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「うん、クリスマスにプロポーズされなかったら別れたら?」
なんでもないとある12月の土曜日。雪が降ったとか、最低気温を更新したとか、そんなこともまるでない普通の週末。
12月という浮つく季節に恋人と会わずに他の男の人と会っているわたしは振られるべき人間だろうか。いや、べつに恋人との予定を蔑ろにしているわけではないし、男の人ではあるものの友人と会うことくらい、許されると思ってここにいるわけなのだけれど。
わたしと彼が通っていた大学の近くの、何の変哲もない居酒屋。店内がLEDライトで飾られているとか、赤い帽子のおじいちゃんの人形があるとかそんなことは全くなく、年がら年中なにひとつとして変わらず同じ光景が広がっている。大学の頃から行きつけで、空っぽの身体にぐっとアルコールを流し込むにはちょうどいい価格帯と罪悪感の無さだった。泡のきめは粗くて、クリーミーとは言い難いのどごし重視のクリアなビール。380円に見合った生中。社会人になってからもこうして大学生に紛れて安い酒を肝臓に送り込むことができるのは彼とだけだからか、手放せずにいる。まだ、社会にすべて染まってしまったとは思いたくないからかもしれない。店内の騒めきを作り出す普遍的な大学生が、眩しい。
生ビールかも怪しいそれを片手に彼──松山 悠里に、近況報告をすれば、返ってきたのはそんな言葉だった。
「別れたい、とは言ってないけど」
「言ってなくても思ってるでしょ、すくなくとも由仁ちゃんは」
わたしのすべてを見透かしたように「違った?」と改めて投げかける悠里の柔和な笑みにはとても敵いそうにない。彼の前では嘘なんて通用しないのだから、ゆっくりと首を縦に振ることだけが、この状況における正解だった。
悠里とはかれこれ7年の仲になるだろうか。大学一年、同じ学科だった悠里と意気投合してから、遠すぎず近すぎない関係を続けてきた。親友、とありきたりな言葉を充てても違和感はないけれどそしたら急に薄っぺらく感じてしまうのもまた事実。
二十歳を超えたいい大人に、心の結びつきのみから成る男女の友情などあるだろうかとたまに自問して、むりやり“ある”に答えを持ってゆく。
付き合いが長いのもあるけれど、聡い彼はすぐにわたしを理解して、わたしの心のうちを読み取って汲んでくれる。欲しい言葉を的確にピンポイントに、届けてくれる唯一の人。だからわたしは会うのをやめることもできないし、近況報告という形で現在についてを相談してしまう。……と、いうよりも、わたしが行おうとしている決断への最後の後押しを求めている、が近いだろう。
あちらこちらから湧き出る男女の笑い声に意識を持っていかれないように、聴覚を最大に集中させて、悠里が紡ぐ次の言葉を拾ってゆく。
「由仁ちゃん、俺ね」
「うん?」
「由仁ちゃんのことはこの世界の誰より理解してると思うよ。もちろん今の彼氏より」
表情を変えずに、喧騒の合間を縫って届けられる。
うん、そうだね。悠里がわたしのいちばんの理解者だ。悠里以上に、わたしがわかってるよ。
でもわたしは悠里と違って人の気持ちに疎いから、きみから送られている“好意”の種類がわからないの。
わたしも悠里みたいに、悠里の理解者になりたいのに、まだどこか心を開いてくれていないみたいで時折寂しくなる。
◇
現在の恋人──横井理央との出会いはマッチングアプリだった。一昔前より偏見のなくなった、恋人や結婚相手探しには主流となった流行りのもの。
べつに出会いがなかったわけではなくて、なんとなくの、ほんのすこしの興味で登録して、ひとりだけ会ってみようと思って会ってみたら、いちぶんのいちが大当たりだったっていうだけのはなし。
顔はわたし好みの薄めの塩顔で、声はたぶん平均より低いくらいで耳にやさしくて、身長は170センチ、158センチのわたしと話しやすくてちょうどいい。同い年で、出会った頃はちょうど就活に重たい腰を上げ始めた大学3年の頃だった。
惹かれあったのはお互いわかっていて、どちらともなく“好き”が合わさって、恋人としてお互いの人生をすこし、重ねることになった。……悠里の気持ちはわからずにいるのに、出会ってすぐの理央の気持ちはすぐにわかったから不思議だ。
いや、わかっていなかったかもしれないけれど、わかったふりをしていたのかもしれない。今となっては、そう思う。
大学を卒業して社会の荒波に自ら飲み込まれに行ってから、早3年。理央との付き合いは5年になる。……そろそろ、同棲だとか結婚だとか、そういう話題が出始めてもおかしくないのに、理央からはその気が一切感じられない。わたしもわたしで、彼とのこれからを直接否定されるのがこわくて何も聞けずにいる。話題を出すことすら、憚られてしまう。臆病なわたしは、ただ時間を浪費して、行き着く先のないジェットコースターに乗っているばかりで。いつかきっとこのまま、落っこちてしまうのに。
誕生日は11月、もう過ぎた。特に旅行に行くこともなく、彼の家でささやかなパーティーをしてもらったくらいで。“今後”の話が出るなら、もうクリスマスくらいしかない。そもそも、誕生日を家で過ごしている時点でもうわたしたちは終わっているのかな、とか色んな思いが脳裏を駆け巡った。
"クリスマスにプロポーズされなかったら別れたら?"
