自教室が喧騒で包まれる。きっと冬休み前最後の登校日だからなのだろう。そんな中、ある人の声が真っ直ぐクリアに僕の耳へ届く。
「大鹿さん、ちょっとこっち!」
担任の先生に手招きされて僕は椅子を後ろに引いて立ち上がる。なぜか両手に白い手袋を纏ったちょっと変わった先生。
足取りが重い。呼ばれる理由が何となくわかるからだ。
先生の目の前まで来ると「わかってたと思うけど、あなた補習だからね」とまるで当たり前かのように言い放つ。
それもそのはず、僕はクラスで一番成績が悪いのだ。元々勉強が嫌いで、高校受験はどうなることかと思っていたけど、何とかこの高校に進学することができた。まぁ、自分が進学できるほどの低い偏差値だったのがこの高校だったわけだけど。
それに、この高校を選んだのにはもう一つ大きな理由がある。なんと、この高校には留年制度がないのだ。正直中学の時から、留年には怯えていた。
『高校だったら留年になってたぞ』
そんな先生の怒声が今でも耳の中で反芻する。中学の時、そう強く言われていたこともあって、留年という言葉には敏感だった。
「ちょっと聞いてるの?」
担任の強い口調で意識が引き戻される。全く話を聞いていなかった。
「すいません」
先生も忙しい中補習してくれるから、今の態度は流石に失礼だと思い、慌てて頭を下げる。
「もう。どうせ授業中もボーっとしてるんでしょ。まったく。じゃあ、もう一度言うわ。あなた補習組だから、今日の放課後に少人数教室Dに来てください。以上」
「あの、少人数教室Dってどこにあるんですか?」
もう高校一年の冬休み前だが、初めて聞く教室名だった。
「あれ、行ったことない? この校舎の一番奥に位置しているところなんだけど。確か四階の北棟の一番奥だったはずよ」
「そんな、めちゃくちゃ遠いじゃないですか……」
北棟ですら遠いのにさらにその一番奥だなんて。どおりで知らないわけだ。道のりを考えるだけでため息が出そうになったが、先生の前なので何とか堪える。
「ちゃんとまともな成績収めないからよ。それにあそこ、結構面白いところなんだから。特に今日は」
先生の言葉にはてなマークが浮かぶ。面白いところ? 特に今日は?
首を傾げている僕の様子が面白かったのか、先生は笑いを含んだ声色で「少人数教室Dにはサンタクロースが住みついてるっていう噂があって、毎年クリスマスになるとあそこの教室だけ椅子が増えるの。勉強を頑張る生徒たちへのプレゼントとして。まぁ、あくまで噂なんだけどね」
そう言うと、担任は次も授業があるのか、素早く僕たちの教室を去っていく。その足取りは軽やかで、意外とメルヘンな先生だなと思った。やっぱり変わった先生。
そういえば今日はクリスマスイブだっけ?
足取りが重い。さっきの何倍も。大嫌いな勉強のためにこの足を動かしていると思うと。
それにしても遠すぎる。よりによって補習場所が校舎の一番隅に位置しているなんて。陽の差していない階段は、夜の校舎を想起させる。
全段上り切り、やがて先生の言ってた『少人数教室D』と書かれたクラス札を見つけた。まだ日が暮れていないにも関わらず、薄暗い廊下は僕の心の奥に眠る恐怖を増幅させ、教室の戸を引くことさえも躊躇させる。
恐る恐る開けると、中は廊下よりも暗かった。蛍光灯は一つも光が宿っておらず、教室に備えられているカーテンは完全に閉め切られている。そしてなぜか不愉快な煙草の匂いも空間には満ちていた。
暖房もついていないから他の教室より格段に寒い。完全に雰囲気がお化け屋敷だ。すると肩に重力がかかる。人間のものなのかそうでないものなのかがわからなくて、思わずビクッと肩を震わす。
本当に幽霊だったらどうしよう。そんな子どもみたいな妄想が僕を大急ぎで教室の戸へと連れて行こうとする。だけど、肩に置いてあるものがそうさせてくれなかった。
すると目が暗い場所に慣れてきたのか、徐々に周囲を見渡せるようになる。暗順応ってやつだ。
「ごめん、驚かせちゃって。あなたも補習?」
その声に再び驚かされるが、補習?と聞かれたことで現実味を感じ、幽霊ではないかもしれないという考えが脳内議会の過半数を占める。
ゆっくり振り返ると、僕と同じくらいの女の子がそこにはいた。まぁ、学校だから当たり前のことだけど。メイクで整えられた綺麗な顔立ちが印象的だった。
目が合うなり、暗がりでも認識できるくらいに彼女は口角を上げて笑う。彼女からは幽霊のゆの字も感じられないほど生が満ち溢れていた。
しばらく目が離せなかったが、ふと我に返ると、他にも誰かいることに気づく。長めの金髪で耳と口にピアスを開けている不良らしき男子生徒、今どき見ないギャル化した女子生徒、口に煙草をくわえているこちらもガラの悪そうな男子生徒。これで教室に満ちている匂いの原因がわかった。
僕は彼らを心の中でそれぞれ不良、ギャル、煙草と呼ぶことにする。目の前にいる魅力的な女の子はどう呼ぼうかと考えていると、当の本人が口を開く。
「私は石動恵。よろしくね!」
彼女の明るい声色に教室内の空気が若干和らいだ気がした。
「僕は大鹿碧馬です。よろしくお願いします」
お互いぺこりと頭を下げ合うとさっきの彼女の言葉を思い出した。
「補習って、全クラスでやるんですか?」
てっきりクラス内で行われるものだと思っていたから、正直この状況には驚いている。石動さんも他の三人も僕のクラスメイトじゃないから。
「そうっぽいよね。私のクラスメイトいないし」
「そうなんだ」
どうやらここにいる人たちは全員別のクラスから来ているみたいだ。僕たちはそうだとして他の三人も、誰一人として口を開いていない。クラスが同じなら共通の話題で少しは会話があってもいいはずなのに。皆、同じような風貌をしているからなおさら話が合いそうだし。この状況で同じクラスだと考える方がむしろ不自然だろう。
「大鹿さんって何組?」
「五組です。石動さんは?」
「私は一組なんです」
そんな他愛もない会話をしていると不快な空気が僕たちを包む。正直匂いがきつい。鼻が煙草から放たれる匂いで息絶えそうだった。だけどそう思っていたのは僕だけではなかったようだ。
携帯に釘付けだったギャルが立ち上がる。そして近くにいた煙草に向かって抗議し始めた。
「いい加減、それ辞めてくれない? 超臭いんだけど」
すると煙草もギャルを睨む。明らかに喧嘩が起こりそうな雰囲気だ。
「それって何?」
「はぁ? その激臭い煙草に決まってるでしょ? 頭おかしいの?」
「それはお前も一緒だろ? 頭おかしいからここにいるんだろ」
「何なのよ!?」
そう言いながらも返す言葉が見つからなかったのか、ギャルは煙草を通り過ぎる。とりあえず喧嘩は回避できて一安心だ。そう思ってたのも束の間、もうすぐで喧嘩よりも恐ろしい時間が始めってしまうことを僕たちはまだ知る術もなかった。
その片鱗は間もなくやって来た。ギャルが煙草を通り過ぎて一直線に窓へ向かう。どうやら窓を開けて換気をするようだ。これで煙草の匂いも幾分かマシになると思うと、僕も自然に足が窓の方へ動く。
だけど彼女の困惑の色を含んだ小さな叫び声がその足を止めた。
「待って、開かないんだけど」
「鍵閉めてたら開かないよ。お前、そこまで頭おかしかったのか」
煙草が嫌味たっぷりに言葉を零すが、ギャルは聞く耳を持っていない。さっきまでの彼女なら絶対喧嘩になってたと思うのに。
「鍵、開いてるよ……」
するとここにいる全員が彼女に注目する。確かに窓の鍵部分であるクレセントは下がっていた。本来なら開くはずの状態だ。
だが、彼女がいくら窓を引こうとしても、教室と外の空気が繋がることはなかった。きっと立てつけが悪いのだろう。ちょっと大げさに考えすぎだ。
僕もふと目の前にある窓に視線を向ける。少しでも煙草の匂いを消すために、僕は窓へと歩み寄った。クレセントを下げて僕は窓に手をかける。しかし結果は思いもよらないものだった。
ビクともしない。立てつけが悪いとかじゃない。まるでボンドか何かで固定されてしまったかのようだ。
「こっちも開きません……」
声が震えて、最後の方は必然的に小さな声になってしまう。
すると今まで何の音沙汰もなかった不良が立ち上がり、教室の出入り口の戸に手をかける。だけど結果は窓と同じだった。
ここの不愉快な匂いの主である煙草も流石にこの状況に焦ってきたのか、不良とは反対の戸を目指す。だけどいずれも同じ結果だった。
「そんなの当たり前じゃん。私が閉じ込めたんだもの」
すると今のこの教室の雰囲気に相応しくない明るい声が耳を掠める。一瞬石動さんの声だと思ったが、さっきの声と若干違う気がするし、何より当の石動さんがある一点を見つめたまま固まっていたのだ。
僕もその一点に目をやると、そこには白いチョークを持った女性が視界を捉えた。僕をここに呼んだ張本人の姿。担任の先生がそこにはいた。今の今まで先生の存在に気づかなかった。って今閉じ込めたって……。
「ちょっとそこ! まだ窓開けようとしてるの?」
先生の視線は真っ直ぐにギャルの方へと向けられていた。その瞳は恐怖の色で真っ黒に塗り潰されている。
「だって、ここ超気味悪いし。耐えられない」
「何? 窓から出るの? ここの教室四階よ。ほんとお馬鹿さんだね。楽しみがいがあるわ」
目の前にいる先生はそう言うと不気味な笑みを浮かべる。その姿は悪いことを企む犯罪者のようだった。片手に持っているチョークが拳銃に見えてくるほどに。
