目を覚ました時、最初に感じたのは〝なんか違う〟という漠然とした違和感だった。
 その次は場所。目を覚ました時、私はICUにいて、いつもの病室ではなかった。その次は、頭の痛み。その次が、脚の痛み。
 短時間で次から次へと、違和感は増した。なのに、いつも思う心臓のことはすっかりと頭から消え忘れているようだった。
 数回瞼を瞬かせても違和感は拭えず、そうこうしているうちに綺麗な女性が私の顔を覗きこんでくる。知らない人だったが、その女性は私のことをよく知っているような顔で声を上げた。感極まるという表情をしていたと思う。

 その後、よく見かける看護師が私の傍らに立ち話しかけてくる。「大丈夫ですか?」とか「痛いところないですか?」とか「今先生呼んできますね」とか、当たり障りない質問に、私は軽く首を動かし反応した。だけど、やっぱり上から見下ろす綺麗な女性は知らなかった。
 長年お世話になっている担当医師が姿を見せ、いつものように体を触ったり、声をかけられたりした。私はその時「心臓、まだ大丈夫ですか?」と先生に訊いた。先生は「問題ないですよ、頑張りましたね」と平然と答えた。いつもなら渋い顔をするくせに、あまりのあっけらかんとした物言いに戸惑った。

 意識が戻り、医師の「問題ないです」という言葉で、あっけなく私は一般病棟に移された。移動中も、知らない綺麗な女性は一緒だった。
 一般病棟に移された私は、いつも使っている個室の病室ではなく、大部屋に案内された。「あの、私の部屋は?」と看護師に尋ねると「ごめんね、今は大部屋しか空いてなくて」と返された。今まで幾度もこんなことはあったが、私の部屋がなくなることはなかったのに。

 戸惑いと違和感は絶頂にあった。
 私は、やっと綺麗な女性の方に声をかけた。鞄から衣類を取り出す女性の背中に「母は、見ませんでしたか?」と訊くと、女性は顔を顰め、首を傾げた。何を言っているの?と言いたげな怪しんだ目を向けられる。
 そこで自分の体が視界に入る。右足にはギブスがつけられ、右腕や左肘には包帯が頑丈に巻きつけられていた。ギブス?どうして?と困惑しながら、ふと窓に目を向ける。窓には、知らない顔が私を見ていた。窓に映る彼女の頭には包帯が巻かれ、頬には青く変色した痣や擦り傷が痛々しく残っていた。そして、その彼女も、私が抱く心情と同じように困惑した表情を浮かべていた。私は頭を触る。包帯の感触を感じた。窓に映る彼女も、真似して頭を触っていた。まるで鏡だ。私の動きを真似る鏡。
 瞬間、私は声を上げた。叫んで、取り乱し、暴れた。窓に映る彼女も、また私の真似をして暴れていた。────これが、岸ひなたとして生きる私の新しいはじまりだった。




 「まず、お互いに整理しよう」

 ひなたの凛とした声に、自然に背筋が伸びる。

 「私は交通事故に遭った。トラックに轢かれて、ここの病院に運ばれた。次に目を覚ました時には蘭の体に入っていた」

 事故前の記憶をひなたは思い返しながら説明する。だが、突然の出来事は記憶としてあまり残らないもの。ひなたは箇条書き程度の大雑把な説明しかできなかった。

 「私は二日前から体調を崩していてずっと寝込んでいた。もうここで死ぬのかもって思った」

 今日ひなたに会って、私はまず自分の病気について説明した。
 私の心臓は、生まれた時から脆かった。先天性の心疾患というものだ。手術をしなければ助からないと言われ、小さな手術から大きい手術まで合計四回の手術を行ったが、いい兆しは見られなかった。手術してよくなっては、また悪くなって病院生活へと逆戻りを繰り返してきた。
 成長して体が大きくなればなるほど、私の心臓は持たなくなっていき、疲れやすくなった。要するに、体の成長に適していない心臓が今の私を動かしているということだ。それでも私は成長していく。このままいけば、私の心臓はどこかで息絶える。もう何度も息絶えようとしているところを、なんとか救ってもらっている。