悠里の言葉が思い出される。
そう、わたしはその言葉が、欲しかった。別れていいよって、後押ししてほしかったんだ。きらきら輝く思い出の詰まった、短くない5年という月日を手放すことへの、肯定。悠里がわたしを最大に理解してくれていることに甘えて、自分の決断への責任を分散させようとしている。
ぴこん、とスマートフォンが音を奏でる。嫌な予感、ってものは大抵当たる。今、これ以上ないくらい嫌な予感がしてるの。
『ごめん。クリスマス、一緒に過ごせなくなった』
理央に限って浮気とかは、ないと思う。あるかもしれないけれど、たぶん違う。
ただ、理央の未来にわたしが入り込めなかっただけ。就活で「弊社に入社して活かせる強みは?」なんてどの企業でも聞かれたけれど、きっとわたしは、理央の隣にいる未来を想像してもらえなくて不採用となったに違いない。
理央自身、そんなふうに思ってないかもしれない。話し合えば、わたしが伝えれば、変わるかもしれない。
けれど、伝えたいとも思わなかった。思えなかった。この5年が、ちっぽけに感じてしまったことだけかなしかった。
頭に浮かんだのは、由仁ちゃん、と呼ぶきみだったから、理央のせいじゃなくて、わたしのせい。
『わかった 別れよう』
なんでもない日常の中で、いつも通りのテンションで躊躇もせず送った。12月限定の非日常、街を彩るまばゆいLEDがわたしの心の色と真反対で、ちょっとだけ恨めしくなった。
◇
「由仁ちゃんにとって俺ってけっこう都合のいい男だよね」
「そんなことないってば」
「わかってるよ、冗談冗談」
会えなくなったクリスマス、それ以降、この先も会えなくなる関係値リセットのことばを日常に溶け込ませた。そしたら彼も普段のやりとりと同じように『うん、ずっとごめんね。好きだった』と、まるで何もなかったかのように、5年に終わりが訪れた。訪れた、なんて訪れさせたのはわたしだけれど、“好きだった”って過去形だったのだからどちらにせよ終わっていたよね、わたしたち。わたしは、いまも好きだよ、ちゃんとたしかに、心の奥に好きはあるの。すぐに消す準備に入るけれど。
わたしたちの身長を優に超える駅前のクリスマスツリーの前で「ま、ていうかさ、由仁ちゃんのために空けてたし」と続ける。悠里はしっかり、わたしへの理解だけではなく、わたしが受け取るだろう理央からのことばも予想して読み取っていたらしい。周りは男女ばかり、おそらくカップルか、このあとカップルになる予定の組み合わせしか存在していないと思う。ただの友達の男女なんて、わたしたち以外にいないだろう。しかも、わたしはこれから悠里を自分の家に連れて行く予定だ。クリスマス、自分の部屋に招待する異性が恋人でないなんておかしな話かな。
だって、理央と過ごすはずでケーキも飾りも頼んでしまっていたんだもん。
「並いる友人の中から選ばれたのは悠里なんだから、特別だからね」
「光栄だよ、由仁ちゃんの親友レース一番手」
わたしだって自分が不誠実な女ではないと信じたいので、理央と付き合っている間も、付き合う前だって、恋人ではない男の人を家にあげたことはなかった。もちろん悠里でさえも、誘ったのははじめてだった。
「あんまり、その、飾り付けのセンスないから笑わないでね」
「由仁ちゃんがセンスないことなんて知ってる」
「うわ、ひどい」
はじめて悠里を家にあげた。8.2畳の平均的な一人暮らし用1Kいっぱいにこれでもかってほど緑と赤ときらきらのライトで装飾されたプライベート空間は非日常を纏っていた。
12月初め、Amazonで注文していた飾り一式、買っておいたシャンパン、チキンはまだ予約していなかったから別れてから悠里との予定のために予約をした。朝から仕込んでおいたホワイトシチューも、別れてから材料を買った。
理央との予定と、悠里との予定が入り混ざった8.2畳。5年付き合った恋人と、7年間一緒にいた親友へのパーツが半分こ、それぞれに散らばっていた。
「おいしいね」、「由仁ちゃん、料理じょうず」と用意したクリスマス感満載のメニューをふたりで綺麗に平らげてから、言おうと決めていた“お願い”を口にする。
「ね、悠里」
「ん?」
「……キスして」
「どうしたの、急に」
「急じゃなくて、その、なんていうか」
「自分の気持ち、確かめたい?」
「うん、そう」
さすが悠里だ。わたしの突拍子のないお願いの裏側を一瞬で読み取った。ソファーで隣り合うわたしたち。絡む視線。クリスマス、というイベントが後押しして、静かに、それでいて確かに心臓がはやく高鳴ってゆく。
「警戒心ってものが、由仁ちゃんにはほんとうにないね?」
「悠里に対してだけだけど」
「はは、それもそうか」
「このまま俺が襲っても、同意判定しろよな」と軽口を叩きながら、頬に手が重なって、柔くやさしく触れ合った。合わさった一瞬でわたしは悟った。世界でいちばん自己中心的な悟りのようにおもう。
わたしは悠里に、恋愛感情は、ない。理央への想いと同じものは、抱いていない。
「……あーもう。由仁ちゃんが考えてること、わかっちゃった」
なんで悠里がいつもそばにいてくれて、励まして、慰めてくれて、理解者でいてくれるのか。わからないふりをして、向き合うことをやめていた。だって、ちがうから。
「ごめんね。俺、由仁ちゃんの欲しいことば、あげられない」
わたしの頭を撫でて、子供をあやすようにそんなことばを放つ。でもそれは違うの、それでもわたしがいまいちばん欲しいのは──
「けど、いま俺が由仁ちゃんにつたえたいこと、言ってもいいかな」
「……うん、教えて。悠里のことば」
わたしがいまいちばん欲しいのは、紛れもなく、きみのことばだから。悠里が伝えたいこと、だから。
「由仁ちゃん、俺は──」
ソファーの向かい、テレビ棚の上の小さなクリスマスツリーがわたしたちを見ているような気がした。
-fin-