その日は、畑の土から湯気が上がるくらいの記録的な猛暑だった。
「それにしても、あちーな」
 六年ぶりに日賀村に足を踏み入れた清野聖は、文句を言いながら太陽のじりじりとした日差しから逃れるように足早に農道を歩いていた。
 
 聖は、高校に上がる時に父親の仕事の都合でこの村から東京に引っ越している。
 親戚は今もこの村に住んでいるので、両親を通して日賀村の近況は彼の耳にも時おり入って来ていた。
 といっても、世の中の流れから取り残されたような村なので、話題は誰それの家で子供が産まれた、または亡くなった、といったくらいのものであった。

 大学生の聖は夏季休暇の真っ只中であり、共に仕事で忙しい両親からの言いつけで葬儀に参列するために日賀村を訪れていた。
(まあ、学生で養ってもらってる身だし親には逆らえないよな……)
 せっかくの休みにわざわざこんな田舎に来るのは正直気が進まなかったが、大学の高い学費を払ってくれている両親には頭が上がらず従うしかなかった。
 聖は、おぼろげに記憶にあった日賀村の風景と全く変わっていない事に驚きを覚えながら、段々畑と民家の間を歩いて高台を目指した。
 
 額に汗をかきながら、高台にそびえたつ大きな屋敷の門をくぐると、一人の若い男と目が合った。
「おい、聖か。久しぶりだな!」
 白井家の屋敷の前で煙草を吸っていた男が、聖を見て驚いた様子で声を掛けてくる。
「将太か、相変わらずだな」
 最後に会った中学生の頃から、そのまま背丈だけ伸びた様な蔵元将太の姿を見て、聖は驚いた。
(人間こうも変わらないものか)
 将太は、屈託のない笑顔で日に焼けた顔をほころばせている。
「東京に引っ越してすっかり垢抜けちゃって、この男は」
 将太は、久しぶりに会ったにも関わらずに、遠慮なく聖の脇腹をぐいぐいと肘で突いてきた。
「それにしても、白井の爺さまが亡くなるとはな」
 聖は記憶の中の、武士のように着物を着こなす精気に満ち溢れた老人を思い出していた。威厳を感じる厳つい風貌であったが、案外子ども好きなところがあり、聖も可愛がってもらった記憶があった。
「もう80を過ぎていたからな、充分生きただろ」
 感傷に浸っている聖を他所に、将太は煙草をくゆらせながら笑い飛ばした。


 聖は将太と連れ立って白井家に入ると、受付で記帳を済まし両親から預かっていた香典を渡した。
 参列者が並ぶ大広間に通されると、そこには既に多くの人がいてその中には懐かしい顔ぶれもあった。
 白井は日賀村の名家であり、その主が亡くなったとあって、葬式にはほぼ村中の人が訪れていたのだ。
 そして、将太と一緒にいる聖の姿を見て、何人もの人が声を掛けてきた。
「聖ちゃんね、こんなに大きくなって。今日はご馳走作ってるから楽しみにしててね」
 その中には、今晩家に泊まらしてもらう親戚の春子叔母さんの姿もあった。
「お久しぶりです。一晩お世話になります」
 朗らかでいつも笑顔の叔母の事が聖は幼少期から大好きで、久しぶりに会う照れくささもありながら頭を下げる。
 
 しばらくして葬式が始まると、大広間にお坊さんの低い御経を読む声と木魚の音が響き渡った。
 その抑揚のない一定のリズムに眠気を感じたが、聖は必死で耐えてなんとか前方を見続けた。
 すると、鴨居の上に並ぶ一族の遺影の最後尾に、場違いのように一際若い少年の写真が飾られている事に気が付いた。
 聖は、なぜかその少年のことが気にかかり、葬儀が終わるまでずっとその遺影を眺めていた。

