12月25日。
大人になった今も、今日だけは少し特別だ。どうしたって心が浮かれてしまう。街が赤と緑で彩られて、煌びやかに見える。僕はそんなクリスマスが昔から大好きだ。表参道のケヤキ並木の電飾も、夜を待ちきれずにうずうずとしている。そんな街を足早に抜けて、僕は職場の美容室に向かった。
「おはようございます」
「蒼太くんおはよう、今日は大忙しね」
先輩の胡桃さんと挨拶を交わして、すぐに予約表に目を落とす。
今日はクリスマスだ。僕もみんなに幸せを届けられるように頑張ろう! 手際よく自分の髪の毛のスタイリングを終え、僕は仕事の準備を始めた。
♢AM10時 赤嶺逞斗
赤嶺さんは今日も大荷物を担いでやって来た。僕はそれを大事に受け取りそっとクロークにしまう。中身は望遠鏡だ。赤嶺さんは大学で天文学を研究している先生。
「今日はどうします?」
「これから大事な人に会うので、爽やかにかっこよく」
赤嶺さんはニコッと笑って僕にそう伝えた。赤嶺さんの大切な人は記憶を無くしてしまう病気だと聞いたことがある。いつも、その彼女に会いに行く前に必ずお店に寄ってくれる。星が好きな彼女のために、赤嶺さんは日々研究しているそうだ。
軽快にカンカンと鋏を鳴らす。目を閉じてうつむいていた赤嶺さんが、ふっと顔を上げ静かに口を開いた。
「幾島さん、クリスマスツリーのさ、てっぺんにある星の名前知ってる?」
「いえ、知らないです。あの星に名前なんてあるんですか?」
「ベツレヘムの星。有力視されてるのは木星と土星の会合だ。今年のクリスマスは特別なんだよ。今日、400年振りに木星と土星の大会合が起きる。まるで空がクリスマスツリーそのものみたいに、キラキラと輝く夜になるよ」
嬉しそうに話す赤嶺さんに、僕は相槌を打つ。
「なんか、ロマンチックですね」
「彼女にね、見せてあげたいんだ。そんな奇跡の夜を」
「それは喜んでくれますよ」
赤嶺さんは嬉しそうに目を細めて、また目を閉じた。こんなにも想ってもらえる彼女は幸せだろうなと僕は思った。僕も大切な人に教えてあげよう。そして奇跡の夜を一緒に見よう。そう思った。
♢PM1時 川嶋樹生
樹生くんは大学四年生の男の子だ。クリスマスは嫌いだと言っていたのに、今日予約がある事に驚いた。普段は物静かな彼が真剣な顔で、僕にある相談を持ちかけた。
「僕、好きな子がいて⋯⋯今までクリスマスに失恋しかしたことないんですけど。今日、告白しようと思うんです。この後、好きな子と待ち合わせで」
樹生くんの耳は真っ赤に染まっている。
「おっけ!じゃあ、気合い入りすぎず⋯⋯でもお洒落にスタイリングするね」
「ありがとうございます⋯⋯」
「緊張してる?」
樹生くんは小さく頷く。
「告白に、ちょっとトラウマあって。⋯⋯黒歴史」
引き攣ったような笑みを浮かべた樹生くんの肩を、ぽんぽんと僕は二度ほど叩いた。
「それでも告白するって決めたんだ。大丈夫。ちゃんと気持ち届くよ!」
「僕も、1番上の星になれるかな⋯⋯」
「きっと。だって今日は奇跡の夜だ。健闘を祈るよ」
「なんですか?それ」
樹生くんはくすくすと肩を揺らして笑った。
誰かを想う気持ちを、心の中に隠しておくのは勿体ない。どんな答えだって、伝えなきゃ始まらない。あの日の僕らのように。
小走りで駆けていく彼に、僕は頑張れって大きく手を振った。
♢
PM3時 佐々木紬
