台所の土間にある瓦斯台に火を着け、岩崎は、ヤカンで湯を沸かし始めた。
「……君、瓦斯の使い方は?」
「いいえ。ですが……おおよそ、分かりました」
西条家には、無かった瓦斯台というものも、岩崎が使っているのを見て、そう難しくないものだと月子は感じる。
岩崎は、月子の返事にそれなら、結構と言いつつも、直ぐに渋い顔をする。
「中村め!また、無駄にビブラートをかけて。音程が安定していない!どうして、譜面通り忠実に再現しようとしないのだ!!」
岩崎の剣幕に何事かと、月子は縮み上がった。
居間から、中村が奏でるバイオリンの音が流れて来ている。
恐らく、岩崎は、それについて言及しているのだろうが、怒り具合と難しい言葉に、月子は、困惑した。
「……湯が沸いたようだ。君、湯飲みと急須の用意を……」
「は、はい!」
「ああ、やはり、余所の台所は、使い勝手が違うか。君も、ずいぶん困惑しているようだが、ここは、御屋敷ではないのだから、気を楽にしなさい。それもだがね、何故、あの夫婦が、シベリアを手土産に現れたんだ?いや、やはり、中村だよな?一ノ瀬君がどうの言ってはいたが、それにしても。君、どう思う?」
瓦斯台から、ヤカンをおろした岩崎は、ぼやきながら、茶筒を握る月子の元へやって来た。
「そりゃ、京さんが、危なっかしくて見てられないのと、嫁さんもらったってことで、放っとけないのさ!」
勝手口で、亀屋の主人、寅吉がニカリと笑っていた。
「……また、増えた」
岩崎が、おもむろに嫌な顔をする。
「ずいぶんな言われ方だねぇ。こちとら、気を効かせて、町内に引っ越し蕎麦配っといたって言うのにさあ。京さんが、嫁さん貰ったって、話はつけといたぜ」
後は、挨拶に行きなよ、と、寅吉は手早く言うと、踵を変えそうとした。
「ち、ちょっと、待て!亀屋!町内って?!」
ヤカンを月子へ渡し、岩崎は、寅吉を追った。
「これから、新生活だろ?挨拶は、大事だろうが。まあ、顔役のところと、隣近所へ行っときゃいいさ。後のところは、蕎麦届けるついでに、俺が変わりに子細は説明してるから、省略してもかまわねぇだろ。流石に、町内全部は、無理だわ」
けど、俺は、蕎麦配ったけどよぉ、と、寅吉は、得意気に岩崎へ言ってくれる。
「……挨拶……か。まあ、そうだが、何も亀屋、町内すべてというのも……そこまでしなくとも」
「京さんは、町内中の人気だろ?おかみさん達は、男爵家の若様をほっとけないって、井戸端会議してるしよおー、ちゃんと、先に、知らせておくのが親切ってもんじゃねぇかい?」
寅吉は、戸惑う岩崎のことなど見えてない様で、じゃあ、と、帰ろうとするが、岩崎が、また、引き留めた。
「わかった!亀屋!感謝する!だから、出前用の自転車を貸してくれ!それに乗って、挨拶回りしたいっ!!」
へ?!と、裏返った声を出す寅吉へ、岩崎は、月子の足のことを説明した。
「うん!そりゃあ、そうだわ。顔役と近所って話でも、歩かなきゃいけねえ。そりゃ、自転車がいい!!よしっ!」
と、いうことで、寅吉が、また上がりこみ、月子からヤカンを奪うと、皆の茶を入れ始める。
「ここは、俺に任せて、さっさと、行きなよ!」
「ま、まて、履き物と上着を取ってくる!」
岩崎も、寅吉の勢いに押され、引っ越しの挨拶回りへ出向く気になったのか、ドタドタと台所から出て行った。
「いやはや、びっくりしたでしよ?若奥様。まあ、これが、神田界隈、庶民の暮らしでさぁ。華族様の生活とは大違いでしょ?」
寅吉は、手際く茶を入れながら、わははと、笑った。
上着を羽織り、自身の靴と月子の履き物を持って来た岩崎は、
「ああ、月子は、華族ではなく、あの西条材木店のお嬢さんだ」
