影虎は走っていた。
頬を撫でてゆく風に、額から汗が幾つもこぼれ落ちてゆく。刀の柄を握った手からは、感覚がとうに無くなっていた。
裸足の足は乾いた土の上を、速度を落とすことなく走り続ける。痺れるような痛みを与えていたが、それを気に留める時間もゆるさず、走り続けてゆく。
頬を切る風は、やわい肌を切り裂くようだった。それでも熱い己の肌は、湿度の高い薫りと、空へ湧きあがるような血の香りが混じり合って、鼻を混乱させていた。
夏祭りの踊りの輪の中を、垂直に突っ切ってゆく。
踊っている村人たちは、最初、彼女の突然の乱入に気付いていなかったが、ひとりの女が動きを止め、目を見開いた。
女の瞳に、血まみれの自分の姿と、手にした漆黒の刀が映り込む。女は息を止め、両手をくちもとで重ねた。その刹那、女の背後の焚き木がひときわ大きくゆれ、赤みを増した。
「人斬り!!」
甲高い女の叫び声を聞き、その他の村人もやっと影虎の存在に気付いた。
肩で息をして、血走った目をひからせる自分は、彼らの目にどう映っているのか。背後に広がる森は黒く、炎の紅とあいまって、視界が赤黒く染まる。
彼女の周囲を円を描くように村人が囲う。恐れをなした者は、叫びながら森の茂みへと逃げてゆく。
影虎は、目の前の女の背に、一太刀を浴びせた。 女は何が起きたのかもわからないまま、後ろを振り返ろうとする姿勢で、ばたりと倒れた。女の着ていた浅葱色の着物が、線香花火のような残像を残した。
周囲の者は、女の周りに輪を作り、しばらく沈黙していたが、やがてその中のひとりが悲鳴をあげると、そこから輪唱するように、悲痛な叫び声があがってゆく。
その喧騒の中に、喜一と宗助の姿があった。 宗助は口を半開きにし、こめかみから汗を流して立ち尽くしている。 喜一は何も言わず、ただまばたきひとつ出来ずに、じっとこちらをみつめていた。
影虎は、自分が何をしてしまったのかわからず、瞳を見開いたまま茫然としていた。視界がさざなみのように揺れ、紗を作った。
目の前にうつ伏せに倒れた女の背から、縦に血がどくどくと流れ、浅葱色の浴衣を、あざやかな紅に染めてゆく。
女をしばらくみつめていると、耳に、きいんという音が一度鳴り響いた。最初、これが何なのかよくわからなかったが、その音が鳴り終わった後、腹から急速に吐き気がこみあげる。立膝をついてうつむき、片手で口を押さえると、女のからだの横に嘔吐した。
女の血の紅と、自分の嘔吐物が混じって、黒く乾いた地に染みてゆくのを茫然と眺める。
自分がひとを殺したのだという事実が、つめたく頭に降りてきた。
腕はふるえ、全身の毛穴から汗が噴き出した。
影虎の手にした黒い刀は、さらに血が重なり、黒を汚すように赤く染まる。切っ先から、ぽたぽたと血が落ちる。やがてしゅうしゅうという音と共に、なめらかな刀身に溶けて、ふたたび黒があらわになる。その音に不気味さはなく、小川の流れのように、どこか清らかだった。
「うぅっ……」
とどめようもない想いを堰き止めるために、歯噛みする。ひとよりも少し長い八重歯が、月のひかりを受け、真珠色にきらめいたのが目の端に映った。
茫然と事件を見ていた太鼓叩きの男衆のひとりが、頬を叩かれたように目を覚まし、影虎をゆびさす。
「人斬り……! 人斬りだ!!」
男が唾を飛ばして叫ぶ声が、空気をゆらす。
それに呼応し、周囲のひとびとは叫び声の強さを増していった。
その光景を遠くから見ていた喜一が、ふらりと前屈みになると、徐々に速度をあげて近寄ってきた。
宗助が何かを叫び、手を伸ばすのが見えたが、喜一の背には届かなかった。
「影虎、影虎……」
