また妹からは惨めなサンマとうまいこと形容された。「与一はいつ死んでも仕方ないよ」「由紀ちゃんに言われなくても人はいつか死ぬのだから、死ねばいいのさ」妹は僕の痩せてこけた頬を見て僕をからかうのが日課だった。
 「由紀ちゃんもそんなこと言ってないで、ちゃんと食べないと、与一みたいになるんだからね」母の間髪入れぬ一言に妹は顔をくしゃりとゆがめた。「まったく最近の子はませて困ったねぇ」仕事をしないで、まる一日新聞とテレビを交互に見ている父を軽蔑するように母が言った。「お父さんもなんか言ってあげて。与一が不良になったらどうするんですか?」父はちらりと僕の方を見て、またテレビに目を向けた。父は寡黙な人で僕等にぜんぜん興味がなく、おおよそどこで喜怒哀楽を使用しているのか分からない人だった。僕はそんな父を軽蔑し、父のような人生にはならないといつも心に決めていた。しかし今の僕は、高校にも行かず、仕事もせず、まるで似通った親子のような生活を送っている。「奈落の底まで落ちるか」左手をみつめながら父の顔をまじまじと見た。そこには無能で虚ろな目があるだけだった。
 いつもの喫茶店に入ってコーヒーを頼むと、僕は恐る恐るストレートで飲んだ。初めてのブラックは頭がびっくりするぐらい苦かった。麻雀ゲームはいつでもできるし、少し家族のことを考えてみた。当たり前のように過ごしている家族が、実は意思疎通のできていない集団だと思い知らされる頃には、とうにコーヒーは冷めていた。
 喫茶店の薄暗い光の中で僕はひとりぼっちだった。喫茶店は古い建物で僕が生まれる前からあるとマスターが言っていたのを思いだす。
そこは地獄ようで天国でもあった。麻雀ゲームの光がまぶしくて、僕は冷めたコーヒーを流し込んだ。「今日はもう家に帰ろう」天井をみつめ、タバコのヤニで汚れきった壁に囲まれていることに嫌気がさして、僕は会計を済まして家路についた。
 家に帰ると家族は寝ていて居間には誰もいなかった。冷えきった家は呼吸を止めた要塞のようだった。居間は僕だけのもので、夜の僕だけの居要塞だった。
 東北の秋は駆け足で冬に向かっていく。十月と言えども、寒さも身にしみる季節だ。
 冷えた指先に息を吹きかけながら「このままではだめになる」と自分に問いかけ「僕の人生は終わってしまう」という自然な答えに辿り着くのにそう時間はかからなかった。
 
 
 静かな焦りも胸元でチリチリと音を立てて、僕の心を揺さぶった。柱時計が十時を知らせる音がした。不吉な鐘の音は胃に響く重いものだった。それぞれが部屋を持っているため、みんな当たり前のように自分の部屋で過ごしている。今日はもう考えるのをやめたかった。考えても頭を悩ませるだけだ。だから被害妄想的な考えになるのだ。自分でも分かっているのに、頭の中に何か違和感がある。その違和感が何か分からないまま、僕はこれからも生きていかなければならないと思うとゾッとした。
 頭の中の違和感に気がついたのはいつ頃だったろうか?ひどく頭を痛めたときに気づいた、高校に入学して間もない頃だったろうか?疑問は尽きない。頭はそっと狂い出し始めていた。それに気づかずに人生を送ってきたことを後悔しても今さら始まらない。
 僕がそんなことで頭を悩ませているとき、台所で物音がした。引き戸を開けてのぞいてみると、父が冷蔵庫の中を物色していた。「早く寝ろよ」「うん」そんな短い会話のあと父は立ち去り、 惨めな父のパジャマ姿は見ていて腹立たしかった。クズ野郎がと思いながらも、自分も父と同じ立場にいることが恥ずかしかった。身にならない夜食など誰がとるものかと、内心思ったが心とカラダが連動しないように、僕は冷蔵庫に向かい、無意識にチーズを手に取っていた。電球の薄明かりの下で何の喜びもなく食べるチーズは思ったより美味かった。
 襖の向こうには叔母が寝ている。兄は仙台の大学に今年進学したばかりだ。叔母の寵愛を受けて育った彼は甘え上手で、学校でも人気者だった。僕は炬燵で考えを巡らせながらいつの間にか眠りに落ちていた。
 次の日の朝、僕は妹に頭を蹴られて目を覚ました。由紀子は無邪気に笑いながら「いいなあ。与一は学校行かなくて」とあっけらかんとして僕の胸に引っかかることをズバッと言った。悔しいが、妹に返す言葉がみつからない。「妹の分際で」僕は捨てぜりふを吐いて部屋をあとにした。部屋に戻ってゆっくり寝直そうとしたが、突然、頭がセミの鳴き声のようにジリジリと鳴りだした。幻聴が聞こえてくる時のいつものアレだ。僕は階段のところで耳をふさいで、しゃがみこみ、時が過ぎるのを待つしかなかった。頓服を飲まなければ。冷や汗をかきながら台所に行って、母にいつもの症状がでたとしゃべると、頓服を急いで持ってきてくれた。「ゆっくり深呼吸して。焦らなくていいから」
「最悪だよ。よりにもよって寝ようとしてるときに」「また何か悩んでるの?」「悩んでいるさ、自分の生き恥を家族に見せるのも苦痛だ」「何も悩まなくてもいいから」母の優しい言葉に僕は腹がたった。僕は自分が、プライドもズタズタに傷ついていることを思い知らされた。頓服を飲んだら落ち着いたので僕は部屋に行って気の済むまで寝た。