新規でお店にやってきた女の子は、大人っぽいドレスを身に纏っていた。少し背伸びした感じが可愛らしい。透明感のある肌が、まだ幼さの残る彼女の魅力を引き立てていた。彼女は落ち着かないのか、店内をキョロキョロと見渡している。僕はその姿を見て、クスッと昔を思い出して笑った。彼女が初めてお店に来た日を。
「こんにちは、今日担当する幾島です。今日はどうしましょうか?」
「あの、これから彼氏のピアノの演奏を聞きに行くんです。普段は近所の美容室だけどお洒落したくて⋯⋯こんな都会の美容室は初めてで」
頬を赤らめて話す女の子は、やっぱりどこか似ている。
「緊張しますよね。大丈夫です。僕が可愛くしますから!」
「はい!お願いします!」
場所に慣れてきた彼女は、実はお喋りな女の子だった。彼女の高校のピアノの七不思議のこと。大学のこと。それから、堰を切ったように彼氏の熱弁を始めた。
「私たちは、ある世界の真ん中で恋をしたんです」
その言葉が印象的だった。
彼女が言う世界が何を指すかは分からなかったけど、気持ちは理解出来た。僕も彼女と、きっとふたりの世界の真ん中で恋をしている。ハーフアップに纏めた髪の毛に、揺れるピアス。最後に大きなリボンの髪飾りを着けると、女の子は顔をパッと輝かせた。
「⋯⋯魔法みたい」
「僕、シンデレラの魔法使いってこと?」
「そうかも!ずっとこの魔法が解けなきゃいいのに」
♢
PM5時 茂木陽依
彼女に会うのは久しぶりだ。彼女が大学生の頃によくカットモデルをお願いしていた。大学卒業後は疎遠になっていたけど、予約表に名前を見つけて、嬉しかった。
「陽依ちゃん!久しぶり」
僕の声に、彼女は驚いた顔をした。
「え?そんな呼び方してましたっけ?」
「あれ?俺、茂木さんって呼んでた?」
「──陽依ちゃん、か⋯⋯」
少しだけ、彼女の顔が曇った。
「⋯⋯なんかあった?」
「一年くらい前かな。私ね、忘れられない恋をしたんだ」
僕は優しく彼女の髪を梳かした。彼女は話を続ける。
「まるでシンデレラみたいな恋。たった一日の夢のような恋だったの。その人がね、陽依ちゃんって呼んでくれて。馬鹿だよねー私。もう会えないってわかってるのにさ」
「その人の連絡先は?」
彼女は首を横に振った。
「約束したから。会うのは一夜だけって。そう約束したの」
「いつか、いつかまた会えたら?」
「えー⋯⋯」
それから彼女は寂しそうに笑った。
「また、陽依ちゃんって呼んでくれたら。そしたらうれしいな。ってごめん! クリスマスなのに暗い暗い!今日これ!この髪可愛くない?これでお願いします」
それから僕たちは他愛のない昔話をした。僕が教えたカフェに行ったよとか、こんな仕事をしてるよ! とか。もしも、僕が恋人と会えなくなってしまったらと考えると、胸が苦しくなった。茂木さんに「陽依ちゃん」と名前で呼んでくれる彼と再会できるように。僕はクリスマスの夜にそう願った。
髪を切り終えた彼女は、あのカフェでお茶でも飲んでいこうかな!と、そう言って表参道のイルミネーションの中に消えていった。
♢PM6時30分
「すみません、予約してないんですけど⋯⋯」
背の高い男性が申し訳なさそうに入ってきた。背中に大きなリュックを背負っている。
「大丈夫ですよ、すぐご案内しますので」
僕がセット面に案内すると、席に座った男性はポケットから取り出した手帳に何かを書き始めた。
「それ、なんですか?」
「あぁ、すみません。僕小説を書いていて⋯⋯ちょうど美容室のシーンを書きたくて。このお店がイメージにぴったりで」
