ぼくは夏休みの自由研究をどうしようか考えていました。
ちょうどテレビで「バスタオルは何回使ったら洗いますか?」というコーナーをやっていて、半分以上の人が毎日洗うと答えていました。
10%の人は一週間に一回しか洗わないと言っていました。
テレビに出ていた専門家の人は、使ったタオルをそのままにしておくとバイキンが増えて衛生的ではないと言っていました。
でも、きれいに洗った体の水分をふき取るだけだから、ちゃんとかわかせば問題ないという意見もありました。
そこで、ぼくは実際に使ったあと一週間そのままにしておいたタオルと、毎日取り換えているタオルを比べて、どんな違いがあるかを調べることにしました。
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実験方法
毎日、おふろから出た時にタオルで体をふく。使ったタオルをそのままハンガーにかけて一週間使い続ける。
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一日目
おふろから上がって新しいタオルで体をふいて、そのタオルをハンガーにかけました。ふわふわでじゅうなんざいのいいにおいがしました。
二日目
おふろから上がって昨日と同じタオルで体をふきました。タオルはかわいていて、じゅうなんざいのいいにおいもするし、せいけつな気がしました。
三日目
お母さんが新しいタオルを出していて、使ったタオルはせんたく機に入れられていたので、こっそり出して自分の部屋に置いておくことにしました。そのタオルは着がえの下にかくしておいて、おふろから上がった時に体をふきました。昨日から完全にかわいていなかったので少しひんやり感じたけど、へんなにおいもしないし、やっぱりせいけつな気がしました。
四日目
ぼくのへやはあまりかんそうしていないので、タオルをハンガーにかけておいてもカラカラにはかわかないようです。おふろから上がったあとに少しぬれているタオルで体をふくとあまり気持ちがいい感じはしないです。でもタオルはまだじゅうなんざいのにおいが残っていて、くさいという感じはしなかったです。
五日目
おふろから上がってタオルでからだをふこうとした時、少しだけくさいような気がしました。もしかしたらテレビで見たバイキンが増えているのかもしれないです。お父さんは、この辺は夏のしつ度が高いからカビが生えやすいと言っていました。カビはバイキンの一種かもしれないので、それも調べてみたいです。
六日目
部屋に置いておいたタオルをお母さんが見つけて、変な実験はやめなさいと言われたので、ここで実験は終わります。
タオルはちゃんとかわいていない状態だとけっこうくさくなりました。
かんそうした場所や、からだのよごれ具合によって結果が変わると思います。
ぼくはバスタオルは3日に一回くらいは洗ったほうがいいと思いました。
七日目
おなら
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以上が、2024年七月に、とある小学生の息子の自由研究を面白いと思った母親が大手SNSに投稿した内容です。
何か予想外の結果が生まれたとか、極めて斜め上の発想から生まれた愉快で面白いネタと感じるものではないかもしれませんが、小学生がある程度真剣に、結果的にそれなりのユーモアがある研究を形にしてみようと思ったところに、数日で7万いいね!を獲得するに至るほど大きな反響を呼んだ要因があるのかもしれません。
その投稿には「小さい頃、似たようなことを靴下でやった」とか「我が子なら止めただろうけど、科学の発展に寄与する素晴らしい研究だ」「七日目のおならってww」「最終日のやっつけ感こそ小学生の自由研究」といった、概ね共感や肯定的なコメントが数多く付けられています。
ではこの自由研究を作ったのはいったいどこの誰なのかを知りたいと思うのがネット記事を書くライターの性というもの。
筆者(こりごりらと申します)はこの自由研究を投稿した母親とされる人物のアカウントにダイレクトメッセージを送り、ぜひお子さんの研究と、最終的におならに至るまでの経緯を取材させていただきたい旨をお伝えしました。