 年が明けて、僕は測量助手の仕事を始めた。新しい道路ができる山の中を測量で回った。駆け巡ったという方がより現実に近いかもしれない。冬の山は虫もいなくて、蜂も出ない
さらにいいことに蛇もいない。僕にはおあつらえ向きのバイトだった。僕は狂ったように山を歩いた。指示されてないのに遠くの方まで駆けていっては、会社の人に怒鳴られた。
 そういう訳で僕は人生設計もできておらず、ただ日銭にありつく每日だった。仕事を始めたら、幻聴はなくなった。ただ単に悩むだけの時間を仕事に費やせたのが良かったのだろう。
 測量助手の仕事は楽しかった。こういう人生もいいなと思った。やはり仕事をするっていいもんだなと思い始めていた。
そう思って仕事にいそしんでいた春先の土曜日。僕はたまたま休みでいつもの喫茶店で麻雀ゲームをしていた。十分遊んだので帰途につくと、家の前に見たこともないナンバーの車が止まっていた。外国車のようなナンバープレートだな。誰かお客さんかな?と思いながら家に上がると客室から、母と知らない人の声が聞こえてきた。玄関を上がった僕に気づいた母が「与一、ちょっと来てみて。あんたにお客さんだから」 僕は恐る恐る部屋に入った。ネクタイにスーツ、よく日焼けした不気味な顔が座っていた。「与一君ですか?自衛隊地方協力本部二戸地域事務所の山川と言います」山川は満面の笑みで言った。
 「何て言いました?なんの用ですか?」僕は最初何を言ってるのか理解できずにいると「自衛官を募集しているところから来ました」自衛隊?なんで僕のところに?僕の心の機微に気づいた山川が「新卒の方の自衛官を募集しておりまして。与一くんが今年新卒だから、挨拶にあがりました」山川は笑顔を崩さないままだった。
「いやいや、僕は自衛官になんてなりませんよ。だって軍隊じゃないですか」
「今の自衛隊は昔のような軍隊ではないからね。今じゃ自衛隊は二年もいれば資格が三、四個とれますよ」
「そんなの信じられるわけないじゃないですか。二年で資格がそんなに取れるんですか?訓練とかするでしょ?日本になにかあったらどうするんですか?」素直に山川に不審な気持ちをぶつけると「今の日本では有事はありえません。訓練も午前中だけで午後は体力づくりです。」山川はニコリともせず僕を睨んだ。その堂々とした態度に、この人は怖い人だと僕は察した。佇まいも、鋭い視線も平気で人を殺せる人だと思った。僕の返答を待っている。何か言わなければと思うと言葉が思うように出てこない。
「自衛隊って頭のおかしい人が行くとこですよね」僕は空白を埋めるように|堰を切ったように叫んだ。一瞬沈黙が訪れる。山川は何も言わず僕を見たままだ。母は母で僕に黙れという視線を送っている。なんか白けるなと思い僕は「じゃあ」と言って僕は部屋をあとにした。部屋を出ると由紀子が駆け寄ってきて「誰か来てるの?」と目を輝かせた。僕は無駄に目を輝かせてるんじゃねぇよと、心の中でつぶやき、妹を無視して自分の部屋に閉じこもった。「俺の嫌いな顔だ。あいつ。なにしに家に来た。絶対自衛隊になんか入らないからな!」

その頃山田伸宏は、学校でひどいイジメにあい生きることに希望をなくしていた。冬休み前には学校に行かなくなり、無気力でとても何か出来る力は残っていなかった。彼の希望通りの人生には到底なれていない。望むべきは今すぐにでもこの青森から逃げ出したかった。彼にはそれがとてつもなく、大きなチャレンジでアグレッシブな精神のもとになされる事柄だと思われた。登校もしない、友達もいない、手のひらを見ればくたびれた四十代のサラリーマンのような手に思われた。
「雑魚が寄ってたかって」と捨て台詞を吐くことは日常茶飯事で、家族に辛く当たっては家族を苦しめた。祖母はそんな孫が不憫でならないと泣き暮れたが、そんな思いを知ってか知らぬか、祖母から金をせびって、伸宏はパチンコ屋の常連になっていた。タバコをふかしサングラスをかけ、貧乏ゆすりをしながらパチンコをする姿はいっぱしのチンピラだった。しかし伸宏は気弱で人当たりが柔らかく尖った見た目とは裏腹でおとなしく、パチンコをしていた周りの大人達も戸惑った。「お前、ぜんぜん怖くねぇなぁ」「格好だけは一丁前の格好して」などと言われ放題で、ここでも何かされると思ったが、大人は伸宏にほとんど興味を示すことなく、内心ホッとした。
 伸宏は祖母に申し訳なく仕事をまじめに探そうと思った。しかし心は正直で仕事をしてもまたいじめられると思った。とにかくこの街を出なければ俺の未来はないと思えた。
 年の瀬に一つの事件が起きた。仲のいい友達の佐藤が自殺した。首吊り自殺だった。伸宏には佐藤が自殺した理由に思い当たる節があった。佐藤は伸宏と同じようにいじめられていて、それを苦にしての自殺だったと後に学校側が公表した。ショックを受けた伸宏は怒りが止まらず、佐藤と自分をいじめていた不良グループに殴り込みをかけようと覚悟した。しかしいざ敵を取ろうと思うと怖くて足がすくんだ。
