月の浮かばない新月の夜であった。星々の灯りだけが闇を照らし、さやさやとこすれ合う木々たちを浮かび上がらせている。
うすく開いた小窓から、生ぬるいそよ風が室内に入り、布団に横になっていた影虎の頬を撫でる。
ただでさえ寝つきが悪かったが、夏の夜はそれが一段とひどくなる。
雪のごとく白い肌に似合わず、暑い季節が苦手であった。日に当たると、高虎のように茶色く日焼けするのではなく、肌が赤く染まってしまう。その色が落ち着くまで、木陰にじっと座っている時間も嫌いだった。はやく身体を動かしたくて、うずうずとしてしまう。
眉を寄せ、閉じていた瞳をうっすらとひらき、顔を歪める。
布団からはみ出した細長い脚をむずむずと擦り合わせると、それに気づいた高虎が反応した。
「影虎、眠れねえのか」
背から低い声が響き、はっと目を見開く。
瞳を、ゆっくりと高虎のほうへ向けた。
影虎の眸は、周囲が暗ければ暗いほど、かがやきを増すらしい。まるで猫のように。夜空に浮かぶ満月のように。 高虎は、大きな背を向けたままであったが、その存在感は重い闇の中でもありありと感じられた。窓から差し込む星明かりが、白髪を銀にきらめかせている。
影虎はそのひかりを目で追った。
「何だじじい……。起きてたのかよ」
影虎が高虎の背に声を掛けると、彼は彼女を確認するように少しからだを動かし、目を向ける。その眸は、あきらかに面倒そうな色を浮かべている。
「じじいって呼ぶんじゃねえ」
「じゃあ何……、『高虎』って言えばいいの」
しぶしぶといった口調で、彼の名を告げると、高虎は眸の色を強くする。
その灰青色の眸は、暗闇ではっきりとは確認出来なかったが、何故か一抹のさみしさを感じさせた。
「まあ、じじいでも高虎でも、好きなほうを呼べ。どっちでも、いつも呼んでんだろ」
「そうだけど……」
高虎も眠れないの、と影虎は言おうとしたが、何故かそれを言うのをためらってしまい、視線をただよわせた後、下唇を上唇でかるく噛んだ。
「こっち向けよ。そのほうが話しやすいし」
高虎は短く息をつくと、上半身を少し浮かせ、影虎のほうを向いた。 高虎と向き合う形となり、少し緊張して身を固くする。圧倒的に違う体格差を、いやでも感じさせられた。 髪をほどいた高虎は、いつもよりも色気がある。普段はつむじのあたりで固くまとめられている髪が、今は皺を刻んだ茶色の額を流れている。近くで見ると、黒髪ひとつない高虎の白髪は、星明かりを受けてぼんやりとした光を放っていた。
影虎は布団の中でこぶしを胸元に置き、緩くまるめた。
そういえば高虎と夜中に起きて話すなんてことが、あまりなかったからだ。なにか緊張感があった。
「……何話す?」
影虎は小声で高虎に問う。
「……お前、考えてたんじゃねえのか」
「何にも考えてなかった」
「なんか、話してえことあるんだろ」
「ん……」
視線を逸らして、顎に手を当て、考える。
穏やかに自分をみつめる高虎の視線に気づき、恥ずかしさから、影虎はかすかに頬を朱に染める。
高虎は親代わりとして何度か自分のことをみつめてくれていることもあっただろうが、夜中にこんなに間近で視線を感じるのは初めてだった。気恥ずかしさも起こる。
「な、なんだよ」
「……いいから、なんか喋れ」
「どうしよ。なんも思いつかない」
