七年後の春、弥生《やよい》。
純白とも言えるほどの、うすくれないの桜の花弁は、この森に生える深いみどりを背景に、くっきりと浮かびあがり、舞い散って、通りを渡るひとびとの上に、祝福のようにも、ものがなしい切なさのようにもふりそそいでいる。日向と乾いた土のにおい。こぼれるひかりにさえも、香りや質感を感じられる季節。
旅人の疲れを癒すように建てられた、ちいさな茶屋の紅い暖簾《のれん》や、緋毛氈《ひもうせん》を敷かれた長台の上にも、ひらひらと白い花弁は舞い落ちる。
その桜の花弁とひとしい色をした肌をもつ手が、一枚、落ちたそれをゆびさきで摘《つま》んだ。
そのくちもとは気のせいか、かすかに笑んでいる。
花弁を顔の前にかざすように持ちあげ、じっと見つめるひとみは金色をしている。
彼に茶を渡すために、黒塗りの盆の上に湯呑みを持ってきた茶屋の青年は、かすかな距離を置いて立ち止まる。
烏のように真っ黒な装束をした侍だった。袴《はかま》も上衣《うわごろも》も黒。腰に帯びたひとふりの刀も、漆を塗ったような紅い光沢を帯びた射干玉《ぬばたま》である。腰まで伸びた長い髪を、うなじでひとつにまとめ、襟と髪の間から見える首すじは雪のように白く、しずかな佇まいと、どこかものがなしさを感じさせる双眸《そうぼう》から、まるで冬の闇をうつしとったかのような男だと感じた。彼の周りだけ、つめたく青い空気が漂っている。
「お侍さま、茶を」
「……あ、ああ」
桜にしか興味がないといったように、声をかけられてから反応するまでに間があった。自然に対して向けていた、うっすらとした微笑みが、青年の前では消える。菅笠《すげがさ》を被っているため、上から見下ろすと目元から下までしか顔が見えないが、それでも凛とした美形である。髪も肌も、透明な膜を張ったようだった。あどけない顔でこちらを見上げるその瞳は、縁にゆくほど厚みを増す長いまつげに覆われ、どこか妖艶さも感じられた。
青年はふたたび現れた桜風に頬を撫でられなければ、動きを止めていたことに気づくことはなかった。
「江戸への道を聞きたい」
「ああ、江戸ですか。したらあっちに……」
侍は青年の指差したほうへ、つられるように顔を動かすと、真っ直ぐに腰を上げ立ちあがった。立ち去る刹那、人差し指と親指で笠を摘み、わずかに顔を見せて青年にひとこと「ありがとう」と礼を告げた。金色の大きな瞳が、茶色の花が咲いたような虹彩を咲かせていた。
その笑みを見て、青年は硬直した。
侍は去ってゆく。
春風が、侍の黒髪をゆらし、わずかに光をふくんで、はらりと青空に溶けて広がった。
「………おんな………?」
青年は目を丸くして、ただ黒き侍の背を見送った。
純白とも言えるほどの、うすくれないの桜の花弁は、この森に生える深いみどりを背景に、くっきりと浮かびあがり、舞い散って、通りを渡るひとびとの上に、祝福のようにも、ものがなしい切なさのようにもふりそそいでいる。日向と乾いた土のにおい。こぼれるひかりにさえも、香りや質感を感じられる季節。
旅人の疲れを癒すように建てられた、ちいさな茶屋の紅い暖簾《のれん》や、緋毛氈《ひもうせん》を敷かれた長台の上にも、ひらひらと白い花弁は舞い落ちる。
その桜の花弁とひとしい色をした肌をもつ手が、一枚、落ちたそれをゆびさきで摘《つま》んだ。
そのくちもとは気のせいか、かすかに笑んでいる。
花弁を顔の前にかざすように持ちあげ、じっと見つめるひとみは金色をしている。
彼に茶を渡すために、黒塗りの盆の上に湯呑みを持ってきた茶屋の青年は、かすかな距離を置いて立ち止まる。
烏のように真っ黒な装束をした侍だった。袴《はかま》も上衣《うわごろも》も黒。腰に帯びたひとふりの刀も、漆を塗ったような紅い光沢を帯びた射干玉《ぬばたま》である。腰まで伸びた長い髪を、うなじでひとつにまとめ、襟と髪の間から見える首すじは雪のように白く、しずかな佇まいと、どこかものがなしさを感じさせる双眸《そうぼう》から、まるで冬の闇をうつしとったかのような男だと感じた。彼の周りだけ、つめたく青い空気が漂っている。
「お侍さま、茶を」
「……あ、ああ」
桜にしか興味がないといったように、声をかけられてから反応するまでに間があった。自然に対して向けていた、うっすらとした微笑みが、青年の前では消える。菅笠《すげがさ》を被っているため、上から見下ろすと目元から下までしか顔が見えないが、それでも凛とした美形である。髪も肌も、透明な膜を張ったようだった。あどけない顔でこちらを見上げるその瞳は、縁にゆくほど厚みを増す長いまつげに覆われ、どこか妖艶さも感じられた。
青年はふたたび現れた桜風に頬を撫でられなければ、動きを止めていたことに気づくことはなかった。
「江戸への道を聞きたい」
「ああ、江戸ですか。したらあっちに……」
侍は青年の指差したほうへ、つられるように顔を動かすと、真っ直ぐに腰を上げ立ちあがった。立ち去る刹那、人差し指と親指で笠を摘み、わずかに顔を見せて青年にひとこと「ありがとう」と礼を告げた。金色の大きな瞳が、茶色の花が咲いたような虹彩を咲かせていた。
その笑みを見て、青年は硬直した。
侍は去ってゆく。
春風が、侍の黒髪をゆらし、わずかに光をふくんで、はらりと青空に溶けて広がった。
「………おんな………?」
青年は目を丸くして、ただ黒き侍の背を見送った。