 山田伸宏は小さい頃に父親を亡くし、母親は家にあまりおらず、伸宏の身の上の世話は祖母が献身的におこなっていた。祖父は何も言わなかったが、内心伸宏に腹を立てているに違いないと言うのが、おおまかな伸宏の見立てだった。これまで十七年間生きてきていいことなんか一度もなかった。地元の祭りにも準備に手間がかかるからと言う母親の一方的な理由で参加させてもらえなかった。母はそれで気が済んだかもしれない。しかし伸宏はそのことに対する母の態度を許すことができなかった。「一生恨んでやる」伸宏はそう心に誓った。
 友人の死から立ち直れず、そしてまた毎日パチンコに明け暮れる日が続いた。いつの間にか周りの大人とも会話できるようになり、少しずつコミュニケーションが取れるようになっていった。伸宏は毎日平台ばかり打っていたが、金がないし時間を潰せればそれでいいと思った。
 
永見栄吉は喧嘩をするのが好きだった。人を殴ればスカッとする。高校もそれが原因で退学した札付きのワルだった。山形では名の知れた暴走族に属し、斬りこみ隊長として名をはせた。一九歳の時に暴走族は引退したが、何かと後輩の相談に乗っては、指導していた。
 仕事は高校を中退してから、家の近くの工務店で日銭を稼ぎ、夜遊びに明け暮れた。飲み明かしては仕事をサボり、高校の同級生から金を巻き上げ、その金でまた酒を飲んだ。仕事も休み休みになり、会社から真面目に働く気がないなら、会社を辞めてもらうと最後通告を受けた。それでも喧嘩っ早い栄吉はグッと気持ちを抑え、二度と仕事場に現れることはなかった。自分なりに仁義をつけたつもりだった。
 会社を辞めた栄吉はムシャクシャしていた。通りすがりのヤンキーを睨みつけては「やんのかおらー!」と喧嘩をふっかけた。誰か一人締め上げないとどうも気が済まない。そういう自分勝手な思いで、喧嘩相手を探していると、屈強で強そうな男がこちらに向かって歩いてくる。「おい、やんのか?」栄吉は目いっぱい強がった。
「お前高校生か?ただの族か?」無駄に元気そうな奴だなと思いながら「こちとら、族の斬りこみ隊長やってんだ!」と凄んでみた。
「元気がいいなあ。お前、未成年か?酒の臭いがプンプンするぞ」男は栄吉の肩をつかんでぐっと力を入れた。永吉は身動きが取れず、こいつは強いと、わずかに怯んだ。「なんかあったらここに連絡をくれ」男はニヤリと笑い栄吉の肩をポンと叩いて栄吉を置いてきぼりにして去っていった。名刺を見ると自衛隊山形地方協力本部『藤田ひふみ』と書いてあった。「なんじゃこりゃ?」栄吉は不思議に思いながら作業着の上着の内ポケットに名刺をしまい、何か白けて今日は家に帰ろうと、気持ちはだいぶ落ち着いていた。
 そして数日たったある日、会社を辞めてまだ腹立たしい気持ちでいると、いいことを思いついた。あの時会った男の名刺に記載されていた電話番号に電話をしてみることにした。冗談半分のつもりで「もしもし。藤田って人いる?」栄吉は出来る限りぶっきらぼうに言った。「この前、藤田さんから名刺をもらった永見って言うんだけど」
「少々お待ちください」しばらくして「もしもし藤田ですが、どういったご用件でしょうか」
「俺だよ、なんかあったら電話して来いって言っただろ」
「えーと、ああこの前酒飲んでいきがって歩いていた」
「そう、永見だよ」
「覚えててくれたんだな。それで自衛隊に興味持ったか」
「持ったつーか、あんた自衛隊なの?」とふざけている栄吉に、藤田は、はりきった声で「よし!一回君に会いに行くよ。住所と名前をフルネームで教えてくれ」とまくしたてて電話を切った。
 
 山川が帰ったあと僕は母に「最悪な気分だ」とボソッとつぶやいた。
「でもよく話を聞くといいと思うけどな、母さんは」
 「自衛隊って出来損ないが行くところだろ。僕に合う訳がない」と強く当たった。
「そんなことないわよ。自分勝手に腹をたてるのをやめなさい。」
「偉そうだな。自衛隊なんて入る気ないから」
「いいと思うけどな。与一に体力をつけて強くなってもらったら、もっと自分に自信が持てるよ」見当違いな母の意見に「僕は自分に十分自信があるけどな」と独り言を言った。家に居るのも限界を感じていたし、自衛隊なら衣食住ただだと聞いている。
「自衛隊って筆記試験と適性検査があるみたい」母が夕食を作る手を休めずに言った。
「やっぱりそうきたか」僕は想像通りの母の返答に笑い抑えるのに必死だった。
「少しは勉強をしておいたほうがいいかも」と僕に念を押した。
 それから山川は何度も家に来て僕を自衛隊に勧誘した。山川の意見に折れる頃には、外は夏の日差しが意気揚々と人々を照らしていた。

それぞれがそれぞれの不安を胸に陸上自衛隊の門を叩いたのは年が明けた一月二十七日だった。僕は宮城県多賀城駐屯地に行くため前乗りで二十六日に岩手駐屯地に宿泊した 
僕は地元の高校の同窓の金子と二戸地域事務所の山川と三人で、車で二時間かけて岩手駐屯地を目指した。 その前に家族との別れの時間が来た。母は始終泣いて会話にならなかったので由紀子に「母さんを宜しく頼むぞ。父さんにも宜しく言っといてくれ」と思ってもいないことを言った。
「うん。分かった。与一も元気でいろよ」僕は由紀子とハグをして、泣いている母ともハグをした。父は見送りに現れなかった。「じゃあ行ってきます」僕は手を振って精一杯家族サービスをした。