影虎は眉を寄せた。
「……じゃあ、普段俺に対して思ってること、聞きてえこと、言いたかったけど、言えなかったこととか」
「え、……いいの?」
影虎は嬉々として布団から身を乗り出し、高虎に顔を寄せた。 高虎は不意を突かれたように身を引く。布団から、彼の大きなからだがはみ出しそうになっていた。
「なんだよ」
「あのさ、前から気になってたんだけど」
暗闇の中で、影虎の瞳が泉の水面のようにゆれていた。子供のような好奇心を剥き出しにして。
「俺の名前ってさ、どういう理由でこの名前にしたの?」
「……は?」
高虎は大きく目を見開いた。 影虎のちいさな鼻が、高虎の大きな鷲鼻とくっつきそうなほど迫ってきたので、たじろいで後ずさったのか、高虎はこぶしひとつ分の空間を空けた。そして視線を逸らし、息を少し止めると、あきらめたように吐き出した。ゆっくりと影虎に視線を向けると、また逸らし、さらには背を向けてしまう。
「ちょっと」
影虎はむっとした。はっきりしてくれと、眉間を寄せる。
「……お前のその、人目を引く赤髪を隠すためだ」 「えっ?」 「紅を伏せ、黒い影として虎の如く強くあれ――ってな。そんな意味だ」
自分の髪が、本当は燃えるような紅色であることを知っているのは、この世で高虎と自分だけだ。物心つく前から、高虎は草木を煮出した液で、影虎の髪を真っ黒に染め続けてくれていた。成長してからは、自分で染め方を覚えて染めるようになったが、ときどき高虎が髪に触れる感触が恋しくなり、彼に頼んでしまうこともあった。
「影」という字。それは、本来の自分を闇に潜ませ、別の何者かとして生きるための隠れ蓑のように感じていた。
高虎の願いというよりは、それは彼なりの、あまりに不器用な守り方だったのかもしれない。
あかるい性格の自分には不似合いな名前だと思っていたので、本当はあまり好きではなかった。
「高虎、それ本当なの?」
高虎は応えない。しばらくふたりの間に沈黙が続いた。
闇だけが、その中をしずかにただよっている。
影虎は瞳を揺らし、一度まばたきすると唇を湿らせた。半分まぶたを落とし、高虎の白髪が、窓から差し込む星明かりで、銀紗のように冴え冴えときらめいているのを、ただ見つめている。
「本当だ」
影虎は息を止め、ちいさな指先をかるく曲げた。
猫のような大きな眸をまばたきすると、真剣な表情で高虎のうなじをみつめる。
すると、それを肌で感じたのか、高虎はゆっくりと体勢を変え、こちらをふたたび向いた。その眸は凪いだ水面のように穏やかで、いつもの高虎の雰囲気とは異なっていた。
「そうなんだ……」
影虎はこくり、と唾を飲み込んだ。そして指を軽く動かし、眺めると、不意に笑みがこぼれた。
「影は暗い感じがしてあんまり俺らしくないなって思ってたけど、それを聞いて好きになれそうな気がしてきた。……虎の字が、俺は好きだよ。だって、高虎とおそろいだもの」
自分で言っていて、なんだか気恥ずかしくなり、頬に熱がのぼってくる。
しばらく高虎から返事はなかった。風の音が外で強くなった頃、高虎の口が急にひらいた。
「――虎の字は、俺の息子にもついていた字だ。そいつは正虎って言ってな。お前とは似てねぇ、のんびりしてて落ち着いたやつだった」
影虎は息を飲んだ。
(高虎の息子?)