残念ながらダイレクトメッセージへの返信も無く、大手テレビ局や新聞社ならともかく、ネットのおもしろネタを扱う弱小ウェブメディアからの取材申し込みには応えてもらえないだろうと諦め、ゲテモノを一人で料理して食べてみたなんていう記事ネタを作り始めた頃でした。
情報過多で、次から次へと新しいオモシロネタや炎上ネタが現れては消えていくこの時代、既にその投稿の反響はほとんど見られなくなっていましたし、私自身も自分の取材申し込みメッセージを忘れかけていました。
およそ二週間後、編集部宛てに届いた封筒にはSDカードが一枚だけ入っていました。
添えられたメモ書きには「自由研究担当 こりごりらさん」と書かれていました。
同僚のライターK君が「これ、ごりさんのやつじゃないですか?」と開封された封筒を渡してきた時は、メモ書きを見てもはてなんのことだったかとしばし記憶を辿らなくてはいけない状態でしたが、やがて例の投稿ネタと結びつき、あの母親がSDカードに何らかの情報を入れて送ってくれたのだと悟りました。
さて、そのSDカード。容量が1テラバイトもある大容量のものでした。重たい動画ファイルでも入っているのかと予想しましたが、はたしてその予想通り、時間にして168時間分の映像が詰め込まれた異様なものでした。
動画ファイルを再生し始めてすぐに分かったのは、これは例の小学生の微笑ましい自由研究とは何の関係もないものだということでした。
恐らく三脚のようなもので固定されたカメラは、やや広角寄りの画角で一般的な六畳間ほどのフローリングの部屋を映し出していました。部屋に一つだけある窓にはレースのカーテンが掛かっており、真昼の太陽がレース越しにも分かるくらい強い光を室内に投げかけています。窓の上にエアコンが取り付けられており、停止している様子です。他には家具らしいものが一つもないがらんとした部屋の中央に、ダイニングテーブルで使うようなシンプルな木の椅子が窓に背を向けるように置いてあり、そこに一人の女性が座っていました。
女性は年齢にして三十代後半から四十代半ば、鼻筋が通ったはっきりした顔立ちで、きりっと太い眉毛が聡明な印象を与える、筆者の感覚で言うなら美人の方でした。少し明るめの茶色で染められた髪は頭の後ろで束ねてあるのか、おでこの生え際の染まっていない黒髪を目立たせています。身なりはと言うと、上着は襟のあるパリッとしたノースリーブのシャツで、薄い黄色の生地でした。パンツはこちらも上品なグレーのデニム。自分の格好にすら無頓着な筆者の、女性のファッションに対するなけなしの知識を動員したところで、なんと表現したら良いか分かりませんが、少なくともそのままお洒落な街を歩いていても全くおかしな印象を受けない、小綺麗な姿に見えました。
その人がぼんやりと目を開けてカメラに視線を投げかけており、だらんと脱力した両腕が小さなひじ掛けの上に乗せられています。
筆者はこの女性がまもなく何かを語りだすのだと思ってしばらく画面を見つめていましたが、一向に何かを喋るでもなく、微動だにしないのです。
もしかしたらこれはただの静止画像で、ただただ膨大な再生時間だけでストレージを圧迫するように作られた悪戯か、あるいはデータフォーマットかこちらのPC環境の影響で正しく再生されていないだけなのかもしれないと思い、画面下部に表示されているシークバーのスライダーを動画終端に向かって一気に動かして、動画の全体像を見てみようとしました。
残念ながら筆者の使っている貧弱なノートPCは読み込み中のくるくるアイコンが回ってしまい、そのままマウスカーソルも動かない状態になってしまいました。
ただ、スライダーをグイっと動かしてPCがフリーズしてしまう直前、電車で寝落ちした人のように女性の首がぐらっと傾き、そのまま左肩に頭を乗せるように真横を向いたのが確認できて、これが静止画の類ではないということだけは分かりました。首を大きく傾けたまま女性の目が尚もカメラを見据えている姿に何かぞっとする感覚を覚え、筆者は脊髄反射的にPCの電源ボタンを長押しして強制シャットダウンしました。