 先ずはどういう奴が自衛隊にやって来るのか、それだけが不安だったが、一方でどんな狂った奴らが来るか楽しみでもあった。
 岩手駐屯地に着く頃にはとっくに日は暮れていた。部屋に着くと鉄のベッドが二つあった。毛布はもうセットされていて、枕元にかけ布団が置いてあった。随分と殺風景な景色に見えた。白い壁に水色の鉄のベッド、毛布は緑色ときている。いかにも自衛隊っぽくて笑えた。
「もう食事の準備が出来ているから食べに行こう」山川の明るい声が近づいてきた。食堂に行くのか?僕は「じゃあ行こうか」と金子を目でうながした。
「今日まではお客さんだから、分からないことは何でも聞いてくれ」。腹は空いてなかったが二人で山川の後ろを食堂へとぼとぼついていった。食堂に入ると自衛官が数人いるだけだった。時間は十八時三十分を少し過ぎたばかりだったが、もう時間が遅かったのかもしれない。そう思いながら食事の乗った皿を受け取っていると「ここ、十九時までだから、とにかく早く食べよう」と山川がボソッと言った。
「えらく急かすな」と、金子と二人で目を合わせると、山川は無言でご飯を食べ始めた。山川は食べる速度が速く、何かに憑りつかれた様にご飯を食べ進め、あっという間に完食した。僕と金子は噛みしめるように食べていたが、山川の食べる速さに圧倒されて、食べるのが精一杯で、味なんか味わっていられなかった。  
部屋に戻ると何もすることがなく、金子とこれからの生活について語り合った。「訓練は厳しいと思う?」と金子が切り出す。
「僕はそうでもないと踏んでいるよ」
「いやに自信たっぷりだな。なんか根拠でもあるのか?」
「根拠も何も山川が言ってたから、信じるしかないだろ」と力を込めて言うと「そんなの嘘っぱちに決まってるよ」金子が語気を強める。
「そう思いたいならそう思えばいい」僕もそう思っていたが、今は山川の言葉を信じるしかないのだ。二人は会話が弾む訳でもなく永遠とこれからの生活の不安に打ちのめされていた。自分の思うような生活にはならないだろうと言うのが二人の出した結論だった。
二十二時の消灯ラッパが鳴った。聞いたこともない、もの悲しいメロディが部屋の中に響き渡る。ここで最低でも二年仕事をしていかなければならない「うんざりだ」さすがに僕も自衛隊に入隊したことを後悔した。これからが本番なのに、まだ多賀城に着いてもいないのに、十分自衛隊は満喫した。消灯ラッパだけで不安な気持ちにさせるなんて最悪じゃないか。金子は不安なのか何度も寝返りをうっていた。明日になればもっと良い方に向かっていくだろう。そういう思いでいたら、いつの間にか眠りに落ちていて、慌ただしい起床ラッパにびっくりして、起き上った。実にいい眠りだった。
 午前中に盛岡駅に集合し、新幹線で仙台に向かった。岩手からは、僕と金子を含めた六人で、ヤンキーらしき者は誰一人乗車してこなかった。皆、僕と同じくらいの年齢に見えた。新幹線の車窓には一面の雪景色が鮮やかだった。
重い空気の中僕らは無言で仙台を目指した。車内アナウンスが冷たく響きわたり盛岡から乗車してきた浜口二曹が話の起点を作ろうと、それぞれの顔色を窺っていた。           
 仙台に着く頃には睡魔に襲われた全員が『仙台』のアナウンスを聞いて、慌てて下車した。そこから仙石線に乗り換えて目的地の多賀城駐屯地を目指し、浜口二曹の後ろをただついて行った。昔の兵隊もこんな気持ちだったろうか?いや、昔の兵隊の方が僕らに比べたら、死ぬ覚悟を持って出兵していただろう。僕らはただの落ちこぼれで行き場をなくし野良犬のように、何かにしがみついて生きていくしかない、得てして謎の生物のようなものなのだ。
 多賀城駐屯地に着くと見るからにガラの悪そうな連中が僕らに一瞥をくれた。こちらも黙っていられなかったのか、一人がガンをとばして応戦している。僕もそれにならいガンをとばした。しかしこんな恐怖の塊のような連中には僕のガンづけなど通用する訳なかった。こいつはヤバいなという奴がもう人の輪の中心になっていて、こういう奴とは同じ部屋にはなりたくないなと内心思った。そういう自分の弱さを表に出さないように、僕は浜口二曹と堂々と語り合って泊を見せつけた。
 早速班割りがされていて、僕は一区隊四班になった。絶望だったのか、あきらめだったのか、その時の自分は若くまだ幼かったので、未熟な人間にありがちな、自己中心的な考えだったのは確かである。

永見栄吉は多賀城駐屯地に着くと気持ちが高ぶってきた。ここで三ヵ月訓練ができると思うと興奮した。藤田との約束で絶対喧嘩をするなと言われている。しかし周りの連中を見ていると誰もが族上がりのような顔をしている。
「腕が鳴るなあ」と思っていると早速向こうから喧嘩の誘いが来た。
「お前、何こっち見て睨んでんだよ。ガンとばしてんじゃねぇぞ」
「俺に言ってんのか?」
「てめぇしかいねぇじゃねぇか!」
「いい度胸してるじゃねぇか。お前をやるのに時間はかかんないんだよ」そう言って栄吉は因縁をつけてきた奴の胸倉をつかんですごんだ。