「ねぇ、その話、もう少し聞いてもいい? 高虎が自分の過去について話してくれるなんて、今までなかったからさ」
「……ああ。まあ、いいぞ」
言ってしまってから、この問いは果たして良かったのかと思った。
しんしんと考えが巡り、落ち着かない。水中を浮遊する塵のようだ。眉を寄せる。もやのように重なって見えない真実を考えることは苦しかった。高虎の家族のことについて、深くまで聞いてしまっていいのか、それは彼を傷つけることにはならないのか、悩み、くちびるを閉ざす。唾はさらさらとしているというのに、喉に何か引っかかっているようだった。それを吐き出してしまうことが出来ない。
高虎はうすいくちびるを開けて話し始めた。止まっていた空気が動き始める。
「俺は、お前と出会う前……。この箱根の山で暮らす前は、京というところで武士をやっていた」
影虎は、はっと目を見開く。
高虎の過去の職業と、住んでいた場所について聞くのは、初めてだった。
(……武士)
影虎の今の生活には、あまりにも馴染みのない言葉だった。
__あれは去年の春のことだったか。
山から村に降りて、他の子らと遊んでいるとき、田を挟んだ遠くの小道を、陽射しを浴び、輪郭を金にひからせた茶色の馬が数頭歩いてくるのを、遠目で眺めていた。
そこに乗っているのは、あきらかに村の者たちとは風情が違う男たちで、腰には、刀を二口差していた。
影虎は男たちが何をしに村に来たどこの者であるのか、というよりも、その腰の刀に注目し、村の子らに遊びの続きに誘われても、目が離せなかった。
黒い鞘に、紺に銀の刺繍をほどこした紐が結ばれている刀。
それは、高虎と暮らす家の中の押し入れに仕舞われているものと同じであることに、気付いていた。
ある日、高虎と掃除を共にした時、高虎は家の外で着物を洗う係となり、影虎は家の中を掃除する係となり、昼から夕方まで各々の家事をおこなった。
家の床を藍の手ぬぐいで磨きあげ、満足して四つん這いの状態から半身を起こし、額の汗を腕で拭った。
そしてふと、押し入れのほうを見上げる。その押し入れは、いつも高虎だけが使用していた。影虎が好奇心から開けようとしても、高虎にきつく注意され、途中で閉められてしまっていた。影虎は家の戸のほうに、ちらりと視線を向けた。
陽のひかりと共に、高虎が洗った着物を幾枚か手にして移動するのが見えた。腕まくりをしてあらわになった、髪色とひとしく銀のうぶ毛が生えた、太い茶色の腕が視界に入り、消えていった。
こちらには来ないことを確認すると、鼻から吸った息と共に、唾をこくりと飲み込んだ。自分のくちびるが刹那にふるえた。
押し入れの戸にからだをぴったりとくっつけ、その体ごと戸をずらすように動いた。古い戸であったが、するすると動き、そのまま押し入れの中を覗き込んだ。
暗闇の中に、いくつか紐が結われた木製の箱が置かれていた。紐の色は統一されたように、すべてうすい緑をしていた。そして、少し汚れている。
影虎はその紐の先を指で摘まんだ。経年劣化でうす緑をしているが、本来の姿は、深緑であったのかもしれないと思った。
__ここに、高虎は何か隠しているのか。
素足をあげると、そっと中に入れた。ひんやりとした押し入れの床の温度が、足裏から伝わった。それはまるで、異界に入るようであり、心に恐れの膜が張った。
__どうしよう、なんだか怖くなってきた。
いつの間にか、ふるえていた手をぎゅっと握り、胸元に置いた。屈んで足を擦らせながら前に進むと、目の前に黒く細長い箱が現れた。
__俺の背よりも、なげぇ。
そっと両手を広げ、その上に置いた。
撫でると、想像よりもつるりとなめらかな感触がした。
指先でほこりを払うと、黒い部分と質感の違う感触がある部分があり、螺鈿の細工がほどこされていることがわかった。
星を撒いたような、青と紫が目立つそのきらめきは、虎柄だった。まだらで歪な強弱の線が彫られていた。
そっとゆびさきを移動させて、中央に印のように結ばれた紐に、手を伸ばした。
自分の指の腹が、汗ばんでいるのを感じた。
ふっ、と息を吐くと同時に解いた。しゃなりという音がした。手を添えて、箱をゆっくりと開けた。ことりと音がして蓋が外れ、鈍い重みを持ちながら手に乗せ、上へ持ちあげた。
そっと中に手を入れ、取り出したのは、黒い鞘であった。薄明のような色をした、青紫の紐で刀身を巻かれている。見た目は細いが、持ちあげると、両腕で抱えなければならないほどの重みがあった。