筆者の寄稿するウェブメディアの運営会社が入るビルには、地下に音楽レーベルやテレビ局を顧客に活躍する映像や音響の専門会社があり、そのスタジオに長くいる、腕は確かだがやや偏屈な古老エンジニアのもとにSDカードを携えていった時、そのおじさんの第一声が「ああ、お化けネタか」だったのでぎょっとしたのを覚えています。筆者の顔色が悪かったようで、彼に言わせればほとんど死にかけだったそうです。
エンジニア(以降山田さん)は筆者の手からSDカードをひったくるように取ると「ゾンビは座っていてね」と冗談めかして言いました。
音楽や映像を弄るスタジオに置かれた機器というものは、常人には考えられないほど高価なものが多く、レコーディングの際にちょっと音を圧縮するためだけに使うらしき(山田さん、ごめんなさい)歴史に残るアナログの名機から、最新のサラウンド規格に対応した音作り用のミキサーに至るまで、どれもがこれまた信じられない価格の太いケーブルで繋がれ、モンスターのようなスペックのコンピュータを中心に、一本で新車が買えるようなモニタースピーカーまで、まるで大きな脳の中に入ったようなネットワークを形成しています。
山田さんが半分引退して後輩にスタジオ運営を譲るまではそのスタジオに行く機会も少なかったのですが、音楽のレコーディングや映像制作に使われていない時間に戦前戦中の貴重な資料になるほど古い映像のデジタルリマスターや、いわゆるUFO映像のようなネタ動画なんかを個人的な趣味で扱うようになったと聞いてからは、筆者の仕事柄も手伝って足を運ぶ機会が増えていきました。
彼がSDカードをセットして再生を始めると、筆者が最初に見た通り、部屋の真ん中に置かれた椅子に座る女性が映し出されました。筆者は山田さんの肩越しにモニターに映し出される既知の映像を見つめました。その時初めて気づいたのは、無音だと思っていた映像には、なんとも形容しがたい音が記録されているということでした。それはキャンプで焚火をしている時に木が爆ぜるような、あるいはきしんだ扉の丁番が立てるキッという鋭い音でした。ただ、映し出されている部屋のどこかで鳴っているというより、陽の差し込む窓の外か、あるいは撮影されている部屋の隣にある部屋からドアを隔てて聞こえるような、ややくぐもったものでした。再生されているモニターには、音声情報を示す波形データのトラックが表示されており、さきほどの音が確かに断続的に鳴っていることを示すように、音に合わせて細くて長い波形がぴょんぴょんと飛び跳ねるのでした。
やがて画面は、筆者が最後に見た女性の頭がぐらっと傾くところに来ました。
しばらく睨みつけるように再生画面を見ていた山田さんが「これ、死体じゃねえか?」と呟いたので、筆者はどこかで予感があった現実を突きつけられたようで心臓がぎゅっと抑えられるような感覚に襲われました。
彼は筆者が自分のパソコンでやったのと同じように、再生スライダーを時間軸の後半まで一気に進めました。すると、画面が真っ暗になりました。よく見ると、昼間日が差し込んでいた窓に街灯や時折過ぎ去る自動車のヘッドライトの明かりのようなものが見えたので、映像が暗転して停止しているわけではなく、同じ部屋が映し出されていることが理解できました。
何より、それらの光が朧げに室内に差し込むたびに、首をぐんにゃりと傾けたまま椅子に座った女性の姿が影絵のようなシルエットになり、確かに彼女がそこにいることが分かったので、筆者の恐怖心は一段と高まりました。
山田さんは何も言わず、さらにスライダーを進めました。映像の時間は再生開始から167時間を示していました。
部屋が明るくなり、椅子の上には同じ女性が腐乱して膨れ上がった姿が映し出されました。
白濁した眼球や鼻腔から血と体液が流れ出て床に滴り、フローリングに赤茶けた水溜まりを作っていました。襟付きのノースリーブシャツから出た二本の腕はまだら模様の死斑が浮かび上がり、腹部はボタンが飛びそうなほど膨らんでいました。
そして、確かに、女性の閉じられていた口が少しだけ開き、豚が鼻を鳴らすような、あるいはおならのような音が長く部屋に響き渡りました。口から洩れる音と共に、赤黒い飛沫がぷつぷつと飛び、黄色かったシャツに汚いシミを広げていきました。