あたりには、炎が燃える焦げたにおいと、生まれたての血のにおいが流れている。地獄に落ちたような色彩だった。
いつの間にか空の雲が厚くなり、紺色の夜空を覆っていた。空気に水分が多くふくまれた感触が頬にふれる。
「影虎、刀を下ろせ。そして、俺の腕の中に来い……!」
喜一は、大きく手を広げた。
影虎は、はっと顔をあげ、彼に視線を固定させた。
「喜一……?」
名を呼ぶと同時に、彼女のまなじりから、ひとしずくのなみだがこぼれる。やがてその白い顔は歪み、救いを求めるように喜一の元へ駆け寄っていった。
「影虎……」
喜一が、自分を抱き留めようと腕を伸ばす。
影虎は、忌まわしい刀を手放そうと指の力を抜いた。そのまま、救いを求めるように彼の胸の中へ飛び込もうとする。
喜一と影虎の影が、夏祭りの雪洞の灯を受け、黒く重なった。
だが、離れるはずだった刀の柄は、血で滑るてのひらに吸い付くように残っていた。それどころか、刀自身が獲物を求めて、吸い込まれたかのように、勢いよく飛び込んだ影虎の手の中で、漆黒の刃が喜一の胸を深く貫いた。
「__喜一……!」
宗助の叫び声が、遠い犬の吠え声のように、鼓膜をかすめる。
やわらかな霧雨が、天から降り注ぎ始めた。
影虎は、喜一の腕に抱かれ、その身を彼に預けていたが、憑きものが落ちたような顔で、ゆっくりと喜一の顔を見上げた。
「喜一……?」
手に、濡れた温かいものがふれていた。視界が雨でぼやけて、よく見えない。
やっと焦点が定まると、至近距離にある喜一の、苦痛に歪んだ表情が見えた。「喜一……」 あどけない声で、もう一度彼の名を呼ぶ。「__影虎、俺、将来お前のこと、嫁にしようと……」「え?」 耳元で、掠れた声が途切れた。それは願いというより、遺言のように吐息とともに消えていった。 影虎の肩に、ずっしりとした生身の男の重みがのしかかる。力を失った喜一を抱き留めようとするが、その体は無情にも影虎の腕をすべり落ちていった。 仰向けに横たわった喜一の瞳は半開きのまま、急速にひかりを失ってゆく。
「喜一……」
彼の胸の中央から、赤い血が、こんこんと泉のように湧いてあふれる。
影虎は己の両手をみつめた。右手は相変わらず刀を握りしめており、そのこぶしは喜一の返り血でさらに赤く濡れている。
空気にふれたばかりの、新しい血のにおいがふわりと鼻腔を包む。
自分が、彼を斬ったのだ。降りてきた真実に、全身の毛穴が逆立ち、両手が激しく震えた。
「あぁ……っ、あぁ、あああああッ!!」
「喜一!!」
横から宗助が飛び込んできた。
雨の地を叩く足音と共に、宗助は泥にまみれた喜一のからだを抱き起した。
影虎は立ち尽くしたまま、その光景を、まるで硝子越しに眺めるような感覚で見ていた。
宗助が喜一の肩を激しく揺すり、やがて耐えきれず強く抱きしめて嗚咽を漏らす姿を、ただぼんやりとみつめている。 ふたりの男が重なる姿が、雨に滲んで溶けてゆく。
その時、影虎の中で何かが決定的に壊れた。
堰を切ったように、彼女はその場にいた村人たちへと襲いかかった。
意識はどこか高所に浮遊し、半分夢の中にいるようだった。思考は止まっているのに、肉体だけが精密な機械のように、効率よく命を刈り取ってゆく。
恐怖に顔を歪める男も、逃げ惑う女も、彼女の瞳にはただの動く標的としてしか映らない。刃が肉を断つ感触が、ぱちんとはじけて血の渦となり、夜の闇を塗り替えてゆく。
まぶたに、頬に、髪に、熱い飛沫がこびりつく。元々赤く生まれついたのではないかというほど、彼女のすべてが紅に染まっていった。
耳の奥では、止まない金切り声と、雨の音が、不協和音となってずっと響き続けていた。
