鉛色の空に一筋の稲光が走ったと同時に、爆音が都会のビルの谷間に響き渡った。さっきまでカンカン照りの青空だったのが俄かにどす黒い空に変わっていた。生暖かい風が、埃と塵が混じったような雨の匂いと共に突風になってビル街を吹き抜け、間髪を入れずにバケツの水をひっくり返したような大粒の雨が降ってきた。

 「しまった、傘を忘れた!」

 タイの4月は暑季といわれ、一年で一番暑い季節だが、タイの正月と言われるソンクランの前後で、天候が不順になり雨季の気配をのぞかせる。都会の日中の体感温度は40度以上の日が続き、タイ人でさえ暑さでうんざりする時期でもある。朝から気温が急上昇し、屋外にいたら眩暈がするほどの暑さだが、空が俄かに曇り始め雷雨に変わる、所謂、南国特有の熱帯スコールだ。この時期はまだ本格的な雨季ではないが、高温で湿度の高い日には短時間で激しい雨に見舞われることがある。

 特にバンコクなどの都市部では、大量の降雨による洪水が発生し、悪名高きバンコクの通勤時間帯の渋滞に追い打ちをかける。すべての交通機関が麻痺してしまうほどで、様々な経済的損失も引き起こす大きな社会問題となっているが、現在でも決定的な解決策は見出されていないようだ。 

 ずぶ濡れを覚悟した泰地は通りに出て歩き出したが、わずか数メートル行っただけで、水色のシャツが紺色に変わるほどびしょ濡れになった。

 「最悪だな……」

 しかし、泰地はクワンとの乗馬の約束ができたとことに喜びを感じて、ビルのガラス窓にフラッシュのように反射する稲光も、泰地の眼には新しい舞台のフラッシュライトのように映り、都会の空に轟く雷の音も、これから始まる旅物語の感動のファンファーレに聞こえていた。

 勢い走り出し大使館に戻ると、守衛の一人がずぶ濡れの泰地を見て慌てて門を開けた。大使館の中庭には、南国の樹々が大都会の森のように植えられていて、排気ガスで汚れた木の葉がいつもより鮮やかな緑に見えた。

 一方、クワンはソンクランの長期休暇を前に、旅行の予定よりも先に仕事の調整に大忙しだった。例のプロジェクトのメンバースタッフとの確認作業や、休暇中の緊急事案に備えて細かい指示を入念に行った。

 このソンクランという時期だけは、タイの正月ということもあり、タイ全土にわたる大型連休となる。日本で言う正月三が日のような年末年始の休みで、娯楽施設やサービス産業以外は、ほとんどの企業などが一週間程度の連休となる。しかし、クワンは仕事が気になるのか、他の社員は一週間の休みを取るのに、自分だけはわずか三日間の休暇申請を出しており、一日でも早く仕事に戻ろうと考えていた。

 同僚のトーイがオフィスで慌ただしく動き回っているクワンに近づいて言った。

 「クワン、顔が引きつっていると思ったら急に笑ったり‥‥‥一体どうしたのよ?」

 泰地に会ってからというもの、クワンは仕事中にオフィスから遠くを眺めながら、一人でにやついているのをトーイに見られていたのだ。気になっていたトーイが我慢できずにクワンに訊ねたのだ。

 「なによ? なんでもないわよ‥‥‥」

 照れを隠すように机の上の抹茶ラテのストローに口をつけた。

 「もう氷しか残ってないわよ」

 何かを見透かされたかのようなトーイの一言でクワンは顔が火照っているのが恥ずかしくて、

 「なんでもないよ、さぁ会議の準備をしましょ!」 

とそそくさと席を立って行った。

 今度の休暇はクワンにとっても大切な休みでもあった。二年も実家の母親の元へ帰っていないのだ。仕事に明け暮れ、忙しい毎日を過ごしていたクワンは、長い間母親に会っていなかったことを気にかけていた。時々電話で話す程度だったが、病弱の母親のあまり元気のない声を聞く度に、休みが取れたら実家に帰って母親の顔が見たい、と思っていたのだ。また、久しぶりに実家に戻って大自然の中で大好きな乗馬を楽しめるとあって、彼女の心は既に実家の緑と澄んだ空の懐かしい風景を想い浮かべていたのだ。

 それに今回は、ひょんなことから出会った、佐藤泰地という日本人の青年医師と一緒に馬に乗るという約束もあり、クワンは微妙な興奮と緊張から、なにか特別な休暇の旅になるのではないかと感じていた。