「へー!小説家さんなんですね!僕の彼女も小説が好きで。それが高じて、今は図書館で働いてるんです」
小説家の男は嬉しそうに頷いている。
「どんな話を書いてるんですか?」
「そうですね⋯⋯少し切ない恋愛小説を。一冊だけ本を出したことがあるんです」
「すごいですね!あの、よければタイトルを伺っても?」
「ワスレグサ。⋯⋯です」
彼女が好きそうな小説のタイトルだ。後で教えてあげようと僕は思った。
「ワスレグサって聞きなれないですね。勿忘草は知ってるけど。オシャレなタイトルっすね」
小説家の男は寂しそうな笑顔を浮かべた。
「ワスレグサって花があるんです。僕の、いちばん好きな花なんですよ」
「⋯⋯すみません勉強不足で」
「いえいえ。でも、今はワスレグサを想うと寂しい気持ちになります。ある恋を思い出してしまうから。たった一夜の恋でした。僕がそう言ってしまったんだけど。だけど、どうしても忘れられなくて、表参道が彼女との思い出の場所なんです。それで今日足を運んでみました。僕なんか場違いなのに」
あれ?もしかして⋯⋯いや、そんな偶然なわけないよな。初対面で聞くのも野暮だ。
「また、来てください。表参道⋯⋯今日は奇跡のクリスマスなんだって朝来たお客さんが言ってたんです。また会える。そんな奇跡が起きるって言いきれないけど⋯⋯その人と、また会える気がするんです」
そんなくさいセリフを言った僕は、急に恥ずかしくなって指で頬をかいた。
短髪の黒髪が良く似合う小説家の男は、少しだけ口角を上げて「カフェでコーヒーでも飲んで帰ります」とイルミネーションの中に消えていった。
♢PM8時 初寧と蒼太
「お疲れ様でした」
僕は全力でダッシュした。人混みを掻き分けながら、待ち合わせの場所に急いだ。背の低い彼女は埋もれそうになりながら、キョロキョロと辺りを見渡している。手には小さな箱を大事そうに抱えて。
誰よりも会いたかった大切な人。
「初寧!ごめん、待たせた」
「私もさっき着いたばかりだから。蒼太くんお仕事お疲れ様。ねぇ、見て!きれい」
初寧は空を指さした。イルミネーションがきらきらと輝いている。まるで宝石箱の中に入ったみたいに眩くて、シャンパンゴールドの優しい色が幸せな気分に酔わせてくれる。
「ちょっと歩こうか」
僕らは光のトンネルの中をゆっくりと歩いた。
心が落ち着かないのには理由がある。僕はそれを隠すように話し続けた。
「ねぇ、ワスレグサ。って小説知ってる?」
「もちろん!沖島誠二でしょ?図書館でも人気だよ。きっと今年の本屋大賞じゃないかな」
「へー。有名なんだ⋯⋯」
「すっごい切ないよ。あとがきで泣かされるの」
彼女は得意げに話す。
この時間が、この瞬間が僕は幸せで。
クリスマスの陽気な喧騒よりも大きな音で心臓が鳴る。
僕は交差点の一角で、煌びやかに光るクリスマスツリーの前で足を止めた。そして、ふぅと息を吐いて心を決めた。いや、ずっと決まっていた。
「初寧と一緒で俺、しあわせだな」
「どうしたの?急に」
彼女の白いほっぺたに、ショートケーキのイチゴみたいに赤い色が浮かんだ。
「ねぇ初寧。ずっと僕の隣にいてくれませんか?」
彼女は何も言わずに僕を見上げた。
「⋯⋯僕と、結婚してくれませんか?」
「⋯⋯うん」
400年振りの奇跡の夜に、僕は世界で一番輝く星を手に入れた。君っていう星を。僕はこの小さな手を離さないって決めた。そんな奇跡が世界中で起こるといいなって願いながら。
君の唇は、甘い、甘いスイーツのようで。
もう一度、何度も。