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警察の情報筋によると、S県のT市にあるマンションの一室で女性の腐乱死体が発見されたのは筆者のもとにSDカードが届けられて三日ほど経過した頃だったと言います。当地で異常な高温多湿が続いたせいもあり、通常なら死因や死亡推定時期を絞るのが難しいほど傷みの激しい遺体でしたが、筆者のもとに届けられた映像が大きな証拠となり、女性の身元特定などが予測より早く進んだということでした。
現場で見つかったスマートフォンなどの情報から、小学生の男の子が愉快な自由研究を作ったという投稿をしたのはその女性のアカウントであり、本人かあるいは別の誰かが女性のスマートフォンから投稿したということで間違いない、という結論に達したようです。
女性は独身で、子供もいない人物であるということでした。
それが事実なら少し救われた気持ちになるのは、あの投稿をしたという小学生の男の子は実在せず、この陰惨な事件に可哀そうな子供の被害者はいないと思われることでしょうか。
ネットでは「ウケる」ことを狙っただけの嘘だらけの投稿も無数にあるでしょうが、この一件は筆者にとってネットメディアを扱う人間としての在り方を再考させられる機会となりました。
筆者としては、洗わないバスタオルが次第に臭くなっていく様子が、あの女性が朽ちていくその光景を指し示しているように思えてなりません。
なにより、七日目の「おなら」というひと言は、この事件に関わった誰かがその様子を観察して記録したとしか思えないのです。
一昨日、あのスタジオの山田さんからの電話で、彼が少し興奮した様子で「あの動画、焚火みたいってお前が言ってた変な音が入ってたろ? あれ、誰かが口を押さえて必死に引き笑いをこらえている音だよ。ヒッ ヒッって」と言ったことで、筆者の絶望的な予感はほぼ確信に変わりつつあります。
そして、これは編集長始め誰かに相談することをためらっていることなのですが、昨日、私の自宅に差出人不明の封筒が投函されており、そこには新品未開封のSDカードが一枚入っていました。
これをどうしたらいいんだろう。
ちょうどテレビで「バスタオルは何回使ったら洗いますか?」というコーナーをやっていて、半分以上の人が毎日洗うと答えていました。
10%の人は一週間に一回しか洗わないと言っていました。
テレビに出ていた専門家の人は、使ったタオルをそのままにしておくとバイキンが増えて衛生的ではないと言っていました。
でも、きれいに洗った体の水分をふき取るだけだから、ちゃんとかわかせば問題ないという意見もありました。
そこで、ぼくは実際に使ったあと一週間そのままにしておいたタオルと、毎日取り換えているタオルを比べて、どんな違いがあるかを調べることにしました。
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実験方法
毎日、おふろから出た時にタオルで体をふく。使ったタオルをそのままハンガーにかけて一週間使い続ける。
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一日目
おふろから上がって新しいタオルで体をふいて、そのタオルをハンガーにかけました。ふわふわでじゅうなんざいのいいにおいがしました。
二日目
おふろから上がって昨日と同じタオルで体をふきました。タオルはかわいていて、じゅうなんざいのいいにおいもするし、せいけつな気がしました。
三日目
お母さんが新しいタオルを出していて、使ったタオルはせんたく機に入れられていたので、こっそり出して自分の部屋に置いておくことにしました。そのタオルは着がえの下にかくしておいて、おふろから上がった時に体をふきました。昨日から完全にかわいていなかったので少しひんやり感じたけど、へんなにおいもしないし、やっぱりせいけつな気がしました。
四日目
ぼくのへやはあまりかんそうしていないので、タオルをハンガーにかけておいてもカラカラにはかわかないようです。おふろから上がったあとに少しぬれているタオルで体をふくとあまり気持ちがいい感じはしないです。でもタオルはまだじゅうなんざいのにおいが残っていて、くさいという感じはしなかったです。
