ジャングルの赤土の道を小一時間走り、前線の現場に到着した泰三は、その修羅場のような光景に絶句した。

 衛生兵たちに導かれ仮設の野戦病院、といってもニッパ椰子で屋根を葺いただけのテント小屋のようなところに、多くの兵士たちが竹で作ったベッドに横たわり、苦しみの声を漏らしていた。ある者はうつろな目で高熱にうなされ、汗まみれで呻き声を上げ、またある者は伝染病による栄養失調のために、骸骨のように頬が削げ落ち、全身に骨が浮き出しているように、ほとんどの者がもがく力さえないように痩せ衰えていた。

 「これは…ひどい」 泰三は顔をしかめながら、目の前の光景に言葉を失っていた。

 衛生兵のほかに、地元のタイ人の女性たちも加わり懸命に対応していた。地元の言葉で日本兵士の病人に何か話しかけているが伝わっているのか、病床に横たわったまま、上を向いて微動だにしない若者は既に息を引き取っていた。遺体に手を合わせていた一人のタイ人の女性が、手にブリキのバケツと布切れ一枚を持って泰三の前に出てきた。

 「軍医さん、今はこれだけしかないんです、薬がないとこの人たち、みんな死にます!」

 有志で手伝いに来てくれている近くの村人の女性が数人、病人の汗を拭きながら、お粥のようなスープを病気の兵士の口に運んでいる。ところどころで息絶えている兵士の横にしゃがみこみ、両手を合わせすすり泣いている女性もいる。

 泰三は一人の兵士のベッドに近づいた。その兵士は顔色が土色に褪せ、体力が尽き果てたかのように見えた。頬はこけ、あばら骨が剥き出している。栄養失調に伝染病に罹っている。泰三が近づくと兵士は消え入りそうな声で言った。

 「軍医さん、お願いです…この痛みを…どうにか…」 泰三は拳を握りしめた。

 「しっかりしてくれ。すぐ診てあげます‥‥‥」

 とはいうものの、薬やワクチンなど、治療に必要な抗生物質や解熱剤さえほとんど揃っていなかった。

 「一体どこから手を付ければいいのだ‥‥‥」 

 泰三は、他の地域からも派遣されてきた軍医とも話し合い、時すでに遅しではあったが、改めて感染拡大を防ぐための指示や指令を衛生兵の一団に出し続けた。また、連合国軍の捕虜たちも相当数の病人が出ており、捕虜施設での治療も困難を極め、捕虜の中にいるランディ軍医がかろうじて対応しているが、泰三には目の前に横たわる多数の日本兵を治療するだけで手が一杯になる。

 泰三が来てから状況は一向に改善する兆しを見せなかった。毎日、新たな感染者、重篤者が増え続け、衛生兵も地元の支援者たちも疲弊していき、感染を恐れて地元の女性たちはぱったりと来なくなった。夜になり、野戦病院のテントの中は薄暗く、かすかな明かりの中で医療活動が続けられた。デング熱を媒介するヤブ蚊の進入を抑えるため、テントの周囲に蚊帳を張り巡らし、日本の蚊取り線香や檸檬草を束ねて置いて蚊との戦いでもあった。

 「佐藤軍医殿、これ以上、医療物資が足りなければ病人を救うことはできないであります‥‥‥」

 泰三は苦悩の表情を浮かべながら、

 「それは私も承知している。明日、上層部に追加の物資と支援を要請する。君ももう休んでくれ……」

 疲れと不安が浮かぶ若い衛生兵の顔を見ながら、泰三は小さく微笑みを浮かべて言った。 

 「私たちがここで倒れたら、誰も助けられない。何とかしなければ…」

 その夜、泰三は部隊の司令部に緊急の連絡を入れ、追加の支援を要請したが期待はできそうにない。この地での伝染病との戦いは、銃や爆弾の不足以上に厳しいものであることを痛感していた。戦況はますます悪化し、噂では硫黄島が陥落し、日本本土への空襲爆撃がいよいよ始まると、さらに泰三の不安を掻き立てた。

 この鉄橋が完成し、ビルマまで鉄道を開通させたとしても、肝心の祖国が滅びたら意味がないではないか!それにこの病人の数、無数の遺体、こんな無謀な建設は一刻も早く止めなければ‥‥‥

 南国の雨季が終わりに近づいたと言え、ジャングルの熱帯雨林での突貫工事はますます悲惨な状況となってきた。川が増水し、膨大な水量が線路の枕木を流し、作業は遅々として進まぬばかりか、病人の数が増大するばかりだった。そしてこの時期を狙って連合国軍の周辺の鉄道施設への執拗な爆撃が始まった。