いつもの先生じゃない。馬鹿扱いする態度もそうだけど、何よりいつも手に纏っている白い手袋がはめられていないのだ。そう思っていると先生は黒板の方へくるりと振り向く。先生が書き始めると、白いチョークは自身の寿命を縮めながら、スケートリンクの上にいるみたいに黒板を滑る。滑った跡には恐ろしい文字の羅列が浮き上がっていた。
『デスゲーム×椅子取りゲーム』
これでもかというくらいに大きな文字。その文字は僕らの視線を離させない。
寿命が縮まったチョークを置いた先生は、こちらを振り返るなり「ふふふ」と笑い声を上げる。その響きがこの空間を地獄へと模様替えしていく。
笑うのを止めた先生はわざとらしく咳払いをしてから口を開いた。
「さぁ、皆さん。これからゲームを始めたいと思いま……」
「何ふざけたこと言ってんだよ」
荒げた声が教室中を包む。声の方を向くと、不良がしかめっ面で黒板の前にいる先生へと足を進めていた。何だか嫌な展開になってきていると思ったら、まさにその通りのことが起きてしまう。
何と不良は先生の胸倉を掴んだのだ。ありとあらゆる怒りを集めた顔をして。なのに先生は怯えるどころか、不良を見て薄く微笑んでいる。本当に気味が悪い。
その顔によほど頭に血が上ったのか、ついに不良は先生に手をあげようとしていた。
流石に暴力はまずいと思い、彼らの方へと僕は走り出す。不良の手が先生の頬に触れた次の瞬間。
「私に触ったね」
その言葉とともに、先生から白い煙のようなものが放たれる。それは瞬く間に教室中を覆った。
何も見えない。冬場の外で起こるホワイトアウトのようだ。現実味のないことばかりが起きているから、この光景が夢の世界のものだと思えてくる。だけどその夢から覚めるように白い煙は薄くなり、やがて視界を明るくした。
教室の真ん中に立つ石動さんと、窓辺で呆然としているギャル、扉の前で手を震わせている煙草。
そして黒板前には、この煙を出した張本人である先生……。
思考が止まる。まるで電気回路の電線がショートした時のように。
だって……先生が普通に立っているから。さっきまで胸倉を掴まれていたはずなのに。頬は赤くも腫れてもいない。明らかに不良からのビンタを放たれたはずなのに。
驚くべきところはそれだけじゃない。その胸倉を掴んでいた張本人である不良がどこにもいないのだ。
どんな仕掛けかわからないが、先生のせいで開かなくなった窓と戸からの脱出は不可能。白い煙が完全に消え去り、教室の隅から隅へと目を通したが、不良の姿はどこにもなかった。
すると先生がそばにあった学校の椅子の背もたれ部分を軽く叩く。あんなの先生の近くにあったっけ……?
「どう? 椅子になった気分は?」
突然、先生がおかしな日本語を喋り始める。わけがわからない中、さらに先生は話を続ける。
「あなたがいけないのよ? 私に触っちゃうから。まさか自分から私に触ってくるとは。案外私ってモテるのかも!」
益々意味がわからない。まるで先生が、あの椅子に向かって言葉を投げかけているみたいに見えたから。まるで人と話してい……。
先生がいきなり眼光をこちらに向ける。とても鋭くて不気味な瞳。開こうとする口すらも気味悪く感じてしまう。
「あっ。言っておくけど、この椅子、さっき私の胸倉掴んだ男だから」
「……」
言葉が出ない。自分の解釈の仕方が間違えているのかもしれないとも思った。だけどいくら心の中で今の先生の言葉を繰り返しても、その答えにしか行き着かない。非科学的すぎる答えだ。
僕たちがまだ納得のいかない表情をしていたのか、先生はその言葉たちを繰り返す。何度も。まるですりこみをするように。
「そんな馬鹿な話信じられるか!」
煙草が教室の戸を思いっきり蹴る音が教室中を轟かせる。石動さんはしゃがみ込んで足を震わせ、ギャルもその場に座り込む。
「まだわからないの? 何度言ったらわかるの?」
はぁ、と先生がため息を漏らす。だけどまた不気味な笑みに表情は戻り、「まぁ、馬鹿だから仕方ないよね」と吐き捨てる。
次の瞬間、煙草がわざと大きな音を立てながら先生のもとへ向かう。両肩からぶら下がっている拳は固く握られていた。それは明らかに先生へ攻撃をする姿勢。
だけどもし先生の言葉が本当なのだとしたら……。
「近づいちゃダメだ」
気がつけば僕は煙草に向かってそう叫んでいた。先生の言ってることはめちゃくちゃだ。だけどそれを否定する事実がどこにも見当たらない。
「ちょっと、大鹿君。空気を読みなさい! せっかく私のモテ期が来ているのに。あっ。気にしないでこっちに来て? もう二度と煙草ができない体にしてあげるから」
そう言って先生は両腕を大きく広げる。今すぐにでも抱きつきなさいとでも言うように。
恐ろしすぎる言葉を正面から浴びたからか、煙草はピタリと足を止める。彼はつま先から太ももまでを小刻みに震わせていた。きっと、今の僕の足も同じような動きをしているのだろう。
魔女もやがて両腕を下ろす。面白くないといった表情で。だけどすぐにまたあの奇妙な笑みを浮かべた表情に戻る。
「まぁ、馬鹿な君たちには理解できない状況だと思うけど。とにかくこれが揺るぎない事実よ」
そう言って先生は再び目の前の椅子の背もたれを軽く叩く。あれがさっきまで先生の胸倉を掴んでいた不良だったなんて。
すると次の瞬間、先生は乱暴にドスンと音を立てながらその椅子へと座る。もし先生の言う通りその椅子が不良なのだとしたらあまりにもむごい。
「あの……座るのは流石に……」
石動さんのか細い声が響くのと同時に先生が彼女に向けて鋭い眼光を向ける。瞳は石動さんを睨んでいるのに口元は笑っているから、それが余計に彼女を震わす。
「それは、胸倉を掴んだ男がこの椅子だと認めたってことでいいのかな?」
先生は睨んでいた瞳を三日月のように曲げて、わざと優しい表情を見せる。それを向けられている石動さんは口を押えて視線を泳がせていた。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ。もうすぐでそう思わなくても済むようになるから」
「えっ?」
先生以外の声が重なる。小さくて弱々しい声の塊。教室中にクエスチョンマークが大量生産される。一方の先生は人を馬鹿にしたような笑みを零す。
「ふふ、君たちらしい間抜けな顔をしてるね。じゃあ、説明しようかな。ここに集まる大馬鹿な君たちにも理解できるように」
失礼過ぎる言葉を矢継ぎ早に浴びせた先生は一呼吸置いてから、再び口を開く。
「これより、デスゲームを始めます」
黒板通りの文字の羅列は先生を通して耳を刺激する。デスゲーム。そんなのゲームとか漫画の世界でしか聞いたことがない。自分が生き残るために殺し合いをするとか。
だけどそんなのが現実世界で許されるはずがない。この世界にはちゃんと法律が定められているはずだから。そう自分を少しでも安心させようとするが、周りにいる生徒たちの恐怖で満ちた顔が僕を道連れにする。そして追い打ちをかけるように先生がそのデスゲームとやらの説明をし始めた。
「知らない人もいるかもしれないので、一応デスゲームの意味について説明しておくね。デスゲームとは命を懸けたゲームのことだよ。自分のために他人を蹴落とすとか、あるいは知恵を使って皆が助かる方法を編み出すとか。まぁ、ここにいる皆はクラスで一番成績の悪い人たちの集まりだから後者は無理だろうけどね。だから今回は皆の命を懸けてもらいま〜す!」
「そんな……」
さらに小さくなった皆の声が教室の床に力なく落ちていく。野蛮なデスゲームに自分が参加する? そんなの……。
「いい加減にしろよ」
思わず口が滑ってしまったのかと思ったが、その声の主は煙草だった。
「いくら成績が悪いからって、人を殺すとか許されるわけないだろ」
「誰が殺すと言ったの?」
先生が一呼吸置くと、「殺すんじゃない。命を懸けたゲームよ。学生としての命をね」
「学生としての命というのはどういうことですか」
石動さんが手を挙げて意見する。確かにどうして先生は『学生の』を付け加えたのだろうか。
まともな質問のはずなのに先生は鼻で笑う。こんな問題も解けないのかと人を馬鹿にするような表情で。
「さっき言ったでしょ。胸倉を掴んだ男がこの椅子になったって。つまりこの男は学生としての命を終えたってこと。逆を言えば今その男は椅子としての命を全うしているの。ほら、殺し合いじゃないでしょ」
「それはゲームに負けたら椅子になるってことですか?」
恐る恐る僕は先生に尋ねてみた。すると、ピンポンピンポンといったノリで先生はにこやかに拍手をする。
「正解! なんだ。ちゃんと理解できるじゃない」
完全に上機嫌の先生は本題であるデスゲームの内容を話し始める。デスゲームなんて聞くだけで怖いし、もちろんやりたくないけれど、戸や窓が開かない以上、今の僕には大人しく先生の言うことを聞く以外に選択肢はなかった。
「じゃあ早速、デスゲームの詳細だけど、皆には小さなお子様にでもできる椅子取りゲームをしてもらいま~す! さっきの子は椅子にしちゃったから、ゲームはここにいる四人でやるよ。ルールは普通の椅子取りゲームと一緒。参加者マイナス一の椅子を円状に置いて、音楽が流れている間、その周りを歩く。音楽が止まったら椅子に座る。どう? 馬鹿な君たちにも簡単でしょ? あっ、でも忘れてた。ただ一つ違うのは椅子に座れなかった敗者は私の力によって椅子になるのよ。はい! 今度こそ説明終わりね」
