麗しの君に。~大正イノセント・ストーリー~

日本橋界隈の往来は、いつも以上にざわついていた。

「いやまあ、なんですよ、皆、今朝は、西条家の火事の話題で盛り上がっちまってて。旦那、野次馬が多すぎて、西条家の近辺には、立ち入ることは出来ないんですけどねぇ、行けるところまで、行ってみますが、それで、かまいませかね?」

車を引きながら、車夫が岩崎へ言った。

「ああ、構わんよ。親戚の家が近くにあるのでな。様子うかがいに行くだけだから。しかし、そんなにも、火事は酷かったのか?」

ここで、西条家と繋がりがあると知られたら余計な詮索を受けると思ったのか、岩崎は、適当な事を言って、車夫をはぐらかした。

「ええ、何しろ、大きな御屋敷が全焼ですからねぇ。皆、大騒ぎで。ここだけの話ですがね、なんでも、痴話喧嘩の末の放火って事ですぜ……」

「それはまた、物騒な話だな」

岩崎は、素知らぬ顔で車夫に話を合わせる。

確か、仏壇の火の始末が原因と二代目が言っていたはずだが……。痴話喧嘩、それも放火と聞き、月子は、岩崎の隣で、ぎょっとした。

佐紀子のこと、火の始末は、きちんと行う。仏壇の火の始末なら、なおさらのことと、月子は、何かおかしいと思っていたのだ。

「いや、まあ、噂話ですからねぇ」

車夫は、喋り過ぎたと思ったのか、そのまま黙りこむ。

なんとなく気まずくなりつつも、暫く行くと、焦げ臭い匂いが漂って来た。

所々、焼け焦げた西条家の土塀が見え始める。

「……ここで、いい」

岩崎の一声に、へいと車夫は答え、人力車は止まった。

確かに、先では、人だかりが出来ている。

岩崎と月子は人力車が、去って行くのを見計らって、変わり果てた、西条家へと向かった。

一応、塀は残っているが、その向こう側からは、ちらちら、灰色の煙が立ち上っている。

垣間見えていたは建物はなく、燃え残った屋敷の柱が、黒い炭となっていた。

「月子、大丈夫か?ここで待っていてもいいんだよ?」

集まって来ている野次馬の数を見て、岩崎は月子に言った。

「わ、私も行きます……」

意地を張る月子に、岩崎は、少し考え込むと、その手を握る。

「あの人混み、というよりも、野次馬を突破せねばならんからね。しっかり、手を繋いでおかないと」

野次馬に、あれこれ質問攻めにされてはたまらんと、岩崎は言うが、月子が好奇の目に晒されないよう、守ろうとしているようだった。

岩崎の大きな声が響き渡る。

「通してくれっ!用があるのだっ!!」

一斉に野次馬は、岩崎へ視線を移した。

それでも、知ったことかと、岩崎は、月子を引き連れ、なお叫びながら、野次馬をかき分け歩んで行く。

しかし、門だったはずの開け放たれた入り口で、揃いの袢纏を来た、職人風の男達に止められてしまう。

「何の用があるんだ!帰えんなっ!!」

男達は、持っている、鳶口《とびぐち》を、突きつけて来た。

丸太などの木材の移動、運搬、積み時に使う、棒の先端に、鳶のくちばし形の鉄の鉤を付けた鳶口を持っているということは、西条家の商い部門、西条材木店の人夫達なのだろう。

騒ぎから屋敷を守るため、そして、焼けてしまった建物を解体するため、店からかりだされたに違いない。

「男爵の岩崎だ。見舞いに来た」

尖った刃物とも言える、鳶口を突きつけられても、岩崎は、臆することなく、敷地へ入れろと言い放つ。

その、堂々とした態度と、男爵という響きに、男達も、野次馬も、一瞬たじろぐ。

そこへ、

「何をしているのです!私の言うことが聞けないのですかっ!」

憤る女の声が流れて来た。

佐紀子が、瀨川を叱りつけていた。