少しよろけたが、体勢を整えると、膝を落とし、まじまじと刀をみつめた。
__高虎の刀だ……。
そう確信し、こめかみに汗がひとしずく流れた。
くちびるを噛み、湿らせると、改めて刀をみやる。手の中の刀が、鈍く発光しているようだった。
__高虎、刀を持ってたんだ。でも、なぜ……?
高虎が刀を所持していたことに、思い当たらなかった。
思い起こされる彼の日常の姿は、庭で背を丸めて野良仕事をしている姿か、彼女が朝早起きをして、ふと見た時に、鷲鼻の下に銀の髭が少し茂っている、年老いた男の姿だけであった。
日常がここにあり、これからも彼と流れる時間を共有していくのだと、そう信じていた。
だが、今押し入れの中から取り出した刀からは、普段の彼の姿とは似つかない異様な恐ろしさを感じた。
春だというのに、てのひらはつめたい。ゆびさきはこまやかに震えて、桜色に染まり、おぼろな影をあらわしていた。
外から足音がして、はっと戸のほうを見やった。闇の中にいたので、外のひかりがまぶしく隙間から差し込んでいた。
瞳をわずかに眇めた。
高虎がひと仕事を終え、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
__まずい……。
慌てて、なるべく音を立てないように刀を箱の中に戻し、足音を立てないようにつま先歩きをして押し入れから出て、そっとその戸を閉めた。
それと同時に、高虎が家の中へ戻ってきたので、さっと戸から離れ、彼を迎えた。
影虎のぎこちない笑顔に、高虎が訝しんだ顔をしたが、すぐに夕餉の用意をしてくれたのを覚えている。
その時の高虎の肩を、窓からさす夕陽が、淡く茜に染めていたことで、それほどまでに長いあいだ、押入れの中で刀を見ていたことに気づき、驚いていた。
刀に魅了されていたあの時の光景が、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
そんな灰色の記憶が、頭の中に浮かんでいた。
――はっと意識が浮上する。 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。窓から差し込む朝の淡いひかりが、隣で眠る高虎の鼻梁を白く照らしている。
(高虎と話して、低い声を聴いていると、心が安らぐんだ。だから聞きたかったこと、聞きそびれちまった)
もっと彼の家族、過去のことについて聞いておきたかったが、今はその時ではない気がした。
(夏祭りが終わって、落ち着いたら、また夕餉のときにでも、改めて高虎に話を聞いてみよう)
そう決意し、ひとりで頷くと、布団から半身を起こし、大きく伸びとあくびをした。
影虎の脳裏に、あの押し入れの刀が鮮烈に浮かび上がる。
不思議と、あの鞘を払い、刀身を思い切り振り下ろしてみたいという衝動が突き上げてきた。自らの内に眠るその欲求に、影虎自身が唖然とする。
そして、やりたいと思っていることが、漠然とつかめているような気がしていた。
(からだ動かすことだけは、昔っから得意だったもんな)
思えば、早朝、まだ鳥の高い鳴き声が飛び交っている中、小屋の外に生えている柿の木の上に登って、みずから熟れた茜色の柿を手に取って食べたり、しゃがみ込んで落ちている、凍ったように硬い皮を持つ栗の実を拾ったり、村の童たちと長い木の枝を見つけ、それを刀に見立てて戦って遊んだりして日々を過ごしていた。
思いきり腕を振りあげ、風を切って振り下ろし、相手と対峙した時の高揚感は、正座させられ、村の寺子屋の教師に延々と教鞭を受けている時間よりも、ひと一倍たのしかった。
