六月二日。強い衝撃と共に懐古な記憶が脳裏を掠めた。瞬間、世界が反転するように心ごとどこかに飛ばされる。視界は霞がかっており、意識は朦朧としていた。体もフワフワと浮いていて、重心をどこに持っていけばいいかわからない。だけど、謎の安心感があった。だから、私は体を委ね、流れるまま抵抗はしなかった。
グラグラと歪む視界から、人影が薄らと見えた。その人もまたフワフワと宙を浮いているようだった。最後の力を振り絞り、私は目を凝らした。顔はやはり認識できず、その人が女性かも男性かもわからなかった。ただ、人影の体からは、尻尾のような線が垂れているように見えた。その線を辿ると、なぜか私の腕へと繋がれていた。
───赤い糸。
赤色の糸。そう認識した瞬間、また反転するように視界が180度に傾く。ハッとする間もなく、私は目をギュッと閉じた。その時、誰かが囁いた。
───祈っています。
そう、聞こえた気がした。
朝の目覚めにしては妙に重たい瞼だった。朝なのか、昼なのかはわからないが、室内は明るく、私が目を覚ますことを歓迎するかのように光は満ちていた。
昨日は遮光カーテンを開けたまま寝てしまったのだろうか。昨晩の記憶を思い返すが、昨日はカーテンを閉めた記憶も、ましてや家へと帰宅した記憶もなかった。
頭の中に日常の記憶が残っていないということは、予期せぬ記憶が日常の記憶を塗りつぶしてしまったということ。やっと意識がはっきりしてきたとき、真実を叩きつけられるように思い出す。
横断歩道。運送トラック。強い衝撃と、痛み。
一瞬にして目が覚めた。
それらの記憶は私が意識を手放す前に見た景色だった。
「あ、起きた?」
混沌とした脳内状況の中で、ふと横から声が聞こえた。首を少し右に傾けると、私の顔が私を心配そうに見つめていた。
「よく眠っていたね、私」
……え?
耳を疑い、目も疑った。
「……鏡、じゃない?」
発した声がかすれていた。
「私は鏡じゃないよ」
鏡。そう言ったのは、目の前にいる彼女が私と瓜二つの顔をしていたからだ。彼女は、確かに鏡じゃなくちゃんと自我を持って言葉を話す。その頬や額には新しめの傷と痣があり、腕や肘には包帯が巻かれていた。視線を下ろすとどうやら彼女は車いすに乗っていた。直近で思い出した事故前と理にかなった成れの果ての私を見ているようだった。
本当に私を映す鏡じゃないのなら、あなたは一体……?
「混乱していると思うけど、もうすぐ両親が一階のコンビニから帰ってくるの。この短時間で一から十すべてを教えてあげることが今はできない。でも、これだけは言っておく」
早口で捲し立てられる。私の顔をした、私じゃない彼女が。
「今のあなたは、町田蘭」
えっ。
それは、誰の名前?
「あなたにとっては初めましての人がこれからこの病室に入ってくる。あっ、ちなみにここは病院ね。で、その人たちはあなたのことを知って知って、知り尽くしているの。知らない人が自分を知っているって意味わかんないし、怖いよね。怖い状況だと思うけど、現にあなたの体はその人たちと深く関わってきたし、よく知っている。だから、できる限りあなたにもその人たちを知っている体でいてほしいの。って言っても難しいよね。うん、大丈夫。あなたはただ『うん』と返事をするか、頷くだけでいいから。わかった?わかんないよね。ごめん。わかんないだろうけど、今はそうして」
焦ったように話す彼女の顔を見つめたまま、このおかしな状況を自分なりに整理し、理解へと持っていくため頭を働かせる。
そろそろ開かれるであろう扉と、私を、不安げな顔を作った彼女が忙しなく首を振って今か今かと身構えている。その彼女の腕を、私は意図して掴んだ。
「要するに、私たちは今入れ替わってる、ってこと?」
伸ばした腕を見て驚愕した。
確かに私の体から生えている腕は私のものではなかったのだ。細くて白い、初めましての腕だ。そして、私が掴んだ腕は、私がよく知っている適度に日焼けした健康的な自分の腕と酷似していた。
「え……すごく理解早いね」
私の顔をした彼女が驚き仰け反る。完全に理解したわけではないが、逡巡し辿り着いた着地点がその答えしか残されていなかったのも事実。だって、わかるからだ。私の目の前にいる彼女は私の体で、私が今いるこの体は私のものじゃないということに。
「とりあえず、返事をするだけでいいから」
徐々に近づいている足音が扉の前で止まった。彼女にギュッと手を握られ、その手が驚くほど温かかったことに驚いた。
扉が開くと、彼女の言う通り知らない中年のおばさんとおじさんが姿を見せる。二人は私の顔を見るなり、安堵した表情を全開に見せて駆け寄って来る。
おばさんは目尻のシワを一層たゆませながら「よかった、目が覚めたのね」と微笑みながら涙を流していて、おじさんは「先生を呼んでくる」と慌てたように病室を出て行った。
