといって衝動的な発言はしない。その逆で、感情的になりやすいのは、大和と、しばらく口を閉ざしている凛花であった。
タイプは違うが、四人全員に、自分たちがしてきた所業を自覚させなければならない。そうしなければ、夏樹もボタンを押せない。それが確かな犯罪とは言えず、夏樹が罰を受けることになっても、そうしなければならない。
この異常事態は皮肉にも、彼らと面と向かって討論ができる、最初で最後のチャンスだった。みすみす逃すわけにはいかない。
「全員が、犯罪者だ」
「は? 今度は何訳分かんねぇこと言ってんだよ」
「そう思うなら押したらいいじゃない」
「そうだよ。でも、私らは犯罪者じゃないからね」
「ムカつく。俺らに罪を擦りつけてんじゃねぇよ」
口々に文句を言う彼らに、夏樹は心を乱すことなく落ち着いて続ける。そうしながら、挑発も忘れない。
「犯罪に関して全く身に覚えがないって思ってる中でボタンを押して罰が下っても、それこそ意味が分からないってそっちは思うだろ。だから、俺はちゃんと理解させてから、分からないまま罰が下されないようにしようとしてる」
「押せば俺らに罰が下る前提で言ってんの?」
「俺を含めた全員にその可能性があるってだけ」
「それなら間宮だけが犯罪者だろ。こっちは罪なんか犯してないってみんな思ってる」
「そう。なら、今すぐ押せ」夏樹は敵対する龍を煽るように睥睨する。「押せるだろ。犯罪者がいなかったら、こんな馬鹿げたゲームをする意味がないって言ったのは廣瀬なんだから」
言質を取られた龍が舌を打つが、すぐに何かに気づいたかのように鼻で笑った。彼の余裕は簡単には崩れない。しかし、きっと、ストレスは着実に溜まっている。夏樹を何とか言い負かしたいと思っている。
「俺もお前の言質取るわ。ボタンを押して俺に罰が下ったら、お前がついさっき言った、分からないまま罰が下されないように、ってのが成し遂げられなくなるけど?」
「その心配はない。いくら煽ったとしても、廣瀬は押さない。押せば俺に屈したことになる。誰かの上に立ってないと気が済まない廣瀬が、自分が一番嫌ってる俺の言うことを聞くわけがない」
龍の性格を見越しての勝負だった。押されてしまうかもしれないという不安がないわけではなかったが、押す素振りを見せることのない龍を見て、ひとまずは乗り越えられたと夏樹は密かに胸を撫で下ろす。ここで押されてしまうわけにはいかないのだ。
「お前如きが、俺の何を知ってんだよ」
「そうやってすぐに人を煽って見下すのを、俺は知ってる」
「喋ったと思ったらうざったいほど挑発しまくってくるお前には言われたくねぇよ」
「誰かを貶めて傷つけて、死ぬまで追い詰めるような人間に比べたら可愛いもんだろ」
「はあ? 誰のこと言ってんの?」
「廣瀬と多田と坂井と植岡のことを言ってる」
場に数瞬の沈黙が走った。夏樹と龍の言葉での殴り合いを黙って聞いていた三人が、揃いも揃って夏樹に攻撃的な目を向ける。
「黙って聞いてれば好き勝手言ってくれるじゃない」
「私らがそんな人間だって言ってるわけ?」
「間宮は人をイライラさせる天才だな」
「天才はそっちだろ」嘲るように夏樹は言った。「ここまで言ってまだピンと来ないなんて、頭悪すぎて逆に天才」
「お前、ふざけんじゃねぇよ」
感情の昂りを抑えられなくなった大和が、そのグループのトップの立場でもある龍の制止も聞かずに床を踏み鳴らした。机と机の間を縫い、夏樹に近づいて来る。
夏樹は逃げも隠れもせず、ただじっと大和を見据えた。その態度が更に、大和を熱くさせることを、夏樹は知っている。煽られるままに握って振り上げたその拳で、人を何度も殴っていることも、夏樹は知っている。