 泰三は大きな河に架かる鉄橋の建設現場に近い野戦病院にいた。次から次へと運び込まれる病人の症状をほぼ絶望的な面持ちで診ていく。現場で指揮を執っている中年の将校だろうか、立派な口ひげを生やし腰には軍刀を下げた男が高熱にうなされながら運ばれてきた。

 「畜生、敵を一人も殺さずに俺が先にくたばっちまうのか、畜生!」 

 譫言なのかそのまま目を瞑ってしまった。

 泰三は将校の脈を取り、額に手を当てて熱を確認した。

 熱がひどい…これはマラリアかデング熱か、どちらにしても緊急の治療が必要だったが、肝心の医療物資の緊急依頼が滞っているのか、彼の手元には充分な薬が届かなかった。

 その時、一人の衛生兵が駆け寄って泰三に敬礼をして言った。

 「佐藤軍医殿、新たな補給物資が到着しました。しかし…」

 「しかし、どうした?」 

 「量が非常に少ないのです。これでは全員を救うのは難しいかと…そして‥‥‥」

 「そして、どうした?早く言ってくれ!」 衛生兵は敬礼をしたまま、

 「この手前の線路が連合国軍に爆破されてしまい、物資を運んでいた貨物列車が脱線したであります!」

 泰三は苦悩の表情を浮かべながらも決意を固めた。

 「とにかく、今あるだけの医療物資をすぐに運び込んでくれ。そして、最も重症な患者から優先的に使うんだ!」

 衛生兵はうなずき、「はっ!」 と敬礼を解いて動き始めた。

 夜が更け、テントの中は薄暗いランプの光だけが頼りだった。疲労とストレスが重なり、目の前の景色がぼやけることもあったが、目の前の仕事に集中しようとした。その時、ふと彼の脳裏に浮かんだのはマリーの顔だった。あの優しい笑顔で大福餅を渡してくれた日のことを想い出していた。そうだ、ここで自分が諦めてはいけない、一人でも多くの者を救おうと頬を叩いて自分を鼓舞した。

 ある夜、一人の若い衛生兵がテントの中にいる泰三に声を掛けた。

 「佐藤軍医殿、今日は星がとてもきれいですよ」

 疲れ切った泰三には予期せぬ衛生兵からの言葉だった。衛生兵は沢田と言った。泰三より少し若い青年だ。

 外に出ると、満天の星空が広がっていた。南の空に十字星が輝いている。しばしその光景に見とれ、心の中に一瞬の静けさを感じた。「この戦争が終わったら…」そんな思いが頭をよぎった。

 「佐藤軍医殿、満天の星空ですね、ああ、早く日本に帰りたいです‥‥‥」

 沢田は天を仰ぎながら言った。

 泰三は沢田の言葉に少しの間、無言で応じていた。

 「そうだな、沢田君。俺も同じだ。早くこの戦争が終わって、みんなが無事に帰れる日が来るといいんだが‥‥‥」

 沢田は深くうなずき、ため息をついた。

 「自分は家族に会いたいです、特に母親に…。手紙は何通か送っていますが、ちゃんと届いているかどうか…」

 泰三は沢田と同じ気持ちだった。日本に残した両親と妹のことを思うと心配になった。しかしそれ以上に泰三の心を癒してくれているのは、マリーのあの屈託のない優しい笑みが恋しく思った。今は彼女の住む地域が爆撃の被害に遭わないことを祈っている。

 二人はしばらくの間、無言で星空を眺めていた。

 「それにしても、この南の空に輝く十字星は美しいなぁ‥‥‥」 泰三が静かに言った。

 「ええ、こんな場所でも、こんなに美しいものを見ることができるのですね。戦争が終わったら、もう一度平和な空の下で星を見たいです、そしてできればまたこの国に戻ってきたいです」

 泰三は沢田の最後の言葉に驚いて「えっ?」と訊き返した。

 「見ての通り、自分は体力だけが取り柄の隊付衛生兵です。元は陸軍輜重兵しちょうへいであります。この国の人たちに舗装道路や、頑丈な橋を作ってあげたりしたいです‥‥‥」 

 沢田はそう言って大きな力こぶを作って泰三に見せた。

 「佐藤軍医、この近くには天然の温泉が湧き出ているんですよ、ご存知でしたか?」

 「温泉? 本当にあるのか? あったら行きたいな」 泰三は沢田の冗談と思い鼻で笑った。

 「はい、あります、数年前にビルマ国境のジャングルの中で、わが軍の先遣隊が発見した温泉があります」

 沢田は自信ありげに言った。

 「そうか、それは上等だ、戦争が終わったら連れて行ってくれ‥‥‥」

 「もちろんです、一緒に温泉にでも浸かってのんびりしたいですね」 と白い歯を見せた。

 この若い衛生兵も前線へ派遣されて来るまでは、この南の異国で様々な体験をしてきたのであろう。まるで自分の進むべき将来が見えているようで、目をキラキラさせて戦争が終わったあとの夢を語る姿に羨ましさを覚えた。

