空と海は荒れ狂っていた。神の怒りに触れたが如く空は雷雨を轟かせ、海はうねり、すべてを飲み込もうとしている。
この世の終わりとも言える状況において今、一隻の船がかろうじて生き残っていた。
暴風雨に晒された難破船の名はウンディーネ号。水を司る精霊の名を持つ船が沈没しかけているのはなんという皮肉か。
そしてその船内では淀んだ空気が垂れ込めていた。普段はやかましいほど元気な漁師たち六人の顔は暗く、無精髭の生えた頬がこけはじめている。
誰かの、ぐうっと鳴らした腹の音にビリーはわずかに目線を持ち上げる。がすぐに下を向いてしまう。
すると音に呼応するように船内中でからっぽの胃袋が音を鳴らした。
ぐうっと鳴る自分の腹をビリーはさする。
港を出たのは三日前。最後に食事を摂ったのも三日前。むろん、飲まず食わずで働いていたわけではない。
もともと今回の漁は三日で終えて帰る短い漁のはずだった。いつもみたいに大量の魚を持って帰るはずだったのだ。実際、大量に獲れていたのだ。
漁を終えて帰路につこうとしたウンディーネ号は海賊に狙われた。逃げたが追いつかれてしまい、賊の侵入を許してしまう。命は取らない代わりに魚をすべて差し出せという条件を船長が飲み、約束通り開放された。
三日の労力が無駄になったが背に腹は代えられない。また獲ればいいさ、とそのときはまだ皆、前向きだった。
問題はそのあとに起きた。
海賊船から逃げたせいで漁場から大きく外れてしまい、コンパスを頼りにもとの航路に戻ろうとしたその道中で悪天候に襲われた。
船にはもう食べるものが残っていなかった。
魚を網にかけたいところだが、最悪なことに道具まで海賊に奪われてしまっていたため、どうすることができなかったのだ。
揺れながらぎしぎしと軋む船はきちんと前を向いて進んでいるかも怪しい。もはや方角を正す余裕など船員にはなく、ただただ空腹感を紛らわせるために他のことを考えているだけだった。
ただ不幸中の幸いで、雨水を飲んだおかげでまだ命を繋ぎ止められている。
いったいこの悪天候はいつになったら止むのか。無限にも感じられる荒れ具合なせいで世界はいよいよ終わりを迎えたのではないかとさえ思ってしまう。駄目だ。頭が痛いせいで思考が鈍っている。耳鳴りもキィィンとやかましい。
なんでもいいからなにか食べたい。今だったらドブネズミだってビーフステーキのように食べられる自信がある。
「ッぅぅ……」
ビリーのとなりで床に横たわるボブがうめき声を上げた。
彼の左腕には包帯が巻かれている。海賊に襲われた際に斬られたのだ。抵抗しなければいいものを、船で一番若いせいか無謀にも立ち向かおうとして怒りを買った。ひとりだけ顔がアザだらけなのもそのためだ。
傷口がまた開いて血がじんわりと滲んでいる。
「おい、大丈夫か――」
とビリーが声をかけようとしたのに被せるようにしてアルフレッドがボブにぬっと近寄った。
彼の曇ったその表情を見た瞬間、ビリ―は背筋が凍った。
アルフレッドの顔はこの船を襲った海賊たちと同じ顔をしていたからだ。血走った眼をして、肩で息をする彼は悪魔じみた台詞を吐く。
「ボブ、おまえもう長くは持たないよな。だったらその肉、食わせろよ」
全員がアルフレッドを凝視するが彼は止まらない。恐る恐る手を伸ばして、
「おまえひとりが死ねばみんな助かるんだ。だったら今、死んだって問題ねえよなあ?」
「なに言ってるんだ。そんなこと――」
「うるせえぞ、ビリ―! てめえだってわかってんだろ。魚が獲れねえこの状況じゃあ、他に食うもんなんてねえってな!」
「んなこと考えるわけねえだろ!」
遠くまで漁に出れば外国の文化は耳に入りやすい。そのため外国や少数民族、宗教などでは食人が行われていることはビリ―も知っていた。
だがそれとこれとはまったく話が違う。
ボブがすでに死んでいるのならいざしらず、まだ生きているのならそれは一方的な暴力だ。殺人でしかない。
「おい、トッド。あんたからも言ってやってくれ」
「いいや。俺もアルフレッドの提案に賛成だ」
「トッド!?」
「もとはと言えば、この馬鹿が歯向かうようなことをしたから必要以上に奪われたんだ。せめて網さえ残してもらえていれば魚を引っ掛けられて食うに困らなかったはずだ。そうだろ、デイビット?」
ああ、とデイビットも首肯する。
「俺もふたりに賛成だ。破傷風になる前に殺っちまうべきだ」
「そんな。あんたまでそんな馬鹿げたことを……」
ボブとは歳が近いビリーとしてはなんとか守ってやりたかった。藁にも縋るようにして、黙っている最年長のリンダに叫ぶ。
「船長! 頼む、俺じゃ駄目だ。あんたがこいつらを止めてくれ!」
「…………」
長い沈黙のあと、女船長のリンダは重たそうに口を開いた。
「悪いな、ビリ―。あたしもそいつらに賛成だ。どのみちその怪我の具合じゃあボブが最初にくたばるだろう。だったら、とっとと楽にしてあたしらのために肉になるべきだ」
「へへ、だとよ」
「さすが船長。だてに場数は踏んでねえ」
「さあ、どけビリー。船長が決めたことだ」
「嫌だ!」
とビリ―は恐怖に震えるボブを身を挺してかばう。
「あんたらどうかしちまってるよ! 腹が減りすぎて頭がおかしくなっちまったんじゃないか!?」
「ぎゃあぎゃあ、わめくな。やかましい。だったらおまえが肉になるか?」
「ぅっ……そ、それは……」
痛いところを突かれてビリーは思わず眼を泳がせてしまう。
俺がこいつらのために命を差し出して肉になる? 冗談じゃない。なんで俺がそんな死に方しないといけないんだ。
俯いて頭のなかで文句垂れていると、リンダがぽんと肩に手を置いてくる。
「いいかよく聞け、ビリ―。こういう状況で、仲間の死体で食いつないで生還するなんざ、べつに珍しいことじゃあないんだよ。みんな話したがらないがこの手の話は古今東西いくらでもある」
「で、でもいくらなんでも殺すのは……」
「チッ。聞き分けのできないガキだな、おまえは。そんなんだからクリスティーナにも逃げられるんだ」
「あ、あいつは今、関係ないだろ!」
子供の頃から好きだったクリスティーナという友人がいた。他の男友達はメリッサやアイリーンといったわかりやすい美人が良いと言っていたがビリーにはクリスティーナの純朴な感じが愛らしくて他のどの娘よりも惹かれていた。だが勇気を出せずにただの幼馴染のままでいたら彼女にいつの間にか縁談話が進んでいた。
羞恥心を弄られたせいでカッとなったビリーをリンダは嘲笑する。
「そういうところだ。今なにをすべきか正しい判断ができないからおまえはいつも失敗する。まあ、海賊に歯向かって船員全員の命を危険に晒したそこの馬鹿に比べれば遥かにマシだがな」
ビリーは「くっ」と歯噛みする。
まったくもってリンダの言うとおりだ。ボブはともかく、なぜ自分はいつも肝心なところで選択肢を間違えるのか。
ちょうど今も手元にはニ枚のカードがある。
このまま意地を張ってボブの代わりに自分が肉になるか。
それとも船長たちに従ってボブを見捨てるのか。
悪天候はいつよくなるのかわからない。航路もだいぶズレてしまっているだろう。港まで何日でたどり着けるかもわからならい。
二択のようだが実際はほぼ決まっているようなもの。
その一枚を引こうとしてビリーは固まる。
本当に……本当にここでボブを犠牲にすることが正しいのか……?