(俺のからだは、動きたがってる。刀を持って走り回ってみたいんだ。俺は)
緊張からか、うっすらと手汗をかいている両手を目の前におろし、強く握りしめる。
(俺もいつか高虎のように、自分だけの刀を手に入れたい)
願いは、まだふくらみの淡いちいさな胸の中に、熱くともしびとしてあらわれていた。
朝日がそのやわらかな輪郭を、白く照らしている。顔をあげると、その陽が全体に当たり、影虎の生命力あふれる面が、真珠のような色をしてかがやいていた。
さんさんと降り注ぐそれは、かすかに熱くも、かすかにつめたい。
この世に生まれ直したように思えた、そんな朝だった。
うすく開いた小窓から、生ぬるいそよ風が室内に入り、布団に横になっていた影虎の頬を撫でる。
ただでさえ寝つきが悪かったが、夏の夜はそれが一段とひどくなる。
雪のごとく白い肌に似合わず、暑い季節が苦手であった。日に当たると、高虎のように茶色く日焼けするのではなく、肌が赤く染まってしまう。その色が落ち着くまで、木陰にじっと座っている時間も嫌いだった。はやく身体を動かしたくて、うずうずとしてしまう。
眉を寄せ、閉じていた瞳をうっすらとひらき、顔を歪める。
布団からはみ出した細長い脚をむずむずと擦り合わせると、それに気づいた高虎が反応した。
「影虎、眠れねえのか」
背から低い声が響き、はっと目を見開く。
瞳を、ゆっくりと高虎のほうへ向けた。
影虎の眸は、周囲が暗ければ暗いほど、かがやきを増すらしい。まるで猫のように。夜空に浮かぶ満月のように。 高虎は、大きな背を向けたままであったが、その存在感は重い闇の中でもありありと感じられた。窓から差し込む星明かりが、白髪を銀にきらめかせている。
影虎はそのひかりを目で追った。
「何だじじい……。起きてたのかよ」
影虎が高虎の背に声を掛けると、彼は彼女を確認するように少しからだを動かし、目を向ける。その眸は、あきらかに面倒そうな色を浮かべている。
「じじいって呼ぶんじゃねえ」
「じゃあ何……、『高虎』って言えばいいの」
しぶしぶといった口調で、彼の名を告げると、高虎は眸の色を強くする。
その灰青色の眸は、暗闇ではっきりとは確認出来なかったが、何故か一抹のさみしさを感じさせた。
「まあ、じじいでも高虎でも、好きなほうを呼べ。どっちでも、いつも呼んでんだろ」
「そうだけど……」
高虎も眠れないの、と影虎は言おうとしたが、何故かそれを言うのをためらってしまい、視線をただよわせた後、下唇を上唇でかるく噛んだ。
「こっち向けよ。そのほうが話しやすいし」
高虎は短く息をつくと、上半身を少し浮かせ、影虎のほうを向いた。 高虎と向き合う形となり、少し緊張して身を固くする。圧倒的に違う体格差を、いやでも感じさせられた。 髪をほどいた高虎は、いつもよりも色気がある。普段はつむじのあたりで固くまとめられている髪が、今は皺を刻んだ茶色の額を流れている。近くで見ると、黒髪ひとつない高虎の白髪は、星明かりを受けてぼんやりとした光を放っていた。
影虎は布団の中でこぶしを胸元に置き、緩くまるめた。
そういえば高虎と夜中に起きて話すなんてことが、あまりなかったからだ。なにか緊張感があった。
「……何話す?」
影虎は小声で高虎に問う。
「……お前、考えてたんじゃねえのか」
「何にも考えてなかった」
「なんか、話してえことあるんだろ」
「ん……」
視線を逸らして、顎に手を当て、考える。
穏やかに自分をみつめる高虎の視線に気づき、恥ずかしさから、影虎はかすかに頬を朱に染める。
