「そう……だったの?」
 その問いに石動さんが俯きながら小さく頷く。頬は微かに桃色に染まっている。そう思っている僕もきっと同じ頬の色をしているのだろう。自分のことをそんな風に想ってくれている女の子なんて今までいなかったから。だけど石動さんの後ろにいる魔女の存在が嫌でも僕たちを現実に引き戻す。
 話が止んだからだろうか、魔女が「そろそろいいかしら」とこの状況にいる僕たちにとって恐ろしい言葉を吐く。ゆっくりと近づく足音。耳に集中しなくたって聞こえるぐらいにまで足音の主は迫っていた。
 嫌だ、嫌だ……。石動さんが椅子になってしまう。僕を好きになってくれた、ただ一人の女の子がもうすぐ……。やがて魔女が手を伸ばす。すると俯いていた石動さんが顔を上げて僕を真っ直ぐに見つめる。立ち上がりたいのに、彼女が僕の肩を押すことをやめてくれない。
 「碧馬君」
 その声はもうすぐ椅子になってしまう人のものではなかった。輪郭のはっきりとした声が耳に届く。僕の肩を強く握りしめたまま彼女はその続きの言葉を吐く。
 「君のことが好きで……」
 最後の一文字が聞こえない。それはもう言葉を紡げない体に彼女がなってしまったから。辺りを包む白い煙がその現実を容赦なく突きつけてくる。煙が晴れると、目の前には椅子と魔女がいるだけだった。
 入学式の時に椅子を譲っただけで、勉強に手がつかなくなるほど僕のことを好きになってくれて。そんなの好きになるに決まってるよ。もっと石動さんと親睦を深めていればよかった。もっと勉強をしていればよかった。石動さんに教えられるくらいに。彼女の胸の内を聞いて僕は今さら後悔する。
 「どうして……こんなことするんですか」
 思ったより低く掠れた声が出た。後悔は魔女に対する強い怒りに変わる。だけど魔女は皮肉な笑みを浮かべるだけだった。
 「どうしてって。あなたたちが悪い成績ばっかり取るからでしょ。はいはい、もう始めるから立って」
 逆らったらどうなるかは想像に容易いから、僕は素直に立ち上がる。すると魔女は僕たちが座っていた椅子を取り上げて代わりに石動さんを真ん中に置いた。
 「ちょっと待ってください。この椅子に座らないとですか?」
 魔女はさも当然といった表情で「そうよ」とだけ呟く。体から熱が逃げていくのを感じる。まるで変温動物になってしまったかのように。次の犠牲者がわかったから。そしてその人は他の誰でもない僕だから。
 僕のことを好きになってくれた女の子。僕が恋した女の子。そんな人の上に座れるはずないから。
 魔女が定位置に戻ってスマホを操作する。やがてあの明るいアップテンポな音楽が教室中を泳ぎ始めた。これが人生で最後に聞く曲になるとは。数時間前までの僕には想像がつかなかった。
 僕は頭の中を空っぽにするよう努める。そうしないと自分が自分でいられなくなる気がするから。魚のように旋律が泳ぐ。その魚が泳ぐのを止めた時、僕は人でなくなる。そしてその時はいつも唐突にやって来るもの。
 教室が静寂に包まれる。一瞬のうちに椅子はもう一人の存在によって埋まった。ギャルが勝ち誇った笑みを浮かべながらこちらを見ている。そうだよね。椅子取りゲームで最後の一人になれば椅子にならなくて済むから。もうギャルには恐怖の一文字もないのだろう。同時に魔女もこちらに視線を送る。その表情はギャルと似ていた。
 「じゃあ、さっさとやっちゃうね」
 ゲーム中に流れていた音楽のような陽気な声でそう告げる。少なくとも人を椅子に変える時にするような声ではない。狂気に満ちた目で僕を視界に捉えたまま、魔女は距離を縮めていく。見た目はいつもの先生。だけど今までしてきた先生の行動は全然いつもではないのだ。足を引くが、後ろにあるロッカーがそれを止める。もう目の前には僕に向かって手を伸ばす魔女がいた。
 それは一瞬の出来事で。魔女の手が僕の肩に触れる。石動さんが握りしめていた肩。だけどもう既にそれは肩ではなかった。意識が、心が、白い煙に巻き込まれていくよう。そのまま僕は二度と思考できない姿になっていった。