椅子取りゲーム。幼少の頃から馴染みのあるゲーム。色んな友だちと椅子取りゲームで遊んだ記憶が蘇る。だけど目の前にいる先生がその思い出を真っ黒に塗り潰していく。デスゲームという名の色に。
先生は説明が終わると、わざとらしく力いっぱい立ち上がる。まるでさっきまで高校生だった不良を痛めつけるかのように。
それから一刻も早くデスゲームを始めたいと言わんばかりに先生は椅子を綺麗に並べ始める。椅子になってしまった不良の椅子もその中に混じった。
僕の知ってる先生じゃない。そもそも人間を椅子にする力を持つ先生なんて聞いたことがない。ましてやそれを生徒に使うなんて。人を椅子にするなんてそんなのあってはいけないことのはずだ。目の前にいる大人は先生じゃない。僕は心の中で先生を魔女と呼ぶことにする。
全身の毛が悪寒で逆立つ。寒いからという理由だけならどれほど嬉しいことか。だけど残念なことにそれが理由ではない。ゲームに負ければ椅子になってしまう。人でいられなくなる。そう突きつけられた事実が何より怖くて寒さよりも無くなってほしいものだった。
寒さが和らげば、この事実に対する恐怖もなくなるのではないかと願いながら手を擦り合う。だけどいくら擦ったって変わらない。手の温度も恐怖も。
するとその時、温かいものが冷たい僕の手を包み込む。お母さんの手のように温かくて柔らかい。
手の先に視線を向けると、石動さんが僕の手を握っていた。目と目が合った瞬間、石動さんはなぜか頬を赤くして握っていた手をパッと放す。ここは寒いし、何よりデスゲームが始まってしまうというのにどうして顔を赤く染めているのだろう。すると石動さんがそっと呟く。
「すごく震えてたから……」
弱々しい声。クラスメイトがたくさんいる教室の中だったらすぐに消えてしまうほどに。恐怖に溺れていたけれど、まさか震えていたなんて。
だけどそんな僕よりも石動さんの方がよっぽど恐怖に侵された表情をしていた。視線は虚ろで、頬は強張っている。安心させたいのはむしろこっちの方だ。
僕の手は自然と彼女の手に伸びる。普段の僕なら大胆な行動だと思うかもしれない。今も心の中ではそう思っている。だけど手が勝手に動くのだ。そうさせるのはきっとこの特異な状況と石動さんのことを恐怖から少しでも救ってあげたいという気持ちなのだと思う。
その時、椅子の音がピタリと止まる。教室の真ん中を見ると既に三つの椅子が綺麗に並べられていた。もう準備万端だよとでも言うように椅子が意思を持った者に見える。
魔女はどこに行ったかと思ったら黒板の脇で再び椅子になった不良の上に座り、スマホをいじっていた。椅子取りゲームで流す曲を決めているのだろう。どんな曲でも選ばれた曲は僕、いや僕たちにとって地獄のメロディーを奏でるのだろう。椅子になってしまうという恐怖の旋律に。
「心の準備はできた? じゃあ、皆椅子の前に並んで~」
曲を決めたのか、魔女はこちらを振り向いて指示を出していく。逆らったらどうなるかと考えるだけでゾッとするから、僕は大人しく魔女の指示通りに動いた。
「皆並んだね。私はあの椅子に座りながら音楽を操作するから、皆は音楽が止まるまでひたすら動いてね。回り方はどっちでもいいよ。時計回りでも反時計回りでも」
そう言い残すと魔女は向き直って再びスマホを手に取る。いつデスゲームが始まってもおかしくない状況になり、不安が増幅していく。黒板側を向いているから、魔女の手元が見えない。これじゃあ、音楽が止まるタイミングなんてわからない。
そしてその時はきた。今風のアップテンポで陽気な音楽が教室中を駆け巡ると同時に僕たちは歩き出す。前には煙草、後ろには石動さん、向かいにはギャルという位置関係だ。今はただ、いつ音楽が止まるのか。それしか頭にはない。
イントロが終わって歌が始まる。その瞬間、教室の空気が変わった。
音楽が止まったのだ。僕は急いで近くの椅子に何とか座ることができた。後ろにいた石動さんも無事に座ることができたらしく、小さく僕に向けて手を振ってくれる。すると前方が妙に騒がしいことに気づく。
「私が座ったんだから、どきなさいよ」
「いや、俺の方が座ってる面積大きいだろ。早くどけ!」
見ると、ギャルと煙草が同じ椅子にほとんど半分ずつ座っていた。両者とも譲らない様子だ。それはそうだ。もしこの争いに負ければ、不良のように椅子になってしまう。僕たちはそれを間近で見てしまったから。言葉と身体の押し合いはあの明るい音楽のイントロよりも遥かに長く続く。だけどそれは煙草の高い奇声と共に終止符を打った。
煙草は立ち上がり、その隙をついてギャルが椅子の全面に座る。いったい何が起きたかと目を凝らすと、煙草の手の甲から赤い液体が滲んでいるのが見えた。猫の爪に引っ掻かれたような傷跡……。その瞬間ギャルが不敵な笑みを浮かべる。ギャルがどうして笑っているのか理解できないうちに魔女が立ち上がり、こちらを向いて真っ直ぐに歩き出す。もちろん向かう先は、椅子に座っていない煙草。
「次の犠牲者は君みたいだね」
口角を上げながら、魔女は煙草に近づく。
「こっちに来るなよ!」
目を大きく見開いた煙草は腰を抜けして床に倒れた。それから腰と腕だけで体を後ろへと引きずる。まるで幽霊と遭遇してしまった時のように。明らかに怯えている煙草の心中なんかお構いなしに魔女はずんずん進む。
やがて教室の後ろに備え付けられているロッカーに背中が着く。もう後ろに存在する空間はない。逃げ場を失った煙草は近づいて来る魔女を目の前に呆然と座っている。
遂に魔女が煙草の目の前に来た。手を伸ばせば煙草の身体に触れられるほどに。
「やめて……」
さっきまでの威勢のある声はそこになかった。ガラス細工のように脆くて弱い声。
僕は椅子に座ってただその様子を見ていることしかできなかった。今までこんな場面に遭遇したことがないからどうしたらいいのかわからない。
やめてくださいの一言も言えない僕はどれほどの臆病者なのだろう。それを言えば煙草が椅子になるのを防げるかもしれないのに。だけどできなかった。
「じゃあ、ルール通り君を椅子にしちゃうね」
魔女がわざとらしく語尾を高めに発音する。それが余計に煙草の顔を蒼白させた。
魔女が煙草へ手を伸ばす。成績が悪く、学生として望まない状態だとしてもその体を消していいことにはならないはずなのに。たとえ未成年で煙草を吸っていたとしても。
だけど僕は何も言えない。何もできない。煙草のために。
怖いから。魔女に物申したら自分が椅子にされてしまうのではないかと。もうこの体で一生を過ごせなくなるのではないかと。そんな空想が僕を弱虫にさせる。
やがて魔女の指先が煙草の手に届く。さっきまで煙草を持っていたその手に。
その瞬間、不良の時と同じように白い煙が周囲を覆う。さっきはその煙に匂いはなかったけど、今僕を囲っているその煙は微かに煙草の匂いがした。
煙が晴れると僕いや、僕たちは一点に視線を注目させていた。教室の後ろにいる魔女の目の前にある椅子に。
煙草の匂いはもうしない。これから先もずっと。
さっきまでしゃがみ込んでいた煙草がいなくなっていたから。いや違う。いなくなったんじゃない。人ではない姿に変貌していたから。
煙草は椅子になってしまった。この教室にある椅子と同じ、個性も何もない椅子……。
もう信じるしかなかった。魔女が人を椅子に変えてしまう恐ろしい存在であることを。あまりにも恐ろしくて僕は魔女から視線を背ける。たとえ魔女が担任の先生であっても。視線の先には多くの椅子が無造作に積まれていた。
そういえばここの教室、異様に椅子が多くないか。ふとそんなことに気づく。ただの物置きかもしれないけど。
『少人数教室Dにはサンタが住みついてるっていう噂があって、毎年クリスマスになるとあそこの教室だけ椅子が増えるの。勉強を頑張る生徒たちへのプレゼントとして。まぁ、あくまで噂なんだけどね』
ふと、先生との会話が脳内で蘇る。その記憶と今の状況が重なって……。
「ここにある椅子ってもしかして……元々この学校の学生だったんですか?」
気づけば僕はそう魔女に発言していた。口にした直後、僕は激しく後悔する。もし本当だったらそれはとんでもなく恐ろしいことだから。不良や煙草だけでなく、これまでに大勢の学生が椅子と化したという事実があっていいはずないから。
魔女はもう何度見たかわからないくらい気味の悪い笑みを浮かべる。僕のおかしな質問に笑っているのだろうか。それならそれでいい。僕の憶測が魔女の笑みに繋がっていなければ……。
「そうだよ」
飄々と魔女はそう答える。僕にとってそれは最悪の答えだった。魔女はこの椅子の数だけ学生を変貌させていたのだ。無機質な椅子に。
周囲の空気がさらに冷たくなるのを感じる。椅子に座る石動さんもギャルも顔を真っ青にして魔女を見ていた。
すると魔女はかつては煙草だったはずの椅子を両手で持ち、そのまま多くの椅子が置かれている場所にそれを積んだ。きっと今まで椅子にされた学生たちもこうして積まれたのだろう。
「よし! こんな感じでやっていくから、次やるよ」
こんな感じって何? 椅子に座れなかったら強制的に椅子にされることか? そんなのあってたまるか。僕は空っぽの頭で何とか知恵を振り絞る。もう誰かが椅子にされるのを見たくない。見殺しなんかしたくない。
魔女は黒板の前に辿り着き、再び不良の椅子に座ってスマホをいじり始めた。
「何してるの? 一人減ったんだから早く椅子減らして」