 その日もそうだった。息絶える直前までいった。

 「ひなたが私の体で眠っている間、お母さんと少しだけ話をした」

 病室の前でウロウロしているところに母が現れた。私は当然岸ひなたとして、私の体の容態を母に尋ねた。

 「六月二日、十九時頃、私は一度心肺停止したらしい」
 「うん」

 ひなたも薄々気づいていたのだろう。目を覚ました時、母は「よく頑張ったね」と涙を流していたから。

 「そして、私も一度この病院で心臓が止まった」
 「そうらしい。ひなたがこの病院に運ばれたのは十九時頃ってお母さんが教えてくれた」

 私たちの情報はすべて『らしい』としか言えなかった。私たちが意識を手放している間のことを本人たちは語れないのは当然だ。

 「私たちに共通点があるとするなら、この病院で同じ日、同じ時間に一度死んだってことだよね」

 口にしてみれば、恐ろしい文字が並んだ。

 ────私たちは、一度死んだのだ。

 体の芯が冷え、一瞬身震いした。

 「それで、入れ替わった?」

 私が首を傾げると、ひなたも同様「おそらく」と首を傾げた。
 この非現実的な現象にこれだ!という確信を持てるわけがない。
 だが、おそらく私たちが入れ替わったのは、同日、同時刻、同じ場所で一度死んだことによるものだという可能性は高かった。むしろ、その理由だけしか今はない。

 「私たち、どうやったら戻るんだろうね」

 その大きな問題は、重量なくフワフワと浮いて、シャボン玉のように壁にぶつかって割れた。文献があるわけでも、そこらへんで起こっている現象でもない。フィクションのようなこの状況を、私たちは物語でも読んでいるような感覚に陥っていた。
 この問題を解く術を持ち合わせていない私たちは、とりあえず一時放棄することにした。
 飛ばして、進んだ次のマスで私たちがやらなくてはいけないことは一つだった。

 「────まず家族構成。母と父の三人暮らしで、母の名前は(あん)。父の名前は郁人(いくと)。無難に、両親のことはお母さん、お父さんって呼んでいる。両親は共働きで、母は食品関連の仕事、父はIT関係の仕事をしている。詳しい仕事内容は知らない」
 「待ってね」

 私はペンを握った。
 戻る方法を一時放棄した私たちは、さっそく互いの個人情報を共有することをはじめる。
 昨日、入れ替わったことについて〝秘密にする〟という約束を早速交わした私たち。互いの情報を頭に叩き込むことは、秘密にする上で最重要事項だと私たちは理解していたので、すぐに取り掛かった。
 私は、ひなたが教えてくれた家族構成をノートにメモする。だが、利き手の腕を七針縫う傷を負ったため上手く指先に力が入らず、やむを得ず左手で書くが案の定てこずってしまう。見兼ねたひなたが「貸して」とペンを奪い取りサラサラとメモに書き記してくれる。
 ひなたの字は、私の丸文字と違って流麗な字をしていた。トメハネハライをしっかりとし、横着はしない綺麗で正確な字。

 「ひなたの字を見られたら私じゃないって一発でお母さんたちにバレそう」
 「ふふ、じゃあ文字は書かないようにするね」
 「お願いします」

 最初はどうなるかと頭を抱えていたが、私の体を持ったひなたが目覚めてからは不安がほんの少し解消された。問題を一緒になって考えてくれる存在がいるかいないかでは心の持ちようが全然違う。
 私たちは念には念をと、個人情報以外にも好きな食べ物から家族構成までさまざまな事をメモし合うことにした。