「やんのか、おら!」相手が少しひるんだ所につけこみ、栄吉はさらに相手を追いこんで殴ろうとした「そこ何やってるんだ!」と檄がとんだ。上官の拳が二人を襲う。「すみません」栄吉はすぐさま謝罪したが、相手は上官にも食い下がり、また上官に小突かれていた。その拳の強さに彼のプライドは跡形もなく打ち砕かれた。
 間もなくして、班割りが発表され、栄吉は一区隊四班に決まった。ここで問題を起こしても何もプラスにならないことは重々承知していた。悪い仲間が出来なければいいが。栄吉は一人思案にふけっていた。そんな考えをよそに、ワルそうな連中が次から次へとやって来る。ここを無事に三ヵ月で前期教育を終了出来るのだろうか?そんな先のことを考えても仕方ない。とにかく目の前のことをこなしていくしかないではないか。栄吉は決心したが、いかにも不良というタイプの新兵が栄吉に声をかけてきた。
「俺、吉田。君は?」
「永見だ。三ヵ月仲良くしようぜ」
「そうだな。しかしここは荒くれ者しかいないのか?」
「俺もさっきひと暴れして、上官に殴られたばっかりだ」
「マジかよ?荒れてるなぁ。永見君は何歳?」
「二十歳だ。君より年がいってるかもしれないな」
「俺はまだ十八歳だから君よりは若い。まあここでは年齢は関係ないと思うけどな」吉田は思案げに栄吉をみつめた。
「ここには訳ありの奴しかいないと言うことか」栄吉はそうつぶやくと、吉田が握手を求めてきたのでそれに応じて笑顔を返した。

 山田伸宏は自衛隊というとんでもない場所に足を踏み入れたことに早速後悔していた。悪人ばかりとはまさにこのことで、伸宏から見たら皆不良に見えた。しかしここで怯んでいては、せっかくの自分を変えるチャンスを逃してしまう。祖父に自衛隊を勧められて、入隊のための手続きはぜんぶ祖父がしてくれた。受からないだろうと高をくくっていた試験にも合格してしまい、みるみる入隊の手はずとなり、今日を迎えたというわけだ。そう言ったことから自らの意思で入隊した気持ちはなく、他の同期に比べたら熱量も冷めていた。とにかく祖父を恨み、今度祖父に会ったら文句のひとつでもつけてやろうと、全くもってやる気がなかった。
 班の割り振りも伸宏にはピンときていなかった。一区隊四班などと言われても、こんな悪い奴らと共同生活すると思うと怖さしかなかった。しかしここで虚勢を張らずして、どこで虚勢を張ると言うのだ。伸宏は自分を奮い立たせ、なんとかこの三ヵ月、無事に過ごせることを、神に祈るしかなかった。

 僕は多賀城駐屯地の新兵たちの異様な光景に気持ちを揺さぶられていた。あちこちで小突きあいが起きている。それを必死の体で止めに入る自衛官の人たち。僕は舐められないようにいようと堂々としていた。だから気持ちは何処か外れたところにあり、目もくらむような思いで空を眺めていた。とりあえず僕は一区隊四班を目指して移動した。
 止まらない喜びが脳天をついて、今にも目が飛び出しそうだ。どうやら部屋には班長という存在が皆と一緒に共同生活をするらしい。邪魔にならなければいいが。と思ったことを今でも覚えている。
 部屋に入り当たりを見回すと一斉に視線を感じて一人一人を確認するように見る。そしてある男のところで視線が止まった。奴だ。僕は深呼吸してどうにか奴より優位に立とうとした。すると男の方が僕の視線を感じたらしく「永見だ」と手を差し伸べてきた。「久野です。宜しくお願いします」僕は念のため敬語を使った。
「君、何歳?」永見がこちらを窺って「俺より若そうだな」と余裕の仕切りをしてきた。
「十八歳です。まだ誕生日を迎えたばかりで」
「じゃあ俺より二歳下か」
「二十歳ですか。じゃあ僕より人生の先輩だ」僕は心にもないおべっかを使い何とか永見をいい気分にさせてやった。しかし永見との出会いが僕の人生を狂わせたことは追々語っていこうと思う。
 
 僕は自分のネームがついたベッドを探した。ネームをみつけて、二段ベッドの上段に荷物を置いた。二段ベッドの上かよと思いながら下の同期になるだろう者の顔を見ると顔面蒼白な、いかにもこの場所には不釣り合いな顔をしていた。
「久野といいます」永見がやったように僕は彼に手を差し伸べた。「山田です」聞き取るのがやっとの声で対応してきた男は、気弱そうな目をしていた「何で自衛官になったんですか?」
「じいちゃんの勧めで入りました」山田はとても信じられない『じいちゃんの勧め』という単語を発した時には、僕も呆れて次の言葉が出てこなかった。
「とりあえず、宜しく」僕は自分よりポンコツな奴をみつけて、手を叩いて喜びたかった。こいつは絶対いじめの対象になるぞと思い、内心笑いが止まらなかった。「まあ気軽にやろうぜ」僕は急に自信満々になった。山田のおかげでこれからの三ヵ月を楽しく過ごせそうだ。僕はひとしきり笑いを抑えると、永見が意地悪そうな目で僕を見ていることに気づき、ハッとなって永見の視線をそらした。
しばらくして班長が部屋に入ってきた。見るからに強靭そうな体つきはいかにも自衛官らしい。