「え?!それって、日本橋に豪邸を持って、木挽町の材木問屋を仕切ってる、あの、西条家?!」
うん、と、頷く岩崎に、寅吉は、
「んなもん、庶民からしたら、華族のお嬢様と同じよ!!京さん!やっぱり、男爵家に釣り合うだけは、あるねえ。さすがだ!」
そいで、そいで、と、寅吉が月子へ何か尋ねたがるが、
「あー、後にしてくれ。蕎麦が行き渡っているなら、挨拶へ早く行かねば!」
「おお!そうだ!茶は、居間へ持ってけばいいんだな?」
後は任せた、と、岩崎は、軽く寅吉をいなして、月子へ目配せした。
これ以上、余計な詮索をされない為に、なのだろう。
急げ急げと、空々しく声をあげ、岩崎は月子と共に、町内へ挨拶に向かった。
裏口になる、木戸を潜って表へ出ると、亀屋の自転車が停めてあった。
岩崎は、さっと自転車に股がり、
「君は、荷台だ。腰かけなさい」
と、月子へ言ってペダルへ足を乗せている。
「腰かけたかね?じゃあ、行くぞ。落ちないように、私に掴まりなさい」
月子は、言われた通り、岩崎の腰に手をやって、身構える。
が、何か様子がおかしかった。
岩崎が身をよじりながら、笑いを堪えている。
自転車が不安定に揺れた。
「……あの、旦那様?」
月子が落ちない様にと、懸命に掴まれば掴まるほど、岩崎は、悲鳴とも、笑いともつかない声をあげた。
「……き、君、そ、そこは、よしたまえ!ダメだ!」
我慢しきれずなのか、岩崎が、ひっと、声をあげる。
「離してくれ!くすぐったい!」
「え?!」
月子は、慌てて手を離したが、勢い体が揺れた。
荷台から、落ちそうになり、とっさに、岩崎の上着の裾を掴んだ。
急に背中を引っ張られる形になり、岩崎も、体が揺れる。
おわっ!と、叫ぶと、地面に足を付き、ハンドルを握りしめつつ、踏ん張った。
「す、すみません……」
荷台で月子は小さくなるが、岩崎は、自転車ごと倒れる所だったと、呟き、そして、月子へ意見した。
「君!脇腹は、いかんだろっ!!くすぐったくてかなわん!」
「く、くすぐったかった、のですか?」
「そうだろ?!君は平気なのか?!脇腹を触られて平気な事などあり得ない!」
「は、はぁ。そ、そうなのですね。申し訳ございません」
「分ればよろしい。私のベルトを掴みなさい。それなら大丈夫だ」
一方的に、岩崎の畳み掛けられ、月子は、面食らったが、くすぐったいと、怒る岩崎の態度に、何故か、笑いが込み上げて来た。
しかし、笑ってしまうとまた、岩崎の大声を聞くことになると思い、月子は懸命に堪えながら、言われた通りに、岩崎のベルトを掴んだ。
「よし、行くぞ」
岩崎の一声で、自転車は、軽やかに走り出す。
月子の頬を、風が切る。
少しばかり冷えてはいるが、何故か、とても心地よかった。
目の前に広がる岩崎の背中に、月子は、思わず体を預けた。
「うん、しっかり、寄りかかりなさい。大通りにでた方が近道になる。人も増える」
荷台から落ちないように、遠慮するなと、岩崎に言われ、月子は、少し恥ずかしくなる。
危なくないように、岩崎の背中を頼ったのではない。その真意が、岩崎に伝わってしまってはと、月子は、焦りつつ、はい、と、小さく答えると、岩崎のベルトを、再度、握りしめた。
暫くすると、言葉通り、電車通りが現れた。
チリンチリンと、鈴を鳴らして、自転車を走らせていた岩崎が、速度を落とした。
「……何事だ?」
確かに、先が騒がしかった。
人通りの問題ではなく、何かが、起こっていると想像できるほど、人の怒鳴り声が、響き渡っている。
「米騒動だ!」
野次馬らしき男達が、走り過ぎて行く。
「……まずいな。道を変えよう。ひとまず、君は降りなさい。自転車では、余計に危ない」
先では、人々が集まり、閉まっている店の扉を叩き、こじ開けようとまでしている。