頬を撫でてゆく風に、額から汗が幾つもこぼれ落ちてゆく。刀の柄を握った手からは、感覚がとうに無くなっていた。
裸足の足は乾いた土の上を、速度を落とすことなく走り続ける。痺れるような痛みを与えていたが、それを気に留める時間もゆるさず、走り続けてゆく。
頬を切る風は、やわい肌を切り裂くようだった。それでも熱い己の肌は、湿度の高い薫りと、空へ湧きあがるような血の香りが混じり合って、鼻を混乱させていた。
夏祭りの踊りの輪の中を、垂直に突っ切ってゆく。
踊っている村人たちは、最初、彼女の突然の乱入に気付いていなかったが、ひとりの女が動きを止め、目を見開いた。
女の瞳に、血まみれの自分の姿と、手にした漆黒の刀が映り込む。女は息を止め、両手をくちもとで重ねた。その刹那、女の背後の焚き木がひときわ大きくゆれ、赤みを増した。
「人斬り!!」
甲高い女の叫び声を聞き、その他の村人もやっと影虎の存在に気付いた。
肩で息をして、血走った目をひからせる自分は、彼らの目にどう映っているのか。背後に広がる森は黒く、炎の紅とあいまって、視界が赤黒く染まる。
彼女の周囲を円を描くように村人が囲う。恐れをなした者は、叫びながら森の茂みへと逃げてゆく。
影虎は、目の前の女の背に、一太刀を浴びせた。 女は何が起きたのかもわからないまま、後ろを振り返ろうとする姿勢で、ばたりと倒れた。女の着ていた浅葱色の着物が、線香花火のような残像を残した。
周囲の者は、女の周りに輪を作り、しばらく沈黙していたが、やがてその中のひとりが悲鳴をあげると、そこから輪唱するように、悲痛な叫び声があがってゆく。
その喧騒の中に、喜一と宗助の姿があった。 宗助は口を半開きにし、こめかみから汗を流して立ち尽くしている。 喜一は何も言わず、ただまばたきひとつ出来ずに、じっとこちらをみつめていた。
影虎は、自分が何をしてしまったのかわからず、瞳を見開いたまま茫然としていた。視界がさざなみのように揺れ、紗を作った。
目の前にうつ伏せに倒れた女の背から、縦に血がどくどくと流れ、浅葱色の浴衣を、あざやかな紅に染めてゆく。
女をしばらくみつめていると、耳に、きいんという音が一度鳴り響いた。最初、これが何なのかよくわからなかったが、その音が鳴り終わった後、腹から急速に吐き気がこみあげる。立膝をついてうつむき、片手で口を押さえると、女のからだの横に嘔吐した。
女の血の紅と、自分の嘔吐物が混じって、黒く乾いた地に染みてゆくのを茫然と眺める。
自分がひとを殺したのだという事実が、つめたく頭に降りてきた。
腕はふるえ、全身の毛穴から汗が噴き出した。
影虎の手にした黒い刀は、さらに血が重なり、黒を汚すように赤く染まる。切っ先から、ぽたぽたと血が落ちる。やがてしゅうしゅうという音と共に、なめらかな刀身に溶けて、ふたたび黒があらわになる。その音に不気味さはなく、小川の流れのように、どこか清らかだった。
「うぅっ……」
とどめようもない想いを堰き止めるために、歯噛みする。ひとよりも少し長い八重歯が、月のひかりを受け、真珠色にきらめいたのが目の端に映った。
茫然と事件を見ていた太鼓叩きの男衆のひとりが、頬を叩かれたように目を覚まし、影虎をゆびさす。
「人斬り……! 人斬りだ!!」
男が唾を飛ばして叫ぶ声が、空気をゆらす。
それに呼応し、周囲のひとびとは叫び声の強さを増していった。
その光景を遠くから見ていた喜一が、ふらりと前屈みになると、徐々に速度をあげて近寄ってきた。
宗助が何かを叫び、手を伸ばすのが見えたが、喜一の背には届かなかった。
「影虎、影虎……」