仮にボブを食べて何日か生き残れたとして、それでまた食事が必要になったら今度は一度、楯突いた自分が生贄にされる番になるのではないか。
そしてまたひとり、またひとりと胃袋に入っていき、最終的に誰が生き残るのだろう。いやもしかしたら、全員を喰らった者も最後は飢え死にするかもしれない。だったらこんな争いは不毛だ。
ビリーは第三のカードを引く。
「船長、そんなに言うのなら俺と勝負してくれないか?」
「勝負だぁ?」
「ああ。ブラックジャックで勝負だ。あんたが勝てば、とりあえずは俺の片腕を差し出す。それを食って飢えをしのいだあとにボブが死んだら煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「おまえが勝ったら?」
「あと三日堪らえよう。幸い、雨水で水分補給はできている。もし三日経っても助かる状況になかったらそのときもまずは俺の片腕を差し出す。どうだ?」
船長たちはひとかたまりになって相談しはじめた。だがけっきょくはリンダの判断となってビリーの要求を飲んだ。
「わかった。おまえが男を見せたんだ。その心意気に免じてやる」
「ハッ。そりゃどうも」
威勢の良い返しをしたが内心ではほっと安堵していた。とりあえずこれでボブを殺すかどうかから話がそれた。
だが片腕を賭けに出したのはもう覆せない。
やるしかない。三日のあいだに助かると信じてこのゲームに必ず勝つ。命運がかかった大勝負に勝てれば自分は変われる気がする。もし生きて港に帰ることができたらそのときは、大好きなクリスティーナにプロポーズしよう。他の男に彼女を渡すものか。
「それじゃあディーラー役だが――」
とリンダは船内を見回す。
当然ながらディーラーは公平でなければならない。ここまで黙ってやり取りを見ていた人物はひとりだけ。
「イーディス。おまえがやってくれ」
「わかった」
静かに頷きトランプを受け取ったイーディスはビリ―とリンダを手招きしテーブルに向かい合わせに座らせた。
軽快にシャッフルする動きを見ながら船長がルール確認してくる。
「あたしとおまえの一騎打ちだ。勝ち負けはシンプルに、カードの合計が21に近いほうの勝ちとする。ただしディーラーと勝負するわけじゃないから通常とは違ってオープンするカードは一枚とする。それを五本勝負としよう」
「同じ数字だった場合は?」
「その場合は単純にやり直しだ。馬鹿なおまえにもわかりやすいだろう?」
早くも挑発をしてくる。それでなくても空腹で思考が鈍っているのだ。こうやって苛立たてせようとするのは立派な駆け引きである。
ビリーもお返しと言わんばかりにそれに乗る。
「ああ、年長者の船長にとってもわかりやすくていいかもな」
「ふふん。言うようになったじゃないか」
充分にシャッフルし終えるとディーラーはニ枚ずつ配った。説明があったように相手に見せるのは一枚目だけ。
ビリーは8。
リンダは2。
相手の裏返しのカードがなにか気になるが、それよりもまずは自分のニ枚目の確認である。ビリーは自分にだけ見えるようにカードをめくった。
Jだった。これで合計18。
ニヤけそうになったのをぐっと堪える。だが内心では、よし、と拳を握りしめていた。
ディーラーに「スタンド(追加なし)」と伝える。
「くくっ。よほど良いカードだったみたいだな、ビリ―。顔に出ているぞ」
「うるさい。早くしろよ、あんたの番だ」
「はいよ。それじゃあ、あたしはヒット(追加)だ」
山札からディーラーがシュッと一枚投げて渡す。
それをめくった船長は表情を変えないで「スタンド」と告げる。
オープン。
ビリーは8とJの合計18。
リンダは2と9と6の合計17。
一回戦はビリ―が勝った。
幸先の良いスタートを切った。だが、ほっとしたのもつかの間、ディーラーはカードを回収するとすぐにシャッフルしだした。
「たった一回勝ったぐらいでもう助かったつもりか? お気楽なものだな」
「おかげさまで一点先取したんでな。あんたこと、負けているんだから内心じゃあビクビクしているんじゃないか?」
強気になって言い返してやるも、船長が「ぷっ」と吹き出すと船員たちはいっせいに笑いだした。
「な、なんだよ。なにがおかしい?」
「おまえ、やっぱり馬鹿だ。いいか、坊や、よく聞くんだ。こっちは負けたってべつに失うものはないんだ。あたしらにゲームをやらせるために、かってに片腕を差し出したおまえとは違ってな」
いまさらなことに、あっ、とビリーは気付いた。
そうだ。船長たちにリスクはない。この勝負に勝とうが負けようが、どのみち片腕が手に入るのだから飢えはしのげる。
それゆえプレッシャーなどあるはずがなかった。
「やっと気づいたか、間抜け。はなからこの勝負は対等じゃあないんだよ。おまえやボブにとっては生きるか死ぬかかもしれないが、あたしらにとってはどっちでもいいんだ。だから食事にありつくまでの暇つぶしみたいなもんなんだよ、これは」
ぎりっとビリ―は唇を噛む。
このぐらいの条件を出さなければ船長たちは勝負に乗ってこないと思ったが、それはかってに自分で自分の首を締めているだけだった。
なぜ自分はいつもこう思慮が浅いんだ。
「わかったら第ニ試合だ。楽しもうじゃないか。なあ、ビリ―?」
「くっ……」
ディーラーからカードがニ枚配られる。
ビリーは3。
リンダはA。
伏せられたもう一枚のカードをめくる。2だった。合計5。これでは話にならない。ヒットを宣言しようとするがその前にリンダが動いた。
「スタンド」
「ッ……」
追加なし。つまりかなり高い手か、21(ブラックジャック)の可能性もある。どちらにせよ追加は必須だ。
「ヒット」
シュッとカードが一枚飛んでくる。めくる。5だった。これで合計10。
「ヒット」
さらにもう一枚飛んできたのをめくる。4だった。これで合計14。
なんて中途半端な数字なのか。船長が最低でも17か18だと考えると、もう一回ヒットしてもいいぐらいだ。