班長は佐野といい、見たところ二十五、六歳に見えた。声は荒々しく四班の一人一人の名前を読みあげた。皆、かったるそうに返事をしていたので僕もそれにならいダルそうな返事をした。「注目!今日から四班の班長を務めることになった佐野三曹だ!今日から三ヵ月間お前らをいっぱしの自衛官にするのが俺の任務だ。ついていけない奴はビシバシ鍛えあげて一人前の自衛官にしてやる。心配することはない。ここから逃げるのは不可能だ。お前らがくたばるまで面倒見てやるから安心して訓練に取り組め。分かったか!わかったら返事」佐野三曹が凄むと「はい!」という、さっきとは打って変わって大きい声が部屋に響き渡った。
「とりあえずそのうっとうしい髪を切って来ること。五厘で頼むぞ、新兵さん。散髪が終わったら班長に報告すること。バリカンは用意してあるから迷ったら俺のところに来い。すぐ五厘にしてやる。」佐野は意地悪そうに笑うと「さあすぐに行動に移せ!上官の命令は絶対だからな!」佐野は上機嫌だった。僕はあっけにとられていたが、山田は体が震えていた。この先山田はやっていけるのだろうか?しかし僕に他人を心配する暇はない。僕はすぐさま佐野のもとに行き「五厘お願いします」とゴマをするように、佐野に言った。
「久野か!よく来たな。お前が散髪第一号だ。」佐野は楽しそうにバリカンで髪を切っていった。「よし一丁上がり」ものの十分もかからずに僕は丸坊主になった。僕の切られた髪の毛が僕を興奮させた。洗面所に行って、自分の姿を見るとちょっと滑稽だった。痩せこけた頬が異様に坊主頭をきわだたせた。それにしてもこのやせ細った体はどうにかならないものか。今一番の課題は痩せ細った体を鍛えることだ。山川は自衛隊に入ると訓練の程よい疲れで、ご飯をモリモリ食べるからあまり心配しない方がいいとは言っていたが、僕の体質はそう簡単に変えることはできないだろう。色々と考えを巡らせていると、山田がスポーツ刈りになって洗面所に現れた。
「五厘じゃなくちゃダメなんじゃないの」僕は少し驚いて山田に声をかけた。
「別にいいだろ。俺は明日には自衛隊辞めるから」
「辞めることが出来る根拠がどこにあるんだ」僕は語気を強めて山田に迫った。山田は僕をかわすように髪をセットし始めた。なんとも呆れた奴だ。僕は山田を無視して部屋に戻った。永見も五厘にしている。他の連中も皆、頭が青い。班長は一人一人の頭をチェックして合格サインを出していた。部屋の中で和気あいあいと談笑していると、山田伸宏が入ってきた。髪は短いが五厘ではない。佐野がすかさず「山田二等陸士!」と語気を荒げた。
「貴様!なんだ、その髪型は!」
「こっちへ来い」
山田はそれに従い佐野のもとへ行った。佐野がバリカンを持っていて、これから五厘にされることは目に見えていた。
 山田は怯えているように見えた。人を見世物のように扱う佐野という男を許すことが出来ない様子だった。これから何が行われるのか、部屋の連中は固唾をのんでその時を待った。佐野のバリカンが部屋に響き渡ると、どこからともなく歓声が上がった。僕も盛り上がった。正直山田には同情できない。五厘にしなかった山田の落ち度は明白である。しかしここまで見世物のようなことをしなくてもいいのではないかと思った。佐野は何を考えているのか。班長として『?』がつく対応ではないかと思えてならなかった。
 佐野は躊躇なく山田を丸坊主にして満足気だった。山田は身動き一つしなかったが表情はこわばっていた。しかしここで佐野が意外な一言を放つ。
「お前ら連帯責任な」初めて聞く言葉に動揺を隠しきれない同期たちがざわついている。
「じゃあ、腕立て伏せ用意!」腕立てをするのか?僕は戸惑いながら腕立ての準備をする。山田を見て笑っているどころではなかったのだ。班長の号令に合わせて腕立てをするのは教育期間ではよくあることで、連帯責任も自衛隊ならではのものであることをその時初めて知った。佐野はすべて考えて物事を進めているのだ。これが自衛隊だというつもりなのか。部屋の連中がくたばっていくのを楽しそうに眺めている。ひとしきり腕立ての儀式が終わると、僕らは佐野に解放され、佐野は事務室に帰っていった。
 僕らが山田伸宏に詰め寄ったとき、終礼の号令が隊内に響き渡った。こうして始まった自衛隊の生活は不穏な空気を放ちながら一月のどんよりした空のように暗い影を落とした。

  入隊式を終えて、明日から本格的な訓練が始まり、今日から僕は晴れて自衛官になった。晴れの姿を見てもらおうと、家族が来た者もいれば、恋人が来た者もいた。僕は誰も来なかったが別にそれはそれで構わなかった。山田伸宏のところにも誰も来ていなかった。
 彼はあの一件以来地獄のような毎日を送っていた。制服や作業服にネームや紋章、階級章の縫製も全くできなかった。呆れて区隊付が山田に代わってそれぞれの縫製を終わらせてくれた。そのたびに僕らは連帯責任を取らされ、いい加減山田に腹を立てているものも少なからずいた。山田は部屋のお荷物になった。僕も同じ部屋の者として山田のことをカバーしたかったが、それにも限度があり僕もそろそろ山田に限界を感じていた。入隊初日に言っていた自衛隊を辞めるという野望は今のところ無謀と言わざるをえなかった。僕は僕でなんとなく、自衛隊の生活に慣れて、友達もちらほらでき始めた。永見ともそれなりにいい関係を築いていた。永見には吉田という子分的な存在がおり悠々自適に過ごしている。