あたりには、炎が燃える焦げたにおいと、生まれたての血のにおいが流れている。地獄に落ちたような色彩だった。
いつの間にか空の雲が厚くなり、紺色の夜空を覆っていた。空気に水分が多くふくまれた感触が頬にふれる。
「影虎、刀を下ろせ。そして、俺の腕の中に来い……!」
喜一は、大きく手を広げた。
影虎は、はっと顔をあげ、彼に視線を固定させた。
「喜一……?」
名を呼ぶと同時に、彼女のまなじりから、ひとしずくのなみだがこぼれる。やがてその白い顔は歪み、救いを求めるように喜一の元へ駆け寄っていった。
「影虎……」
喜一が、自分を抱き留めようと腕を伸ばす。
影虎は、忌まわしい刀を手放そうと指の力を抜いた。そのまま、救いを求めるように彼の胸の中へ飛び込もうとする。
喜一と影虎の影が、夏祭りの雪洞の灯を受け、黒く重なった。
だが、離れるはずだった刀の柄は、血で滑るてのひらに吸い付くように残っていた。それどころか、刀自身が獲物を求めて、吸い込まれたかのように、勢いよく飛び込んだ影虎の手の中で、漆黒の刃が喜一の胸を深く貫いた。
「__喜一……!」
宗助の叫び声が、遠い犬の吠え声のように、鼓膜をかすめる。
やわらかな霧雨が、天から降り注ぎ始めた。
影虎は、喜一の腕に抱かれ、その身を彼に預けていたが、憑きものが落ちたような顔で、ゆっくりと喜一の顔を見上げた。
「喜一……?」
手に、濡れた温かいものがふれていた。視界が雨でぼやけて、よく見えない。
やっと焦点が定まると、至近距離にある喜一の、苦痛に歪んだ表情が見えた。「喜一……」 あどけない声で、もう一度彼の名を呼ぶ。「__影虎、俺、将来お前のこと、嫁にしようと……」「え?」 耳元で、掠れた声が途切れた。それは願いというより、遺言のように吐息とともに消えていった。 影虎の肩に、ずっしりとした生身の男の重みがのしかかる。力を失った喜一を抱き留めようとするが、その体は無情にも影虎の腕をすべり落ちていった。 仰向けに横たわった喜一の瞳は半開きのまま、急速にひかりを失ってゆく。
「喜一……」
彼の胸の中央から、赤い血が、こんこんと泉のように湧いてあふれる。
影虎は己の両手をみつめた。右手は相変わらず刀を握りしめており、そのこぶしは喜一の返り血でさらに赤く濡れている。
空気にふれたばかりの、新しい血のにおいがふわりと鼻腔を包む。
自分が、彼を斬ったのだ。降りてきた真実に、全身の毛穴が逆立ち、両手が激しく震えた。
「あぁ……っ、あぁ、あああああッ!!」
「喜一!!」
横から宗助が飛び込んできた。
雨の地を叩く足音と共に、宗助は泥にまみれた喜一のからだを抱き起した。
影虎は立ち尽くしたまま、その光景を、まるで硝子越しに眺めるような感覚で見ていた。
宗助が喜一の肩を激しく揺すり、やがて耐えきれず強く抱きしめて嗚咽を漏らす姿を、ただぼんやりとみつめている。 ふたりの男が重なる姿が、雨に滲んで溶けてゆく。
その時、影虎の中で何かが決定的に壊れた。
堰を切ったように、彼女はその場にいた村人たちへと襲いかかった。
意識はどこか高所に浮遊し、半分夢の中にいるようだった。思考は止まっているのに、肉体だけが精密な機械のように、効率よく命を刈り取ってゆく。
恐怖に顔を歪める男も、逃げ惑う女も、彼女の瞳にはただの動く標的としてしか映らない。刃が肉を断つ感触が、ぱちんとはじけて血の渦となり、夜の闇を塗り替えてゆく。
まぶたに、頬に、髪に、熱い飛沫がこびりつく。元々赤く生まれついたのではないかというほど、彼女のすべてが紅に染まっていった。
耳の奥では、止まない金切り声と、雨の音が、不協和音となってずっと響き続けていた。