 「ああ、マリーの大福餅が食いたい‥‥‥」 泰三は小さな声で呟いた。

 「佐藤軍医殿、今なんとおっしゃいましたか?」 

 沢田に聞こえてしまったのか、泰三は少し恥ずかし気に、

 「いやぁ、こちらに来る前にあるタイ人の女性から大福餅をもらってね、その味が忘れられなくて……」

 泰三は照れ臭そうに頭を掻きながら、沢田にこれまでのことを話した。

 「いい話じゃないですか、僕は好きですよ、大福餅・・・ああ、そしてそのマリーさん、きっと佐藤軍医のことが好きなのですよ‥‥‥」

 沢田の上官の泰三を少し揶揄うような言葉が図星だった。


 泰三は少し胸に明かりが灯ったような温かさを感じた。マリーに乗馬を教え、亡きタムの後、巧みに「サクラ」を乗りこなし助手として泰三の仕事を手伝ってくれたこと、そして美味しい大福餅を持って駐屯所へ差し入れに来てくれたことが遠い昔のように思い出される。

 タイの伝統行事のロイクラトン(灯籠流し)へ誘われた時の、タイの伝統衣装をまとったマリーの愛らしい姿が脳裏に浮かぶ。バナナの幹を切って芭蕉の葉や、蘭の花で飾った灯籠の上にロウソクと線香を立て、二人分の灯籠を持って微笑む姿が忘れられない。

 「佐藤軍医殿も‥‥‥彼女のことがお好きなのでは?」 と泰三の心を読むかのように尋ねてきた。

 「いやぁ・・・なにも、そんなことはないよ。君こそ、どうなんだ?」 

 泰三は少し狼狽えたが逆に沢田に切り返した。

 「はい、私には日本に好きな人がおります。生きて帰れたら結婚を申し込むつもりであります」

 沢田はきっぱりと胸を張って嬉しそうに言った。

 「沢田!生きて帰ろう!生きて!死んだら好きな人に会えないじゃないか!」

 泰三は少し声を荒げて沢田の腕を拳骨で小突いた。

 「はい、そ、そうです!必ず生きて帰ります‥‥‥佐藤軍医殿も‥‥‥では失礼します!」

 沢田はきびきびした敬礼をし、踵を返しテントへ戻って行った。

 「そうだな‥‥‥好きな人のためにか、そうだな‥‥‥」 泰三は溜息交じりに呟いた。

 南の空に輝く十字星がオレンジ色に染まり、遠雷のような連合国軍の爆撃音が聞こえた。川を挟んだ反対側には連合国軍の捕虜の宿泊テントあり、底からは歓声があがっていた。連合国軍の爆撃がすぐそこまで迫ってきている、胸を突き刺すような不安が脳裏を横切った。爆撃のあった地域はマリーの住む村の方角だった。

 泰三は、マリーへの気持ちを胸にしまい込もうとした。日本の軍人としての責任や、立場によってその気持ちを正直に表せない内心に苦悩していた。しかし、どうしても今、彼女のことが脳裏をめぐり複雑な感情が浮かんでくる。一人の男として、自分の心に素直になれれば、今すぐにでも彼女の元へ駆けていきたい。この強い感情は、軍規や戦争の現実を考えると行き場のない虚しさを掻き立てた。

 泰三はテントの外で大きなタマリンドの木の幹に寄りかかり目を閉じていた。

 「佐藤さん、私と一緒に日本へ帰りましょう、そして‥‥‥」

 「いや、私はあの、その、日本の軍人でありますから‥‥‥」

 「佐藤さんの気持ちを知りたいのです‥‥‥」

 「‥‥‥」 泰三の言葉が途切れる。彼は気持ちを言葉にすることができない。

 マリーはうつむく泰三の表情を見て、微笑みながら手を取った。

 「佐藤さん、大丈夫です。私はちゃんとわかっています‥‥‥」

 「何をですか? 何を!」 泰三は声を少し荒げてマリーの腕を掴んだ。



 「佐藤軍医、佐藤軍医殿!」

 泰三は、はっと我に返った。気が付くと先ほど別れた沢田が泰三の腕を揺らしていた。

 「佐藤軍医殿、明日の午後、バンコクから医療物資の追加支援が届くとの知らせがありました!」

 泰三は我に返り、その報告を聞いてわずかな希望を感じた。

 「これで少しは重病者を救えるかもしれないな‥‥‥」

 夜明けから降り続く雨が止まず、野戦病院の前の道も洪水のように泥土が渦を巻き、朝からどす黒い灰色の空が天を覆っていた。すぐ近くの鉄橋の建設現場で数人の日本の兵士が連合国軍の捕虜たちに向かって、銃剣を上げて大声で叫んでいる声で目が覚めた。