逡巡したのちビリーは「ヒット」とつぶやく。
五枚目のカードは9だった。
合計23。バーストだ。
降参するように手札をすべてオープンにすると船長はくつくつと笑った。
「欲張るからそうなるんだ」
「は?」
船長の手札はAと3だった。合計14。奇しくもビリーが迷った合計と同じだった。
「おい、なんだよそれ。なんでそれでヒットしないんだよ?」
「堂々とスタンドすれば、おまえはぜったい勝ち気になってヒットしまくると思ったんだよ。ほんとわかりやすいな、おまえ」
嘲弄されてビリーはかあっと顔に熱さを覚えた。
だがまだ勝ち点は1対1になっただけだ。ふりだしに戻ったと思えば勝負はまだまだこれからである。
カードが回収されてシャッフル。ディーラーがニ枚ずつ配る。
ビリーは10。もう一枚は3。
リンダは9。
互いに「ヒット」を宣言する。
三枚目のカードは7だった。これで合計20。よほど運が悪くなければまず負けない数字だ。ゆえに勝負である。
「スタンド」
「スタンド」
ビリーの20に対してリンダは9、6、4の合計19だった。
「チッ。負けか。でもまあいい勝負だったな」
なにがいい勝負だとビリーは内心で毒づいた。最初のニ枚で15だったのに、それでよくなんのためらいもなくヒットを宣言できたものだ。失うものがない相手というのはそれだけ余裕ということか。
「これで俺がニ点先取だ。このまま勝たせてもらう」
「勝ちを急ぐな。そういうところだぞ」
「うるさいな。ディーラー、第四試合だ。配ってくれ」
こくりと頷いたディーラーはカードを回収してシャッフルする。今度は話すことなく、沈黙のなかにカードが配られた。
ビリーは4。
リンダは8。
ニ枚目を裏返して確認。6だった。合計10。ビリーはヒットを宣言して三枚目をめくった。また6だった。合計16。微妙な点数である。どうする、追加するか?
「ヒット」
とリンダが宣言して三枚目を確認している。そしてすぐに「ヒット」と四枚目を引いてそこで「スタンド」を宣言した。
考えられるのは見えないカード三枚が若い数字だ。2、3、4だったら合計17。ここでスタンドをしても悪くはない。
ビリーは自分の手札を見る。
だが彼女の手札が17や18だった場合、今の点数では負ける。悩んだ末にビリーは、
「ヒット」
四枚目を引いた。指から力が抜けそうになった。
引いたのはQだった。バーストである。
すると対面からまたもくくっと馬鹿にされた。
まさか……と思った瞬間、船長が見せたのは同じようにバーストした手札だった。
「8、4、K、10……だと!? 四枚目をすぐにヒットしたのは……」
「そう。三枚目でバーストしたのをごまかすため。まんまと引っかかってくれて嬉しいよ、ビリ―」
「くそッ!」
ガンッとテーブルを叩く。ブラフに騙されないで勝負していたら勝っていたのに。なぜ自分はいつもこうなんだ。わざわざ勝ちを急ぐなと忠告までされていたのに。
「まあ、落ち着け。ギャンブルも船乗りと同じようなものなんだよ」
「え?」
「見えないが今この場には間違いなく流れや波があるということさ。それを冷静に的確に読み取ることが大事なんだよ」
年長者としての教えを言うと船長はぎろりと睨みつけてくる。無言の圧力にビリーは背筋を震わせた。
こちらに傾いていたものが一気に逆を向いた気がした。
あれ……これ、マズいんじゃ……。
「ディーラー、第四試合のやり直しだ」
命じられてディーラーはすぐにニ枚ずつ配った。
ビリーは2。ニ枚目はA。
リンダはJ。
「ヒット――」
「スタンド」
かぶせるように宣言したリンダはこれみよがしに二枚目をひっくり返して見せた。Aだった。21。ブラックジャックである。
くッ、と奥歯を噛み締めたビリーは苦し紛れに「ヒット」を重ねた。三枚目は5。四枚目はK。Aを11ではなく1とすればまだ合計18だ。さらにヒットした六枚目は10。合計28。バーストである。
「これでニ対ニ。おもしろくなってきた。なあ、ビリ―」
「ッ……」
口が閉じたまま動かない。自然と上半身も前傾姿勢からうつむきがちになっていた。
「ディーラー、五試合目だ。配ってくれ」
カード回収。シャッフル。ニ枚ずつ配布。流れるような手つきで最後の勝負が始まってしまった。
ビリーは7。
リンダも7。
「ふうん。お互い7か。おもしろい。どっちが良いカードを引けるんだろうなあ」
「……」
言い返すことすらできずにビリーはもう一枚を確認した。ニ枚目は9。合計は16だ。
また微妙な数字である。さきほどの初手ブラックジャックの相手に比べたらまだ勝負できるとはいえ、けっして油断はできない。
だが勝負はこれで最後。バーストだけは避けなければならない。
熟考したビリーの出した答えは、
「スタンド」
「それじゃあ、あたしはヒット」
三枚目が船長のもとに配られる。それをめくった彼女は「あっははは」と高笑いした。
「こいつはいい。どうやら勝利の女神はあたしに微笑んでくれたみたいだ」
「お、おい……まさか……」
さあっと顔から血の気が引いたのを覚えた瞬間、視界に飛び込んできたのは三枚の7だった。合計21。
五本勝負が終了となった。
5対3でリンダの勝利。
「さあ、ビリ―。約束どおり、片腕をもらおうか」
「抵抗するんじゃねえぞ」「おまえから言い出したことだ」「男が一度約束したんだ。あとからやっぱなしは駄目だぜ」
悪魔が薄ら笑いを浮かべている。極限状態を良いことに船員に取り付いた悪魔が下卑た笑いを見せている。
狂気を当てられて身体がまったく動かない。だというのに、全身からは冷や汗がドッと溢れ出た。
い、嫌だ……
やめろ……
やめてくれ……
無抵抗なまま口を布で塞がれたビリーの上半身がテーブルの腕でうつ伏せに押さえつけられる。左腕だけがテーブルからはみ出ている。
船長がナタを取り出した。
「フゥッフゥッ!」