スマホをいじりながら魔女が呟く。椅子取りゲームは最後の一人になるまで続くから、ゲームが進むにつれて並べる椅子の数を減らさなければならないのだ。
僕たちは立ち上がり、魔女の言う通り椅子を減らそうと背もたれに手をつけた時だった。ルール違反だと言われて下手したら全員椅子にされてしまうかもしれない。だけど逆に皆が椅子にされないかもしれない方法だと思った。知識も何もない頭だと思っていたから、こんな方法を閃けたことに自分で自分を褒め称えたくなる。
早速石動さんとギャルを招集する。魔女に気づかれないように。僕はその方法を二人にそっと耳打ちする。リスクが大きすぎて反対されるかもしれないと思っていたけれど、二人はあっさり僕の提案に乗ってくれた。
僕が思いついた方法。それは椅子の数を減らさないということだった。椅子を減らさなければ、ここにいる皆が座ることができる。問題は魔女にバレるということだが、そこは運に任せようと思う。実際さっき、魔女は音楽を流している間、一度も僕たちを振り返らなかった。さっき振り返らなかったからといって今回振り返らないとは限らないけど。そこは本当に運だ。
こちらにツキがあれば少なくとも僕たちは全員椅子に座れる。あとは魔女のその後の対応次第だ。そこも運が必要だと言えるだろう。魔女に悟られないよう、僕はわざと椅子を引いて音を出す。実際は椅子を引いたり押し戻しているだけだけど。
「準備できました」
全員で言うと、魔女は「じゃあ、等間隔で立って待ってて」とだけ言い残し、再びスマホに集中し始める。
とりあえず第一関門クリアだ。これでゲームは始まりそうだ。ほどなくして音楽が流れ始める。さっきと同じ曲だ。明るくてとてもデスゲーム中に流すものとは思えないメロディー。
その曲に合わせて僕たちは歩き出す。さっきとは違う緊張が全身を包む。椅子にされてしまうという恐怖よりもバレてしまわないかという心配の念が僕の心を強く支配していた。
僕は常に魔女に視線を注目させながら、ただひたすらに椅子の周りを歩き続ける。先生は見向きもしないでスマホ画面に視線を落としていた。
これならいけると思った次の瞬間、音楽がピタリと止まる。僕たちは一斉に座った。そこに殺伐とした空気はない。皆、自分は座れるという安心感を持っていたからだと思う。
遂に魔女がこちらを振り向く。今までの余裕そうな笑みを崩して口をポカンと開けていた。だけどすぐに魔女は口を結び直し、笑みを浮かべる。
また不良の椅子を乱暴に立ち、魔女は僕たち三人を順番に見ていく。
「ちょっとは頭を使ったのね。私が振り返らないのをいいことに」
ゴクリと喉を鳴らす。魔女がどんな判断を下すのか。僕も他の二人も魔女に視線を向けていた。
「頭を使ったのは褒めるべきところね。仕方ない。今回は許してあげるわ」
その言葉に嬉しさが込み上げてくる。心の底から。今回は許すということは、もうデスゲームに参加しなくてもいいってことだよね。これからちゃんと勉強すれば、次回は呼ばれないはず。だけど次の魔女の言葉が再び僕たちを地獄の底に突き落とす。
「じゃあ次の準備して?」
「えっ? デスゲームを辞めるんじゃ……」
「えぇ。今のゲームは犠牲者が出なかったってこと。次もあるよ。あっ、次はその手に乗らないよ。後ろもちゃんと警戒するから」
そう吐き捨てると、またさっきと同じように不良の椅子に魔女は腰を下ろす。だけどさっきとは違って時々こちらの様子を見てくる。誤魔化しがきかないと悟った僕たちは仕方なく椅子を一つ減らす。
せっかくデスゲームから逃れられると思ったのに。次はこの中の一人が椅子になってしまう。不良や煙草のように。
恐怖が増幅していくのを感じる。自分の椅子になる可能性が高まっていくことに恐れを感じて。生きた心地がしない。成績が悪いだけでどうしてここまで怖い思いをしないといけないのだろう。煙草も積まれている椅子が集合した箇所に視線を置く。
ここにある椅子たちもかつては僕たちと同じ高校生だったんだ。彼らも今の僕たちみたいな恐怖を抱きながら椅子になってしまったのだろうか。
嫌だ。椅子になるなんて。勉強は嫌いだけど人として生きるためだったら我慢して頑張りたい。今さらそう思ってしまう。だけど本当に今さらだ。
またも同じメロディーを聞くと僕はそう思った。後悔が遅すぎる。僕の心とは裏腹に耳を通り過ぎる音楽は明るい。陽キャラな人たちなら思わず歌い出してしまうような。それくらいに。
そしてその時は突然にやってくる。今まで普通に動いていた時計の針がピタリと止まるように。二つのうち一つの椅子が埋まる。そこにはギャルが腰を下ろしていた。
残り一つの椅子に向かおうとするが、ここにいるもう一人の存在が僕の足を止める。
その存在に視線を向けた。石動さんがじっとこちらを見つめている。僕たちは椅子を真ん中に挟んで向かい合うように立っていた。お互いの位置から同じくらいの距離にある椅子。
僕たちの間には時間と静けさだけがただひたすらに流れていた。途方もないほどに僕にとって長い時間。
僕が本能だけで動く獣なら、きっと今頃椅子に飛びかかっていたことだろう。だけど残念ながら僕には理性がある。人間にしかないもの。この世で唯一それを持つことが許された存在。きっと椅子にはないものなのだろう。
僕も石動さんも一歩たりとも動かない。いや、動けないんだ。互いに理性を持っているから。自分が座ればもう一人が人でなくなる。それは、自分が殺したのも同然になるから。
どのくらい時が経ったのだろう。石動さんがゆっくりと歩き出す。最初は椅子の方に向かっていると思ったけれど、どうやらそうではないみたい。石動さんが椅子を通り過ぎたから。
そしてその足は僕の目の前でピタリと止まる。と、腕が自分のものではない強い力で引っ張られた。石動さんが僕の腕を引きながら真っすぐに椅子の方へ向かっていたのだ。何が起きているのか理解できないまま僕は強制的に椅子に座らされる。
「じゃあ、今度はあなたの番ね」
魔女の視線は石動さんに向けられていた。どうして? どうして僕を椅子に座らせたの? 僕のせいで石動さんが椅子にされてしまうなんて。そんなの絶対に嫌だ。それは僕が石動さんを殺すことになるから。
僕は力いっぱいに立ち上がろうとした。だけど立てない。両肩に強い圧力を感じる。見ると、石動さんが僕の肩を握っていた。体は前のめりで全体重を僕の身体にかけているように見える。
「立たせないよ」
石動さんがそう叫びながらさらに僕の肩に体重を乗せてきた。肩の筋肉が破裂してしまいそうなほどに。
「嫌だ。そんなことしたら石動さんが椅子にされるから」
魔女が刻一刻と迫っている。すると、頬に冷たいものが当たる。上を見上げれば、そこには頬に涙の筋を作った石動さんがいた。小さな口がゆっくりと動く。
「嫌なのはこっちだよ。ずっと気になっていた男の子が椅子にされるなんて」
「えっ……」
頭の中が真っ白になる。足音がすぐそこまで近づいているというのに。
「何か言いたいことがあるなら待ってあげるよ」
魔女のその言葉とともに足音が途絶える。初めて見せた魔女の小さな優しさだった。いや、いつもの先生の気遣いのようにも見えた。石動さんは魔女に会釈して僕に視線を向き直すと、ポツリと過去を話し始める。その言葉を聞くたびに、雲みたいに真っ白になった僕の脳内が晴れていくようだった。
「大鹿さん、ちょっとこっち!」
担任の先生に手招きされて僕は椅子を後ろに引いて立ち上がる。なぜか両手に白い手袋を纏ったちょっと変わった先生。
足取りが重い。呼ばれる理由が何となくわかるからだ。
先生の目の前まで来ると「わかってたと思うけど、あなた補習だからね」とまるで当たり前かのように言い放つ。
それもそのはず、僕はクラスで一番成績が悪いのだ。元々勉強が嫌いで、高校受験はどうなることかと思っていたけど、何とかこの高校に進学することができた。まぁ、自分が進学できるほどの低い偏差値だったのがこの高校だったわけだけど。
それに、この高校を選んだのにはもう一つ大きな理由がある。なんと、この高校には留年制度がないのだ。正直中学の時から、留年には怯えていた。
『高校だったら留年になってたぞ』
そんな先生の怒声が今でも耳の中で反芻する。中学の時、そう強く言われていたこともあって、留年という言葉には敏感だった。
「ちょっと聞いてるの?」
担任の強い口調で意識が引き戻される。全く話を聞いていなかった。
「すいません」
先生も忙しい中補習してくれるから、今の態度は流石に失礼だと思い、慌てて頭を下げる。
「もう。どうせ授業中もボーっとしてるんでしょ。まったく。じゃあ、もう一度言うわ。あなた補習組だから、今日の放課後に少人数教室Dに来てください。以上」
「あの、少人数教室Dってどこにあるんですか?」
もう高校一年の冬休み前だが、初めて聞く教室名だった。
「あれ、行ったことない? この校舎の一番奥に位置しているところなんだけど。確か四階の北棟の一番奥だったはずよ」
「そんな、めちゃくちゃ遠いじゃないですか……」
北棟ですら遠いのにさらにその一番奥だなんて。どおりで知らないわけだ。道のりを考えるだけでため息が出そうになったが、先生の前なので何とか堪える。
「ちゃんとまともな成績収めないからよ。それにあそこ、結構面白いところなんだから。特に今日は」
先生の言葉にはてなマークが浮かぶ。面白いところ? 特に今日は?