それに、乗じて、大声をあげているが、もはや、それは、奇声になっていた。
「旦那様、あれは……」
「ああ、米屋だ。正しくは、米問屋なのだが、近くに食堂が多いから、小売りもしているんだが……」
先へ進まない方がいいと、岩崎は、言って、後戻りしようとした。
「大回りにはなるが、中道を抜けて行こう。あの騒動に巻き込まれては、たまらん」
と、岩崎が言うと同時に、警笛の音が聞こえた。
「巡邏の警官が来たか。ますます、離れた方がいい。巻き沿いを食うと偉い目に合うからね」
大店の米屋が、おそらく、米を売り渋り、客が怒って、暴れだしたのだろうと、岩崎が言う。
「ついでに、面白半分で、暴れているやつもいるだろうが、警官が、来たのだ、離れておくべきだ」
暴れている者達と間違われては、たまらない。岩崎は引き返そうと、月子へ言った。
「あ、あの……」
「うん、例のシベリア派兵のせいだよ。米の流通が、鈍くなって来ているのだ。田舎では、底値で買い占められて、農家の暴動が、起こってるいると聞いていたが……帝都でも、歪みがでているのか……」
岩崎は、キッと顔を引き締め、買い物は、一人では行かないようにと、月子へ言った。
「何にまきこまれるか、わからんからね。暫くは、一緒に出かけよう」
月子も、恐ろしさから言葉なく、コクンと頷いた。
「はあぁ、どこででも、あんたら二人は、いちゃつくわけだ」
突然、吐き捨てるような、物言いが、岩崎と月子へ浴びせられた。
つまらなさそうに、顔をしかめきる実がいた。
「ったく、あんたらのせいで、お前たちも、二人で出かけろなんて言われてねぇ」
嫌みたらしく言う、実の後ろには、真紅の振り袖を着た佐紀子が佇んでいる。
「芝居見物の帰り。まったく、バカみたいに、派手な着物で飾り立ててる女と一緒にいるこっちの身にもなれって、話だよっ」
いらつく実の口振りに、岩崎は、眉をひそめた。
「神田なら、取引先の知り合いとも会わないだろうと思っていたのに、あんた、神田に住んでたのかよ」
チッと、舌打ちする実の後ろで、佐紀子は、悔しそうに俯いている。
月子達と出会ったから、というよりも、じっと何かに堪えているような感じがした。
この殺伐とした雰囲気から、逃れようとしてるのだろう。岩崎は、実の挑発的な言葉に反応する訳でもなく、淡々としている。
「……役目は終わったからな。気分がすっきりしないわっ。知り合いの所へ行ってみるか。帰りは、何時になるか、知らねぇよ」
実は、岩崎を気にすることなく、佐紀子へ冷たくあたると、さっと、その場から離れた。
「……早く、西条家に慣れた方が良いと、今日から、実様は、うちに来られるのです」
岩崎に、深入りされたくないのか、佐紀子が、ポツリと事情らしきことを言う。
「なるほど。そうですか」
では、と、岩崎も関わりを避けるべく、自転車を押しかけるが、はたと、佐紀子の姿を見た。
「佐紀子さん、人力車を拾いましょう。御屋敷へお戻りなのでしょ?」
一人で帰るのなら、少し距離もあるしと、岩崎は佐紀子へ言った。
「結構です!子供ではありませんからっ!」
佐紀子は、急に声をあらげて、岩崎と月子を睨み付けた。
「そうですか。まあ、道すがらには、寄席や百貨店もある。人力車も、容易く拾えるでしょう」
岩崎は、変わらず淡々とした態度で、佐紀子へ接した。
月子は、岩崎の傍で、何もできず、ハラハラするだけだった。
さあ、と、岩崎に促されたが、月子の体は上手く動かない。
佐紀子がいる、佐紀子に睨まれているというだけで、自分でも情けなくなるほど、頭の中は、真っ白になり、あわや、泣きそうになっていた。
「ああ、一人では荷台に乗れないか」
岩崎が、とってつけたような事を言って、月子を軽々抱き上げ、荷台に座らせた。
