この世の中は、理不尽だと思ってた。





かわいい子もいるのに、かわいくない子もいる。





頭が良い子もいるし、頭が悪い子もいる。





もともとの能力を変える術なんてないし、変えられるとしたら他にきっと嫌なことが起こる。





それでも、生きてる人たちに1つ平等があるならば、それは“助けてくれる人がいる”ということだと思う。





手を差しのべて助けてくれる人に出逢う人もいれば、画面越しに、自分を救ってくれる人に出逢う人もいる。





わたしは、自分の“好きなもの”に救われた。





推し、歌、ドラマ、映画、アニメ。





かわいい見た目も、憧れられる頭脳も運動神経もないわたしには、いつもそばに好きなものがある。





かっこいい推しを画面越しに見つめて、ちょこっと救われたり。





歌を聴いて救われたり、ドラマや映画を観て救われていくこともある。





アニメを観て救われることだってあるし、アニメやドラマのおかげで、笑えることだってある。





手放すことなんて絶対にできない、わたしの好きなものたち。




好きなものに夢中になると、気づいたことがあった。





自分の好きなものも、誰かによってつくられたものだということ。




つまり、画面越しに逢えてなくても、映像や歌詞越しに知らない誰かにわたしは救われていると思った。





歌は、歌詞を作詞してくれる誰かがいて、その人のつくった歌詞を見て救われて、歌う人によって完成する。





ドラマや映画、アニメも同じだ。




脚本を書いてくれる人がいて、他にも自分が知らないくらいたくさんの方たちがサポートをして、出演してくれる俳優やキャラクターがいて、そこでやっと完成する。




わたしはそうやって、“好きなもの”を通していろんな人に助けられて今生きている。





それを、他のなによりも尊いとわたしは思った。





推しはもちろん尊いし、家族や友達だってそう。





だけど、やっぱりいろんな方が関わって、頑張って作り上げてくれたものは、他のなにより尊いと思う。




そして、それにいつも救われていく。




自分が誰かを救ったことはないけれど、自分を救ってくれる人たちのおかげで、今を楽しく生きている。




だから、わたしは自分の好きなものは全部“1番”だと考えた。




“1番”にだって決まりはない。トップだけが1番ではないのだ。




わたしを救ってくれるわたしの好きなものは、いつだって“1番”に輝いている。




わたしは、これからも好きなものを大切にしながら、好きなものに助けられていきたい。





これを読んだ誰かが、ほんの少しでも救われますように。