首を傾げている僕の様子が面白かったのか、先生は笑いを含んだ声色で「少人数教室Dにはサンタクロースが住みついてるっていう噂があって、毎年クリスマスになるとあそこの教室だけ椅子が増えるの。勉強を頑張る生徒たちへのプレゼントとして。まぁ、あくまで噂なんだけどね」
そう言うと、担任は次も授業があるのか、素早く僕たちの教室を去っていく。その足取りは軽やかで、意外とメルヘンな先生だなと思った。やっぱり変わった先生。
そういえば今日はクリスマスイブだっけ?
足取りが重い。さっきの何倍も。大嫌いな勉強のためにこの足を動かしていると思うと。
それにしても遠すぎる。よりによって補習場所が校舎の一番隅に位置しているなんて。陽の差していない階段は、夜の校舎を想起させる。
全段上り切り、やがて先生の言ってた『少人数教室D』と書かれたクラス札を見つけた。まだ日が暮れていないにも関わらず、薄暗い廊下は僕の心の奥に眠る恐怖を増幅させ、教室の戸を引くことさえも躊躇させる。
恐る恐る開けると、中は廊下よりも暗かった。蛍光灯は一つも光が宿っておらず、教室に備えられているカーテンは完全に閉め切られている。そしてなぜか不愉快な煙草の匂いも空間には満ちていた。
暖房もついていないから他の教室より格段に寒い。完全に雰囲気がお化け屋敷だ。すると肩に重力がかかる。人間のものなのかそうでないものなのかがわからなくて、思わずビクッと肩を震わす。
本当に幽霊だったらどうしよう。そんな子どもみたいな妄想が僕を大急ぎで教室の戸へと連れて行こうとする。だけど、肩に置いてあるものがそうさせてくれなかった。
すると目が暗い場所に慣れてきたのか、徐々に周囲を見渡せるようになる。暗順応ってやつだ。
「ごめん、驚かせちゃって。あなたも補習?」
その声に再び驚かされるが、補習?と聞かれたことで現実味を感じ、幽霊ではないかもしれないという考えが脳内議会の過半数を占める。
ゆっくり振り返ると、僕と同じくらいの女の子がそこにはいた。まぁ、学校だから当たり前のことだけど。メイクで整えられた綺麗な顔立ちが印象的だった。
目が合うなり、暗がりでも認識できるくらいに彼女は口角を上げて笑う。彼女からは幽霊のゆの字も感じられないほど生が満ち溢れていた。
しばらく目が離せなかったが、ふと我に返ると、他にも誰かいることに気づく。長めの金髪で耳と口にピアスを開けている不良らしき男子生徒、今どき見ないギャル化した女子生徒、口に煙草をくわえているこちらもガラの悪そうな男子生徒。これで教室に満ちている匂いの原因がわかった。
僕は彼らを心の中でそれぞれ不良、ギャル、煙草と呼ぶことにする。目の前にいる魅力的な女の子はどう呼ぼうかと考えていると、当の本人が口を開く。
「私は石動恵。よろしくね!」
彼女の明るい声色に教室内の空気が若干和らいだ気がした。
「僕は大鹿碧馬です。よろしくお願いします」
お互いぺこりと頭を下げ合うとさっきの彼女の言葉を思い出した。
「補習って、全クラスでやるんですか?」
てっきりクラス内で行われるものだと思っていたから、正直この状況には驚いている。石動さんも他の三人も僕のクラスメイトじゃないから。
「そうっぽいよね。私のクラスメイトいないし」
「そうなんだ」
どうやらここにいる人たちは全員別のクラスから来ているみたいだ。僕たちはそうだとして他の三人も、誰一人として口を開いていない。クラスが同じなら共通の話題で少しは会話があってもいいはずなのに。皆、同じような風貌をしているからなおさら話が合いそうだし。この状況で同じクラスだと考える方がむしろ不自然だろう。
「大鹿さんって何組?」
「五組です。石動さんは?」
「私は一組なんです」
そんな他愛もない会話をしていると不快な空気が僕たちを包む。正直匂いがきつい。鼻が煙草から放たれる匂いで息絶えそうだった。だけどそう思っていたのは僕だけではなかったようだ。
携帯に釘付けだったギャルが立ち上がる。そして近くにいた煙草に向かって抗議し始めた。
「いい加減、それ辞めてくれない? 超臭いんだけど」
すると煙草もギャルを睨む。明らかに喧嘩が起こりそうな雰囲気だ。
「それって何?」
「はぁ? その激臭い煙草に決まってるでしょ? 頭おかしいの?」
「それはお前も一緒だろ? 頭おかしいからここにいるんだろ」
「何なのよ!?」
そう言いながらも返す言葉が見つからなかったのか、ギャルは煙草を通り過ぎる。とりあえず喧嘩は回避できて一安心だ。そう思ってたのも束の間、もうすぐで喧嘩よりも恐ろしい時間が始めってしまうことを僕たちはまだ知る術もなかった。
その片鱗は間もなくやって来た。ギャルが煙草を通り過ぎて一直線に窓へ向かう。どうやら窓を開けて換気をするようだ。これで煙草の匂いも幾分かマシになると思うと、僕も自然に足が窓の方へ動く。
だけど彼女の困惑の色を含んだ小さな叫び声がその足を止めた。
「待って、開かないんだけど」
「鍵閉めてたら開かないよ。お前、そこまで頭おかしかったのか」
煙草が嫌味たっぷりに言葉を零すが、ギャルは聞く耳を持っていない。さっきまでの彼女なら絶対喧嘩になってたと思うのに。
「鍵、開いてるよ……」
するとここにいる全員が彼女に注目する。確かに窓の鍵部分であるクレセントは下がっていた。本来なら開くはずの状態だ。
だが、彼女がいくら窓を引こうとしても、教室と外の空気が繋がることはなかった。きっと立てつけが悪いのだろう。ちょっと大げさに考えすぎだ。
僕もふと目の前にある窓に視線を向ける。少しでも煙草の匂いを消すために、僕は窓へと歩み寄った。クレセントを下げて僕は窓に手をかける。しかし結果は思いもよらないものだった。
ビクともしない。立てつけが悪いとかじゃない。まるでボンドか何かで固定されてしまったかのようだ。
「こっちも開きません……」
声が震えて、最後の方は必然的に小さな声になってしまう。
すると今まで何の音沙汰もなかった不良が立ち上がり、教室の出入り口の戸に手をかける。だけど結果は窓と同じだった。
ここの不愉快な匂いの主である煙草も流石にこの状況に焦ってきたのか、不良とは反対の戸を目指す。だけどいずれも同じ結果だった。
「そんなの当たり前じゃん。私が閉じ込めたんだもの」
すると今のこの教室の雰囲気に相応しくない明るい声が耳を掠める。一瞬石動さんの声だと思ったが、さっきの声と若干違う気がするし、何より当の石動さんがある一点を見つめたまま固まっていたのだ。
僕もその一点に目をやると、そこには白いチョークを持った女性が視界を捉えた。僕をここに呼んだ張本人の姿。担任の先生がそこにはいた。今の今まで先生の存在に気づかなかった。って今閉じ込めたって……。
「ちょっとそこ! まだ窓開けようとしてるの?」
先生の視線は真っ直ぐにギャルの方へと向けられていた。その瞳は恐怖の色で真っ黒に塗り潰されている。
「だって、ここ超気味悪いし。耐えられない」
「何? 窓から出るの? ここの教室四階よ。ほんとお馬鹿さんだね。楽しみがいがあるわ」
目の前にいる先生はそう言うと不気味な笑みを浮かべる。その姿は悪いことを企む犯罪者のようだった。片手に持っているチョークが拳銃に見えてくるほどに。
いつもの先生じゃない。馬鹿扱いする態度もそうだけど、何よりいつも手に纏っている白い手袋がはめられていないのだ。そう思っていると先生は黒板の方へくるりと振り向く。先生が書き始めると、白いチョークは自身の寿命を縮めながら、スケートリンクの上にいるみたいに黒板を滑る。滑った跡には恐ろしい文字の羅列が浮き上がっていた。
『デスゲーム×椅子取りゲーム』
これでもかというくらいに大きな文字。その文字は僕らの視線を離させない。
寿命が縮まったチョークを置いた先生は、こちらを振り返るなり「ふふふ」と笑い声を上げる。その響きがこの空間を地獄へと模様替えしていく。
笑うのを止めた先生はわざとらしく咳払いをしてから口を開いた。
「さぁ、皆さん。これからゲームを始めたいと思いま……」
「何ふざけたこと言ってんだよ」
荒げた声が教室中を包む。声の方を向くと、不良がしかめっ面で黒板の前にいる先生へと足を進めていた。何だか嫌な展開になってきていると思ったら、まさにその通りのことが起きてしまう。
何と不良は先生の胸倉を掴んだのだ。ありとあらゆる怒りを集めた顔をして。なのに先生は怯えるどころか、不良を見て薄く微笑んでいる。本当に気味が悪い。