甘く、とけた。
大人になった今も、今日だけは少し特別だ。どうしたって心が浮かれてしまう。街が赤と緑で彩られて、煌びやかに見える。僕はそんなクリスマスが昔から大好きだ。表参道のケヤキ並木の電飾も、夜を待ちきれずにうずうずとしている。そんな街を足早に抜けて、僕は職場の美容室に向かった。
「おはようございます」
「蒼太くんおはよう、今日は大忙しね」
先輩の胡桃さんと挨拶を交わして、すぐに予約表に目を落とす。
今日はクリスマスだ。僕もみんなに幸せを届けられるように頑張ろう! 手際よく自分の髪の毛のスタイリングを終え、僕は仕事の準備を始めた。
♢AM10時 赤嶺逞斗
赤嶺さんは今日も大荷物を担いでやって来た。僕はそれを大事に受け取りそっとクロークにしまう。中身は望遠鏡だ。赤嶺さんは大学で天文学を研究している先生。
「今日はどうします?」
「これから大事な人に会うので、爽やかにかっこよく」
赤嶺さんはニコッと笑って僕にそう伝えた。赤嶺さんの大切な人は記憶を無くしてしまう病気だと聞いたことがある。いつも、その彼女に会いに行く前に必ずお店に寄ってくれる。星が好きな彼女のために、赤嶺さんは日々研究しているそうだ。
軽快にカンカンと鋏を鳴らす。目を閉じてうつむいていた赤嶺さんが、ふっと顔を上げ静かに口を開いた。
「幾島さん、クリスマスツリーのさ、てっぺんにある星の名前知ってる?」
「いえ、知らないです。あの星に名前なんてあるんですか?」
「ベツレヘムの星。有力視されてるのは木星と土星の会合だ。今年のクリスマスは特別なんだよ。今日、400年振りに木星と土星の大会合が起きる。まるで空がクリスマスツリーそのものみたいに、キラキラと輝く夜になるよ」
嬉しそうに話す赤嶺さんに、僕は相槌を打つ。
「なんか、ロマンチックですね」
「彼女にね、見せてあげたいんだ。そんな奇跡の夜を」
「それは喜んでくれますよ」
赤嶺さんは嬉しそうに目を細めて、また目を閉じた。こんなにも想ってもらえる彼女は幸せだろうなと僕は思った。僕も大切な人に教えてあげよう。そして奇跡の夜を一緒に見よう。そう思った。
♢PM1時 川嶋樹生
樹生くんは大学四年生の男の子だ。クリスマスは嫌いだと言っていたのに、今日予約がある事に驚いた。普段は物静かな彼が真剣な顔で、僕にある相談を持ちかけた。
「僕、好きな子がいて⋯⋯今までクリスマスに失恋しかしたことないんですけど。今日、告白しようと思うんです。この後、好きな子と待ち合わせで」
樹生くんの耳は真っ赤に染まっている。
「おっけ!じゃあ、気合い入りすぎず⋯⋯でもお洒落にスタイリングするね」
「ありがとうございます⋯⋯」
「緊張してる?」
樹生くんは小さく頷く。
「告白に、ちょっとトラウマあって。⋯⋯黒歴史」
引き攣ったような笑みを浮かべた樹生くんの肩を、ぽんぽんと僕は二度ほど叩いた。
「それでも告白するって決めたんだ。大丈夫。ちゃんと気持ち届くよ!」
「僕も、1番上の星になれるかな⋯⋯」
「きっと。だって今日は奇跡の夜だ。健闘を祈るよ」
「なんですか?それ」
樹生くんはくすくすと肩を揺らして笑った。
誰かを想う気持ちを、心の中に隠しておくのは勿体ない。どんな答えだって、伝えなきゃ始まらない。あの日の僕らのように。
小走りで駆けていく彼に、僕は頑張れって大きく手を振った。
♢
PM3時 佐々木紬