叫ぶことができずに鼻息だけが、やめてくれと必死に声を荒げている。
振りかぶられたナタが妖しく光った。
次の瞬間、――ゴトッと鈍い音が床に鳴った。
「なんだ今の音は?」
船長はナタを下ろす。彼女が振り下ろす前になにかが落ちる音が鳴ったのだ。
音に誘われるようにして船長たちは外に出る。ビリーもつられてそのあとを追いかけた。
甲板でビチビチと跳ねているそれを見て一同は固まった。
この大嵐のなか、船に飛び込んできた来客はメカジキだった。自分から飛んだはずはなく、かといって波にさらわれたわけでもないだろう。だが確かに久方ぶりの食料はそこにあった。
そのあとは早かった。漁師らしく、巨大な魚体をあっという間に解体してシンプルに焼いてかじりついた。
船員たちは無我夢中になってメカジキの塩焼きを貪った。
こんなうまい魚を食べたのは生まれて初めてだとビリ―は神に感謝した。
腹一杯に食べて自然と眠りに落ちて朝を迎えると、天候はここ数日が嘘だったかのように回復していた。幸いなことにボブも大事には至らなかった。船長たちも憑き物が落ちたようにすっきりとした顔つきに戻っていた。そしてボブを食べようとしていたことすら覚えていなかった。
意味不明だったが、そうしてなんとか港まで生きて戻ることができた船員六人は家族や友人と再会を喜んだ。
「――ということがあったんだよ」
難破船での一夜の出来事を聞いたクリスティーナはビリーの隣で「そう」と優しく頷いた。
「きっとそれは海魔の仕業ね。セイレーンよ」
「やっぱりきみもそう思うかい? 俺もあのときの船長たちはおかしいと思ったんだ」
「うん。でも助けてくれたのはウンディーネね」
「船が?」
「そっちじゃないわ。水の精霊のほう。そうでなければ説明がつかないもの」
奇跡的な恵みだったので確かに精霊の力が働いたとしか言いようがないか。
「でもなんで神様じゃなくてウンディーネなんだい?」
「だってイーディスって女性が船にはいたのよね」
「ああ。さっきも話したけど彼女がディーラーをやってくれたんだ」
「それはおかしいでしょう。ウンディーネ号に女の船員なんていないじゃない」
「? なにを――」
ハッとした表情になってビリーは口を手で抑える。
「――――え? あ、……あれ?」
確かにそうだ。そのとおりだ。長い航海に女を連れて行くことはあっても漁船に女はまずいない。少なくともウンディーネ号にはいたことはない。なぜ言われるまでそんな単純なことに気づかなかったのか。
頭を抑えて困惑するビリーに代わって、クリスティーナが指で数える。
「ボブが抵抗したせいで船長のデイルは見せしめで海賊に殺された。あとはビリー、ボブ、アルフレッド、トッド、デイビットの五人だけ。あの船にはもともとあなたたち男六人しかいなかったはずなんだから」
「ぁッ!? そ、そうだ。そうだった。じゃ、じゃあリンダやイーディスって誰だ?」
ブラックジャックで勝負していた女の顔が思い出せない。命を賭けて向かい合っていたはずなのに忘れるわけがないのに。
トランプをシャッフルし、カードを配ってくれた女の顔もまったく思い出せない。
あのとき、あの場に彼女たちがいたことは間違いないのに。いつの間にかそこにいて、いつの間にか消え去っていた。
「わたしが思うにリンダがセイレーンで、イーディスがウンディーネだったんじゃないかしら。みんなの様子がおかしかったのもそのせいよ。でも最後の最後でウンディーネが助けてくれた。魚を食べたことで目が覚めたのよ」
「じゃああのメカジキはウンディーネがもたらしてくれたもの……?」
彼女が自分たち五人を救ってくれたということか。危うくセイレーンに乗せられてカーニバルを開催するところだった。
ありがとう、と強く感謝していると隣でクリスティーナが訊いてくる。
「ねえ、ビリ―。イーディスは美人だった?」
「どうだろう。顔はまったく覚えてないんだ。でも美人だったんじゃないかな。なにせウンディーネなわけだし」
「そう。それじゃあ、わたしとイーディス、どっちが好き?」
「そんなの決まっているじゃないか。きみだよ、クリスティーナ」
自分でもびっくりするぐらい自然と想いを口にできたことにビリーは驚いた。
ふふっとクリスティーナは柔和な微笑みを見せて真実を告げた。
「実は縁談の話、あれ、嘘よ」
「う、嘘?」
「ええ、そう。わたしがお嫁さんに行くと思って焦った?」
「当たり前だろ」
寿命が縮んだかのように思えたほどだ。
ごめんね、と小さく舌を出すクリスティーナ。
ああ、とビリーは実感した。
こんなかわいい小悪魔だったらいてもいいかなと。
この世の終わりとも言える状況において今、一隻の船がかろうじて生き残っていた。
暴風雨に晒された難破船の名はウンディーネ号。水を司る精霊の名を持つ船が沈没しかけているのはなんという皮肉か。
そしてその船内では淀んだ空気が垂れ込めていた。普段はやかましいほど元気な漁師たち六人の顔は暗く、無精髭の生えた頬がこけはじめている。
誰かの、ぐうっと鳴らした腹の音にビリーはわずかに目線を持ち上げる。がすぐに下を向いてしまう。
すると音に呼応するように船内中でからっぽの胃袋が音を鳴らした。
ぐうっと鳴る自分の腹をビリーはさする。
港を出たのは三日前。最後に食事を摂ったのも三日前。むろん、飲まず食わずで働いていたわけではない。
もともと今回の漁は三日で終えて帰る短い漁のはずだった。いつもみたいに大量の魚を持って帰るはずだったのだ。実際、大量に獲れていたのだ。
漁を終えて帰路につこうとしたウンディーネ号は海賊に狙われた。逃げたが追いつかれてしまい、賊の侵入を許してしまう。命は取らない代わりに魚をすべて差し出せという条件を船長が飲み、約束通り開放された。
三日の労力が無駄になったが背に腹は代えられない。また獲ればいいさ、とそのときはまだ皆、前向きだった。
問題はそのあとに起きた。