高虎は親代わりとして何度か自分のことをみつめてくれていることもあっただろうが、夜中にこんなに間近で視線を感じるのは初めてだった。気恥ずかしさも起こる。
「な、なんだよ」
「……いいから、なんか喋れ」
「どうしよ。なんも思いつかない」
影虎は眉を寄せた。
「……じゃあ、普段俺に対して思ってること、聞きてえこと、言いたかったけど、言えなかったこととか」
「え、……いいの?」
影虎は嬉々として布団から身を乗り出し、高虎に顔を寄せた。 高虎は不意を突かれたように身を引く。布団から、彼の大きなからだがはみ出しそうになっていた。
「なんだよ」
「あのさ、前から気になってたんだけど」
暗闇の中で、影虎の瞳が泉の水面のようにゆれていた。子供のような好奇心を剥き出しにして。
「俺の名前ってさ、どういう理由でこの名前にしたの?」
「……は?」
高虎は大きく目を見開いた。 影虎のちいさな鼻が、高虎の大きな鷲鼻とくっつきそうなほど迫ってきたので、たじろいで後ずさったのか、高虎はこぶしひとつ分の空間を空けた。そして視線を逸らし、息を少し止めると、あきらめたように吐き出した。ゆっくりと影虎に視線を向けると、また逸らし、さらには背を向けてしまう。
「ちょっと」
影虎はむっとした。はっきりしてくれと、眉間を寄せる。
「……お前のその、人目を引く赤髪を隠すためだ」 「えっ?」 「紅を伏せ、黒い影として虎の如く強くあれ――ってな。そんな意味だ」
自分の髪が、本当は燃えるような紅色であることを知っているのは、この世で高虎と自分だけだ。物心つく前から、高虎は草木を煮出した液で、影虎の髪を真っ黒に染め続けてくれていた。成長してからは、自分で染め方を覚えて染めるようになったが、ときどき高虎が髪に触れる感触が恋しくなり、彼に頼んでしまうこともあった。
「影」という字。それは、本来の自分を闇に潜ませ、別の何者かとして生きるための隠れ蓑のように感じていた。
高虎の願いというよりは、それは彼なりの、あまりに不器用な守り方だったのかもしれない。
あかるい性格の自分には不似合いな名前だと思っていたので、本当はあまり好きではなかった。
「高虎、それ本当なの?」
高虎は応えない。しばらくふたりの間に沈黙が続いた。
闇だけが、その中をしずかにただよっている。
影虎は瞳を揺らし、一度まばたきすると唇を湿らせた。半分まぶたを落とし、高虎の白髪が、窓から差し込む星明かりで、銀紗のように冴え冴えときらめいているのを、ただ見つめている。
「本当だ」
影虎は息を止め、ちいさな指先をかるく曲げた。
猫のような大きな眸をまばたきすると、真剣な表情で高虎のうなじをみつめる。
すると、それを肌で感じたのか、高虎はゆっくりと体勢を変え、こちらをふたたび向いた。その眸は凪いだ水面のように穏やかで、いつもの高虎の雰囲気とは異なっていた。
「そうなんだ……」
影虎はこくり、と唾を飲み込んだ。そして指を軽く動かし、眺めると、不意に笑みがこぼれた。
「影は暗い感じがしてあんまり俺らしくないなって思ってたけど、それを聞いて好きになれそうな気がしてきた。……虎の字が、俺は好きだよ。だって、高虎とおそろいだもの」
自分で言っていて、なんだか気恥ずかしくなり、頬に熱がのぼってくる。
しばらく高虎から返事はなかった。風の音が外で強くなった頃、高虎の口が急にひらいた。
「――虎の字は、俺の息子にもついていた字だ。そいつは正虎って言ってな。お前とは似てねぇ、のんびりしてて落ち着いたやつだった」
影虎は息を飲んだ。
(高虎の息子?)