 「ひなたが私と同じ十七歳って知ったからか、なんか急に親近感湧いてる」

 私もひなたも西暦が同じで、十七歳だ。これもまた新たに知った私たちの共通点。
 今、ひなたは高校三年生をやっている。

 「ひなたはどこの学校行ってるの?」
 「───学校。この病院から近いよ」
 「ああ、知ってる!結構偏差値高い進学校でしょ!」
 「うん。蘭は?」

 私は首を振る。

 「行ってない。退院して学校行ってもすぐ入院しちゃうし、結局出席日数足りなくて一生留年し続けることになるからね」

 私が明日を迎えることは、いつも命懸けだった。だが、そのことをひなたにどう説明すればいいのかわからず、病気については簡易に説明したが、常に危うい状態ということは伏せてしまった。
 ひなたはもう一度私の病気のことについて尋ね、今度は丁寧にメモしていった。二度目の説明とはいえ、顔色一つ変えず、冷静なその姿に「なんで?」と問い質したくなったが、私がそれを言ってはいけないと思い留まった。これからこの体と向き合うのはひなたなのだから。
 本当にどうしてこうなったのか。どうしたら元に戻れるのか。夜な夜な考えては、ひなたに対して申し訳なくなる気持ちが膨大していった。

 「蘭、聞いてる?」

 ハッと我に返る。

 「ごめん、なに?」
 「蘭は覚えることいっぱいあるんだから、ちゃんと聞いててよ」
 「え、でも、もう結構メモしたよ?」
 「何言ってるの?退院したら学校に行かないといけないでしょ?」

 そう言って、ひなたは新しいページをめくり【学校メモ】と一番上に大きく記述した。

 ───学校。

 私は脳内で反芻する。
 ひなたは、呆然としている私のことなんか気にも留めずに続ける。

 「いつ戻れるかもわからないんだから、私の代わりに蘭が行かないと私も留年しちゃう」
 「……行っても、いいの?」

 親の顔色を窺うように私はひなたの顔を見ていたと思う。ひなたは小首を傾げながら「面倒くさい?」と不安げに訊き返した。大いに的が外れた問いに、私は勢いよくかぶりを振る。

 「中二から学校行ってないから、むしろ私なんかが行っていいのかなって。私にとっては学校に行くのはご褒美みたいなものだったから」

 母にねだってとびきり可愛いランドセルを買ってもらったものの、特にボロボロになることもなく綺麗なままランドセル期間を終えた。
 中学の時も、制服一式に教材一式買ってもらったのに、結局最初の一年休み休みに通えたくらいで二年生に進級してからは通えないまま、私の義務教育は終わった。
 それを踏まえて、高校は行かないことを選択した。もちろん学力が追いついていないことが一番だが、もう一つは卒業できる可能性がかなり低いからだった。

 「じゃあ、なおさら行って」

 俯きがちになっていた顔を上げると、優しく笑う私の顔が私を見つめていた。
 私ってこんな優しい笑顔も作れたんだ、と純粋に驚いた。

 「行ってくれると私も助かるし、これがウィンウィンの関係性っていうのかな」

 決して、私たちはウィンウィンの関係性ではない。ひなたがこれから背負うものは、私にも手が付けられないほど深刻かつ難しい、その体なのだ。
 それなのに、ひなたは何も気にしていないような顔で笑顔を向ける。まだひなたが目を覚まして昨日の今日で、相手を知るにはあまりにも短い時間だったが、ひなたが優しい人だということはあっという間に証明されてしまった。

 「ありがとう、ひなた」

 現状、いつ元に戻れるかもわからないけど、いつでも戻れるようにこの時間を大事に使って、ひなたの体を大切に使おうと心に誓う。

 「まず何から覚えればいいの?」
 「まずはクラスメイトの名前。蘭、私のスマホ持ってる?」
 「うん、あるよ」

 ポケットからひなたのスマホを取り出す。私たちにとってスマホは大事だ。せめて、スマホは本当の持ち主が持っていた方がいいと思い、今日持ってきていたのだ。
 ひなたも私のスマホを取り出し、互いにベッドテーブルの上に並べた。