海賊船から逃げたせいで漁場から大きく外れてしまい、コンパスを頼りにもとの航路に戻ろうとしたその道中で悪天候に襲われた。
船にはもう食べるものが残っていなかった。
魚を網にかけたいところだが、最悪なことに道具まで海賊に奪われてしまっていたため、どうすることができなかったのだ。
揺れながらぎしぎしと軋む船はきちんと前を向いて進んでいるかも怪しい。もはや方角を正す余裕など船員にはなく、ただただ空腹感を紛らわせるために他のことを考えているだけだった。
ただ不幸中の幸いで、雨水を飲んだおかげでまだ命を繋ぎ止められている。
いったいこの悪天候はいつになったら止むのか。無限にも感じられる荒れ具合なせいで世界はいよいよ終わりを迎えたのではないかとさえ思ってしまう。駄目だ。頭が痛いせいで思考が鈍っている。耳鳴りもキィィンとやかましい。
なんでもいいからなにか食べたい。今だったらドブネズミだってビーフステーキのように食べられる自信がある。
「ッぅぅ……」
ビリーのとなりで床に横たわるボブがうめき声を上げた。
彼の左腕には包帯が巻かれている。海賊に襲われた際に斬られたのだ。抵抗しなければいいものを、船で一番若いせいか無謀にも立ち向かおうとして怒りを買った。ひとりだけ顔がアザだらけなのもそのためだ。
傷口がまた開いて血がじんわりと滲んでいる。
「おい、大丈夫か――」
とビリーが声をかけようとしたのに被せるようにしてアルフレッドがボブにぬっと近寄った。
彼の曇ったその表情を見た瞬間、ビリ―は背筋が凍った。
アルフレッドの顔はこの船を襲った海賊たちと同じ顔をしていたからだ。血走った眼をして、肩で息をする彼は悪魔じみた台詞を吐く。
「ボブ、おまえもう長くは持たないよな。だったらその肉、食わせろよ」
全員がアルフレッドを凝視するが彼は止まらない。恐る恐る手を伸ばして、
「おまえひとりが死ねばみんな助かるんだ。だったら今、死んだって問題ねえよなあ?」
「なに言ってるんだ。そんなこと――」
「うるせえぞ、ビリ―! てめえだってわかってんだろ。魚が獲れねえこの状況じゃあ、他に食うもんなんてねえってな!」
「んなこと考えるわけねえだろ!」
遠くまで漁に出れば外国の文化は耳に入りやすい。そのため外国や少数民族、宗教などでは食人が行われていることはビリ―も知っていた。
だがそれとこれとはまったく話が違う。
ボブがすでに死んでいるのならいざしらず、まだ生きているのならそれは一方的な暴力だ。殺人でしかない。
「おい、トッド。あんたからも言ってやってくれ」
「いいや。俺もアルフレッドの提案に賛成だ」
「トッド!?」
「もとはと言えば、この馬鹿が歯向かうようなことをしたから必要以上に奪われたんだ。せめて網さえ残してもらえていれば魚を引っ掛けられて食うに困らなかったはずだ。そうだろ、デイビット?」
ああ、とデイビットも首肯する。
「俺もふたりに賛成だ。破傷風になる前に殺っちまうべきだ」
「そんな。あんたまでそんな馬鹿げたことを……」
ボブとは歳が近いビリーとしてはなんとか守ってやりたかった。藁にも縋るようにして、黙っている最年長のリンダに叫ぶ。
「船長! 頼む、俺じゃ駄目だ。あんたがこいつらを止めてくれ!」
「…………」
長い沈黙のあと、女船長のリンダは重たそうに口を開いた。
「悪いな、ビリ―。あたしもそいつらに賛成だ。どのみちその怪我の具合じゃあボブが最初にくたばるだろう。だったら、とっとと楽にしてあたしらのために肉になるべきだ」
「へへ、だとよ」
「さすが船長。だてに場数は踏んでねえ」
「さあ、どけビリー。船長が決めたことだ」
「嫌だ!」
とビリ―は恐怖に震えるボブを身を挺してかばう。
「あんたらどうかしちまってるよ! 腹が減りすぎて頭がおかしくなっちまったんじゃないか!?」
「ぎゃあぎゃあ、わめくな。やかましい。だったらおまえが肉になるか?」
「ぅっ……そ、それは……」
痛いところを突かれてビリーは思わず眼を泳がせてしまう。
俺がこいつらのために命を差し出して肉になる? 冗談じゃない。なんで俺がそんな死に方しないといけないんだ。
俯いて頭のなかで文句垂れていると、リンダがぽんと肩に手を置いてくる。
「いいかよく聞け、ビリ―。こういう状況で、仲間の死体で食いつないで生還するなんざ、べつに珍しいことじゃあないんだよ。みんな話したがらないがこの手の話は古今東西いくらでもある」
「で、でもいくらなんでも殺すのは……」
「チッ。聞き分けのできないガキだな、おまえは。そんなんだからクリスティーナにも逃げられるんだ」
「あ、あいつは今、関係ないだろ!」
子供の頃から好きだったクリスティーナという友人がいた。他の男友達はメリッサやアイリーンといったわかりやすい美人が良いと言っていたがビリーにはクリスティーナの純朴な感じが愛らしくて他のどの娘よりも惹かれていた。だが勇気を出せずにただの幼馴染のままでいたら彼女にいつの間にか縁談話が進んでいた。
羞恥心を弄られたせいでカッとなったビリーをリンダは嘲笑する。
「そういうところだ。今なにをすべきか正しい判断ができないからおまえはいつも失敗する。まあ、海賊に歯向かって船員全員の命を危険に晒したそこの馬鹿に比べれば遥かにマシだがな」
ビリーは「くっ」と歯噛みする。
まったくもってリンダの言うとおりだ。ボブはともかく、なぜ自分はいつも肝心なところで選択肢を間違えるのか。
ちょうど今も手元にはニ枚のカードがある。
このまま意地を張ってボブの代わりに自分が肉になるか。
それとも船長たちに従ってボブを見捨てるのか。
悪天候はいつよくなるのかわからない。航路もだいぶズレてしまっているだろう。港まで何日でたどり着けるかもわからならい。
二択のようだが実際はほぼ決まっているようなもの。
その一枚を引こうとしてビリーは固まる。
本当に……本当にここでボブを犠牲にすることが正しいのか……?