その顔によほど頭に血が上ったのか、ついに不良は先生に手をあげようとしていた。
流石に暴力はまずいと思い、彼らの方へと僕は走り出す。不良の手が先生の頬に触れた次の瞬間。
「私に触ったね」
その言葉とともに、先生から白い煙のようなものが放たれる。それは瞬く間に教室中を覆った。
何も見えない。冬場の外で起こるホワイトアウトのようだ。現実味のないことばかりが起きているから、この光景が夢の世界のものだと思えてくる。だけどその夢から覚めるように白い煙は薄くなり、やがて視界を明るくした。
教室の真ん中に立つ石動さんと、窓辺で呆然としているギャル、扉の前で手を震わせている煙草。
そして黒板前には、この煙を出した張本人である先生……。
思考が止まる。まるで電気回路の電線がショートした時のように。
だって……先生が普通に立っているから。さっきまで胸倉を掴まれていたはずなのに。頬は赤くも腫れてもいない。明らかに不良からのビンタを放たれたはずなのに。
驚くべきところはそれだけじゃない。その胸倉を掴んでいた張本人である不良がどこにもいないのだ。
どんな仕掛けかわからないが、先生のせいで開かなくなった窓と戸からの脱出は不可能。白い煙が完全に消え去り、教室の隅から隅へと目を通したが、不良の姿はどこにもなかった。
すると先生がそばにあった学校の椅子の背もたれ部分を軽く叩く。あんなの先生の近くにあったっけ……?
「どう? 椅子になった気分は?」
突然、先生がおかしな日本語を喋り始める。わけがわからない中、さらに先生は話を続ける。
「あなたがいけないのよ? 私に触っちゃうから。まさか自分から私に触ってくるとは。案外私ってモテるのかも!」
益々意味がわからない。まるで先生が、あの椅子に向かって言葉を投げかけているみたいに見えたから。まるで人と話してい……。
先生がいきなり眼光をこちらに向ける。とても鋭くて不気味な瞳。開こうとする口すらも気味悪く感じてしまう。
「あっ。言っておくけど、この椅子、さっき私の胸倉掴んだ男だから」
「……」
言葉が出ない。自分の解釈の仕方が間違えているのかもしれないとも思った。だけどいくら心の中で今の先生の言葉を繰り返しても、その答えにしか行き着かない。非科学的すぎる答えだ。
僕たちがまだ納得のいかない表情をしていたのか、先生はその言葉たちを繰り返す。何度も。まるですりこみをするように。
「そんな馬鹿な話信じられるか!」
煙草が教室の戸を思いっきり蹴る音が教室中を轟かせる。石動さんはしゃがみ込んで足を震わせ、ギャルもその場に座り込む。
「まだわからないの? 何度言ったらわかるの?」
はぁ、と先生がため息を漏らす。だけどまた不気味な笑みに表情は戻り、「まぁ、馬鹿だから仕方ないよね」と吐き捨てる。
次の瞬間、煙草がわざと大きな音を立てながら先生のもとへ向かう。両肩からぶら下がっている拳は固く握られていた。それは明らかに先生へ攻撃をする姿勢。
だけどもし先生の言葉が本当なのだとしたら……。
「近づいちゃダメだ」
気がつけば僕は煙草に向かってそう叫んでいた。先生の言ってることはめちゃくちゃだ。だけどそれを否定する事実がどこにも見当たらない。
「ちょっと、大鹿君。空気を読みなさい! せっかく私のモテ期が来ているのに。あっ。気にしないでこっちに来て? もう二度と煙草ができない体にしてあげるから」
そう言って先生は両腕を大きく広げる。今すぐにでも抱きつきなさいとでも言うように。
恐ろしすぎる言葉を正面から浴びたからか、煙草はピタリと足を止める。彼はつま先から太ももまでを小刻みに震わせていた。きっと、今の僕の足も同じような動きをしているのだろう。
魔女もやがて両腕を下ろす。面白くないといった表情で。だけどすぐにまたあの奇妙な笑みを浮かべた表情に戻る。
「まぁ、馬鹿な君たちには理解できない状況だと思うけど。とにかくこれが揺るぎない事実よ」
そう言って先生は再び目の前の椅子の背もたれを軽く叩く。あれがさっきまで先生の胸倉を掴んでいた不良だったなんて。
すると次の瞬間、先生は乱暴にドスンと音を立てながらその椅子へと座る。もし先生の言う通りその椅子が不良なのだとしたらあまりにもむごい。
「あの……座るのは流石に……」
石動さんのか細い声が響くのと同時に先生が彼女に向けて鋭い眼光を向ける。瞳は石動さんを睨んでいるのに口元は笑っているから、それが余計に彼女を震わす。
「それは、胸倉を掴んだ男がこの椅子だと認めたってことでいいのかな?」
先生は睨んでいた瞳を三日月のように曲げて、わざと優しい表情を見せる。それを向けられている石動さんは口を押えて視線を泳がせていた。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ。もうすぐでそう思わなくても済むようになるから」
「えっ?」
先生以外の声が重なる。小さくて弱々しい声の塊。教室中にクエスチョンマークが大量生産される。一方の先生は人を馬鹿にしたような笑みを零す。
「ふふ、君たちらしい間抜けな顔をしてるね。じゃあ、説明しようかな。ここに集まる大馬鹿な君たちにも理解できるように」
失礼過ぎる言葉を矢継ぎ早に浴びせた先生は一呼吸置いてから、再び口を開く。
「これより、デスゲームを始めます」
黒板通りの文字の羅列は先生を通して耳を刺激する。デスゲーム。そんなのゲームとか漫画の世界でしか聞いたことがない。自分が生き残るために殺し合いをするとか。
だけどそんなのが現実世界で許されるはずがない。この世界にはちゃんと法律が定められているはずだから。そう自分を少しでも安心させようとするが、周りにいる生徒たちの恐怖で満ちた顔が僕を道連れにする。そして追い打ちをかけるように先生がそのデスゲームとやらの説明をし始めた。
「知らない人もいるかもしれないので、一応デスゲームの意味について説明しておくね。デスゲームとは命を懸けたゲームのことだよ。自分のために他人を蹴落とすとか、あるいは知恵を使って皆が助かる方法を編み出すとか。まぁ、ここにいる皆はクラスで一番成績の悪い人たちの集まりだから後者は無理だろうけどね。だから今回は皆の命を懸けてもらいま〜す!」
「そんな……」
さらに小さくなった皆の声が教室の床に力なく落ちていく。野蛮なデスゲームに自分が参加する? そんなの……。
「いい加減にしろよ」
思わず口が滑ってしまったのかと思ったが、その声の主は煙草だった。
「いくら成績が悪いからって、人を殺すとか許されるわけないだろ」
「誰が殺すと言ったの?」
先生が一呼吸置くと、「殺すんじゃない。命を懸けたゲームよ。学生としての命をね」
「学生としての命というのはどういうことですか」
石動さんが手を挙げて意見する。確かにどうして先生は『学生の』を付け加えたのだろうか。
まともな質問のはずなのに先生は鼻で笑う。こんな問題も解けないのかと人を馬鹿にするような表情で。
「さっき言ったでしょ。胸倉を掴んだ男がこの椅子になったって。つまりこの男は学生としての命を終えたってこと。逆を言えば今その男は椅子としての命を全うしているの。ほら、殺し合いじゃないでしょ」
「それはゲームに負けたら椅子になるってことですか?」
恐る恐る僕は先生に尋ねてみた。すると、ピンポンピンポンといったノリで先生はにこやかに拍手をする。
「正解! なんだ。ちゃんと理解できるじゃない」
完全に上機嫌の先生は本題であるデスゲームの内容を話し始める。デスゲームなんて聞くだけで怖いし、もちろんやりたくないけれど、戸や窓が開かない以上、今の僕には大人しく先生の言うことを聞く以外に選択肢はなかった。
「じゃあ早速、デスゲームの詳細だけど、皆には小さなお子様にでもできる椅子取りゲームをしてもらいま~す! さっきの子は椅子にしちゃったから、ゲームはここにいる四人でやるよ。ルールは普通の椅子取りゲームと一緒。参加者マイナス一の椅子を円状に置いて、音楽が流れている間、その周りを歩く。音楽が止まったら椅子に座る。どう? 馬鹿な君たちにも簡単でしょ? あっ、でも忘れてた。ただ一つ違うのは椅子に座れなかった敗者は私の力によって椅子になるのよ。はい! 今度こそ説明終わりね」