 クワンは朝暗いうちから家を出た。バンコクの都内の渋滞を避けるためでもあったが、それ以前に、久しぶりに母親に会いに実家に戻れることの興奮から自然に早く目が覚めてしまったのだ。タイは都会を少し離れると、郊外にはまだ田んぼが残っていて、まるで数十年前の過去にトリップしたような緑豊かな風景が見えてくる。

 クワンは車内に流れる大好きなカントリーソングに合わせてハンドルでリズムを刻んだ。田舎に続く高速道路はまだ休日の渋滞が始まらないせいか、クワンは気持ちのいい曲に合わせて鼻歌を歌い故郷を目指した。だが内心、母親は本当に元気なのだろうかと、久しぶりに会ってどんな言葉をかければいいのかと、前方に見えてきた有名な寺の大きな黄金色の仏塔に個々の中で手を合わせた。

「泰地に会うのも楽しみだわ」とクワンの顔に微笑みが浮かんだ。

 久しぶりの田舎の実家への運転だったが、時間が一瞬だったかのように感じた。高速を降りて実家へ続く街を通り過ぎる。懐かしい田舎の空気が彼女を包み込んだ。都会から見放された古い商店が並び、幼い頃に両親とよく食べに来たカオマンガイの店の主人は、もうお爺ちゃんになっているが、相変わらず盛況で客が入っている。街の唯一の銀行も郵便局もそのままだったが、新鮮な野菜や果物を売っていた老夫婦の店は、いつの間にかコンビニエンスストアになっていた。クワンは少し残念に思いながらも、呟くように言った。

 「時代は変わるのよ、私も変わるのよ‥‥‥」 そしてふぅーっと息を吐いた。


 自宅の前で待っていたのは、幼馴染のマリサだった。彼女は満面の笑みでクワンを迎えた。

 「クワン!久しぶり!」

 「マリサ!元気だった?」

 二人は数年ぶりに再会し、まるで時間が止まっていたかのように暫くの間、昔話に花を咲かせた。

 「バンコクの暮らしはどう?仕事は順調?」

 マリサへ満ち足りた都会での生活を自信満々に答えようとしたが、何故か言葉に詰まってしまい、

 「う、うん、まぁまぁ楽しくやってるよ‥‥‥」 

となんとなく気の抜けた返事になってしまった。

 「ふーん、そうなんだ」とマリサは軽く相槌をうった。

 近所に住むマリサとは幼稚園からの幼馴染で、米や香辛料を売る商店の娘で、クワンの両親の店とも取引があった。そのため、マリサとクワンは自然と親しくなって二人でよく遊んだ。今では両親から引き継いだ店を一人できりもみしており、クワンが里帰りすると聞いて彼女の帰宅を待ち受けていたのだ。

  「お母さん、クワンに会うのをすごく楽しみにしてたよ。最近は少し体調が良くなってきたみたいで、顔色も良くなってきたよ、さぁ、車から降りて!」

 クワンは安心し、胸を撫で下ろした。

 玄関から母親がゆっくりと出てきた。クワンは急いで車から降り母親に駆け寄った。

 「お母さん!元気だった?」

 「クワン、よく帰ってきたね、元気そうでなによりだわ」

 クワンの母親は、裏の畑で採れた緑豆を一杯に入れた竹かごを抱えている。今日、娘のクワンが帰省してくることを知って緑豆を使って娘の好物を作ってあげようと、朝から自宅裏の畑で収穫してきたのだ。

 「久しぶりだから、今日はあなたの好きなお菓子を作ってあげるね」

 母親の優しい笑顔に、クワンの目から涙がこぼれ落ちた。マリサからは時折メールで知らせがあって、母親の具合がよくないことを知っていた。母は若い頃から心臓が悪く、時々通院することも多く、田舎では都会のような専門医が常駐する総合病院がなく、母に万が一のことがあってはと心配せずにはいられなかった。

 その夜、久しぶりに母と二人だけで食事をとりながら、クワンのバンコクでの仕事や暮らしについて、忙しいながらも充実した生活を送っていると語った。しかし、クワンは母の病気の治療にバンコクへ連れて行き、私立病院で診てもらった方がいいとは言い出せなかった。故郷の実家を離れたがらない、母の頑固な性格を知っているクワンは、もしこのことを言い出せば母親と口論になるのは間違いなかったからだ。

 母はクワンが幼い頃、父である夫を交通事故で亡くしてから、一人で家業と娘のクワンを育てて来た。気丈な母の性格から娘に世話になりたくはなかった。クワンはなるべく母の病状のことをあれこれ訊くのを避けて、愉しい話題に絞って楽しい会話を心掛けていた。