「ちょっと大和、やめなよ。殴ったら罰が下るって」
夏樹の顔面を殴りかけていた大和の手が、凛花の声でピタと止まる。この場でのルールを思い出したのか、クソ、と乱暴な言葉を吐き捨てた大和が夏樹を睨みつけた。せめてもの攻撃のようだった。痛くも痒くもなかった。
それよりも、こんな時だけ、暴力沙汰を起こそうとする仲間の行動をしっかり止めに入ることに反吐が出た。
「罰が下るから、坂井に殴らせないようにした?」
夏樹は凛花に向かって言い放った。夏樹と目が合った凛花が強気に応える。
「そうだけど? だって間宮のことを大和が殴ったら、大和に罰が下るし」
「罰が下るルールじゃなければ殴らせてた?」
「何が言いたいわけ?」
「殴らせたかどうか聞いてる」
「そりゃ殴らせてたかもね。間宮の発言、いちいち癪に触るし」
「それで俺が殴り殺されようとしても、植岡は止めない。廣瀬も多田も止めない。坂井に罰が下る心配はないから」
「さっきから意味分かんない。頭おかしくなっちゃった?」
「頭がおかしいのは俺じゃなくてお前らだろ」
夏樹は心を鬼にする。こんな調子では埒が明かない。生温い方法では勝ち目がない。時間も無限ではないのだ。そろそろ行動を起こさなければ、ボタンを押して状況を変えなければ、何も成し遂げられないまま全員に罰が下ってしまう。
一触即発の空気の中、夏樹は徐に席を立った。憤りを必死に抑え込んでいる大和に照準を合わせるように視線を移動させる。
まずは、此奴からだ。
夏樹は手にしている装置のボタンを指先で軽くなぞった。覚悟を決めて、三のボタンから押す準備を進める。
その前に念のため、大和の首元を一瞥した。確かに三だった。夏樹の予想が間違っていなければ、このボタンを押すことで、確実に大和を罰せられるはずだ。
夏樹は歩みを進め、大和の前に立った。夏樹よりも少し背の低い大和が、ほんの僅かに彼を見上げる。睨み合った。
夏樹の剣呑な雰囲気を感じてか、龍たち三人は誰も口を挟もうとはしなかった。それでも、刺すような鋭い視線を夏樹へと向けていた。夏樹は気に留めずに唇を開く。
「坂井はこれまで、その手で何回人を殴った? 何回同じ人を殴った?」
「あ? 何だよいきなり。さっきまで凛花と話してたくせに、急に俺に話振るの理解不能なんだけど」
苛立ちを爆発させないよう堪えていながらも、いくらか冷静になった大和が言う。無自覚に話をすり替えられた。
「それは俺の求めてる答えじゃない」
「だったら何? 殴ったか殴ってないかを聞きたいのかよ。ますます意味分かんねぇ」
「違う。何回殴って、何回同じ人を殴ったのかを聞いてる」
「殴ってることは決定事項かよ」
「実際、理不尽に、一方的に、人を殴ってるだろ。一回や二回じゃない。何回かなんて、数え切れないくらい」
「数え切れないくらいって分かってんなら聞くなよ」
「それだけ暴力を振るってきたことを認めるなら、その主な対象が誰だったか、結果、その人がどうなったか、少しも覚えてないほど馬鹿じゃないだろ」
「お前、何言って」
そこで大和は言葉を止め、口を閉ざしている三人を振り返った。これまでその三人と一緒に、誰に何をしてきたのか、ようやく思い出したのだろうか。
思い出したという表現が合ってしまっていることに、夏樹は歯噛みした。それほどまでに、あの行為の数々が悪だという自覚がないのだ。大和に振り返られ、彼と目を合わせた龍も、光莉も、凛花も。
夏樹は自分に視線を戻す大和だけでなく、彼と同じでようやっと、その事実に関して、思い出した程度に頭を働かせたであろう龍たちにも向けて言い放った。
「笠原悠。彼のことを、彼にしたことを、忘れたとは言わせない」
宣戦布告だ。