椅子取りゲーム。幼少の頃から馴染みのあるゲーム。色んな友だちと椅子取りゲームで遊んだ記憶が蘇る。だけど目の前にいる先生がその思い出を真っ黒に塗り潰していく。デスゲームという名の色に。
先生は説明が終わると、わざとらしく力いっぱい立ち上がる。まるでさっきまで高校生だった不良を痛めつけるかのように。
それから一刻も早くデスゲームを始めたいと言わんばかりに先生は椅子を綺麗に並べ始める。椅子になってしまった不良の椅子もその中に混じった。
僕の知ってる先生じゃない。そもそも人間を椅子にする力を持つ先生なんて聞いたことがない。ましてやそれを生徒に使うなんて。人を椅子にするなんてそんなのあってはいけないことのはずだ。目の前にいる大人は先生じゃない。僕は心の中で先生を魔女と呼ぶことにする。
全身の毛が悪寒で逆立つ。寒いからという理由だけならどれほど嬉しいことか。だけど残念なことにそれが理由ではない。ゲームに負ければ椅子になってしまう。人でいられなくなる。そう突きつけられた事実が何より怖くて寒さよりも無くなってほしいものだった。
寒さが和らげば、この事実に対する恐怖もなくなるのではないかと願いながら手を擦り合う。だけどいくら擦ったって変わらない。手の温度も恐怖も。
するとその時、温かいものが冷たい僕の手を包み込む。お母さんの手のように温かくて柔らかい。
手の先に視線を向けると、石動さんが僕の手を握っていた。目と目が合った瞬間、石動さんはなぜか頬を赤くして握っていた手をパッと放す。ここは寒いし、何よりデスゲームが始まってしまうというのにどうして顔を赤く染めているのだろう。すると石動さんがそっと呟く。
「すごく震えてたから……」
弱々しい声。クラスメイトがたくさんいる教室の中だったらすぐに消えてしまうほどに。恐怖に溺れていたけれど、まさか震えていたなんて。
だけどそんな僕よりも石動さんの方がよっぽど恐怖に侵された表情をしていた。視線は虚ろで、頬は強張っている。安心させたいのはむしろこっちの方だ。
僕の手は自然と彼女の手に伸びる。普段の僕なら大胆な行動だと思うかもしれない。今も心の中ではそう思っている。だけど手が勝手に動くのだ。そうさせるのはきっとこの特異な状況と石動さんのことを恐怖から少しでも救ってあげたいという気持ちなのだと思う。
その時、椅子の音がピタリと止まる。教室の真ん中を見ると既に三つの椅子が綺麗に並べられていた。もう準備万端だよとでも言うように椅子が意思を持った者に見える。
魔女はどこに行ったかと思ったら黒板の脇で再び椅子になった不良の上に座り、スマホをいじっていた。椅子取りゲームで流す曲を決めているのだろう。どんな曲でも選ばれた曲は僕、いや僕たちにとって地獄のメロディーを奏でるのだろう。椅子になってしまうという恐怖の旋律に。
「心の準備はできた? じゃあ、皆椅子の前に並んで~」
曲を決めたのか、魔女はこちらを振り向いて指示を出していく。逆らったらどうなるかと考えるだけでゾッとするから、僕は大人しく魔女の指示通りに動いた。
「皆並んだね。私はあの椅子に座りながら音楽を操作するから、皆は音楽が止まるまでひたすら動いてね。回り方はどっちでもいいよ。時計回りでも反時計回りでも」
そう言い残すと魔女は向き直って再びスマホを手に取る。いつデスゲームが始まってもおかしくない状況になり、不安が増幅していく。黒板側を向いているから、魔女の手元が見えない。これじゃあ、音楽が止まるタイミングなんてわからない。
そしてその時はきた。今風のアップテンポで陽気な音楽が教室中を駆け巡ると同時に僕たちは歩き出す。前には煙草、後ろには石動さん、向かいにはギャルという位置関係だ。今はただ、いつ音楽が止まるのか。それしか頭にはない。
イントロが終わって歌が始まる。その瞬間、教室の空気が変わった。
音楽が止まったのだ。僕は急いで近くの椅子に何とか座ることができた。後ろにいた石動さんも無事に座ることができたらしく、小さく僕に向けて手を振ってくれる。すると前方が妙に騒がしいことに気づく。
「私が座ったんだから、どきなさいよ」
「いや、俺の方が座ってる面積大きいだろ。早くどけ!」
見ると、ギャルと煙草が同じ椅子にほとんど半分ずつ座っていた。両者とも譲らない様子だ。それはそうだ。もしこの争いに負ければ、不良のように椅子になってしまう。僕たちはそれを間近で見てしまったから。言葉と身体の押し合いはあの明るい音楽のイントロよりも遥かに長く続く。だけどそれは煙草の高い奇声と共に終止符を打った。
煙草は立ち上がり、その隙をついてギャルが椅子の全面に座る。いったい何が起きたかと目を凝らすと、煙草の手の甲から赤い液体が滲んでいるのが見えた。猫の爪に引っ掻かれたような傷跡……。その瞬間ギャルが不敵な笑みを浮かべる。ギャルがどうして笑っているのか理解できないうちに魔女が立ち上がり、こちらを向いて真っ直ぐに歩き出す。もちろん向かう先は、椅子に座っていない煙草。
「次の犠牲者は君みたいだね」
口角を上げながら、魔女は煙草に近づく。
「こっちに来るなよ!」
目を大きく見開いた煙草は腰を抜けして床に倒れた。それから腰と腕だけで体を後ろへと引きずる。まるで幽霊と遭遇してしまった時のように。明らかに怯えている煙草の心中なんかお構いなしに魔女はずんずん進む。
やがて教室の後ろに備え付けられているロッカーに背中が着く。もう後ろに存在する空間はない。逃げ場を失った煙草は近づいて来る魔女を目の前に呆然と座っている。
遂に魔女が煙草の目の前に来た。手を伸ばせば煙草の身体に触れられるほどに。
「やめて……」
さっきまでの威勢のある声はそこになかった。ガラス細工のように脆くて弱い声。
僕は椅子に座ってただその様子を見ていることしかできなかった。今までこんな場面に遭遇したことがないからどうしたらいいのかわからない。
やめてくださいの一言も言えない僕はどれほどの臆病者なのだろう。それを言えば煙草が椅子になるのを防げるかもしれないのに。だけどできなかった。
「じゃあ、ルール通り君を椅子にしちゃうね」
魔女がわざとらしく語尾を高めに発音する。それが余計に煙草の顔を蒼白させた。
魔女が煙草へ手を伸ばす。成績が悪く、学生として望まない状態だとしてもその体を消していいことにはならないはずなのに。たとえ未成年で煙草を吸っていたとしても。
だけど僕は何も言えない。何もできない。煙草のために。
怖いから。魔女に物申したら自分が椅子にされてしまうのではないかと。もうこの体で一生を過ごせなくなるのではないかと。そんな空想が僕を弱虫にさせる。
やがて魔女の指先が煙草の手に届く。さっきまで煙草を持っていたその手に。
その瞬間、不良の時と同じように白い煙が周囲を覆う。さっきはその煙に匂いはなかったけど、今僕を囲っているその煙は微かに煙草の匂いがした。
煙が晴れると僕いや、僕たちは一点に視線を注目させていた。教室の後ろにいる魔女の目の前にある椅子に。
煙草の匂いはもうしない。これから先もずっと。
さっきまでしゃがみ込んでいた煙草がいなくなっていたから。いや違う。いなくなったんじゃない。人ではない姿に変貌していたから。
煙草は椅子になってしまった。この教室にある椅子と同じ、個性も何もない椅子……。
もう信じるしかなかった。魔女が人を椅子に変えてしまう恐ろしい存在であることを。あまりにも恐ろしくて僕は魔女から視線を背ける。たとえ魔女が担任の先生であっても。視線の先には多くの椅子が無造作に積まれていた。
そういえばここの教室、異様に椅子が多くないか。ふとそんなことに気づく。ただの物置きかもしれないけど。
『少人数教室Dにはサンタが住みついてるっていう噂があって、毎年クリスマスになるとあそこの教室だけ椅子が増えるの。勉強を頑張る生徒たちへのプレゼントとして。まぁ、あくまで噂なんだけどね』
ふと、先生との会話が脳内で蘇る。その記憶と今の状況が重なって……。
「ここにある椅子ってもしかして……元々この学校の学生だったんですか?」
気づけば僕はそう魔女に発言していた。口にした直後、僕は激しく後悔する。もし本当だったらそれはとんでもなく恐ろしいことだから。不良や煙草だけでなく、これまでに大勢の学生が椅子と化したという事実があっていいはずないから。
魔女はもう何度見たかわからないくらい気味の悪い笑みを浮かべる。僕のおかしな質問に笑っているのだろうか。それならそれでいい。僕の憶測が魔女の笑みに繋がっていなければ……。
