麗しの君に。~大正イノセント・ストーリー~

路面電車が走る大通りから離れ、住み処のある神田旭町界隈の路地へやって来たからか、岩崎の足どりは、軽くなったように月子には思えた。

案の定……。

「しかしだ!うん、しかしだね、どう思う?!」

今まで黙りこんでいた岩崎が、急に叫んだ。いや、月子へ問いかけて来た。

相変わらずの声の大きさに、月子は、一瞬びくりと肩を揺らしたが、岩崎は、それにも気がついていないようで、喋り始める。

「一緒に歩んでくれと、私は言った。確かに、そう思ったのだ。それは、嘘偽りではない。しかしだ、やはり、急過ぎるのではないだろうか?思えば、私達は、お互いの事を何も知らない。それ以上に、問題がある。歳の差だよ!君は、気にならないのか?!」

「は、はい?!」

大通りとは違い、人通りは、まばらというより、無いに等しくはあるが、岩崎の声の大きさは、芳子が、常に嫌がるのも分かるというほど響き渡るものだった。

月子は、その大声に押され、答えにもならない返事をしながら、辺りを見回した。先程のような事は、まっぴらだったからだ。

路上で、まさか、岩崎が結婚について意思表示をするとは思ってもみなかった。

岩崎は、月子に、一緒になろうと、言ってくれた訳なのだが……、もう少し、場所柄というものを考えて欲しかった。

そして、今度は、先程の決意というべきものが、揺らぎ始めているように、月子には思えた。

確かに、岩崎が言うよう、歳の差、身分差、諸々、二人には壁がある。

先程は、月子も、どこか、ぼんやりに近い状態で、流されてしまったが、今問われていることは、二人にとって最大の問題なのかもしれない。

よっぽど、ここで周囲の反対がある方が、気楽ではあるのだが、そうなると、月子は岩崎と一緒には、なれないことになる。

そう思うと、月子の胸は、きゅっと締め付けられた。

今更ながら、月子に起こっていた数々の体の異変は、岩崎と共にいたいと思ったからで、そんな、自分の本心というものに、気がついてしまった月子は、岩崎の執拗な大声に、すぐに答える事が出来なかった。

背負っている月子が、そんな状態とは露知らず、なのだろう。岩崎は、ひたすら、よいのだろうかと、ぶつぶつ言っている。

「あの!」

「うん、なんだね?」

「い、いえ……」

「……ん?なんだね?その答えになっていない答えは……」

「はあ……そ、そうですね」

そこまでが、今の月子の限界なのだが、岩崎ときたら、深い答えを求めようとしているのか、月子へ、わからん、なんだ、と、妙に粘って来る。

「あ、あ、あの、そ、そこのところは、私も歳をとりますし……いずれは、岩崎様とも釣り合いがとれるのではないでしょうか……」

たまらず、月子は、岩崎へ言った。もちろん、口からでまかせ的な、これまた、妙な事を言っていると、思ってしまう内容を。

何を言っているのかと、きっと岩崎に呆れられると思ったが、

「なるほど、確かに、互いに歳をとる。君も、いずれは、今の私の歳になる訳か……。つまり、時が立てば、問題は解決すると……」

ん?と、月子は、首をひねった。

もしかして、岩崎なりの冗談なのか。

しかし、なるほど、なるほど、と、岩崎は、すっきりしたと、またもや、足取りが軽くなっていく。

そうこうするうち、板塀に囲まれた岩崎の家に到着してしまった。


「……ここが、まさか、新居となるとは、夢にも思わなかったなぁ……」

うーんと、岩崎は、感慨深げに呟いた。

月子は、どう答えれば良いのか、何と声がけすべきなのか、いや、このまま、黙っているのが一番なのだろうと、静かに背負われていたが、わあっと、岩崎の家から歓声のような、賑やかな声が流れて来る。

何事かと、月子は、驚くが、岩崎は、思うところありとばかりに、

「なんで、あいつが?!」

と、叫びながら、敷地へ飛び込むと、玄関のガラス戸を慌てて開けた。

すると、

「お帰りなさいませ」

「おかえり、なさい、ませ」

岩崎家筆頭執事の吉田と、お咲が、たどたどしく、出迎えてくれた。

「岩崎家の面目もございます。月子様の専属女中として、お咲をこちらに住み込ませます」

西条家から嫁を貰うが、女中の一人もいないのでは、岩崎男爵家の面目丸潰れと、いうことで、田口屋に、適当な女中を頼んだら、何かの手違いで、お咲がやって来た。

何しろまだ子供ですから、お咲を頼みます。などと、吉田は言ってくれている。

どうやら、それを言いたかった為に、やって来ているようなのだが……。

「はぁ?!」

岩崎が、どうゆう理由から、お咲を、と、言い返そうとした所、わはははは、と、明らかに、出来上がっている男の騒ぎ声が聞こえてくる。

「……吉田、なんで、あいつがいるんだ?」

「お客様ですので」

吉田の淡々とした受け答えを打ち消すかのよう、

「あっ!京さん、やっと帰って来たか?!」

田口屋の二代目の弾けた声がした。