おばさんは、私の手を掴んだり、腕を擦ったり、髪の毛を撫でたりする。されるがまま、私は彼女の方に視線を移すと、彼女は切なそうに微笑んだ。もちろん私と酷似した顔で。
その後、白衣を着た医者が現れ、胸に補聴器を当てられたり、色んな場所を触られたりと、一通りの確認作業が行われた。
「ひとまず目を覚ましたので大丈夫ですが、今後も安静にお願いします」
医者は「今回もよく頑張ったね」と言い残して病室を出て行った。
「偉いね、よく頑張ったね」
おばさんとおじさんはまた私の頭を撫でる。目を覚ましただけで褒められ労われるなんて今までなかったことだ。どう反応するべきかわからずにいると、おばさんの意識が私からずっとこちらを見守っていた彼女へと向けられる。
「ひなたちゃんもありがとね、ひなたちゃんが側にいてくれたからこの子もまた目を覚ましたんだと思うわ」
ひなたは、私の名前だった。
「いえ、私は何も」
彼女はひなたになりきり、フルフルと頭を振った。
「入院したばかりでまだ本調子じゃないのに何度も病室に来てくれてありがとね。これ、よかったら飲んで。蘭が好きな飲み物でごめんなさいね、どれが好きかわからなくて」
「私も好きです、レモンティー」
「ならよかったわ。私たち今から先生とお話してくるから、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
軽い談笑みたいな会話を聞いているだけで、頭がこんがらがってきた。
「じゃあ、蘭。お母さんたちちょっと出てくるから、また何かあったらナースコール押すのよ?」
「う、うん」
おばさんは私の肩を二回ポンポンと優しく叩くと、医者の後を追うようにおじさんと一緒に病室を出て行った。
病室の扉が完全に閉まると、彼女は思いっきり息を吐いた。
私は、彼女の気持ちが落ち着くのを静観して見ていた。十分な深呼吸を終えたあと、彼女は顔を上げた。手に持ったレモンティーを太ももの上に置き、慣れた手つきでタイヤ部分を動かし車いすを操作する。
「これ、私の好きな飲み物。レモンティー。好き?」
「……紅茶はあんまり飲まないかも」
「そっか、じゃあ飲み物頼むときはちゃんと飲みたいもの注文してね。母は、大体これ買ってくるから」
あのおばさんとおじさんは誰?そんな問いは無粋だ。話の流れと、私の顔を見て頬を伝わせた涙を見れば、あの人たちが誰かという答えは導かなくても自然に辿り着いてしまう。
「はい、これ」
彼女は戸棚の引き出しから手鏡を取り出し渡してくる。素直に受け取ると、手鏡を自分の正面に向けて対峙する。鏡に映し出された顔は、やっぱり知らない顔だった。
色白の肌。色素の薄い透き通った髪。丸くて大きい垂れ目。薄い唇はカサついていて若干青く変色しており、頬もこけている。中世的な顔立ちをしているのに、見るからに体調の悪さを物語った色味をしていた。この顔が、町田蘭の顔なのだろう。
「これでも驚かないなんて、もしかして経験者?」
「……そんなわけない」
これでも、頭の中は未だ混乱状態がつづいていて、なんとか一つずつ理解して噛み解いていってもわからないことが次から次へと押し寄せてくる。いちいち驚いて取り乱し動揺していては一向に話は進んでいかない。だから、こうして平常心だけは頑張って保っているのだ。
「どうして、こうなったかはわからない。あなたと同様、目を覚ました時にはすでに私も入れ替わっている状態だった」
彼女は手を広げ、平と甲を交互にじっくりと見つめていた。
互いに思うことは同じなのだろう。一言で言えば変な感覚。古いものから新しく買い替えた時、しばらくは手に馴染まない感覚と似ている。しっくりとこない、これではない、と心が拒絶しているのがわかる。
「それでも、冷静に見えるけど」
彼女は首を振り否定する。
「最初はもちろん冷静ではいられなくてちょっとパニックで叫んだりしたんだけど、事故後の恐怖で気が動転していたんだろうってことで話は落ち着いて今に至る、って感じですよ」
彼女は頭を掻きながら「その時に爪で引っ掻いちゃった」と頬にある僅かな切り傷を指さす。「あなたの体なのにごめんね」と一緒に謝罪も添えられた。
「ボロが出ないようにずっと気を張っていたの。あなたが目を覚ますまで……いや私の体が目を覚ますまで?あーもうややこしいね。どっちでもいいか。あなたが目を覚ますまで、私すごく不安だった。だから、今やっとホッとしてる」
「不安?」
「私の体の中に、あなたがいなかったらどうしようって。結果的には私たちだけが入れ替わっていたけど、三人も四人もごちゃ混ぜになっていたら大変だったと思うから。入れ替わっているっていう確証もあなたが目を覚まさないと確かめられなかったし」
