麗しの君に。~大正イノセント・ストーリー~

月子が、着替えを終え居間へ続くふすまを開けたとたん、歓声があがった。

何事かと部屋を見てみると、お咲が、唄い終え、立ちすくんでいる。

「おい!岩崎!大したもんじゃないか!」

「そうだろ?中村!しかも、私の演奏を聞いて、時間が経っているにもかかわらずだ。まあ、最初の一小節は、半音ずれていた所もあったが、よしとしよう」

岩崎と中村は、興奮しきっている。

しかし、その脇では……。

「うーん。何が凄いんだい?ビービー言ってるだけに、俺には聞こえたんだが。まあ、何かしらの唄、って、ことは分かった」

二代目が、ぼやいている。

「ちょっと!二代目!あんたなぁ!」

「中村。二代目は、こうゆう男なんだ。まるっきり、芸術、音楽というものが、わかっていない」

いきり立つ中村、それを制する岩崎のことなどおかまいなしで、二代目は、生欠伸をかみしめつつ、

「あー、酒が回って眠くなっちまったなぁ。もう一本、いっとくか」

などと言いつつ、徳利を手に取った。

「二代目!飲んでる場合か!ひょっとしたら、お咲は天才かもしれんのだぞ!」

中村が、噛みついた。

「でもねぇ、知ってる曲だったのかもしれねぇでしょう?中村の、にいさん」

酒が、ねえなぁと、徳利を覗きこみながら、二代目は答えた。

その適当加減が、中村に火をつける。

「岩崎!!演奏しろっ!バイオリンがあるっ!お咲の知らない曲を演奏するんだ!」

二代目の鼻をあかしてやろうと、中村は岩崎へ言った。

どうやら、お咲の実力を認めさせたいらしい。

そこは、岩崎も同じ思いのようで、よし、と、妙に前向きだった。

「月子様……」

こちらへと、部屋の隅に座っていた吉田が、話についていけない月子へ手招きする。

「……私は、これにて。少しばかり、にぎやかですが、月子様は、はいはいと、返事をしておけば大丈夫ですから」

「は、はい……」

月子は、とまどいながらも、芳子の着物をまとめた包みを吉田に手渡すと、そっと、腰を下ろした。

中村が、バイオリンを岩崎へ手渡している。

うん、と、大きく岩崎は頷き、演奏する気になっているが、ピタリと動きが止まった。

「中村。なぜ、私がバイオリンを演奏しなければならない?私はそもそも、チェロが専門なのだ。で、どうして、バイオリンがある?と、いうより、中村が、なぜいるのか、だ」

あーー、と、二代目は、酔いがまわってか、気だるそうに横になり、

「でたね、京さんの、あーでもない、こーでもない。中村のにいさんが、お弾きなさいよ。その方が、面倒臭くないでしょ」

「おお、二代目よ!確かにそうなのだ。が、おれも、酒が回ってる。指が動かんのだなぁ。それに、ほれ、岩崎に、弾かせるのが花をもたせるってやつじゃねぇかい?」

言って、中村は、顎をしゃくって、二代目へ合図する。

何のことやらと、示された後ろ側を見てみると、月子の姿があった。

「あーー、月子ちゃん、来てたの!そんじゃ、京さん、頼むわ!」

「何が、頼むだ!それに、中村!お前、月子を、ぞんざいに扱いしすぎるぞ!なんだ、あの態度は!」

岩崎は、持っている、バイオリンの弓を振り回し、男二人を睨み付けた。

「……言ったよ、月子だと」

「へえ、岩崎、ほの字じゃないか?!」

睨み付けられた二人は、ものともせず、へらへら笑った。

「なっ!?」

岩崎は、言葉に詰まる。

部屋の隅に座っている月子も、二代目と中村の言い様に、つと、頬を染めた。

「まっ、細かいことは抜きにして、とにかく!お咲の才能を見極めるぞ!岩崎!」

中村の音頭に、岩崎も、はっとすると、頷いた。

「でだな、G線上のアリアは、意外と難易度が低い曲だ。ひょっとしたら、まぐれ当たりの線もある……」

「うん?中村、つまりは、もっと難易度の高い曲をという事か?しかし、難易度というのは、演奏する側の問題であって、聞いて真似する部分に関しては、どうなのだろうか?」

岩崎の問いに、中村も、うーんと考えこんだ。

「なんなんだい。適当に小技の効いたのやりゃーいいでしょ。で、そこんとこが、唄えるかどうか、ってのを見ればいいんじゃないの?!って、言うより……」

ごろ寝している二代目は、ちらりと月子へ目をやると、

「お咲もだけど、まあ!素敵って、言わせる方が、いいんじゃないのかねぇ?」

中村へ、意味深に目配せした。

「おお!それも、ありだな!ということで、岩崎!」

「はっ?!」

言われていることが、さっぱりわからんと、岩崎は、ポカンとしつつ、それでも、行き掛かり上、演奏の体勢をとる。

「……そうだなぁ、では、ヨハネス・ブラームス作曲、ハンガリー舞曲第五番……を」