 「今日から私たちは互いのスマホを持ちあおう」
 「え?」
 「スマホが違うと両親が不審がるかもしれないでしょ。なるべく疑われる要素は消しておいた方がいいと思うの」
 「なるほど、そうだよね」

 頻繁に触っているわけではないけど、常に肌身離さず持っている物ではある。スマホは両親がお金を出してくれたものだから、いつものスマホと違うことに気づくかもしれない。買い替えたっていう言い訳は常に病院生活のひなたには通用しないし、高校生が買い替えるにも現実的じゃない金額だ。ここはひなたに一任しておいた方がいい。

 「パスワードも解除して、お互いに見られたくないものは今のうちに消しておこう。SNSのアプリとか入れたかったら各自また入れ直す形でいい?」
 「もちろん」

 ひなたは頼りになる。やっぱり学校にちゃんと通っていたら、こんな風に人をまとめたり、スムーズに指示を出せたりできるのだろうか。みんな、班行動とかグループディスカッションとかで身につけたりしているのだろうか。
 私は、スマホの中身を開く。通知が増えないメッセージアプリ。フォロワーがいないSNSアプリ。一日で飽きて起動するのをやめてしまった動画アプリ。誰もが知っているアプリをひたすら入れていた時期があったが、楽しさより虚しさの方が勝ってしまった。
 私には何もない。誰かに見られて困るようなものも恥ずかしいものも、何もない。強いて言うなら、何もないところを見られるのが恥ずかしい。
 私は、すでに必要がなくなっていた娯楽アプリをひたすら消していった。

 「あっ、ラインは消さないでね」
 「え」

 危ない。今、消そうとしていた。間一髪で人差し指を緊急停止し、削除を免れる。

 「消しちゃったら、私の友達と連絡取れなくなるでしょ。これから、蘭はひなたとして過ごしていくんだから」
 「……そっか」
 「それに私とも連絡取ってもらわないと」
 ひなたはスマホ画面にQRコードを出して、目の前に突き出す。また私は、呆気に取られたような顔でひなたを見つめていた。
 「どうしたの?読み込んでよ」
 「あっ、えっと、どうやって読み込むの?」
 「ここ押して、次にここを押す……」

 ひなたたちにとっては基本の操作なのだろう。私には、忘れてしまっても支障がない程度のいらない操作だった。そんなことも知らないの?と揶揄されるかと身構えたが、ひなたは一切馬鹿にすることなく身を寄せて丁寧に教えてくれた。

 「で、相手のQRコードを読み込んだら終わり。あ、きたきた。これが私のラインね。一応のために、電話番号も交換しておこうよ」

 私の数少ない友達一覧の中に、新しい友達として【ひなた】という名前が追加される。思わず目頭が熱くなった。

 「蘭?」

 スマホ画面を見つめたまま感動で震えていると、ひなたに顔を覗かれる。私は慌てて顔を上げた。

 「ごめん、なんでもない、嬉しくて」
 「嬉しい?」
 「久しぶりに私のスマホが動いたなって思って」

 家よりも長く病院で生活していると、患者や看護師と仲良くなることがある。

 中学の頃、盲腸で入院してきた同い年の子と意気投合したことがあった。彼女は「ライン交換しよう」と持ち掛けた。今みたいに私が基本操作に手こずっていると「そんなのもわからないのー?」と笑いながらいじってきた。今冷静に思い返せば、悪気があって言ったわけではないとわかる。でも、あの時の私は、遅れている自分が恥ずかしくて、馬鹿にされたことが悔しかった。
 あの時の私はまだ子供だったし、スマホを手にしたことで無敵になっていた。これで私も学校の子の輪に入れると思ったのだ。でも、実際はそう上手くはいかず、私はあっという間にクラスから除外されていった。
 そういうこともあってか、彼女の何気ない一言が癪に障って、私は彼女に棘のある言い方をしてしまった。結局、ラインは交換したものの互いにスマホでも口でも一言も交わすことなく、彼女は退院していった。退院後、彼女にメッセージを送ったが、数ヶ月経っても返信が返ってくることはなかった。ネットで調べると、ブロック機能というものがあると知った。ネット記事に、【数ヶ月メッセージに既読がつかない場合はプロックされている可能性もあります。ブロックされたか確認する方法は───】という一文を読んで、怖くなってすぐにラインをリセットした。