 やっと全員の焼香が終わり、参列者が続々と大広間から出ていく中で、聖は気になっていた少年の遺影について将太に聞いてみた。
「なあ、あの男の子ってさ……」
「ああ、白井の爺さまの孫の裕介だろ。お前、仲が良かっただろ」
 聖は、将太に言われて初めて小学生の時の記憶がおぼろげに蘇ってきた。
 小学校高学年くらいの、どこか気品のある色白で面長な祐介の顔が思い浮かんだ。
(仲が良かったはずなのに、今の今まで忘れてたなんて薄情なやつだな俺も)
 友人からも「聖はどこか冷めている」と、言われる事が多かったので心当たりは大いにあった。
「おい、とにかく出ようぜ」
 聖は昔の同級生の事が気になりながらも、将太に促されて外に出た。
 外ではすでに出棺が行われていて、棺が載せられた霊柩車が村の外にある火葬場に向けて出発するのを見届けた。
 
 葬儀も終わり参列者が次々と帰宅の途につく中で、聖と将太は何となく二人で並んで白井家の庭から段々畑を見下ろしていた。久しぶりに会ったのでまだ互いに別れがたい気持ちが漂っていた所で、将太が口を開く。
「お前さ今日はどこに泊まるの?」
「ああ、親戚の叔母さんの家に泊めてもらうけど」
 聖は、まだ白井家の人と玄関先で話している叔母の姿を遠目に見た。
 すると、将太はこんなことを言い出した。
「それなら俺が送っていってやるよ」
 聖も久々に会った旧友ともっと話したかったので、叔母の春子に断りありがたく将太の親切を受けることにした。

 将太が運転する軽トラに乗せてもらいながら農道を走っていると、助手席に座っている聖は遠慮がちに口を開いた。
「裕介ってさ、確か小学校の卒業式の前日に神隠しにあったんだよな」
 聖は、今はよそ者である自分が軽々しく口にしてはいけない話題だと思いつつも、どうしても気になったのだ。
「ああ、良く覚えてるよ。村中大騒ぎでさ、大人たちは総出で捜索していたよな」
 将太は、昔はそんなこともあったなくらいの軽い調子で話す。
「あの時は、大人たちに神隠しだって言われて納得したけどさ……よく考えたらおかしくないか」
「うーん、そうか?」
「だって、一人の子供がいなくなっているのに、そんな迷信みたいな話しで済ませるなんて……」
 村にとって早く忘れたいであろう話を今になって蒸し返す聖の事を、将太はめんどくさそうな表情で見た。
「もう10年も前のことだぞ、今さら言ったってさ」
 その言葉には、村を捨てて出ていったお前が何を言っているんだ、という拒絶のニュアンスが感じられた。
 聖もさすがにそれ以上はと思い口をつぐむと、気まずい沈黙のまま春子叔母さんの家の前で軽トラが停まった。
「悪かったよ、将太。余計なこと言っちゃってさ……」
 車から降りたあとに聖が謝罪すると、将太は豪快に笑い飛ばす。
「気にすんなって。それよりさ、あとで酒持って遊びに行くから一緒に飲もうぜ」
 そして、手を振ると、勢い良く軽トラを走らせた。
 
 叔母夫婦の家はこじんまりとした二階建ての一軒家で、田舎特有の広い庭があった。
 インターホンを押すと、叔父が出てくる。聖の記憶の中の叔父の姿とほぼ変わらず、坊主頭に良く日に焼けた頬には無精ひげが伸びており、どこか無骨な印象を受けた。
 今日も、葬儀にも出席せずに農作業に出ていたのか土で汚れた作業着を着ていた。
「おう、来たのか」
 叔父は不愛想な表情で、久しぶりに会った甥っ子を出迎える。
「お久しぶりです。お世話になります」
 聖はこの叔父にあたる男が、無口で何を考えている分からず昔から苦手意識があった。叔父との会話はこの一言のみで、家に入るように促された。
 
