裏方の使用人達が、食事を済ませ、持ち場へ戻る頃を見計らい、月子は、お勝手から台所へ入った。

各々の箱膳へ、茶碗と箸を仕舞い、女中達が水屋棚の中へ箱膳を片付けると、散り散りになった。

月子は、母親専用の小さな鍋に、米を入れ、取り置いてもらっていた、傷んでいるからと、捨てるはずの菜っ葉を刻み、粥を作り始める。

月子親子の食器は、箱膳に入れて蔵にある。食器だけではない、親子が手にするものは、全て蔵に置いてある。

ただ、小鍋と木杓子だけは、台所の隅に、なんとか置かさせてもらえたが、すべて、病がうつるのではという心配からの事だった。

しゅうしゅうと音を立て、ほんのり蒸気をあげる鍋を見て、月子は、仕上がる頃だと判断した。

西条家の台所は、まだ、かまどを使っている。

ガスが普及していたが、女中達が、昔ながらの、かまどの方が使い勝手が良いと言い張り、かまどを、ガス台に入れ換えるなど、余計な費用はかけたくないと考えた佐紀子も、かまどを使い続けることに依存はなかった。

色々と、新しい文化が浸透しているはずなのに、西条家では、若い佐紀子を筆頭に、何かこだわりがあるのか、変化というものを嫌っているように見えた。

……そして。

月子親子が、西条の家へ入るという新たなことも、大変な、変化だったらしい。

それを、満が、家長として押しきったのだが、その反発が、今、月子親子へ降りかかって来ている。

月子の母が、病を患っているから、ということに見せかけているだけで、どのみち、二人は、つま弾きにされる立場だったのだ。

こうして、気兼ねしながら、台所に立つたび、月子は、悔しくあるが、どこか諦めからか、ポカリと胸に穴が開いたような気持ちになっていた。

落ち込みとも、いじけているとも言えない、鍋が発する、軽やかな蒸気の音とは相反した、重い気持ちに支配され、母の食事の用意と称して、親子二人分の粥を作る毎日も終わりを迎えるのだと月子は気がついた。

さて、母へは、どの様に告げればよいのだろう。

火から、鍋を下ろしつつ、自分に縁談が持ち上がったことにされ、結局、追い出されるのだとは、流石に言えない。

その縁談も、かなり、訳ありの様であるし、なにより、月子へ、という話でもない。

野口の家が、佐紀子の為にと、無理やり押し込む話なのだから。

前掛けで、鍋の取っ手を掴み、月子は、母の元へ向かうが、胸の内は、複雑だった。

どうなるかわからない話に従わされて、ここを出ていくというのが、正しい。

それを、母へ、正直に言う訳にもいかず……。

鍋の中身をこぼさない様、気を付けながら、月子は、モヤモヤとした気分のまま、母が待つ、蔵へと向かった。

が。

お勝手から出て、裏庭へ出たとたん、月子は、異変を感じた。

蔵が見える。

それは、いつも通りだ。

しかし、閉まっているはずの、外扉、観音開きの漆喰扉が開かれていた。

母の体力を思うと、自ら外へ出ることは不可能。つまり、誰かが、蔵へやって来たことになる。

一体、誰が……。

月子は、不思議に思いながら、粥をこぼさない様、そろりそろりと慎重に歩んだ。

蔵の入り口に立ち、月子は驚く。

臥せっているはずの母が、起き上がり、荷物をまとめていたからだ。

風呂敷に、着替えや、日常生活で必要になる物を包んでいた。

「母さん!」

月子の呼びかけに、母は振り向いた。

そして、優しく微笑むと、一言、「おめでとう」と、言った。

月子は、悟る。

佐紀子だ。

佐紀子が、早速動いたのだ。

案の定──。

「佐紀子さんのはからいでね、母さん、佐久間先生の所へ、入院することになったのよ。しばらく月子とは離れてしまうけれど……」

そこまで言うと、母は、床に手をつき、コンコンと咳き込んだ。

「母さん!無理しないで!」

支度は、自分がすると言いかける月子へ、母は、キツイ口調で言い放つ。

「……月子、離れて!離れなさい!お前にまでうつってしまう!」

咳き込みながら、母は、月子の身を案じて近寄らせようとはしない。

月子は、かろうじて頷くと、手に持っている粥入りの小鍋を、蔵の角、二人の箱膳を仕舞っている脇へ置き、自身もそっと座った。

蔵の扉は開いている。外から風が入り込んで来ているから、換気はちゃんとできている。母が多少咳き込んでも、これだけ離れていれば、月子に、もしもしのことは、起こり得ないはず。

ただ、良くわからないのが、胸の病。本来は、蔵の外へ一旦出た方が良いのだろうけれど……。

小さくではあるが、苦しげに咳き込んでいる母を見捨てる様な気がして、月子は、離れた場所に控えていた。

本当は、母の背をさすってあげたいと、月子は思うが、今の母では、到底、近寄ることを許すはずがない。

口惜し思いをしながら、月子は、母が落ち着くのをじっと待った。

暫くして、なんとか、咳がおさまった母は、また、ポツリと月子へ言った。

「佐紀子さんから、聞いたよ。縁談話が、あるんだってね?良かった。本当におめでとう。これで、月子も、幸せになれるね。母さんの世話ばかりで……、月子は、自分の事が何もできなかったもの……」