 入隊して一ヶ月後に射撃訓練が行われた。初めは空砲によるものだったが次は実弾の射撃訓練という日を明日に控えていた。
佐野はその日の午後から妙にピリついてていた。前年の一九八六年に射撃訓練中に銃の乱射事件が発生した。僕もニュースで聞いたことがある。いじめが原因ということで、僕も山田に不穏な空気を感じ始めていた。山田は班のおもちゃだった。罵声を浴びせても、蹴っても山田は抵抗しなかった。
 山田がポンコツを印象付ける一件が、銃の分解結合の訓練の時に起きた。銃を分解し結合させていた山田の銃は不自然だった。佐野が不審そうに銃を調べ、山田のズボンのポケットに手を入れると、銃の部品が三つ出てきた。山田に銃の分解結合を間違うように仕向けたのはこの僕だった。だから僕は笑いが止まらなかった。
 この話は直ちに教育連隊に広がって、他の中隊の連中も山田を一目見ようと四班の部屋の入り口に人だかりができた。それを見た佐野が慌てて部屋の入り口に来て他の班の連中をかき分けて中に入ってきた。「なんだ。この騒ぎは?」佐野はだいたいの察しはついてるように見えた。
 すかさず永見が「他の隊から山田二等陸士の顔を見に来たと申しております」そして永見は佐野の耳に口を当てると「大事にならなければいいですね」と辛口を叩き佐野を部屋に残して外に出た。実際、永見は愉快だったに違いない。山田という遊び道具を与えられた上に山田は想像以上の働きをした。まるで永見の術中にはまったように山田は次から次へとやらかしていった。
 初めは楽しんでいた佐野も徐々に追い込まれていく。山田という爆弾を抱え前期教育を無事に過ごせるほうが奇跡だ。無事に済まなければ、班長という立場は危うくなりそうだ。しかしあの忌まわしい事件が起きるまで僕はひそかにこうなることを確信していた。何故なら永見と吉田が山田を殺すように誘導していたのは、この僕だからだ。

 ここまで文章を一気に書き上げて僕は目頭を押さえた。顔を洗ってすっきりしたかったので、そのあとの物語を頭の中で整理しながら洗面所へ向かった。
 鏡に映る自分を見て三十歳を目の前にしてこんなにくたびれているのかと、ため息をついた。後ろで何か物音がした。猫のシンが僕を追って部屋から来たのだろうと思った次の瞬間、僕は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃で後ろに倒れた。永見だ。彼が来たのだ。やっと来たか。「遅いよ」と僕は笑って言った。
 永見の姿を捉えたあと、僕は永見の肩に手をついて何とか立ち上がった。
「ずいぶん遅かったな。今まで務所にいたのか?」
「昨日まで居たよ。出所してお前に復讐をしに来た」
「復讐って、そんな優雅なものかね。僕は銃乱射を企んでいた山田のことをお前に教えてやっただけのことだよ」僕は可笑しくて笑いが止まらなかった。復讐なんてたいそうな。永見は黙って聞いていたが、僕の肩を鷲掴みにして「お前のせいで人生の全てが狂ったんだよ!お前が何をしたのか分かっているのか!」
「分かってるよ。僕は君の命の恩人でそれ以外でも何でもないよ」
僕がひょうひょうとしゃべるのが永見の感情に触れたらしい。僕は永見のパンチを右頬に受けた。
「山田を殴り殺したように僕も殴り殺せばいいじゃないか。吉田はどうした?務所で狂って死んだか」僕は永見との掛け合いを楽しむように、吉田の近況を聞いた。
「お前は何でも知っているな。吉田は務所に入ってすぐに山田に詫びるように首を吊って死んだよ。あいつを巻き込んだことを今でも後悔している」
全て僕のリサーチ済みの情報を永見は垂れ流しているに過ぎない。佐野に僕の住所を教えたのも全て僕の思い通りだ。そして永見が佐野に僕の住所を聞くのもシナリオ通りである。
「今日は僕を殺しに来たんだろ。殺してすっきりすればいい。僕はいつ死んでも誰も悲しむ奴なんていない」
「お前の人生も終わってんな。何のために自衛隊に入隊した」
「出世するためさ。だから僕は幹部候補生になってこの地位を築き上げた」
「自分だけ出世とは腹くそ悪い奴だ」
「君にも出世の道があったかもしれない。それを棒に振ってまで山田が憎かったのか?」
「貴様何度も何度も山田の名前を口にするな」
「おめでたい奴だ。君はこの世で一番恵まれた人生を送っているよ。山田を殺して、吉田に自殺までさせて、悪人ここに極まるとはこのことだな」
永見は無言で僕の次の言葉を待っていた。
「ここでいいことを、一つ教えてやろう。山田は銃乱射など目論んではいなかった。全て僕のでっち上げさ。僕は君が嫌いだった。威張っていて横柄で、そんな君の全てが嫌いだった。君はまんまと僕の術中にはまったのさ。驚くことではない。君を殺す。待つことはできない」
 永見が驚いた表情を見せた瞬間、僕の拳銃が永見の心臓を射抜いた。人の死ぬ瞬間を見るのは実に楽しい。これで永見を殺した。十年越しの復讐がここで完結した。僕はとりあえず精神安定剤を飲んだ。気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。そうだ、その通りだ。母さんに言われた通り、深呼吸をする。すると不思議と心が落ち着くのだ。