いきなりの事で、月子は、思わずひっと、小さく叫び体をこわばらせる。
「ははは、なっ?脇腹周辺は、くすぐったいだろう?」
さっきは、掴まれてたまらなかったと、岩崎は、何の事やら的に、一人喋っている。
そして、自転車に股がると、佐紀子へ、それでは失礼と軽く挨拶をし、自転車のペダルを踏んだ。
「……もう、大丈夫だ。気にすることはない」
岩崎が、言う。
「……旦那様……」
「なんだか、嫌なことばかりだな。まったく」
そして、岩崎は、ぐんと、速度を上げた。
「しかし……、あの、実という男、なんなんだ?!あれでは、佐紀子さんも、苦労するだろうに」
ポツリと岩崎は言うが、そこは、月子も同じ思いだった。
佐紀子の着ていた、振り袖は、確か、月子が母と初めて西条家へ顔合わせに向かった時に着ていたもの。あの、燃えるような鮮やか紅色を、良く覚えている。
そんな、少し昔の着物を選んだのは、きっと、野口のおばだろう。
少しでも、華やかで、派手に、つまり、娘らしく飾り立てたかったのだろうが、実に、ハッキリと酷くいことを言われた。
それでも、佐紀子は堪え、というよりも、堪えなければならないのだろう。
そこまでして、実と結婚せざるをえない、ということに、月子は、なぜか、同情を寄せた。
今までさんざんな目に合わされた月子だが、佐紀子の幸先が、心配になった。
不謹慎だが、あの佐紀子の様子に、こっそり笑っても良いはずなのだ。しかし、月子は、同情を越えて、佐紀子の事を心配している。
なぜだろうと、不思議に思う月子の目に、広い背中が飛び込んで来た。
そう、きっと、岩崎が……、いや、旦那様が、いるからだ、と、月子は、自分の中にある、安心感というものに気が付いた。
すべて、岩崎のお陰なのだ。旦那様に、守られているからなのだ。
そんなことを、ひしひし思いつつ、月子は、そっと、岩崎の背に体を持たせかけた。
「……君、瓦斯の使い方は?」
「いいえ。ですが……おおよそ、分かりました」
西条家には、無かった瓦斯台というものも、岩崎が使っているのを見て、そう難しくないものだと月子は感じる。
岩崎は、月子の返事にそれなら、結構と言いつつも、直ぐに渋い顔をする。
「中村め!また、無駄にビブラートをかけて。音程が安定していない!どうして、譜面通り忠実に再現しようとしないのだ!!」
岩崎の剣幕に何事かと、月子は縮み上がった。
居間から、中村が奏でるバイオリンの音が流れて来ている。
恐らく、岩崎は、それについて言及しているのだろうが、怒り具合と難しい言葉に、月子は、困惑した。
「……湯が沸いたようだ。君、湯飲みと急須の用意を……」
「は、はい!」
「ああ、やはり、余所の台所は、使い勝手が違うか。君も、ずいぶん困惑しているようだが、ここは、御屋敷ではないのだから、気を楽にしなさい。それもだがね、何故、あの夫婦が、シベリアを手土産に現れたんだ?いや、やはり、中村だよな?一ノ瀬君がどうの言ってはいたが、それにしても。君、どう思う?」
瓦斯台から、ヤカンをおろした岩崎は、ぼやきながら、茶筒を握る月子の元へやって来た。
「そりゃ、京さんが、危なっかしくて見てられないのと、嫁さんもらったってことで、放っとけないのさ!」
勝手口で、亀屋の主人、寅吉がニカリと笑っていた。
「……また、増えた」
岩崎が、おもむろに嫌な顔をする。
「ずいぶんな言われ方だねぇ。こちとら、気を効かせて、町内に引っ越し蕎麦配っといたって言うのにさあ。京さんが、嫁さん貰ったって、話はつけといたぜ」
後は、挨拶に行きなよ、と、寅吉は手早く言うと、踵を変えそうとした。
「ち、ちょっと、待て!亀屋!町内って?!」
ヤカンを月子へ渡し、岩崎は、寅吉を追った。