新規でお店にやってきた女の子は、大人っぽいドレスを身に纏っていた。少し背伸びした感じが可愛らしい。透明感のある肌が、まだ幼さの残る彼女の魅力を引き立てていた。彼女は落ち着かないのか、店内をキョロキョロと見渡している。僕はその姿を見て、クスッと昔を思い出して笑った。彼女が初めてお店に来た日を。
「こんにちは、今日担当する幾島です。今日はどうしましょうか?」
「あの、これから彼氏のピアノの演奏を聞きに行くんです。普段は近所の美容室だけどお洒落したくて⋯⋯こんな都会の美容室は初めてで」
頬を赤らめて話す女の子は、やっぱりどこか似ている。
「緊張しますよね。大丈夫です。僕が可愛くしますから!」
「はい!お願いします!」
場所に慣れてきた彼女は、実はお喋りな女の子だった。彼女の高校のピアノの七不思議のこと。大学のこと。それから、堰を切ったように彼氏の熱弁を始めた。
「私たちは、ある世界の真ん中で恋をしたんです」
その言葉が印象的だった。
彼女が言う世界が何を指すかは分からなかったけど、気持ちは理解出来た。僕も彼女と、きっとふたりの世界の真ん中で恋をしている。ハーフアップに纏めた髪の毛に、揺れるピアス。最後に大きなリボンの髪飾りを着けると、女の子は顔をパッと輝かせた。
「⋯⋯魔法みたい」
「僕、シンデレラの魔法使いってこと?」
「そうかも!ずっとこの魔法が解けなきゃいいのに」
♢
PM5時 茂木陽依
彼女に会うのは久しぶりだ。彼女が大学生の頃によくカットモデルをお願いしていた。大学卒業後は疎遠になっていたけど、予約表に名前を見つけて、嬉しかった。
「陽依ちゃん!久しぶり」
僕の声に、彼女は驚いた顔をした。
「え?そんな呼び方してましたっけ?」
「あれ?俺、茂木さんって呼んでた?」
「──陽依ちゃん、か⋯⋯」
少しだけ、彼女の顔が曇った。
「⋯⋯なんかあった?」
「一年くらい前かな。私ね、忘れられない恋をしたんだ」
僕は優しく彼女の髪を梳かした。彼女は話を続ける。
「まるでシンデレラみたいな恋。たった一日の夢のような恋だったの。その人がね、陽依ちゃんって呼んでくれて。馬鹿だよねー私。もう会えないってわかってるのにさ」
「その人の連絡先は?」
彼女は首を横に振った。
「約束したから。会うのは一夜だけって。そう約束したの」
「いつか、いつかまた会えたら?」
「えー⋯⋯」
それから彼女は寂しそうに笑った。
「また、陽依ちゃんって呼んでくれたら。そしたらうれしいな。ってごめん! クリスマスなのに暗い暗い!今日これ!この髪可愛くない?これでお願いします」
それから僕たちは他愛のない昔話をした。僕が教えたカフェに行ったよとか、こんな仕事をしてるよ! とか。もしも、僕が恋人と会えなくなってしまったらと考えると、胸が苦しくなった。茂木さんに「陽依ちゃん」と名前で呼んでくれる彼と再会できるように。僕はクリスマスの夜にそう願った。
髪を切り終えた彼女は、あのカフェでお茶でも飲んでいこうかな!と、そう言って表参道のイルミネーションの中に消えていった。
♢PM6時30分
「すみません、予約してないんですけど⋯⋯」
背の高い男性が申し訳なさそうに入ってきた。背中に大きなリュックを背負っている。
「大丈夫ですよ、すぐご案内しますので」
僕がセット面に案内すると、席に座った男性はポケットから取り出した手帳に何かを書き始めた。
「それ、なんですか?」
「あぁ、すみません。僕小説を書いていて⋯⋯ちょうど美容室のシーンを書きたくて。このお店がイメージにぴったりで」