五日目
おふろから上がってタオルでからだをふこうとした時、少しだけくさいような気がしました。もしかしたらテレビで見たバイキンが増えているのかもしれないです。お父さんは、この辺は夏のしつ度が高いからカビが生えやすいと言っていました。カビはバイキンの一種かもしれないので、それも調べてみたいです。
六日目
部屋に置いておいたタオルをお母さんが見つけて、変な実験はやめなさいと言われたので、ここで実験は終わります。
タオルはちゃんとかわいていない状態だとけっこうくさくなりました。
かんそうした場所や、からだのよごれ具合によって結果が変わると思います。
ぼくはバスタオルは3日に一回くらいは洗ったほうがいいと思いました。
七日目
おなら
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以上が、2024年七月に、とある小学生の息子の自由研究を面白いと思った母親が大手SNSに投稿した内容です。
何か予想外の結果が生まれたとか、極めて斜め上の発想から生まれた愉快で面白いネタと感じるものではないかもしれませんが、小学生がある程度真剣に、結果的にそれなりのユーモアがある研究を形にしてみようと思ったところに、数日で7万いいね!を獲得するに至るほど大きな反響を呼んだ要因があるのかもしれません。
その投稿には「小さい頃、似たようなことを靴下でやった」とか「我が子なら止めただろうけど、科学の発展に寄与する素晴らしい研究だ」「七日目のおならってww」「最終日のやっつけ感こそ小学生の自由研究」といった、概ね共感や肯定的なコメントが数多く付けられています。
ではこの自由研究を作ったのはいったいどこの誰なのかを知りたいと思うのがネット記事を書くライターの性というもの。
筆者(こりごりらと申します)はこの自由研究を投稿した母親とされる人物のアカウントにダイレクトメッセージを送り、ぜひお子さんの研究と、最終的におならに至るまでの経緯を取材させていただきたい旨をお伝えしました。
残念ながらダイレクトメッセージへの返信も無く、大手テレビ局や新聞社ならともかく、ネットのおもしろネタを扱う弱小ウェブメディアからの取材申し込みには応えてもらえないだろうと諦め、ゲテモノを一人で料理して食べてみたなんていう記事ネタを作り始めた頃でした。
情報過多で、次から次へと新しいオモシロネタや炎上ネタが現れては消えていくこの時代、既にその投稿の反響はほとんど見られなくなっていましたし、私自身も自分の取材申し込みメッセージを忘れかけていました。
およそ二週間後、編集部宛てに届いた封筒にはSDカードが一枚だけ入っていました。
添えられたメモ書きには「自由研究担当 こりごりらさん」と書かれていました。
同僚のライターK君が「これ、ごりさんのやつじゃないですか?」と開封された封筒を渡してきた時は、メモ書きを見てもはてなんのことだったかとしばし記憶を辿らなくてはいけない状態でしたが、やがて例の投稿ネタと結びつき、あの母親がSDカードに何らかの情報を入れて送ってくれたのだと悟りました。
さて、そのSDカード。容量が1テラバイトもある大容量のものでした。重たい動画ファイルでも入っているのかと予想しましたが、はたしてその予想通り、時間にして168時間分の映像が詰め込まれた異様なものでした。
動画ファイルを再生し始めてすぐに分かったのは、これは例の小学生の微笑ましい自由研究とは何の関係もないものだということでした。
恐らく三脚のようなもので固定されたカメラは、やや広角寄りの画角で一般的な六畳間ほどのフローリングの部屋を映し出していました。部屋に一つだけある窓にはレースのカーテンが掛かっており、真昼の太陽がレース越しにも分かるくらい強い光を室内に投げかけています。窓の上にエアコンが取り付けられており、停止している様子です。他には家具らしいものが一つもないがらんとした部屋の中央に、ダイニングテーブルで使うようなシンプルな木の椅子が窓に背を向けるように置いてあり、そこに一人の女性が座っていました。