 そこから、私のスマホは何もない。スマホで人と繋がったとしても、どうせ上手くはいかない。スマホをとおしての主体性なんて意味ないと心を閉ざした。

 「まだ退院は先だろうけど、学校行って不安なこととかわからないことがあったら、いつでもなんでも送って」

 私に気を利かせてか、ひなたは優しい言葉をかけてくれる。

 「いいの?」
 「もちろん。その方が私も安心するし」
 「ありがとう」

 ひなたの無条件の優しさに、私は甘えることしかできなかった。せめて、ひなたの足を引っ張るような行動を取らないようにしようと決意を固めた。
 ひなたが自分のスマホを私に渡す。私も自分のスマホを差し出した。

 「私の写真フォルダ開いてもらっていい?」
 「わかった」

 今しがた渡されたひなたのスマホを起動させ、写真フォルダのアプリをタップする。写真なんて大事な個人情報だ。早速私なんかに見せてもいいのか、と不安になりひなたの顔を盗み見るが、至って普通の表情をしていた。

 「クラス写真があると思うんだよね、体育祭の時の」

 ひなたは私に体を寄せ、写真をスクロールして過去へと遡っていく。私とひなたの、人生の厚みの違いを感じた。

 「あった、これ」
 「わあ、みんな楽しそう」

 クラスメイトで集合して、体育祭終わりに撮影したものだろう。加工されたものではないはずなのに、みんなの笑顔がキラキラして眩しかった。

 「クラスの集合写真がこれしかないから見づらいかもしれないけど、顔を把握しておいてほしい。名前は写真の並び順でメモに書いておくね」

 そう言うと、ひなたは写真を時折確認しながら、ノートにスラスラとクラスメイトの名前をフルネームで書いていく。

 「ひなたはどこにいるの?」
 「探さなくていいよ」
 「あ、見つけた」
 「ちょっとアップしないでよー」

 ひなたは写真の左端で控えめにピースをしていた。ハチマキを可愛くアレンジするのが流行っているのか、猫耳ハチマキが頭に巻かれていた。ひなたの周りの女の子も数人ひなたと同じ結び方でハチマキを身につけており、特に仲のいいクラスメイトなのだろうと悟った。

 「ひなたは学校ではどんな子?」

 手持ち無沙汰をいいことに、一生懸命クラスメイトの名前をメモしてくれているひなたに尋ねる。

 「ん?普通だよ?」
 「普通?」

 訊き返すと、ひなたは手を止めた。

 「友達が極端に多いわけでも少ないわけでもないし、目立っているわけでも無口なわけでもないし、人懐っこいわけでも無愛想なわけでもない、って感じかな」

 煮え切らない回答だった。ひなたは首を傾げながら言葉を選ぶ。

 「平々凡々な人間」

 小さく自嘲な笑みをこぼすと、ひなたはまた目線をノートに向ける。悩むこともなくクラスメイトの名前を漢字で書いていく。私がちゃんと読めるように、その横にふりがなも振っていく。メモ程度の小さなノートなのだから読める範囲の雑さでいいのに、手紙の返事を書くみたいに丁寧に書き綴る。
 ひなたが言う普通な人、平凡な人は、クラスメイト全員のフルネームを漢字で書けるのだろうか。私に配慮して、ふりがなを振ってくれる気遣いと優しさを持っているのだろうか。これがひなたにとっては普通なのだろうか。