「これから、新生活だろ?挨拶は、大事だろうが。まあ、顔役のところと、隣近所へ行っときゃいいさ。後のところは、蕎麦届けるついでに、俺が変わりに子細は説明してるから、省略してもかまわねぇだろ。流石に、町内全部は、無理だわ」
けど、俺は、蕎麦配ったけどよぉ、と、寅吉は、得意気に岩崎へ言ってくれる。
「……挨拶……か。まあ、そうだが、何も亀屋、町内すべてというのも……そこまでしなくとも」
「京さんは、町内中の人気だろ?おかみさん達は、男爵家の若様をほっとけないって、井戸端会議してるしよおー、ちゃんと、先に、知らせておくのが親切ってもんじゃねぇかい?」
寅吉は、戸惑う岩崎のことなど見えてない様で、じゃあ、と、帰ろうとするが、岩崎が、また、引き留めた。
「わかった!亀屋!感謝する!だから、出前用の自転車を貸してくれ!それに乗って、挨拶回りしたいっ!!」
へ?!と、裏返った声を出す寅吉へ、岩崎は、月子の足のことを説明した。
「うん!そりゃあ、そうだわ。顔役と近所って話でも、歩かなきゃいけねえ。そりゃ、自転車がいい!!よしっ!」
と、いうことで、寅吉が、また上がりこみ、月子からヤカンを奪うと、皆の茶を入れ始める。
「ここは、俺に任せて、さっさと、行きなよ!」
「ま、まて、履き物と上着を取ってくる!」
岩崎も、寅吉の勢いに押され、引っ越しの挨拶回りへ出向く気になったのか、ドタドタと台所から出て行った。
「いやはや、びっくりしたでしよ?若奥様。まあ、これが、神田界隈、庶民の暮らしでさぁ。華族様の生活とは大違いでしょ?」
寅吉は、手際く茶を入れながら、わははと、笑った。
上着を羽織り、自身の靴と月子の履き物を持って来た岩崎は、
「ああ、月子は、華族ではなく、あの西条材木店のお嬢さんだ」
「え?!それって、日本橋に豪邸を持って、木挽町の材木問屋を仕切ってる、あの、西条家?!」
うん、と、頷く岩崎に、寅吉は、
「んなもん、庶民からしたら、華族のお嬢様と同じよ!!京さん!やっぱり、男爵家に釣り合うだけは、あるねえ。さすがだ!」
そいで、そいで、と、寅吉が月子へ何か尋ねたがるが、
「あー、後にしてくれ。蕎麦が行き渡っているなら、挨拶へ早く行かねば!」
「おお!そうだ!茶は、居間へ持ってけばいいんだな?」
後は任せた、と、岩崎は、軽く寅吉をいなして、月子へ目配せした。
これ以上、余計な詮索をされない為に、なのだろう。
急げ急げと、空々しく声をあげ、岩崎は月子と共に、町内へ挨拶に向かった。
裏口になる、木戸を潜って表へ出ると、亀屋の自転車が停めてあった。
岩崎は、さっと自転車に股がり、
「君は、荷台だ。腰かけなさい」
と、月子へ言ってペダルへ足を乗せている。
「腰かけたかね?じゃあ、行くぞ。落ちないように、私に掴まりなさい」
月子は、言われた通り、岩崎の腰に手をやって、身構える。
が、何か様子がおかしかった。
岩崎が身をよじりながら、笑いを堪えている。
自転車が不安定に揺れた。
「……あの、旦那様?」
月子が落ちない様にと、懸命に掴まれば掴まるほど、岩崎は、悲鳴とも、笑いともつかない声をあげた。
「……き、君、そ、そこは、よしたまえ!ダメだ!」
我慢しきれずなのか、岩崎が、ひっと、声をあげる。
「離してくれ!くすぐったい!」
「え?!」
月子は、慌てて手を離したが、勢い体が揺れた。
荷台から、落ちそうになり、とっさに、岩崎の上着の裾を掴んだ。
急に背中を引っ張られる形になり、岩崎も、体が揺れる。
おわっ!と、叫ぶと、地面に足を付き、ハンドルを握りしめつつ、踏ん張った。
「す、すみません……」
荷台で月子は小さくなるが、岩崎は、自転車ごと倒れる所だったと、呟き、そして、月子へ意見した。