言うと、岩崎は、キッと顔を引き締め背筋を伸ばし、バイオリンを左顎で挟み、弓を弦に当てた。

バイオリンの音が駆けている。

岩崎が演奏している曲は、男爵邸で披露されたものとは異なり、爽快で、晴れやかなものだった。

その、流れる曲の速さときたら、全速力で走っているかの様で、演奏している岩崎の指は器用を越えた動きをしていた。

左手の指先が、弦の上を忙しく動く。

もつれてしまうのではないかと思う程、小刻みに岩崎の指は動いていた。

そのたび、バイオリンから、小気味良い高音が流れ出る。

だるそうに転がっていた二代目も、おっと声をあがて、起き上がり、お咲は、これまた目を丸くして演奏に聞き入っていたが、わあっと、嬉しそうに叫んで、曲にあわせながら跳び跳ね始めた。

月子も、初めて耳にする軽快な音楽に、つい、笑みを浮かべていた。

調(しらべ)は、どんどん速くなり、岩崎も、体をくゆらせながら、勢い良く弓を引く。

月子の知らない世界が、小さな居間で繰り広げられていた。

岩崎が大きく、弓を引き切った。

賑やかに流れていた音が止まり、瞬間、静けさが戻ってきたが、すぐに、二代目と中村のヤジのような歓声と、興奮しきったお咲の騒ぎ声が響き渡る。

「ちゃん、ちゃん、ちゃんちゃん」

お咲の独唱が始まった。

よほど気に入ったのか、お咲は、嬉しそうに、一生懸命、岩崎が演奏した曲を唄い始めていた。

無理もないと、月子は思う。

月子ですら、気分が高揚し、演奏を終えて、律儀に一礼する岩崎の姿が、勇ましく、そして、誇らしく見えるのだから。

まだ、幼いお咲ならば、当然、弾けきってしまうだろう。

そんなことを思いつつ、月子は、岩崎の姿に見入ってしまっている自分に気がついた。

どうすれば良いのかわからなくなった月子は、さっと目を伏せて、岩崎からの視線を避ける。

「中村のにいさん、こりゃまた、色々、大変だ!」

「だろう?二代目!まあ、この主旋律は、聞き取り安いかもしれないが、お咲は、岩崎の編曲部分と、間までちゃんと聞き取ってるんだよ。って、わかんのかねぇ?あんたに……」

完璧に岩崎の演奏を唄いあげている、お咲のことを中村は、褒め称えるが、二代目には、何が凄いのか、わかるまいと、少々複雑な顔をした。

「おやおや、見くびってもらっちゃ困る。俺にも、ちゃんと分かりますよ。なんとわなし、むず痒い雰囲気を、作ってしまったって事もねぇ」

へへへと、薄ら笑いながら、二代目は、岩崎と月子をチラチラ見た。

お咲の唄声を、岩崎も聞いてはいるが、視線は、月子へ定まっていた。

やりきった、と、脱力感を漂わせながら、しっかり、月子を見ていたのだ。

「あぁ?!お咲はどうなる?!って、言うか、本当だわ。こりゃあ、目の毒だ!」

「なあ?お咲の凄さは、俺もわかったけど、二人の凄さも、なんとわなし、って、やつじゃないですかい?中村のにいさん?!」

だわなぁ。こりゃまた、と、中村も二代目の口車に乗っかっている。

一方、岩崎は、やはり、なんのことやらと、二代目と中村を責めるように睨み付けた。

「慣れないバイオリンを、即興で弾いたのだぞ!もっと、ちゃんと、お咲のことを考えないかっ!」

「とはいうけど、二人のことこそ、ちゃんと考えないと、お咲の行く末もかかって来るって話じゃないかい?京さんよ?」

二代目は、不機嫌な岩崎へ、飄々と言った。

その後ろで、月子は居心地悪く、もぞもぞしながら、座っている。

お咲はというと、ご機嫌な様子でまだ唄っていた。

「まあまあ、なんだ。とにもかくにも、凄いこと、って訳だろ?堅物の岩崎が、若い嫁さん貰うわ、天才少女が現れるわ!」

ははは、と、中村は、大笑いし、二代目も、まっ、おいおいってことかねぇ、などと良くわからない事を言いながら、酒もつまみもねぇなあ、と、拗ねている。

「あっ、な、何か、用意いたします!」

月子が、立ち上がろうとするのを、岩崎が止めた。

「そもそも、なんで、人の家で、お前たちは、酒盛りをやっている!中村!説明してみろ!」

岩崎からすれば、西条家より戻ったら、余計な面子が勝手に酒盛りをしていた。という話で、納得がいかないらしい。

「あっ、お咲ちゃんが……」

お咲は、唄い終わり、どうすれば言いのかと、また、立ちすくんでいる。

目ざとく見つけた、月子が、お咲へ拍手しながら、

「皆様も!お願いします!お咲ちゃんが、可愛そうです!」

言い合っている男達へ向かって、意見する。

「ありゃ、嫁さんにしかられたぞ、岩崎!」

「いやぁ、怒った月子ちゃんも、可愛いねぇ」

中村も二代目も、軽い態度は代わらずで、岩崎は、そんな二人に堪忍ならんと、顔を歪めきっていた。