 リビングに通されると、叔父は直ぐにシャワー浴びに行ってしまい、一人残された聖はぼんやりとテレビを観ていた。
 そして、しばらくローカル番組を観ていると叔母が帰ってきた。
「ごめんね、直ぐに晩御飯つくるから待っててね」
 帰って来るなり、叔母はエプロンを着けて慌ただしく料理を始めた。
 といっても、まだ17時を少し回った所なので晩御飯の準備にはまだ早い気がしたが、村ではどの家庭も晩御飯を早く食べることを思い出し、聖は懐かしさを感じた。
 やがて叔父もリビングにやって来たが、特に会話もないまま二人で無言でテレビを観続けた。

 一時間もしない内に、食卓にたくさんの料理が並び、タイミング良く将太も焼酎の一升瓶を抱えてやって来た。
「うわっ、ウチとは比べ物にならないくらい豪華ですね」
 将太は遠慮という言葉を知らないのか当たり前のように食卓に加わると、目を輝かせて料理を見渡している。
 狭い村なので、将太は叔母夫婦とも顔見知りでそこそこ交流もあるらしかった。
「今日は聖ちゃんもいるし、気合を入れて作っちゃった」
 叔母は聖に笑顔を向けながら、山盛りによそったご飯の茶碗を渡して来た。
「そんな気を使わなくても良かったのに」
 テーブルの上には、どちらかというと小食な聖が食べ切れるか不安になるほどの量の料理が所狭しと並んでおり、叔母の気合が感じられた。
「将太くんも遠慮しないでたくさん食べてね」
「はーーい!」
 将太は元気よく返事をすると、さっそく大皿のとんかつに箸を伸ばす。

 夕食を食べ終えると、聖と将太は酒を飲みながら思い出話に花を咲かせた。
「クラスのマドンナだった美咲ちゃんだけどさ、高校生の時に子供ができちゃってさ……」
「えーっ、ウソだろ。俺あの子のこと好きだったんだけど」
「俺も俺も、だからショックでさー」
 小学校や中学校の同級生の話しをしていると、聖の中で子供の頃に日賀村で過ごした記憶が徐々に蘇って来た。
 そして、一通り同級生の近況を聞いた所で、話は次第に将太の愚痴になっていく。
「良いよなお前は東京に行って幸せに暮らしているんだろ」
「俺なんか親の仕事を継ぐしか選択肢がなくてさ……お前が羨ましいよ」
 話を聞いていると将太は、高校を卒業して直ぐに実家の酒屋で働き始めたそうだ。どうやら、それを不満を感じているらしかった。
「俺もそろそろ就活なんだけどさ、大した大学じゃないから選択肢なんてないよ」
 聖は謙遜して話を終わらせようとするが、それでも将太はなかなか引き下がらず自分の不幸を嘆き続ける。
「そんな、いっそ俺は……」そう言いかけて、聖は口を噤んだ。
 決められたレールをなぞるように生きている将太の人生が羨ましい、と言おうとしたのだが、さすがに本人にそれを言うのは失礼だと思い止めたのだ。
 
 そして、聖がトイレに行って戻ってくると、将太は床にだらしなく横たわっていた。
 「おい、将太。おーい」
 呼びかけながら肩をゆすると、将太は気持ち良さそうにいびきをかいていた。すでに、焼酎の一升瓶がほぼ空になるほど飲んでいたのだ。

「それじゃあ、行って来るわね。もう、布団も敷いているから先に寝ててちょうだい」
 そして夜も深くなり、すっかり酔いつぶれてしまった将太を、春子叔母さんが家まで車で送ることになった。
 聖はすっかり寝息をたてている将太の体を支えて、何とか車の助手席に押し込んだ。
「ふん、お前も十分幸せそうじゃねぇか」
 欲望の赴くままに飲み食いして、今は助手席で安らかな寝顔を見せている将太に向かって、聖は悪態を付きながら車の扉を閉めた。
 叔母の運転する車を見送ると、聖は自分も相当酔いが回っていることに気が付いた。
 客室に敷かれた布団に潜りこむと、東京から電車やバスを乗り継いでやって来た疲れもあり直ぐに眠りが訪れた。