女性は年齢にして三十代後半から四十代半ば、鼻筋が通ったはっきりした顔立ちで、きりっと太い眉毛が聡明な印象を与える、筆者の感覚で言うなら美人の方でした。少し明るめの茶色で染められた髪は頭の後ろで束ねてあるのか、おでこの生え際の染まっていない黒髪を目立たせています。身なりはと言うと、上着は襟のあるパリッとしたノースリーブのシャツで、薄い黄色の生地でした。パンツはこちらも上品なグレーのデニム。自分の格好にすら無頓着な筆者の、女性のファッションに対するなけなしの知識を動員したところで、なんと表現したら良いか分かりませんが、少なくともそのままお洒落な街を歩いていても全くおかしな印象を受けない、小綺麗な姿に見えました。
その人がぼんやりと目を開けてカメラに視線を投げかけており、だらんと脱力した両腕が小さなひじ掛けの上に乗せられています。
筆者はこの女性がまもなく何かを語りだすのだと思ってしばらく画面を見つめていましたが、一向に何かを喋るでもなく、微動だにしないのです。
もしかしたらこれはただの静止画像で、ただただ膨大な再生時間だけでストレージを圧迫するように作られた悪戯か、あるいはデータフォーマットかこちらのPC環境の影響で正しく再生されていないだけなのかもしれないと思い、画面下部に表示されているシークバーのスライダーを動画終端に向かって一気に動かして、動画の全体像を見てみようとしました。
残念ながら筆者の使っている貧弱なノートPCは読み込み中のくるくるアイコンが回ってしまい、そのままマウスカーソルも動かない状態になってしまいました。
ただ、スライダーをグイっと動かしてPCがフリーズしてしまう直前、電車で寝落ちした人のように女性の首がぐらっと傾き、そのまま左肩に頭を乗せるように真横を向いたのが確認できて、これが静止画の類ではないということだけは分かりました。首を大きく傾けたまま女性の目が尚もカメラを見据えている姿に何かぞっとする感覚を覚え、筆者は脊髄反射的にPCの電源ボタンを長押しして強制シャットダウンしました。
筆者の寄稿するウェブメディアの運営会社が入るビルには、地下に音楽レーベルやテレビ局を顧客に活躍する映像や音響の専門会社があり、そのスタジオに長くいる、腕は確かだがやや偏屈な古老エンジニアのもとにSDカードを携えていった時、そのおじさんの第一声が「ああ、お化けネタか」だったのでぎょっとしたのを覚えています。筆者の顔色が悪かったようで、彼に言わせればほとんど死にかけだったそうです。
エンジニア(以降山田さん)は筆者の手からSDカードをひったくるように取ると「ゾンビは座っていてね」と冗談めかして言いました。
音楽や映像を弄るスタジオに置かれた機器というものは、常人には考えられないほど高価なものが多く、レコーディングの際にちょっと音を圧縮するためだけに使うらしき(山田さん、ごめんなさい)歴史に残るアナログの名機から、最新のサラウンド規格に対応した音作り用のミキサーに至るまで、どれもがこれまた信じられない価格の太いケーブルで繋がれ、モンスターのようなスペックのコンピュータを中心に、一本で新車が買えるようなモニタースピーカーまで、まるで大きな脳の中に入ったようなネットワークを形成しています。
山田さんが半分引退して後輩にスタジオ運営を譲るまではそのスタジオに行く機会も少なかったのですが、音楽のレコーディングや映像制作に使われていない時間に戦前戦中の貴重な資料になるほど古い映像のデジタルリマスターや、いわゆるUFO映像のようなネタ動画なんかを個人的な趣味で扱うようになったと聞いてからは、筆者の仕事柄も手伝って足を運ぶ機会が増えていきました。
彼がSDカードをセットして再生を始めると、筆者が最初に見た通り、部屋の真ん中に置かれた椅子に座る女性が映し出されました。筆者は山田さんの肩越しにモニターに映し出される既知の映像を見つめました。その時初めて気づいたのは、無音だと思っていた映像には、なんとも形容しがたい音が記録されているということでした。それはキャンプで焚火をしている時に木が爆ぜるような、あるいはきしんだ扉の丁番が立てるキッという鋭い音でした。ただ、映し出されている部屋のどこかで鳴っているというより、陽の差し込む窓の外か、あるいは撮影されている部屋の隣にある部屋からドアを隔てて聞こえるような、ややくぐもったものでした。再生されているモニターには、音声情報を示す波形データのトラックが表示されており、さきほどの音が確かに断続的に鳴っていることを示すように、音に合わせて細くて長い波形がぴょんぴょんと飛び跳ねるのでした。