仮にボブを食べて何日か生き残れたとして、それでまた食事が必要になったら今度は一度、楯突いた自分が生贄にされる番になるのではないか。
そしてまたひとり、またひとりと胃袋に入っていき、最終的に誰が生き残るのだろう。いやもしかしたら、全員を喰らった者も最後は飢え死にするかもしれない。だったらこんな争いは不毛だ。
ビリーは第三のカードを引く。
「船長、そんなに言うのなら俺と勝負してくれないか?」
「勝負だぁ?」
「ああ。ブラックジャックで勝負だ。あんたが勝てば、とりあえずは俺の片腕を差し出す。それを食って飢えをしのいだあとにボブが死んだら煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「おまえが勝ったら?」
「あと三日堪らえよう。幸い、雨水で水分補給はできている。もし三日経っても助かる状況になかったらそのときもまずは俺の片腕を差し出す。どうだ?」
船長たちはひとかたまりになって相談しはじめた。だがけっきょくはリンダの判断となってビリーの要求を飲んだ。
「わかった。おまえが男を見せたんだ。その心意気に免じてやる」
「ハッ。そりゃどうも」
威勢の良い返しをしたが内心ではほっと安堵していた。とりあえずこれでボブを殺すかどうかから話がそれた。
だが片腕を賭けに出したのはもう覆せない。
やるしかない。三日のあいだに助かると信じてこのゲームに必ず勝つ。命運がかかった大勝負に勝てれば自分は変われる気がする。もし生きて港に帰ることができたらそのときは、大好きなクリスティーナにプロポーズしよう。他の男に彼女を渡すものか。
「それじゃあディーラー役だが――」
とリンダは船内を見回す。
当然ながらディーラーは公平でなければならない。ここまで黙ってやり取りを見ていた人物はひとりだけ。
「イーディス。おまえがやってくれ」
「わかった」
静かに頷きトランプを受け取ったイーディスはビリ―とリンダを手招きしテーブルに向かい合わせに座らせた。
軽快にシャッフルする動きを見ながら船長がルール確認してくる。
「あたしとおまえの一騎打ちだ。勝ち負けはシンプルに、カードの合計が21に近いほうの勝ちとする。ただしディーラーと勝負するわけじゃないから通常とは違ってオープンするカードは一枚とする。それを五本勝負としよう」
「同じ数字だった場合は?」
「その場合は単純にやり直しだ。馬鹿なおまえにもわかりやすいだろう?」
早くも挑発をしてくる。それでなくても空腹で思考が鈍っているのだ。こうやって苛立たてせようとするのは立派な駆け引きである。
ビリーもお返しと言わんばかりにそれに乗る。
「ああ、年長者の船長にとってもわかりやすくていいかもな」
「ふふん。言うようになったじゃないか」
充分にシャッフルし終えるとディーラーはニ枚ずつ配った。説明があったように相手に見せるのは一枚目だけ。
ビリーは8。
リンダは2。
相手の裏返しのカードがなにか気になるが、それよりもまずは自分のニ枚目の確認である。ビリーは自分にだけ見えるようにカードをめくった。
Jだった。これで合計18。
ニヤけそうになったのをぐっと堪える。だが内心では、よし、と拳を握りしめていた。
ディーラーに「スタンド(追加なし)」と伝える。
「くくっ。よほど良いカードだったみたいだな、ビリ―。顔に出ているぞ」
「うるさい。早くしろよ、あんたの番だ」
「はいよ。それじゃあ、あたしはヒット(追加)だ」
山札からディーラーがシュッと一枚投げて渡す。
それをめくった船長は表情を変えないで「スタンド」と告げる。
オープン。
ビリーは8とJの合計18。
リンダは2と9と6の合計17。
一回戦はビリ―が勝った。
幸先の良いスタートを切った。だが、ほっとしたのもつかの間、ディーラーはカードを回収するとすぐにシャッフルしだした。
「たった一回勝ったぐらいでもう助かったつもりか? お気楽なものだな」
「おかげさまで一点先取したんでな。あんたこと、負けているんだから内心じゃあビクビクしているんじゃないか?」
強気になって言い返してやるも、船長が「ぷっ」と吹き出すと船員たちはいっせいに笑いだした。
「な、なんだよ。なにがおかしい?」
「おまえ、やっぱり馬鹿だ。いいか、坊や、よく聞くんだ。こっちは負けたってべつに失うものはないんだ。あたしらにゲームをやらせるために、かってに片腕を差し出したおまえとは違ってな」
いまさらなことに、あっ、とビリーは気付いた。
そうだ。船長たちにリスクはない。この勝負に勝とうが負けようが、どのみち片腕が手に入るのだから飢えはしのげる。
それゆえプレッシャーなどあるはずがなかった。
「やっと気づいたか、間抜け。はなからこの勝負は対等じゃあないんだよ。おまえやボブにとっては生きるか死ぬかかもしれないが、あたしらにとってはどっちでもいいんだ。だから食事にありつくまでの暇つぶしみたいなもんなんだよ、これは」
ぎりっとビリ―は唇を噛む。
このぐらいの条件を出さなければ船長たちは勝負に乗ってこないと思ったが、それはかってに自分で自分の首を締めているだけだった。
なぜ自分はいつもこう思慮が浅いんだ。
「わかったら第ニ試合だ。楽しもうじゃないか。なあ、ビリ―?」
「くっ……」
ディーラーからカードがニ枚配られる。
ビリーは3。
リンダはA。
伏せられたもう一枚のカードをめくる。2だった。合計5。これでは話にならない。ヒットを宣言しようとするがその前にリンダが動いた。