 「あなたが幸せならそれでいいのよ、母さんのことは大丈夫、近所の人たちが優しいからなんかあっても助けてくれるわよ」

 強気な母の言葉らしく、それが逆にクワンの気持ちを重くするのだった。

 携帯のメッセージは泰地からだった。(先ほど到着しました。明日、楽しみにしていますー)と短いメッセージが来てクワンの心に少し火が灯った。クワンは話題を変えて言った。

 「明日ね、バンコクで出会った日本人の方と一緒に乗馬に行くの」

 「え?日本人?あなたに日本人の友達なんかいたの?」

 母は不思議そうな表情でクワンに訊いた。

 「あなた、学生時代は英語の勉強が好きだったし、観るのは洋画だったし、留学生の西洋人の友達もたくさんいたのに、なぜ日本人なの?」

 別に日本人が好きになったわけでもないし、にわかに日本文化に興味を持ったということでもない。これまで日本という国にはあまり好感がもてなかったし、自分の国に多くの日本企業が進出して来て、日本ブランドが身の回りに溢れている、それでも特に日本が好きになるという感情は沸いてこなかった。

 それは、特に過去にタイをも巻き込んだ戦争の歴史ではなくて、クワンのオフィスビルにある日本料理屋などで見かける、日本企業のビジネスマンたちが暑い中、皆同じ色のスーツを着て同僚や上司と集団で同じもの注文し、やたらに上司に頭を下げているのを見て、なんだか可哀そうな人たち、くらいにしか思っていなかった。クワンのオフィスの同じ階にある日本企業のオフィスでも、毎晩遅くまで残業をしている日本人をよく見かけていた。

 クワンは残業と生産性は必ずしも一致しないと考えるタイプなので、毎日遅くまで会社にいる日本人を仕事中毒だと半ば軽蔑していたが、自分にもその傾向があることに少しの衝撃を覚えることもあった。しかし、そうした日本人の仕事に対する勤勉さや責任感に対し内心尊敬の念を持っていたが、この一人の青年の泰地という日本人に馬以外の共通点があるとは夢にも思っていなかった。 

 「日本人‥‥‥いいわね」 そう言って台所へ歩いて行った。

 そういえば家に着いた時から、台所の方から甘くて香ばしい匂いが漂っている。母が畑で採ってきた緑豆を昼の間に煮ていたのだ。裏ごしをした緑豆を大きな器に入れて台所から持ってきた。

 「これ、明日のおやつに持っていきなさい‥‥‥」 と小さなスプーンで一さじ掬ってクワンの口へ運んだ。

 「あまーい、母さんの作る緑豆のお菓子は最高だから楽しみにしてるわ!」

 クワンは母親が小さいときから家で作ってくれた、タイの有名なお菓子『カノムピア』が大好きだった。カノムピアというのは、歯触りの良いパイ皮の生地に、緑豆の餡が入った一口サイズの饅頭菓子のことで、緑豆のほかにも黒豆や、小豆、パイナップルやドリアンを漉したのが入っているものもある。母親はクワンが緑豆の餡が一番の好物とあって、この日に合わせ腕を奮っていたのだ。

 父を亡くしてから、母は父の製菓業を継いで、実家の畑で採れるバナナやマンゴー、パイナップルなどを使ったお菓子やスイーツを街のスーパーや商店に卸す商売をしていた。

 タイと言えば、唐辛子をふんだんに使った辛い料理で有名だが、一方、タイのお菓子やスイーツと言えば、ココナッツミルクやもち米、果物などを材料として色鮮やかで、料理の辛さとは正反対の強烈な甘さのお菓子やスイーツがあり、タイ人の心をつかんで離さない。

 母は、過労から心臓を患い、時々仕事を休むことが多くなったが、娘の仕送りもあり身体の調子の良いときはお菓子を作って街へ売りに行くのだった。

 「日本人と言ったわね?日本、日本‥‥‥そうだわ、”あれ”にしましょう」

 母は意味深ににんまり微笑んで台所へ消えた。

 「母さん、”あれ”ってなに?」

 クワンが気になって母に問いかけたが、台所にいる母はその声が聞こえないかのように、クワンは聞いたことのない、ある日本の軍歌の一小節を母は口ずさんでいた。

 ♪お前の背に日の丸を 立てて入場この凱歌…

     兵に劣らぬ天晴あっぱれの 勲いさおは永く忘れぬぞ‥‥‥♪

 今度は台所から餅米が蒸ける匂いが漂ってきた……