高校の入学式の日。クラス表を見た時に私は絶望した。そこには中学生の頃から私をいじめてくる男の子の名前があったから。そのせいで高校生活が始まるという大きな期待が音を立てて崩れていく。教室を入った途端、その期待は跡形もなくなった。
 私の席に椅子がなかったのだ。そばには不敵な笑みを浮かべる噂の男の子がいた。
 「おはよう」
 わざとらしくそう挨拶する男の子を睨みつけると、「怖いんだけど何?」とまるで心当たりがないといった様子だった。
 「何って、私の席に椅子がないの。あなたがやったんでしょ」
 「待て待て! 椅子ならあるだろ?」
 男の子がわけのわからないことを言ってくる。「どこに?」と尋ねると、人差し指を差してきた。しかも差す先はなんと私の方。
 「ここにいるだろ。いす(..)るぎさん」
 すると教室のスピーカーから体育館への移動のアナウンスが入る。この学校では体育館で入学式が行われ、新入生は自分の椅子を持っていかなければならないのだ。
 ほとんどのクラスメイトが椅子を持って廊下に出始める。だけど私にはそれができない。その様子が面白いのか、あの男の子は時々私を見てはクスクスと笑っていた。
 自然と大きなため息を吐いてしまう。初日からこんなんじゃ、高校は悪いことばかりが続きそうだ。とにかくこのままだと私は式中ずっと立ち尽くすことになる。そうなればクラスの笑い者にされることは目に見えるし、親に恥をかかせてしまうかもしれない。色んな意味でこの状況はまずい。
 私の椅子を隠した男の子に聞いても絶対に教えてくれるはずがないから、私は別の教室で椅子を見つけることにした。学校だからどこかに空き教室があるだろうと踏んでいたのだ。
 早く見つけないと式に間に合わなくなるから、仕方なく廊下を走る。新入生で溢れかえった廊下は混雑していて走りにくい。ぶつからなければいいのだけどと思っていた次の瞬間、顔面に衝撃が伝わる。最悪な事態が起きてしまったのだ。押してしまった相手が振り返る。
 「ごめんなさい」
 勢いよく頭を下げて謝る。怒られるかもしれないという覚悟を持っていたから、別にいいよと言ってくれた時は思考が止まった。
 「どうして走ってたの?」
 当然抱く質問に私はどう答えようか悩む。椅子を探してるんですと答えてどうして椅子を探してるんですかと聞かれたら困るからだ。椅子をなくしたのは男の子のいじめによるものだから初対面の人になんて言えない。でもだからと言って嘘をつくのはなぁ。
 「もしかして椅子がないとか?」
 図星すぎる。もしかして超能力者? そうだったら今までの思考回路、全部読まれてることになるじゃん。いずれにしても本当のことだから私は首を縦に振ることしかできない。すると。
 「これあげるよ。僕五組だから、まだ移動までに時間があるんだ」
 そういえば少しでも混雑を避けるために、一クラスずつ移動してくださいとアナウンスしていたような。確か一組からだったと思うから今頃移動し始めているかもしれない。急ぎたいのは山々だが。
 「だけどあなたの分の椅子がなくなるよ。それに今思いっきりぶつかってしまったし」
 「そんなの気にしないで。僕は急いで空き教室から椅子を取りに行けば間に合うから」
 そう言うと目の前の男の子は椅子を置いて廊下の向こう側へと走り去ってしまった。まるで使ってくださいとこちらがお願いされているような気分になる。お礼さえも言えてないのに。申しわけない気持ちでいっぱいになる。だけど使わないのは既に空き教室へ椅子を取りに行ったあの人に対してもっと失礼なことだと思った。
 私は目の前に佇んでいる椅子を持ち上げ、式の会場である体育館へと歩き出す。さっき廊下を走っていたのが原因なのだろうか。心臓がバクバクと震えている。それが単なる走りすぎではないことをこの後すぐに私は知ることになった。
 音楽が流れるとともに新入生たちが体育館を退場していく。式は無事に終わった。あの人がいてくれなかったら今頃どんな思いでこの体育館を後にしていたか。
 教室に戻り、軽いホームルームが終わると今日は解散ということになった。親は玄関の前で待っているらしく、私はできるだけ早く荷造りを終わらせる。一番廊下側の席だから、当たり前のことだけど廊下がよく見えた。その席が吉と出たか、廊下と教室を挟む窓に見覚えのある姿が横切る。
 椅子を渡してくれた男の子だ。さっきのお礼とぶつかってしまったことへ再度謝罪するため急ぎ足で彼に追いつこうとする。
 「あの」
 廊下は相変わらず混雑していて新入生たちの喧騒に包まれていたけれど、彼は私に気づいてくれて振り返ってくれる。
 「どうしたの?」
 「さっきはごめんなさい。もう一度謝ります。それと、椅子を貸してくれてありがとう」
 「全然いいのに。さっきも間に合ったから。それにその椅子僕のじゃないし」
 「えっ、そうなの?」
 彼も椅子を誰かから椅子を借りたのだろうか。そう思っていると。
 「その椅子は学校のものでしょ」
 「あっ、確かに」
 その瞬間、彼がくすりと笑った。それにつられて私も笑う。すると心臓がさっきと同じような震え方をしていることに気づく。今は小走りしただけだから、そんなに疲れるはずがないのに。
 だけど彼の顔を見てその現象の意味がわかった。わかればわかるほどに心臓は激しく動く。私は目の前の男の子に一目惚れした。ささやかな優しさと温かさに。その男の子の名前は大鹿碧馬。
 それ以降、まともに勉強が手につかず、いつの間にかクラスで最下位の成績を叩き出していた。教科書の文字が入らないほどに脳内は大鹿君のことでいっぱいになっていたのだ。