「ねぇ、その話、もう少し聞いてもいい? 高虎が自分の過去について話してくれるなんて、今までなかったからさ」
「……ああ。まあ、いいぞ」
言ってしまってから、この問いは果たして良かったのかと思った。
しんしんと考えが巡り、落ち着かない。水中を浮遊する塵のようだ。眉を寄せる。もやのように重なって見えない真実を考えることは苦しかった。高虎の家族のことについて、深くまで聞いてしまっていいのか、それは彼を傷つけることにはならないのか、悩み、くちびるを閉ざす。唾はさらさらとしているというのに、喉に何か引っかかっているようだった。それを吐き出してしまうことが出来ない。
高虎はうすいくちびるを開けて話し始めた。止まっていた空気が動き始める。
「俺は、お前と出会う前……。この箱根の山で暮らす前は、京というところで武士をやっていた」
影虎は、はっと目を見開く。
高虎の過去の職業と、住んでいた場所について聞くのは、初めてだった。
(……武士)
影虎の今の生活には、あまりにも馴染みのない言葉だった。
__あれは去年の春のことだったか。
山から村に降りて、他の子らと遊んでいるとき、田を挟んだ遠くの小道を、陽射しを浴び、輪郭を金にひからせた茶色の馬が数頭歩いてくるのを、遠目で眺めていた。
そこに乗っているのは、あきらかに村の者たちとは風情が違う男たちで、腰には、刀を二口差していた。
影虎は男たちが何をしに村に来たどこの者であるのか、というよりも、その腰の刀に注目し、村の子らに遊びの続きに誘われても、目が離せなかった。
黒い鞘に、紺に銀の刺繍をほどこした紐が結ばれている刀。
それは、高虎と暮らす家の中の押し入れに仕舞われているものと同じであることに、気付いていた。
ある日、高虎と掃除を共にした時、高虎は家の外で着物を洗う係となり、影虎は家の中を掃除する係となり、昼から夕方まで各々の家事をおこなった。
家の床を藍の手ぬぐいで磨きあげ、満足して四つん這いの状態から半身を起こし、額の汗を腕で拭った。
そしてふと、押し入れのほうを見上げる。その押し入れは、いつも高虎だけが使用していた。影虎が好奇心から開けようとしても、高虎にきつく注意され、途中で閉められてしまっていた。影虎は家の戸のほうに、ちらりと視線を向けた。
陽のひかりと共に、高虎が洗った着物を幾枚か手にして移動するのが見えた。腕まくりをしてあらわになった、髪色とひとしく銀のうぶ毛が生えた、太い茶色の腕が視界に入り、消えていった。
こちらには来ないことを確認すると、鼻から吸った息と共に、唾をこくりと飲み込んだ。自分のくちびるが刹那にふるえた。
押し入れの戸にからだをぴったりとくっつけ、その体ごと戸をずらすように動いた。古い戸であったが、するすると動き、そのまま押し入れの中を覗き込んだ。
暗闇の中に、いくつか紐が結われた木製の箱が置かれていた。紐の色は統一されたように、すべてうすい緑をしていた。そして、少し汚れている。
影虎はその紐の先を指で摘まんだ。経年劣化でうす緑をしているが、本来の姿は、深緑であったのかもしれないと思った。
__ここに、高虎は何か隠しているのか。
素足をあげると、そっと中に入れた。ひんやりとした押し入れの床の温度が、足裏から伝わった。それはまるで、異界に入るようであり、心に恐れの膜が張った。
__どうしよう、なんだか怖くなってきた。
いつの間にか、ふるえていた手をぎゅっと握り、胸元に置いた。屈んで足を擦らせながら前に進むと、目の前に黒く細長い箱が現れた。
__俺の背よりも、なげぇ。
そっと両手を広げ、その上に置いた。
撫でると、想像よりもつるりとなめらかな感触がした。
指先でほこりを払うと、黒い部分と質感の違う感触がある部分があり、螺鈿の細工がほどこされていることがわかった。
星を撒いたような、青と紫が目立つそのきらめきは、虎柄だった。まだらで歪な強弱の線が彫られていた。
そっとゆびさきを移動させて、中央に印のように結ばれた紐に、手を伸ばした。
自分の指の腹が、汗ばんでいるのを感じた。
ふっ、と息を吐くと同時に解いた。しゃなりという音がした。手を添えて、箱をゆっくりと開けた。ことりと音がして蓋が外れ、鈍い重みを持ちながら手に乗せ、上へ持ちあげた。
そっと中に手を入れ、取り出したのは、黒い鞘であった。薄明のような色をした、青紫の紐で刀身を巻かれている。見た目は細いが、持ちあげると、両腕で抱えなければならないほどの重みがあった。