 永見の死体を見ながら飲む酒は美味かった。「山田の死は無駄ではなかった」そう思っていた方が僕は幸せなのだから。
 ひと眠りした後、僕は永見の死体の処理に取り掛からなければならかった。この大男を解体して岩手山のどこかに埋めようか考えていると、殺したはずの永見がこちらを見て笑っている。
「君は僕がさっき殺したというのに、もうお目覚めか」
「あいにく防弾チョッキを着ていて君の弾は僕の心臓を貫通しなかったようだ」永見は防弾チョッキに銃弾が埋めこまれているのを自慢げに見せた。
「久野。お前には地獄に落ちてもらう」
そう簡単にいくかな。僕がニヤニヤすると、永見は苛立った様子でこちらに近づいてくる。僕は迷わず拳銃の引き金を引いたが、永見の拳銃が音を立てて僕の頭を貫通した。心のどこかで死を意識しながらやっと死ぬ事が出来る。僕は疲れていたのだ。永見の復讐は成功した。永見の勝ちだ。もう僕は人生を終わらせる。短いながらもいい人生だった。できることならもう一度母さんと由紀子に会いたかった。それだけが心残りだが、僕は全て諦めた。死という極上のディナーに永見を招待したのは間違いではなかった。

久野与一が精神病院に入院して数日が経った。久野はすでに廃人なっており、二十歳でこの状態は異常に思われる。何もしゃべらず、ご飯も三口ぐらいでやめてしまう。久野はやせ細って生きているのがやっとだった。
担当医もお手上げだった。何かあると「永見に撃たれた」とわめきだし「僕は自衛隊の幹部候補生だぞ」と自衛隊のころの話をしているのか「永見!」と言ってはひとしきり暴れる。それが理由で独居房に入れられると、白い壁と対話することを余儀なくされる。
家族は面会に一度も現れたことがない。家庭もうまくいってないのだろう。久野の精神が崩壊したのも家族との不和があったからだと思われる。
久野は自分が書いたという小説をひと時たりとも離すことはなかった。自分の生きた証だという思いが強そうだ。
久野は十八歳で自衛隊に入隊し、二十歳の時に精神に異常をきたしこの病院に運ばれてきた。自衛隊の最後の階級は陸士長である。自衛隊ではどのような暮らしぶりだったのか分からないが、高校を中退したあと精神病院への通院歴があり、処方箋から見て、統合失調症と分かった。
通院していた精神病院の医院長に久野の状態を聞いても、「覚えていない。記憶にない」としか答えは返ってこなかった。家族に久野のことを聞いても「あまりあの子に接してこなかったので、いつも何を考えているのか分からず怖かった」と母親として久野に対しての愛情がなかったことがうかがえる。多分久野は孤独に違いなかった。友人関係もなかったことが分かってきた。「中隊にも友人はいなかったのですか?」そう尋ねても中隊の幹部は「分かりません」の一点張りだった。久野の交友関係を洗っても久野に対する話は誰もしたがらなかった。
一九八八年十月その日は三中隊の射撃訓練だった。もちろん久野も参加している。予定通りに射撃訓練は進み久野の番がきた。銃を構えて弾倉を装填する。的を狙って撃ったと思われる銃弾が次々と周りの自衛官に命中していく。久野の射撃の腕は確かだった。久野がひとしきり乱射した後に久野はすぐに周りの者によって取り押さえられた。微笑を浮かべた久野はただ一言「やったぞと!」と駆けつけた警護隊によってこの病院に送られてきた。
久野はそれからも自信に満ちた目で医師の診察を受けた。
「あなたはなぜ銃を乱射したのですか?」医師がそう問いかけても久野は憮然として「天命ですよ。僕には神がついているから、神の指示に従った迄です」
「あなたは特定の人を狙って撃ったのですか?」
「僕に殺された奴らは本望だったろう。そう思わないか?」と意味不明なことを言う。何が動機で何が目的かは分からない。久野を追っても、いつも久野はそこにはいなかった。まるで空気のように漂うばかりである。
翌年、久野与一は一審で死刑判決が下された。久野は上告しなかった。これで久野の死刑が確定した。
事件から十年後、久野の死刑は執行された。久野はその間も自分が書いた小説を私に送ってきた。いつも丁寧な字で『永見栄吉様』と書かれた郵便物が届く。
私が久野を追って十数年。久野のことはいろいろと分かってきたつもりでいる。久野は孤独を埋めるために自分の殻に閉じこもり、けして自分の殻を破ることなく死んでいった。私も前期教育のとき久野の危うさに薄々気づいていた。そして私に対する恨みは相当大きなものだったことも久野の小説を読めば一目瞭然である。久野が死んだ今、自衛隊の闇を暴くのはそう簡単なことではないだろう。しかし自衛隊の闇を掘っていかなければ、これからもあらゆる事柄の事件がおこるはずである。
「久野の死は無駄ではなかった」いつかそう言える日が来ることを私は願っている。私は久野の短い一生を完成させる責務がある。私は彼の生涯を悲しいだけの物語にはしたくない。そう思いながら彼の写真を眺めた。

久野の死後その小説は家族が引き取ったが、その後どのように処理されたのかどうか今のところ分かっていない。