 「私から見えるひなたは、とてもすごい人に見える」
 「買い被りすぎだよ。そう見えるなら、まだ猫被っているってことだよ」
 「じゃあ、剥いで」

 驚いて顔を上げるひなたと目が合う。ふと、勿体ないと思った。私の顔をしているから。せっかく、ひなたはすごい人なのに、その価値が私の体のせいで薄れていて勿体ない。

 「私たち、秘密を共有する仲でしょ」

 私たちは友達ではない。不本意にわけもわからないまま、中身が入れ替わってしまった同志だ。でも、友達よりも繋がりは切れないし、裏切れない。見方を変えれば、友達よりも深い関係性にこの短期間でなってしまったのだ。猫を被ったってどうせ剥がれる。

 「徐々に剥がれていくと思うよ」

 今は剥げない。私たちはまだ全部をさらけ出す関係性ではない。そう言われている気がした。ずっと冷静なひなたに、ここでもまた人生の厚みの差を感じてしまった。
 二回も私のせいで中断させられたのに、迷惑な顔も嫌な態度も取ることなく、また右手を動かしはじめる。今度は何も口を挟まず、書き切るまで黙って待っていた。



 「学校のことはこれくらいかな」

 クラスメイト全員の名前、クラスメイトとの交友関係、ひなたと特に仲のいい友達を教えてもらった。あとは、誰と誰が仲悪くて、誰と誰が付き合っている、というのも一応メモに残しておいた。知らずに逆鱗に触れたら大変だから。

 「覚えられるかな」

 早々に不安が顔を出す。

 「退院までに少しずつ覚えていけばいいよ」

 ひなたは疲れたのか、傾斜角度をつけていたリクライニング式ベッドに背もたれを預けた。

 「疲れた?眠る?」
 「ううん、まだ話しておきたいことあるから」

 とても疲れている顔をしているのに、ひなたは首を振った。自分の顔だから疲労感の度合いは見るだけではかれる。
 実は、私もまだひなたに話しておきたいことがあった。ひなたが話した後に話そうと、彼女が言う「話しておきたい話」を静かに待つ。

 「私には幼馴染がいるの。同じマンションに住んでいて、ソイツの家は五階。私の家の一個上」

 幼馴染なのに、ソイツ呼びに違和感を覚えた。男の子なのだろうか、と直感で思った。

 「ソイツの名前は宇川結(うがわ)結糸(ゆいと)
 「あっ、確か同じクラスだよね?」

 ひなたがメモしてくれたノートを振り返る。確かに彼の名前を見つける。どんな顔をしていただろうか、とひなたのスマホを取り出しクラス集合写真をもう一度見直す。

 「ソイツに会ったら、無視を貫いてほしいの」
 「え」

 彼の顔を確認するため下を向いていた顔を、私は反射的に上げた。
 息を呑んだ。血の気が引くほど、ひなたの目から光が消えていたのだ。自分の顔で、自分の目なのに、ひなたの感情が読み取れない。まさか、自分の顔が恐ろしいと感じる日がくるなんて思いもしなかった。

 「ソイツは学校でも気軽に話しかけてくるけど、何も気にせず無視を貫いて」
 「……え、いいの?」
 「うん、いつも私はそうしてきたから。むしろ、返事をする方が怪しまれる。ソイツは恐ろしく勘が鋭くて、地頭もいい憎たらしい奴だから。なんなら存在を見つけた瞬間その場から立ち去るくらいでもいい」

 すごい徹底ぶりだった。嫌っているにしては、意識しすぎだと感じるほどに。
 なんで?彼と何かあったの?そう、質問を並べるのは容易だが、実際に口を衝いて問うのは憚られた。ひなたの温度のない目を見て、彼女の逆鱗なように感じたからだ。

 「わかった」

 私は素直に頷く。ひなたは安堵したように笑って「ごめんね」と言った。何に対しての「ごめん」なのかはわからなかったが、私は物分かりのいい顔をして首を振り応えた。
 ちょっと空気が重くなりひなたは気まずそうに体を捩って座り直す。でも、その重苦しい空気は私にはちょうどよかった。

 「実は、私もひなたに話しておきたいことがある」

 ついでに、という体で続ける。

 「私、友達全然いないけど、今でも私の友達をしてくれる子がいるんだよね」
 「うん」
 「彼の名前は、真瀬(ませ)(えい)()。彼は、二日に一回ペースでお見舞いに来てくれるの」