少しよろけたが、体勢を整えると、膝を落とし、まじまじと刀をみつめた。
__高虎の刀だ……。
そう確信し、こめかみに汗がひとしずく流れた。
くちびるを噛み、湿らせると、改めて刀をみやる。手の中の刀が、鈍く発光しているようだった。
__高虎、刀を持ってたんだ。でも、なぜ……?
高虎が刀を所持していたことに、思い当たらなかった。
思い起こされる彼の日常の姿は、庭で背を丸めて野良仕事をしている姿か、彼女が朝早起きをして、ふと見た時に、鷲鼻の下に銀の髭が少し茂っている、年老いた男の姿だけであった。
日常がここにあり、これからも彼と流れる時間を共有していくのだと、そう信じていた。
だが、今押し入れの中から取り出した刀からは、普段の彼の姿とは似つかない異様な恐ろしさを感じた。
春だというのに、てのひらはつめたい。ゆびさきはこまやかに震えて、桜色に染まり、おぼろな影をあらわしていた。
外から足音がして、はっと戸のほうを見やった。闇の中にいたので、外のひかりがまぶしく隙間から差し込んでいた。
瞳をわずかに眇めた。
高虎がひと仕事を終え、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
__まずい……。
慌てて、なるべく音を立てないように刀を箱の中に戻し、足音を立てないようにつま先歩きをして押し入れから出て、そっとその戸を閉めた。
それと同時に、高虎が家の中へ戻ってきたので、さっと戸から離れ、彼を迎えた。
影虎のぎこちない笑顔に、高虎が訝しんだ顔をしたが、すぐに夕餉の用意をしてくれたのを覚えている。
その時の高虎の肩を、窓からさす夕陽が、淡く茜に染めていたことで、それほどまでに長いあいだ、押入れの中で刀を見ていたことに気づき、驚いていた。
刀に魅了されていたあの時の光景が、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
そんな灰色の記憶が、頭の中に浮かんでいた。
――はっと意識が浮上する。 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。窓から差し込む朝の淡いひかりが、隣で眠る高虎の鼻梁を白く照らしている。
(高虎と話して、低い声を聴いていると、心が安らぐんだ。だから聞きたかったこと、聞きそびれちまった)
もっと彼の家族、過去のことについて聞いておきたかったが、今はその時ではない気がした。
(夏祭りが終わって、落ち着いたら、また夕餉のときにでも、改めて高虎に話を聞いてみよう)
そう決意し、ひとりで頷くと、布団から半身を起こし、大きく伸びとあくびをした。
影虎の脳裏に、あの押し入れの刀が鮮烈に浮かび上がる。
不思議と、あの鞘を払い、刀身を思い切り振り下ろしてみたいという衝動が突き上げてきた。自らの内に眠るその欲求に、影虎自身が唖然とする。
そして、やりたいと思っていることが、漠然とつかめているような気がしていた。
(からだ動かすことだけは、昔っから得意だったもんな)
思えば、早朝、まだ鳥の高い鳴き声が飛び交っている中、小屋の外に生えている柿の木の上に登って、みずから熟れた茜色の柿を手に取って食べたり、しゃがみ込んで落ちている、凍ったように硬い皮を持つ栗の実を拾ったり、村の童たちと長い木の枝を見つけ、それを刀に見立てて戦って遊んだりして日々を過ごしていた。
思いきり腕を振りあげ、風を切って振り下ろし、相手と対峙した時の高揚感は、正座させられ、村の寺子屋の教師に延々と教鞭を受けている時間よりも、ひと一倍たのしかった。
(俺のからだは、動きたがってる。刀を持って走り回ってみたいんだ。俺は)
緊張からか、うっすらと手汗をかいている両手を目の前におろし、強く握りしめる。
(俺もいつか高虎のように、自分だけの刀を手に入れたい)
願いは、まだふくらみの淡いちいさな胸の中に、熱くともしびとしてあらわれていた。
朝日がそのやわらかな輪郭を、白く照らしている。顔をあげると、その陽が全体に当たり、影虎の生命力あふれる面が、真珠のような色をしてかがやいていた。
さんさんと降り注ぐそれは、かすかに熱くも、かすかにつめたい。
この世に生まれ直したように思えた、そんな朝だった。