「君!脇腹は、いかんだろっ!!くすぐったくてかなわん!」
「く、くすぐったかった、のですか?」
「そうだろ?!君は平気なのか?!脇腹を触られて平気な事などあり得ない!」
「は、はぁ。そ、そうなのですね。申し訳ございません」
「分ればよろしい。私のベルトを掴みなさい。それなら大丈夫だ」
一方的に、岩崎の畳み掛けられ、月子は、面食らったが、くすぐったいと、怒る岩崎の態度に、何故か、笑いが込み上げて来た。
しかし、笑ってしまうとまた、岩崎の大声を聞くことになると思い、月子は懸命に堪えながら、言われた通りに、岩崎のベルトを掴んだ。
「よし、行くぞ」
岩崎の一声で、自転車は、軽やかに走り出す。
月子の頬を、風が切る。
少しばかり冷えてはいるが、何故か、とても心地よかった。
目の前に広がる岩崎の背中に、月子は、思わず体を預けた。
「うん、しっかり、寄りかかりなさい。大通りにでた方が近道になる。人も増える」
荷台から落ちないように、遠慮するなと、岩崎に言われ、月子は、少し恥ずかしくなる。
危なくないように、岩崎の背中を頼ったのではない。その真意が、岩崎に伝わってしまってはと、月子は、焦りつつ、はい、と、小さく答えると、岩崎のベルトを、再度、握りしめた。
暫くすると、言葉通り、電車通りが現れた。
チリンチリンと、鈴を鳴らして、自転車を走らせていた岩崎が、速度を落とした。
「……何事だ?」
確かに、先が騒がしかった。
人通りの問題ではなく、何かが、起こっていると想像できるほど、人の怒鳴り声が、響き渡っている。
「米騒動だ!」
野次馬らしき男達が、走り過ぎて行く。
「……まずいな。道を変えよう。ひとまず、君は降りなさい。自転車では、余計に危ない」
先では、人々が集まり、閉まっている店の扉を叩き、こじ開けようとまでしている。
それに、乗じて、大声をあげているが、もはや、それは、奇声になっていた。
「旦那様、あれは……」
「ああ、米屋だ。正しくは、米問屋なのだが、近くに食堂が多いから、小売りもしているんだが……」
先へ進まない方がいいと、岩崎は、言って、後戻りしようとした。
「大回りにはなるが、中道を抜けて行こう。あの騒動に巻き込まれては、たまらん」
と、岩崎が言うと同時に、警笛の音が聞こえた。
「巡邏の警官が来たか。ますます、離れた方がいい。巻き沿いを食うと偉い目に合うからね」
大店の米屋が、おそらく、米を売り渋り、客が怒って、暴れだしたのだろうと、岩崎が言う。
「ついでに、面白半分で、暴れているやつもいるだろうが、警官が、来たのだ、離れておくべきだ」
暴れている者達と間違われては、たまらない。岩崎は引き返そうと、月子へ言った。
「あ、あの……」
「うん、例のシベリア派兵のせいだよ。米の流通が、鈍くなって来ているのだ。田舎では、底値で買い占められて、農家の暴動が、起こってるいると聞いていたが……帝都でも、歪みがでているのか……」
岩崎は、キッと顔を引き締め、買い物は、一人では行かないようにと、月子へ言った。
「何にまきこまれるか、わからんからね。暫くは、一緒に出かけよう」
月子も、恐ろしさから言葉なく、コクンと頷いた。
「はあぁ、どこででも、あんたら二人は、いちゃつくわけだ」
突然、吐き捨てるような、物言いが、岩崎と月子へ浴びせられた。
つまらなさそうに、顔をしかめきる実がいた。
「ったく、あんたらのせいで、お前たちも、二人で出かけろなんて言われてねぇ」
嫌みたらしく言う、実の後ろには、真紅の振り袖を着た佐紀子が佇んでいる。
「芝居見物の帰り。まったく、バカみたいに、派手な着物で飾り立ててる女と一緒にいるこっちの身にもなれって、話だよっ」
いらつく実の口振りに、岩崎は、眉をひそめた。