 その夜、奇妙な夢を見た。
 村の外れだろうか、周囲の草木がほうぼうに伸び切った中に、その古びた井戸はあった。
 聖は太陽が高く昇る昼間に一人で、その井戸の前に立っていた。
 井戸は、粗末な木で出来た蓋で塞がれていたが、中から何者かがガタガタと揺らすではないか。
 やがて、木の蓋が地面に落ちると、井戸の中からずるりとそいつは這い出てきた。
 その姿は、辛うじて人間の子供の形と言えなくもなかった。
 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ―
 体はどす黒く、表面はぬめぬめとした粘膜で覆われて、一歩這い出して進むたびに腐った肉体の一部をびちゃりと地面に撒き散らす。
 その腐った肉体からは、細かい蛆虫がうじゃうじゃと這い出てきた。
 得体の知れない化け物が迫っているにもかかわらず、聖は金縛りにあったようにその場を動けなかった。
 喉がからからに乾いて、唾を飲むとごくりと大きく喉が鳴る。
 もう、そいつは目前に迫っていた。

「あああああああっつ!」
 そこで、聖は自分の獣のような叫び声で目が覚めた。
 全身にはじっとりとした汗をかいていた。よっぽどショッキングな夢だったのか、まだ手が小刻みに震えている。
 聖は激しい喉の渇きを感じたので、台所に行って水を飲んだ。
 なかなかその渇きは収まらずに、何杯も水を飲む内に、やっと気持ちが落ち着いてきた。

「くそっ、気持ち悪い……」
 すると、今度は体にまとわりつくような汗のベタつきが気になり舌打ちをした。
 夜中なので叔母夫婦を起こしてしまうかもと思ったが、聖は結局シャワーを借りることにした。体にまとわりついている気持ち悪さを洗い流してしまいたかったからだ。
 静かにシャワーを浴びて寝床に戻るが、なかなか眠りは訪れずに気が付くと朝を迎えていた。

 朝食の時間になり、聖は叔母夫婦と食卓を囲んでいると、春子が何やらじっとこちらを見ている。
「どうしたの、顔色が悪いけど眠れなかった?」
 聖の顔色が明らかに悪く、目の下にクマができていたのを心配したのだ。
「うん、枕が変わると眠れないタイプなんだよね」
  聖は気分が優れなかったが無理に笑顔をつくる。
  昨夜見た悪夢については黙っていた。久しぶりに会った叔母夫婦に、子供っぽいと思われたくなかったのだ。
 
 叔母夫婦の家の朝食は豪華で、ちゃぶ台の上には、ご飯、玉子焼き、焼き魚、味噌汁、漬物が所狭しと並んでいた。
 まるで旅館に来たかのような朝食で、いつも実家では朝はコーンフレークで済ませている聖にとっては新鮮だった。
「行ってくるよ」
 夫の和雄は、朝食を手早く済ませると、今日も農作業に出るらしく直ぐに家を出ていってしまった。
 
 ふと聖は、持っている味噌汁の椀を上から覗き込む。
 すると、その茶色い汁の中で、蛆虫がピチャピチャと音をたて這いずり回る光景が頭をよぎった。
「うげぇぇ・・・うっぷ」
 聖は堪えきれずに胃の中の物を全て出してしまった。
「あらあら大丈夫?この子は暑さでバテちゃったかな」
 春子は台所から布巾を持ってきて、畳の上の嘔吐物を拭き取る。
 
「お母さんに電話しておくから、今日は大人しく寝てなさい」
 春子叔母さんに無理やり布団に寝かされて、聖は手持無沙汰そうに天井を眺めていた。
 本来であれば、今日の昼に東京に向けて発つはずであった。結局、叔母に説得されて東京に帰るのは明日以降に延期することになった。