 ひなたが感嘆の声を上げる。私は、その反応に噴き出すように笑う。

 「瑛太とはこの病院で知り合ったの。瑛太も私と同じで、幼い頃小児がんで入院していて、でも今は完治して元気に学校行って生活してる」
 「そうなんだ、よかったね」

 うん。本当に、よかった……。

 「瑛太だけは退院してもずっと私のお見舞いに来てくれるの。だから、彼の前だけでは明るい自分でいたいと思っている。それで、ひなたにお願いなんだけど、彼の前だけでは、なるべく辛い表情とか苛立った表情とか見せないでほしいの」

 ひなたが幼馴染に徹底して無視を貫いてきたように、私は瑛太の前だけ病気に負けない強くて明るい私を徹底してきた。

 「ひなたにとって私の体と対峙するのは未知の世界で大変だと思う。理解しているけど、私のたった一つのお願いだと思って受け入れてほしい」

 私の切実さが伝わったのか、ひなたは私の手を強く握る。鳥肌が立つほどに冷えた手をしていた。私の体温ってこんなに冷たかったんだ、とまた新たな気づきを得る。

 「任せて。彼の前では明るい蘭でいることを約束する」

 こんな冷たい体の中に閉じ込められたひなたに、自分の都合を押しつけてしまったと罪悪感を抱いた。それでも、この願いを取り下げることはしなかった。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい、ひなた。
 私は、自分が思っているよりも自分勝手な人間なのかもしれない。



 その夜、正式に交換したひなたのスマホが軽快に鳴った。ピコンピコン。ひなたの病室は大部屋なので、急いでマナーモードに切り替える。
 慌てている間にも、スマホ画面に次々と通知が届く。何事かとスマホを起動させると、ラインの通知がどんどん溜まっていく。通知の発生源は、ひなたがいつも仲良くしているクラスメイトのグループラインだった。

 【ひなた事故に遭ったって本当?】【今ママから聞いたんだけど】【どうして教えてくれなかったの?】【ひなた、大丈夫なの?】

 どうやらクラスメイトの方には学校を休んでいる理由は伏せられていたらしい。
 どうしよう。勝手に答えてもいいのだろうか。
 悩んでいる間にも通知はどんどん増えていく。既読もつけてしまったし、ここで無視するのは絶対によくない。
 私は意を決し、画面と向き合う。ぎこちなく親指を滑らせながら、【無事だよ。でも、しばらく学校はお休みするね。心配してくれてありがとう】と当たり障りのない文章を送った。すぐに既読はつき、安堵と心配のメッセージがまた次々に送られてきた。
 みんな良い子だな。送られてくるメッセージを読みながら胸がじんわりと沁みた。
 その時、一人が【お見舞い、行こうか?】と言いはじめる。
 えっ。
 体を起こし、スマホを握りしめた。いやいや、ダメダメ。まだひなたを演じる心構えも準備も、何もできていない。
 だが、その気遣いメッセージで火がついたように、みんなで明日お見舞いに行こうという話がトントン拍子に進んでいく。
 急いで文字を打ち、断りの返信を入れる。
 大したことない。大丈夫だから。大部屋で、声量に厳しい人と同じ部屋だから。
 私は咄嗟に嘘をついた。送った後になって、あまりにも頑なすぎたかなと不安になる。これでは来てほしくない、来るのは迷惑みたいに捉えられるのではないか。冷や汗が背中をなぞる。
 だが、不安は杞憂に終わり、彼女達はそれなら仕方ないかとお見舞いを白紙に戻した。
 私だけが気を揉んでいる。画面の向こう側の彼女たちは、返信一つにいちいち私みたいに不安に感じたりしていないのだ。
 私はそっとスマホの画面を伏せ、頭を休ませた。
 私、今からこんなで大丈夫だろうか。不安は常に混在していた。