「スタンド」
「ッ……」
追加なし。つまりかなり高い手か、21(ブラックジャック)の可能性もある。どちらにせよ追加は必須だ。
「ヒット」
シュッとカードが一枚飛んでくる。めくる。5だった。これで合計10。
「ヒット」
さらにもう一枚飛んできたのをめくる。4だった。これで合計14。
なんて中途半端な数字なのか。船長が最低でも17か18だと考えると、もう一回ヒットしてもいいぐらいだ。
逡巡したのちビリーは「ヒット」とつぶやく。
五枚目のカードは9だった。
合計23。バーストだ。
降参するように手札をすべてオープンにすると船長はくつくつと笑った。
「欲張るからそうなるんだ」
「は?」
船長の手札はAと3だった。合計14。奇しくもビリーが迷った合計と同じだった。
「おい、なんだよそれ。なんでそれでヒットしないんだよ?」
「堂々とスタンドすれば、おまえはぜったい勝ち気になってヒットしまくると思ったんだよ。ほんとわかりやすいな、おまえ」
嘲弄されてビリーはかあっと顔に熱さを覚えた。
だがまだ勝ち点は1対1になっただけだ。ふりだしに戻ったと思えば勝負はまだまだこれからである。
カードが回収されてシャッフル。ディーラーがニ枚ずつ配る。
ビリーは10。もう一枚は3。
リンダは9。
互いに「ヒット」を宣言する。
三枚目のカードは7だった。これで合計20。よほど運が悪くなければまず負けない数字だ。ゆえに勝負である。
「スタンド」
「スタンド」
ビリーの20に対してリンダは9、6、4の合計19だった。
「チッ。負けか。でもまあいい勝負だったな」
なにがいい勝負だとビリーは内心で毒づいた。最初のニ枚で15だったのに、それでよくなんのためらいもなくヒットを宣言できたものだ。失うものがない相手というのはそれだけ余裕ということか。
「これで俺がニ点先取だ。このまま勝たせてもらう」
「勝ちを急ぐな。そういうところだぞ」
「うるさいな。ディーラー、第四試合だ。配ってくれ」
こくりと頷いたディーラーはカードを回収してシャッフルする。今度は話すことなく、沈黙のなかにカードが配られた。
ビリーは4。
リンダは8。
ニ枚目を裏返して確認。6だった。合計10。ビリーはヒットを宣言して三枚目をめくった。また6だった。合計16。微妙な点数である。どうする、追加するか?
「ヒット」
とリンダが宣言して三枚目を確認している。そしてすぐに「ヒット」と四枚目を引いてそこで「スタンド」を宣言した。
考えられるのは見えないカード三枚が若い数字だ。2、3、4だったら合計17。ここでスタンドをしても悪くはない。
ビリーは自分の手札を見る。
だが彼女の手札が17や18だった場合、今の点数では負ける。悩んだ末にビリーは、
「ヒット」
四枚目を引いた。指から力が抜けそうになった。
引いたのはQだった。バーストである。
すると対面からまたもくくっと馬鹿にされた。
まさか……と思った瞬間、船長が見せたのは同じようにバーストした手札だった。
「8、4、K、10……だと!? 四枚目をすぐにヒットしたのは……」
「そう。三枚目でバーストしたのをごまかすため。まんまと引っかかってくれて嬉しいよ、ビリ―」
「くそッ!」
ガンッとテーブルを叩く。ブラフに騙されないで勝負していたら勝っていたのに。なぜ自分はいつもこうなんだ。わざわざ勝ちを急ぐなと忠告までされていたのに。
「まあ、落ち着け。ギャンブルも船乗りと同じようなものなんだよ」
「え?」
「見えないが今この場には間違いなく流れや波があるということさ。それを冷静に的確に読み取ることが大事なんだよ」
年長者としての教えを言うと船長はぎろりと睨みつけてくる。無言の圧力にビリーは背筋を震わせた。
こちらに傾いていたものが一気に逆を向いた気がした。
あれ……これ、マズいんじゃ……。
「ディーラー、第四試合のやり直しだ」
命じられてディーラーはすぐにニ枚ずつ配った。
ビリーは2。ニ枚目はA。
リンダはJ。
「ヒット――」
「スタンド」
かぶせるように宣言したリンダはこれみよがしに二枚目をひっくり返して見せた。Aだった。21。ブラックジャックである。
くッ、と奥歯を噛み締めたビリーは苦し紛れに「ヒット」を重ねた。三枚目は5。四枚目はK。Aを11ではなく1とすればまだ合計18だ。さらにヒットした六枚目は10。合計28。バーストである。
「これでニ対ニ。おもしろくなってきた。なあ、ビリ―」
「ッ……」
口が閉じたまま動かない。自然と上半身も前傾姿勢からうつむきがちになっていた。
「ディーラー、五試合目だ。配ってくれ」
カード回収。シャッフル。ニ枚ずつ配布。流れるような手つきで最後の勝負が始まってしまった。
ビリーは7。
リンダも7。
「ふうん。お互い7か。おもしろい。どっちが良いカードを引けるんだろうなあ」
「……」
言い返すことすらできずにビリーはもう一枚を確認した。ニ枚目は9。合計は16だ。
また微妙な数字である。さきほどの初手ブラックジャックの相手に比べたらまだ勝負できるとはいえ、けっして油断はできない。
だが勝負はこれで最後。バーストだけは避けなければならない。
熟考したビリーの出した答えは、
「スタンド」
「それじゃあ、あたしはヒット」
三枚目が船長のもとに配られる。それをめくった彼女は「あっははは」と高笑いした。
「こいつはいい。どうやら勝利の女神はあたしに微笑んでくれたみたいだ」