やがて画面は、筆者が最後に見た女性の頭がぐらっと傾くところに来ました。
しばらく睨みつけるように再生画面を見ていた山田さんが「これ、死体じゃねえか?」と呟いたので、筆者はどこかで予感があった現実を突きつけられたようで心臓がぎゅっと抑えられるような感覚に襲われました。
彼は筆者が自分のパソコンでやったのと同じように、再生スライダーを時間軸の後半まで一気に進めました。すると、画面が真っ暗になりました。よく見ると、昼間日が差し込んでいた窓に街灯や時折過ぎ去る自動車のヘッドライトの明かりのようなものが見えたので、映像が暗転して停止しているわけではなく、同じ部屋が映し出されていることが理解できました。
何より、それらの光が朧げに室内に差し込むたびに、首をぐんにゃりと傾けたまま椅子に座った女性の姿が影絵のようなシルエットになり、確かに彼女がそこにいることが分かったので、筆者の恐怖心は一段と高まりました。
山田さんは何も言わず、さらにスライダーを進めました。映像の時間は再生開始から167時間を示していました。
部屋が明るくなり、椅子の上には同じ女性が腐乱して膨れ上がった姿が映し出されました。
白濁した眼球や鼻腔から血と体液が流れ出て床に滴り、フローリングに赤茶けた水溜まりを作っていました。襟付きのノースリーブシャツから出た二本の腕はまだら模様の死斑が浮かび上がり、腹部はボタンが飛びそうなほど膨らんでいました。
そして、確かに、女性の閉じられていた口が少しだけ開き、豚が鼻を鳴らすような、あるいはおならのような音が長く部屋に響き渡りました。口から洩れる音と共に、赤黒い飛沫がぷつぷつと飛び、黄色かったシャツに汚いシミを広げていきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
警察の情報筋によると、S県のT市にあるマンションの一室で女性の腐乱死体が発見されたのは筆者のもとにSDカードが届けられて三日ほど経過した頃だったと言います。当地で異常な高温多湿が続いたせいもあり、通常なら死因や死亡推定時期を絞るのが難しいほど傷みの激しい遺体でしたが、筆者のもとに届けられた映像が大きな証拠となり、女性の身元特定などが予測より早く進んだということでした。
現場で見つかったスマートフォンなどの情報から、小学生の男の子が愉快な自由研究を作ったという投稿をしたのはその女性のアカウントであり、本人かあるいは別の誰かが女性のスマートフォンから投稿したということで間違いない、という結論に達したようです。
女性は独身で、子供もいない人物であるということでした。
それが事実なら少し救われた気持ちになるのは、あの投稿をしたという小学生の男の子は実在せず、この陰惨な事件に可哀そうな子供の被害者はいないと思われることでしょうか。
ネットでは「ウケる」ことを狙っただけの嘘だらけの投稿も無数にあるでしょうが、この一件は筆者にとってネットメディアを扱う人間としての在り方を再考させられる機会となりました。
筆者としては、洗わないバスタオルが次第に臭くなっていく様子が、あの女性が朽ちていくその光景を指し示しているように思えてなりません。
なにより、七日目の「おなら」というひと言は、この事件に関わった誰かがその様子を観察して記録したとしか思えないのです。
一昨日、あのスタジオの山田さんからの電話で、彼が少し興奮した様子で「あの動画、焚火みたいってお前が言ってた変な音が入ってたろ? あれ、誰かが口を押さえて必死に引き笑いをこらえている音だよ。ヒッ ヒッって」と言ったことで、筆者の絶望的な予感はほぼ確信に変わりつつあります。
そして、これは編集長始め誰かに相談することをためらっていることなのですが、昨日、私の自宅に差出人不明の封筒が投函されており、そこには新品未開封のSDカードが一枚入っていました。
これをどうしたらいいんだろう。