「へー!小説家さんなんですね!僕の彼女も小説が好きで。それが高じて、今は図書館で働いてるんです」
小説家の男は嬉しそうに頷いている。
「どんな話を書いてるんですか?」
「そうですね⋯⋯少し切ない恋愛小説を。一冊だけ本を出したことがあるんです」
「すごいですね!あの、よければタイトルを伺っても?」
「ワスレグサ。⋯⋯です」
彼女が好きそうな小説のタイトルだ。後で教えてあげようと僕は思った。
「ワスレグサって聞きなれないですね。勿忘草は知ってるけど。オシャレなタイトルっすね」
小説家の男は寂しそうな笑顔を浮かべた。
「ワスレグサって花があるんです。僕の、いちばん好きな花なんですよ」
「⋯⋯すみません勉強不足で」
「いえいえ。でも、今はワスレグサを想うと寂しい気持ちになります。ある恋を思い出してしまうから。たった一夜の恋でした。僕がそう言ってしまったんだけど。だけど、どうしても忘れられなくて、表参道が彼女との思い出の場所なんです。それで今日足を運んでみました。僕なんか場違いなのに」
あれ?もしかして⋯⋯いや、そんな偶然なわけないよな。初対面で聞くのも野暮だ。
「また、来てください。表参道⋯⋯今日は奇跡のクリスマスなんだって朝来たお客さんが言ってたんです。また会える。そんな奇跡が起きるって言いきれないけど⋯⋯その人と、また会える気がするんです」
そんなくさいセリフを言った僕は、急に恥ずかしくなって指で頬をかいた。
短髪の黒髪が良く似合う小説家の男は、少しだけ口角を上げて「カフェでコーヒーでも飲んで帰ります」とイルミネーションの中に消えていった。
♢PM8時 初寧と蒼太
「お疲れ様でした」
僕は全力でダッシュした。人混みを掻き分けながら、待ち合わせの場所に急いだ。背の低い彼女は埋もれそうになりながら、キョロキョロと辺りを見渡している。手には小さな箱を大事そうに抱えて。
誰よりも会いたかった大切な人。
「初寧!ごめん、待たせた」
「私もさっき着いたばかりだから。蒼太くんお仕事お疲れ様。ねぇ、見て!きれい」
初寧は空を指さした。イルミネーションがきらきらと輝いている。まるで宝石箱の中に入ったみたいに眩くて、シャンパンゴールドの優しい色が幸せな気分に酔わせてくれる。
「ちょっと歩こうか」
僕らは光のトンネルの中をゆっくりと歩いた。
心が落ち着かないのには理由がある。僕はそれを隠すように話し続けた。
「ねぇ、ワスレグサ。って小説知ってる?」
「もちろん!沖島誠二でしょ?図書館でも人気だよ。きっと今年の本屋大賞じゃないかな」
「へー。有名なんだ⋯⋯」
「すっごい切ないよ。あとがきで泣かされるの」
彼女は得意げに話す。
この時間が、この瞬間が僕は幸せで。
クリスマスの陽気な喧騒よりも大きな音で心臓が鳴る。
僕は交差点の一角で、煌びやかに光るクリスマスツリーの前で足を止めた。そして、ふぅと息を吐いて心を決めた。いや、ずっと決まっていた。
「初寧と一緒で俺、しあわせだな」
「どうしたの?急に」
彼女の白いほっぺたに、ショートケーキのイチゴみたいに赤い色が浮かんだ。
「ねぇ初寧。ずっと僕の隣にいてくれませんか?」
彼女は何も言わずに僕を見上げた。
「⋯⋯僕と、結婚してくれませんか?」
「⋯⋯うん」
400年振りの奇跡の夜に、僕は世界で一番輝く星を手に入れた。君っていう星を。僕はこの小さな手を離さないって決めた。そんな奇跡が世界中で起こるといいなって願いながら。
君の唇は、甘い、甘いスイーツのようで。
もう一度、何度も。
甘く、とけた。