「そうだよ」
飄々と魔女はそう答える。僕にとってそれは最悪の答えだった。魔女はこの椅子の数だけ学生を変貌させていたのだ。無機質な椅子に。
周囲の空気がさらに冷たくなるのを感じる。椅子に座る石動さんもギャルも顔を真っ青にして魔女を見ていた。
すると魔女はかつては煙草だったはずの椅子を両手で持ち、そのまま多くの椅子が置かれている場所にそれを積んだ。きっと今まで椅子にされた学生たちもこうして積まれたのだろう。
「よし! こんな感じでやっていくから、次やるよ」
こんな感じって何? 椅子に座れなかったら強制的に椅子にされることか? そんなのあってたまるか。僕は空っぽの頭で何とか知恵を振り絞る。もう誰かが椅子にされるのを見たくない。見殺しなんかしたくない。
魔女は黒板の前に辿り着き、再び不良の椅子に座ってスマホをいじり始めた。
「何してるの? 一人減ったんだから早く椅子減らして」
スマホをいじりながら魔女が呟く。椅子取りゲームは最後の一人になるまで続くから、ゲームが進むにつれて並べる椅子の数を減らさなければならないのだ。
僕たちは立ち上がり、魔女の言う通り椅子を減らそうと背もたれに手をつけた時だった。ルール違反だと言われて下手したら全員椅子にされてしまうかもしれない。だけど逆に皆が椅子にされないかもしれない方法だと思った。知識も何もない頭だと思っていたから、こんな方法を閃けたことに自分で自分を褒め称えたくなる。
早速石動さんとギャルを招集する。魔女に気づかれないように。僕はその方法を二人にそっと耳打ちする。リスクが大きすぎて反対されるかもしれないと思っていたけれど、二人はあっさり僕の提案に乗ってくれた。
僕が思いついた方法。それは椅子の数を減らさないということだった。椅子を減らさなければ、ここにいる皆が座ることができる。問題は魔女にバレるということだが、そこは運に任せようと思う。実際さっき、魔女は音楽を流している間、一度も僕たちを振り返らなかった。さっき振り返らなかったからといって今回振り返らないとは限らないけど。そこは本当に運だ。
こちらにツキがあれば少なくとも僕たちは全員椅子に座れる。あとは魔女のその後の対応次第だ。そこも運が必要だと言えるだろう。魔女に悟られないよう、僕はわざと椅子を引いて音を出す。実際は椅子を引いたり押し戻しているだけだけど。
「準備できました」
全員で言うと、魔女は「じゃあ、等間隔で立って待ってて」とだけ言い残し、再びスマホに集中し始める。
とりあえず第一関門クリアだ。これでゲームは始まりそうだ。ほどなくして音楽が流れ始める。さっきと同じ曲だ。明るくてとてもデスゲーム中に流すものとは思えないメロディー。
その曲に合わせて僕たちは歩き出す。さっきとは違う緊張が全身を包む。椅子にされてしまうという恐怖よりもバレてしまわないかという心配の念が僕の心を強く支配していた。
僕は常に魔女に視線を注目させながら、ただひたすらに椅子の周りを歩き続ける。先生は見向きもしないでスマホ画面に視線を落としていた。
これならいけると思った次の瞬間、音楽がピタリと止まる。僕たちは一斉に座った。そこに殺伐とした空気はない。皆、自分は座れるという安心感を持っていたからだと思う。
遂に魔女がこちらを振り向く。今までの余裕そうな笑みを崩して口をポカンと開けていた。だけどすぐに魔女は口を結び直し、笑みを浮かべる。
また不良の椅子を乱暴に立ち、魔女は僕たち三人を順番に見ていく。
「ちょっとは頭を使ったのね。私が振り返らないのをいいことに」
ゴクリと喉を鳴らす。魔女がどんな判断を下すのか。僕も他の二人も魔女に視線を向けていた。
「頭を使ったのは褒めるべきところね。仕方ない。今回は許してあげるわ」
その言葉に嬉しさが込み上げてくる。心の底から。今回は許すということは、もうデスゲームに参加しなくてもいいってことだよね。これからちゃんと勉強すれば、次回は呼ばれないはず。だけど次の魔女の言葉が再び僕たちを地獄の底に突き落とす。
「じゃあ次の準備して?」
「えっ? デスゲームを辞めるんじゃ……」
「えぇ。今のゲームは犠牲者が出なかったってこと。次もあるよ。あっ、次はその手に乗らないよ。後ろもちゃんと警戒するから」
そう吐き捨てると、またさっきと同じように不良の椅子に魔女は腰を下ろす。だけどさっきとは違って時々こちらの様子を見てくる。誤魔化しがきかないと悟った僕たちは仕方なく椅子を一つ減らす。
せっかくデスゲームから逃れられると思ったのに。次はこの中の一人が椅子になってしまう。不良や煙草のように。
恐怖が増幅していくのを感じる。自分の椅子になる可能性が高まっていくことに恐れを感じて。生きた心地がしない。成績が悪いだけでどうしてここまで怖い思いをしないといけないのだろう。煙草も積まれている椅子が集合した箇所に視線を置く。
ここにある椅子たちもかつては僕たちと同じ高校生だったんだ。彼らも今の僕たちみたいな恐怖を抱きながら椅子になってしまったのだろうか。
嫌だ。椅子になるなんて。勉強は嫌いだけど人として生きるためだったら我慢して頑張りたい。今さらそう思ってしまう。だけど本当に今さらだ。
またも同じメロディーを聞くと僕はそう思った。後悔が遅すぎる。僕の心とは裏腹に耳を通り過ぎる音楽は明るい。陽キャラな人たちなら思わず歌い出してしまうような。それくらいに。
そしてその時は突然にやってくる。今まで普通に動いていた時計の針がピタリと止まるように。二つのうち一つの椅子が埋まる。そこにはギャルが腰を下ろしていた。
残り一つの椅子に向かおうとするが、ここにいるもう一人の存在が僕の足を止める。
その存在に視線を向けた。石動さんがじっとこちらを見つめている。僕たちは椅子を真ん中に挟んで向かい合うように立っていた。お互いの位置から同じくらいの距離にある椅子。
僕たちの間には時間と静けさだけがただひたすらに流れていた。途方もないほどに僕にとって長い時間。
僕が本能だけで動く獣なら、きっと今頃椅子に飛びかかっていたことだろう。だけど残念ながら僕には理性がある。人間にしかないもの。この世で唯一それを持つことが許された存在。きっと椅子にはないものなのだろう。
僕も石動さんも一歩たりとも動かない。いや、動けないんだ。互いに理性を持っているから。自分が座ればもう一人が人でなくなる。それは、自分が殺したのも同然になるから。
どのくらい時が経ったのだろう。石動さんがゆっくりと歩き出す。最初は椅子の方に向かっていると思ったけれど、どうやらそうではないみたい。石動さんが椅子を通り過ぎたから。
そしてその足は僕の目の前でピタリと止まる。と、腕が自分のものではない強い力で引っ張られた。石動さんが僕の腕を引きながら真っすぐに椅子の方へ向かっていたのだ。何が起きているのか理解できないまま僕は強制的に椅子に座らされる。
「じゃあ、今度はあなたの番ね」
魔女の視線は石動さんに向けられていた。どうして? どうして僕を椅子に座らせたの? 僕のせいで石動さんが椅子にされてしまうなんて。そんなの絶対に嫌だ。それは僕が石動さんを殺すことになるから。
僕は力いっぱいに立ち上がろうとした。だけど立てない。両肩に強い圧力を感じる。見ると、石動さんが僕の肩を握っていた。体は前のめりで全体重を僕の身体にかけているように見える。
「立たせないよ」
石動さんがそう叫びながらさらに僕の肩に体重を乗せてきた。肩の筋肉が破裂してしまいそうなほどに。
「嫌だ。そんなことしたら石動さんが椅子にされるから」
魔女が刻一刻と迫っている。すると、頬に冷たいものが当たる。上を見上げれば、そこには頬に涙の筋を作った石動さんがいた。小さな口がゆっくりと動く。
「嫌なのはこっちだよ。ずっと気になっていた男の子が椅子にされるなんて」
「えっ……」
頭の中が真っ白になる。足音がすぐそこまで近づいているというのに。
「何か言いたいことがあるなら待ってあげるよ」
魔女のその言葉とともに足音が途絶える。初めて見せた魔女の小さな優しさだった。いや、いつもの先生の気遣いのようにも見えた。石動さんは魔女に会釈して僕に視線を向き直すと、ポツリと過去を話し始める。その言葉を聞くたびに、雲みたいに真っ白になった僕の脳内が晴れていくようだった。



