黒紅の刀

 老齢にしてはまだ張りのあるなめらかな頬に、生ぬるい風がふれる。

 高虎が夏祭りの会場を訪れた時、辺りは騒然としていた。

 さあっ、と霧雨が降り、彼の白銀の髪を濡らして、鈍くきらめかせる。

 今宵新たに生まれた雨のにおい。

 その上をただよい、覆っているのは、彼がかつて戦場で嗅ぎ慣れた血のにおいだった。履いた下駄の隙間を、夏だというのにじわりと冷えた空気が通り抜けてゆく。

 夏祭りで想像していたのは、村人が浴衣姿で円になって楽しげに踊っている例年通りの光景だった。

だが、今目の前に広がっているのは、恐怖に顔を歪め、四方八方に逃げまどうひとびとの姿だ。

 脱げ捨てられた下駄。

 尻餅をつき、たくましい腕で口元を覆って震える太鼓衆の男たち。

 赤い線が、空間を切り裂くように斜めに飛びあがる。逃げ遅れたひとびとは次々に黒い土の上へと倒れ伏し、その体の下につややかな紅の絨毯を広げていった。



「なんだってんだ……。こりゃあ……」



 高虎は唖然とした。

 何が起きているのか把握するために、辺りを見渡す。



(見知った顔が、何人かいやがるな……)



 そう思ったとき、中央にひときわ大きな血だまりが出来ているのを見つけた。

 それを見た刹那、高虎の脳裏に、かつて血だまりの中で赤子だった影虎を拾い上げた日の記憶が、火花のように鮮烈に蘇った。

 胎盤ごと産み捨てられ、母の赤黒い血の中に眠っていた赤子。その娘を抱き上げたときの、青筋の浮いた腕に伝わる生温かな感触。



「影……、虎……?」



 影虎が仁王立ちになっていた。その前方には、誰かが半身を横たえ、別の誰かがその体を屈んで抱きしめている。

 高虎はその正体に気付き、目をゆっくりと見開いた。

 動揺で、視界が激しく揺れる。



「喜一、宗助……?」



 そこにいたのは、いつも自分をからかってくる腐れ縁の医者たちだった。白い歯を見せ、はにかんだ笑顔で突然訪ねてくる、あかるいふたり。

 今、彼らを取り囲んでいるのは、青く暗い絶望の影だった。

 宗助は横たわる喜一を抱きしめ、肩を激しく震わせている。

 宗助の腕からは、生まれたてのあざやかな血が絶え間なく流れていた。

 高虎は息を飲んだ。



「こりゃあ……、一体……」



 だらりと垂れさがった喜一の腕を見る。その肌はいつもの健康的な色を失い、不気味なほど青白い。

 宗助が喜一の胸に頬を押しつけ、さらに強く抱きしめると、喜一の頭が、がくんと後ろへのけぞった。

 高虎はその顔を見て瞠目し、くちびるを震わせた。



(死んでやがる……)



 喜一は紫色のくちびるをわずかに開き、虚ろな顔をこちらに向けていた。夏の陽光のような生命力を宿していた瞳は、今はただ、何もない虚空を映している。

 宗助は弟子の亡骸(なきがら)に顔を埋め、慟哭(どうこく)を堪えるように肩を震わせる。  その背中から漏れ聞こえる、押し殺したような呻き。

高虎には、いつもひとを食ったような態度を見せていた宗助が、今どんな形相(ぎょうそう)で絶望に耐えているかが痛いほど伝わってきた。 剥き出しになったうなじが、いやに綺麗な弧を描いている。

 高虎はみじかく息を吸った。そして数歩、後ずさる。白髪からひとすじ、汗がこめかみへと落ちた。



「ど、どうなってやがる。何が起きていやがる……」



 後ずさる土の音に反応したのか、影虎がはっと顔をあげた。そして、機械的な動きでゆっくりとこちらを向く。

 大きな金の瞳が、高虎を射抜いた。 その瞳は、高虎の知る影虎のものではなかった。人間離れしたひかりを宿し、水面が波立つように鈍い白金へと色を変えてゆく。

 射すくめられた高虎は、金縛りにあったように動けなくなった。

 影虎の雪のような白い肌には、返り血が雨のように降り、紅に染まっていた。  高虎は息を止めた。



「高……、虎……」



 動きを止め、じっと高虎をみつめていた影虎は、やがてゆるゆると肩の力を抜くと、瞳からなみだをあふれさせた。透き通ったしずくは、なめらかな頬を伝い、血の紅と混ざり合って落ちてゆく。

 高虎はゆっくりと影虎の手元へ視線を落とした。そこには漆黒の刀が、彼女の白い手に(にかわ)のごとく張り付いていた。



「影虎……、お前……」



 高虎は驚愕し、瞳を見開く。



「俺が斬った。俺が、喜一を斬ったんだ」



 高虎が何か言いだす前に、影虎は焦るように乾いたくちびるを開いた。言葉が進むごとに、早口になっていた。

 彼女の瞳から涙のしずくが溢れ、頬の返り血を洗うようにして顎の先からこぼれ落ちた。 高虎は、そのひとしずくが風に乗って流れてゆくのを、ただ呆然とみつめることしかできなかった。 血のついた刀は霧雨に濡れ、黒くつややかにかがやいていた。

 その黒をじっとみつめていると、高虎の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。