 「スピード!スピード!早くしろ!早くしろ!」

 泰三は、しきりに怒鳴り散らしている捕虜収容所の監視兵を睨みながら、それしか言えないのかと呆れていた。ちょうど連合国軍の捕虜の作業を見守っているイギリス人のランディ軍医と目が合い、帽子のつばに手を掛けて軽く会釈をした。

 やはり医者としての立場からか、この過酷な状況のやるせない気持ちが通じ合ったのかもしれない。ランディ軍医は力なく右手を上げて挨拶をした。

 この土砂降りの南国のスコールの中での作業は遅々として進まず、滝のように流れてくる土砂や雨水が作業を遮り続ける。捕虜の数人が崖から滑り落ちていく。

 日本の兵士はまたも大声で「馬鹿野郎!何をしてるんだ!」と叫ぶや否や自分も足を滑らし川岸まで滑り落ちていった。泰三は「ふぅ、やれやれ‥‥‥」と大きく息を吐いてテントへ足を向けた。

 支援物資が届くその日の午前中に、泰三は衛生兵の沢田たちと全力で患者たちの治療に専念した。夕方までには抗生物質や解熱剤、消毒薬など、必要なものが揃うはずだ。

 「これでようやく…」と沢田と安堵の笑みを交わした。

 その時、一人のタイ人の特技兵が現れ、

「軍医さん…先日はありがとうございました…」と両手を合わせかすれた声で二人に礼をした。

 測量技師のワンロップはタイ人の工兵で、先週40度を超す灼熱の中で、鉄橋の橋桁付近の作業中に卒倒し、川に浮いているところを助け上げられたが、熱中症による心肺停止状態だった。沢田は部下と共にワンロップの身体を引き上げ、すぐに泰三を呼びに遣った。彼は心肺停止状態だったが、泰三はもう誰も死なせたくないと、意識のないワンロップを川岸の草むらに寝かせ、懸命に心臓をマッサージし続けた。泰三の額からは滝のように汗が流れ、息があがり自分も倒れそうになるくらいだった。

 「戻って来い!おい、おい!」 

 泰三は息を切らしながらも、タイ人の若い工兵の胸を押し叫び続ける。

 沢田が叫んだ。

 「佐藤軍医、ワンロップが息を吹き返しました!」 

 様子を見守っていた衛生兵たちに安堵と喜びの声が上がり、我に返った泰三はふぅーっと大きく息を吐き、その場に大文字にひっくり返った。

 ワンロップは当時のことを振り返り、深々と頭を下げ泰三と沢田の手を交互に握り、「ありがとう、ありがとう」と何度も言った。

 「もう役目は終わりましたよ、おうちに帰って家族と共に過ごしてください‥‥‥」

 泰三は静かにそう言って彼の肩を叩いて別れを言った。

 「我々もいつかは役目も終える日が来るのだろうか‥‥‥」 と沢田と目を合わせた。
 

 医療物資を積んだ貨物列車は既にバンコクを出発し、あと数時間すれば届くと上層部から情報を得た。泰三が衛生兵たちと物資の到着を待ちわびている間、雨は止むことなく降り続いていた。雨はジャングルのあらゆる生命を潤し、雨音は大海原の波のような音を立てて降りしきる。テント内では、負傷兵たちが薄い毛布にくるまり、疲れ果てた表情で眠っていた。泰三は彼らの顔を一人一人見渡し、

 「みなさんを日本へ帰してあげます、もう少しの辛抱です!」 

 泰三は自分に言い聞かせるように言って廻った。

 泰三は同時に故郷の家族の顔と、マリーの笑顔を思い出した。戦争が終わったら、自分も日本の家族の元に帰りたい。だが、やはりマリーのことが頭から消えない。泰三は考えるのを止めて目の前に現実に集中しようとした。

 その時、背後から声が聞こえた。

 「佐藤軍医殿、雨が止みそうですよ‥‥‥」 

 雨は小降りになり、テント脇のバナナの木の大きな葉の下で、煙草を燻らせていた沢田が笑顔で話しかけた。

 「そうだな、そろそろだな‥‥‥」 

 泰三も笑顔を返し、二人はジャングルの森で、タイ語で「ウンアーン」という、男のこぶし大の巨大なジムグリガエルの重奏をしばし静かに聴いていた……