やはり、佐紀子が、やって来て、事情を母へ告げたようだった。

そして、取り決め通り、母を病院へかけてくれる。

佐紀子は、確かに、言ったことは守る。だが、余りにも急ではなかろうか。

でも、これで母は病院へかかることができる。良いことなのだと、月子は、ほっとしたが、指先がどこか冷えるというべきなのか……、少し、寂しさを感じつつも、さて、佐紀子は、どこまで、母へ事情を語ったのだろうと、一抹の不安も抱いていた。

母の口振りから、西条家から無一文で追い出される、という事情をわかっているようには思えなかった。

佐紀子のことだ。月子へ縁談が持ち上がり、世話をする人間がいなくなるから、病院へ……と、母を丸め込んだのだろう。

言ったことは、確かに守る佐紀子ではあるが、言い分は常に、自身の立場を守るもので、相手によって、コロコロ変わる。

流石に、母へは、きつくあたれなかったのか、はたまた、蔵へ自ら足を運んだは良いが、長居したくなかったのか。用件だけ、つまり、本当の所は、省略したのだろう。

月子は、母へどう答えれば、いや、佐紀子が蔵へ来て何を言ったのか尋ねるべきか、迷いに迷った。

母は、なんとか息を調え、病院から迎えが来るからと、どこか、嬉しそうに、支度を続けようとしている。

「……母さん?迎えって?」

「ええ、部屋が空きそうだから、ってね。これから入院するの……急な話だけど。月子、お前も色々と準備があるでしょ?母さんの世話ばかりしてたら、せっかくのお話が流れてしまうわ」

母は、苦しげではあるが、にこりと笑った。

やはり……。

佐紀子は、本当の事、肝心な事を言っていない。仮に何故言わなかったと、月子が責めよっても、佐紀子は、要点は言っている、何がいけないとばかりに、とぼけるのだろう。

娘の縁談話を持ち出せば、母親ならば、すんなりと、病院への入院、つまり、西条家から出て行く事を受け入れる。

月子は、親心というものを利用して、たばかった佐紀子を恨めしく思った。

「か、母さん、お粥……食べよう」

佐紀子のやり方に、月子は我慢ならなかったが、久しぶりに見た朗らかな母の姿に、このままでも良いのではないか、真実を知らない方が、母を傷つけることもないのではないかと、心中は、揺らぎに揺らぐ。

すぐに、本当の事が母に分かってしまうのも、目に見えていたが、冷めかけとはいえ、まだ、柔らかな湯気を上げている粥を見て、月子は、嘘を突き通す覚悟を決めた。

恐らく、母との食事はこれが最後になるだろう。せめて、何の心配もさせず和やかに、母を送り出したい。

そう思い、月子も、目一杯の笑顔を母へ向けた。

「……急だから、月子に何も渡してあげれないわ。お嫁に行くというのに……」

母は、奥に仕舞いこんである葛篭(つづら)に目をやった。

「月子、出してもらえる?」

うん、と、答えると月子は、母の元へ行き、少し埃をかぶった葛籠を取り出した。

「……母さんね、譲れる物がないから……。少し地味だけど、この着物を持ってお行き……」

義父、満が母へ送った着物だとか。西条の家へ入る前に、一張羅を、何枚か用意してくれたのだとか。

「後添えだから、それも、良家の人間じゃないしね。旦那様が、母さんが、恥をかかないように用意してくれたのよ」

しかし、裏方仕事に追われる事になる母は、それらに袖を通すことはなかった。

「母さん!この大島。風に当てるね!」

「月子?」

突然、弾けた月子を、母は、不思議そうに見た。

「だって、病院へ、寝巻き姿のまま行く訳にはいかないでしょ?まだ、時間があるはずだから……この大島を着ていくといいよ!だから、風に通して少しでも湿気を取るね」

泥染めの、高級そうな大島紬の着物は、少し、カビ臭かった。風に通せば、いくらかましになるだろうと、月子は、葛籠から取り出すと、急いで蔵の外へ出て、脇に作られた、月子親子の洗い物干場へ駆け出した。

棹を下ろし、着物の袖を通して吊り下げる。

少しではあるが、日に照らされ、着物は、風になびいている。

これで、いくらかは、匂いも湿っぽさも消えるだろう。

月子は、母の元へ戻ると、粥を食べよう、椀によそうと行って食事の支度を始めた。

母は、そうねと、一緒に食べるのは最後だと、少し寂しげにそれでも、名一杯笑って見せる。

別れ、とはいえ、ただの入院。そして、月子には、縁談話が持ち上がっている。悲しむ話ではないと、言いたいようだ。

「ああ、そうだ!」

母は、葛籠の中身を確かめながら、月子を呼んだ。

「この着物……月子には、地味だけど、お見合いの席で、着るといいよ……」

母にも分かっているようだ。佐紀子が、わざわざ月子のために、衣装を用意しないことを。

そして、裏方仕事しかしていない月子が、表に出られる着物など持ち合わせていないことも。

母が、広げて見せたのは、若草色に、小さな点が抜かれている、大小霰(だいしょうあられ)と呼ばれる柄の江戸小紋だった。

「これなら、格もあるから、お見合いでも……」

場違いには、かかろうじてならない。けれど、見合いの席には、少し外れたものだと、母にも分かっているようで言葉を濁す。

「ありがとう。母さん。見合いといっても……格式張ったものじゃなさそうだし、普通のお家の方のようだし……」

月子も、とっさに、誤魔化す。

まさか、男爵家へ嫁がされようとしているとは。それも、かなり訳ありの相手のようだとは、さすがに言えなかった。