そうか。早く目を覚ましたからと言って冷静になれるというわけではない。早く状況を知るということは、彼女にとっては不安と恐怖に襲われながら耐えるということだった。
「それで、ちゃんと確認しておきたいんだけど、この体はあなたのだよね?」
彼女は居住まいを正し、私に向き直った。真っ黒な瞳に真正面で見つめられ妙な緊張が走った。私の目なのにおかしい。不思議とむやみに逸らすことができなかった。
「そうだよ、その体は私のもの。岸ひなたのもの」
曇りのない瞳を見つめながら、かすれた声で名乗った。
彼女も頷く。
「うん、私も同じ。ひなたが入っているその体は、町田蘭のもので、私のもの」
どう考えても信じ難い状況だが、私の体を持った私が自由に動いて声を発しているところを目の当たりにすれば、受け入れること以外に選択肢は残されていなかった。
こうして私たちは突然、人格が入れ替わってしまった。
「でね、あまりにも病室の前を行ったり来たりするもんだから、母に声掛けられちゃって。当然だよね、車いすに乗った怪我人が病室前をウロウロしていたんだから。咄嗟に『昔病院で話したことがあって』って嘘ついたの。今思えば、私が昔から仲良くしている人なんて一人しかいないのに、母も知っているくせにまんまと信じちゃってさ。よっぽど私に友達がいないこと心配していたんだろうな……あ、もし詳しいこと訊かれたら『詮索しないで』とか言ってはぐらかしてね」
蘭は、私が眠っていた三日間のことをペラペラと話しはじめる。まだ自分の顔が、自分の目の前で自分がしなさそうな動作をしていることに慣れないが、私たちは今すぐ話し合って決めないといけないことがあった。
「蘭は、私の両親に会ったんだよね?」
「うん、ひなたのお母さんは綺麗だし、お父さんもかっこいいね。私の両親はどっちも体型ゆるゆるで威厳がないでしょ?」
「そんなことないけど……」
「いいいい、実際結構歳いってるから。父は年齢で出世したみたいな感じだし、母はあのとおりずっと専業主婦だからバキバキ働きます、みたいな感性は持ち合わせていないの」
蘭は、なんていうか、訊いていないことまで必要以上に話すところがある。そのせいで、さっきからまったく話が進んでいかない。
「あのさ」
無理やり話の腰を折る。
このまま蘭のペースにあわせていると、訊きたいことが今日中には訊き終わらない気がしたから。
蘭は口を噤み、「ん?」と首を傾ける。
「私の両親の前でもそんな感じ?」
「あーいや、ボロが出ないように口は閉じてたよ。大丈夫、自分がお喋りだって自覚はあるから。ひなたがどういう人かわからない以上自分勝手な言動は控えるべきだ、と思って一応は気をつけていたつもり」
かと思えば、意外としっかり考えていたりする。
「ありがとう」
「ええ?なんのありがとう?」
蘭はふにゃっと笑ってみせた。この笑顔も、私はしない。
「私たち、話し合うことも考えることもたくさんあると思うけど、まずは決めないといけないよね」
私が本題に切り込むと、蘭は口を結び、顔を引き締め直した。
「伝えるか、秘密にするか」
中身が入れ替わったことを両親や身近な人に正直に伝えるのか、それとも私たちだけの秘密にするのか。
私の答えはすでに決まっていた。蘭はどうだろうか、と恐る恐る顔を窺うと、蘭も答えは決まっているのか私の方をじっと見つめていた。
「これ以上、両親に迷惑はかけられない」
「うん、私も」
私たちは〝秘密にする〟一択だった。
「そもそも信じられないと思う。こんな、現実離れした話」
「確かに」
私たちは頷き合う。
まだ私も信じられていない。というか、ありえないと拒絶している。
今も夢の中にいるだけなのではないかとか、今晩また眠って翌日起きたら何もかも忘れ、元に戻って何事もなかったかのような明日を迎えるのではないかとか、この状況に現実逃避をしている。だが、それはそれでありえないだろうなとも、また私は頭の片隅で思っていた。
「ひなた、疲れた?」
蘭が私の顔を覗き込む。
首を横に振ろうとした時、思い出したようにどっと疲労が押し寄せてきた。
「ほんとだ……疲れてる、みたい」
呂律も回らなくなる。まだ一時間も話していないのに、ぶっ通しで一時間走り続けたような疲労を感じた。息遣いも乱れている。
「そろそろだろうなって思った。ごめんね」
蘭は謝った。
「蘭。また明日、ここに来てくれない?」
「わかった」
背中をベッドに預け、私はゆっくりと目を閉じた。意識を手放す手前で、また「ごめんね」と蘭は謝った。
なんとなくわかってしまった。蘭の口から直接聞かなくても、蘭の体は普通の体とは違うということを。
混沌とした今の状況でも、疲れに負け、眠気に抗えないほどの弱った体の中に入ってしまった私は一体どうなってしまうのだろうか、という一抹の不安がよぎった。そして、自分が犯した過ちも一緒に思い出し、私は逃げるように意識を手放した。