「お、おい……まさか……」
さあっと顔から血の気が引いたのを覚えた瞬間、視界に飛び込んできたのは三枚の7だった。合計21。
五本勝負が終了となった。
5対3でリンダの勝利。
「さあ、ビリ―。約束どおり、片腕をもらおうか」
「抵抗するんじゃねえぞ」「おまえから言い出したことだ」「男が一度約束したんだ。あとからやっぱなしは駄目だぜ」
悪魔が薄ら笑いを浮かべている。極限状態を良いことに船員に取り付いた悪魔が下卑た笑いを見せている。
狂気を当てられて身体がまったく動かない。だというのに、全身からは冷や汗がドッと溢れ出た。
い、嫌だ……
やめろ……
やめてくれ……
無抵抗なまま口を布で塞がれたビリーの上半身がテーブルの腕でうつ伏せに押さえつけられる。左腕だけがテーブルからはみ出ている。
船長がナタを取り出した。
「フゥッフゥッ!」
叫ぶことができずに鼻息だけが、やめてくれと必死に声を荒げている。
振りかぶられたナタが妖しく光った。
次の瞬間、――ゴトッと鈍い音が床に鳴った。
「なんだ今の音は?」
船長はナタを下ろす。彼女が振り下ろす前になにかが落ちる音が鳴ったのだ。
音に誘われるようにして船長たちは外に出る。ビリーもつられてそのあとを追いかけた。
甲板でビチビチと跳ねているそれを見て一同は固まった。
この大嵐のなか、船に飛び込んできた来客はメカジキだった。自分から飛んだはずはなく、かといって波にさらわれたわけでもないだろう。だが確かに久方ぶりの食料はそこにあった。
そのあとは早かった。漁師らしく、巨大な魚体をあっという間に解体してシンプルに焼いてかじりついた。
船員たちは無我夢中になってメカジキの塩焼きを貪った。
こんなうまい魚を食べたのは生まれて初めてだとビリ―は神に感謝した。
腹一杯に食べて自然と眠りに落ちて朝を迎えると、天候はここ数日が嘘だったかのように回復していた。幸いなことにボブも大事には至らなかった。船長たちも憑き物が落ちたようにすっきりとした顔つきに戻っていた。そしてボブを食べようとしていたことすら覚えていなかった。
意味不明だったが、そうしてなんとか港まで生きて戻ることができた船員六人は家族や友人と再会を喜んだ。
「――ということがあったんだよ」
難破船での一夜の出来事を聞いたクリスティーナはビリーの隣で「そう」と優しく頷いた。
「きっとそれは海魔の仕業ね。セイレーンよ」
「やっぱりきみもそう思うかい? 俺もあのときの船長たちはおかしいと思ったんだ」
「うん。でも助けてくれたのはウンディーネね」
「船が?」
「そっちじゃないわ。水の精霊のほう。そうでなければ説明がつかないもの」
奇跡的な恵みだったので確かに精霊の力が働いたとしか言いようがないか。
「でもなんで神様じゃなくてウンディーネなんだい?」
「だってイーディスって女性が船にはいたのよね」
「ああ。さっきも話したけど彼女がディーラーをやってくれたんだ」
「それはおかしいでしょう。ウンディーネ号に女の船員なんていないじゃない」
「? なにを――」
ハッとした表情になってビリーは口を手で抑える。
「――――え? あ、……あれ?」
確かにそうだ。そのとおりだ。長い航海に女を連れて行くことはあっても漁船に女はまずいない。少なくともウンディーネ号にはいたことはない。なぜ言われるまでそんな単純なことに気づかなかったのか。
頭を抑えて困惑するビリーに代わって、クリスティーナが指で数える。
「ボブが抵抗したせいで船長のデイルは見せしめで海賊に殺された。あとはビリー、ボブ、アルフレッド、トッド、デイビットの五人だけ。あの船にはもともとあなたたち男六人しかいなかったはずなんだから」
「ぁッ!? そ、そうだ。そうだった。じゃ、じゃあリンダやイーディスって誰だ?」
ブラックジャックで勝負していた女の顔が思い出せない。命を賭けて向かい合っていたはずなのに忘れるわけがないのに。
トランプをシャッフルし、カードを配ってくれた女の顔もまったく思い出せない。
あのとき、あの場に彼女たちがいたことは間違いないのに。いつの間にかそこにいて、いつの間にか消え去っていた。
「わたしが思うにリンダがセイレーンで、イーディスがウンディーネだったんじゃないかしら。みんなの様子がおかしかったのもそのせいよ。でも最後の最後でウンディーネが助けてくれた。魚を食べたことで目が覚めたのよ」
「じゃああのメカジキはウンディーネがもたらしてくれたもの……?」
彼女が自分たち五人を救ってくれたということか。危うくセイレーンに乗せられてカーニバルを開催するところだった。
ありがとう、と強く感謝していると隣でクリスティーナが訊いてくる。
「ねえ、ビリ―。イーディスは美人だった?」
「どうだろう。顔はまったく覚えてないんだ。でも美人だったんじゃないかな。なにせウンディーネなわけだし」
「そう。それじゃあ、わたしとイーディス、どっちが好き?」
「そんなの決まっているじゃないか。きみだよ、クリスティーナ」
自分でもびっくりするぐらい自然と想いを口にできたことにビリーは驚いた。
ふふっとクリスティーナは柔和な微笑みを見せて真実を告げた。
「実は縁談の話、あれ、嘘よ」
「う、嘘?」
「ええ、そう。わたしがお嫁さんに行くと思って焦った?」
「当たり前だろ」
寿命が縮んだかのように思えたほどだ。
ごめんね、と小さく舌を出すクリスティーナ。
ああ、とビリーは実感した。
こんなかわいい小悪魔だったらいてもいいかなと。