「神田なら、取引先の知り合いとも会わないだろうと思っていたのに、あんた、神田に住んでたのかよ」
チッと、舌打ちする実の後ろで、佐紀子は、悔しそうに俯いている。
月子達と出会ったから、というよりも、じっと何かに堪えているような感じがした。
この殺伐とした雰囲気から、逃れようとしてるのだろう。岩崎は、実の挑発的な言葉に反応する訳でもなく、淡々としている。
「……役目は終わったからな。気分がすっきりしないわっ。知り合いの所へ行ってみるか。帰りは、何時になるか、知らねぇよ」
実は、岩崎を気にすることなく、佐紀子へ冷たくあたると、さっと、その場から離れた。
「……早く、西条家に慣れた方が良いと、今日から、実様は、うちに来られるのです」
岩崎に、深入りされたくないのか、佐紀子が、ポツリと事情らしきことを言う。
「なるほど。そうですか」
では、と、岩崎も関わりを避けるべく、自転車を押しかけるが、はたと、佐紀子の姿を見た。
「佐紀子さん、人力車を拾いましょう。御屋敷へお戻りなのでしょ?」
一人で帰るのなら、少し距離もあるしと、岩崎は佐紀子へ言った。
「結構です!子供ではありませんからっ!」
佐紀子は、急に声をあらげて、岩崎と月子を睨み付けた。
「そうですか。まあ、道すがらには、寄席や百貨店もある。人力車も、容易く拾えるでしょう」
岩崎は、変わらず淡々とした態度で、佐紀子へ接した。
月子は、岩崎の傍で、何もできず、ハラハラするだけだった。
さあ、と、岩崎に促されたが、月子の体は上手く動かない。
佐紀子がいる、佐紀子に睨まれているというだけで、自分でも情けなくなるほど、頭の中は、真っ白になり、あわや、泣きそうになっていた。
「ああ、一人では荷台に乗れないか」
岩崎が、とってつけたような事を言って、月子を軽々抱き上げ、荷台に座らせた。
いきなりの事で、月子は、思わずひっと、小さく叫び体をこわばらせる。
「ははは、なっ?脇腹周辺は、くすぐったいだろう?」
さっきは、掴まれてたまらなかったと、岩崎は、何の事やら的に、一人喋っている。
そして、自転車に股がると、佐紀子へ、それでは失礼と軽く挨拶をし、自転車のペダルを踏んだ。
「……もう、大丈夫だ。気にすることはない」
岩崎が、言う。
「……旦那様……」
「なんだか、嫌なことばかりだな。まったく」
そして、岩崎は、ぐんと、速度を上げた。
「しかし……、あの、実という男、なんなんだ?!あれでは、佐紀子さんも、苦労するだろうに」
ポツリと岩崎は言うが、そこは、月子も同じ思いだった。
佐紀子の着ていた、振り袖は、確か、月子が母と初めて西条家へ顔合わせに向かった時に着ていたもの。あの、燃えるような鮮やか紅色を、良く覚えている。
そんな、少し昔の着物を選んだのは、きっと、野口のおばだろう。
少しでも、華やかで、派手に、つまり、娘らしく飾り立てたかったのだろうが、実に、ハッキリと酷くいことを言われた。
それでも、佐紀子は堪え、というよりも、堪えなければならないのだろう。
そこまでして、実と結婚せざるをえない、ということに、月子は、なぜか、同情を寄せた。
今までさんざんな目に合わされた月子だが、佐紀子の幸先が、心配になった。
不謹慎だが、あの佐紀子の様子に、こっそり笑っても良いはずなのだ。しかし、月子は、同情を越えて、佐紀子の事を心配している。
なぜだろうと、不思議に思う月子の目に、広い背中が飛び込んで来た。
そう、きっと、岩崎が……、いや、旦那様が、いるからだ、と、月子は、自分の中にある、安心感というものに気が付いた。
すべて、岩崎のお陰なのだ。旦那様に、守られているからなのだ。
そんなことを、ひしひし思いつつ、月子は、そっと、岩崎の背に体を持たせかけた。