 お昼頃になって、叔母がおかゆを持って客室に様子を見に来た。
「顔色もだいぶマシになったね」
「うーん、朝よりは元気になったかな」
 聖は短い睡眠をとって、頭もだいぶスッキリしていた。
「そういえば、引っ越した時に聖ちゃんに送り忘れた荷物があったんだけど」
 叔母は部屋を出ていくと直ぐに荷物を戻って来た。聖の枕元に小包を置く。
 聖の家族が日賀村から東京に引っ越す時に、家具などの大きな荷物は引っ越し屋に配送してもらったのだが、トラックに積みきれなかった荷物をいくつか叔母に託して送ってもらっていたのだ。
「ゴメンね、ずっと忘れてて。掃除してたら出て来てね」
「ううん、良いよ。どうせ、大した物じゃないだろうし」
 今まで本人も無いことに気付いていなかったのだ、特に大切な物じゃないだろうと思った。
 叔母さんがいなくなり一人になると、聖は特にやることもなく暇を持て余していたので、小包を開けてみることにした。
 小さな段ボール箱の中には、いつもらったのか思い出せないおもちゃの缶詰と野球カードが入っていた。
「そういや、こんなの持ってた気もするな……」
 聖はどこか懐かしさを感じながら箱の中を漁っていると、底の方に一冊のノートが入っていることに気が付いた。
「ん?なんだろ日記かな」
 ノートを開いてパラパラとめくっていると、古い新聞記事がいくつか貼り付けてあった。
『N市で子供を狙った通り魔殺人事件』
『N市の通り魔殺人事件の被害者は3人に』
 新聞の見出しは、8年前に発生した物騒な事件のものだった。
 N市というのは日賀村に隣接する市で、駅前には大きなショッピングセンターもあるので車を走らせて買い物に行く村民も多くいた。
 聖は、親友を亡くしたショックからか小学生頃の記憶が曖昧だった。しかし、当時の自分はどうやら、裕介の失踪と、この通り魔殺人事件に関連性があるのでは、と熱心に調べていたようだった。
 しかし、ノートに最後まで目を通しても、通り魔殺人事件の被害者が4人に増えたという記事を最後に情報がなかった。
 聖は、肩透かしを食らったような気分でノートを閉じるが、ある考えが頭の中に浮かんだ。
(これだけ被害者が出た事件なら、全国的なニュースになっててもおかしくないはすだ…)
 聖はスマートフォンを取り出すと、インターネットで事件について調べてみた。
 すると、彼が考えた通り、事件は全国的に報道されていてニュース記事になっていた。
 一通り調べてみて分かったのが、被害者が最終的に5人まで増えたことと、犯人は既に逮捕されたことだ。
 犯人は三十代後半の男で、精神疾患の病状があることから、刑事責任に問えるか分からないとのことだった。
 被害者の5人はいずれも小中学生で、その中に白井裕介の名前は無かった。まあ、村でも神隠しにあったと言われているのだから、当然といえば当然ではあるが。

 しかし、聖が昨夜見た不可解な夢、それは裕介からのメッセージの様に思えた。
(もしかして、遺体が見つかっていないだけで、裕介も被害にあったんじゃないか……)
 脳裏には、いつしかこんな疑念が浮かんでいた。
(全ては、あの夢で見た井戸に繋がっているはず)
 聖はノートを強く握りしめて、立ち上がった。

 聖は叔母夫婦へ頼んで滞在を延し、翌日から村の住民への聞き込みを開始した。
 絵にはそこそこ自信があったので、夢で見た古い井戸を紙に書いて叔母や将太に見せるが、二人ともこんなものは見たことないと首を振った。

 午前中いっぱい村中を歩き回って熱心に聞き込みを続けたが、その努力も虚しく全く有力な手掛かりは出なかった。
(ダメか……俺が、ただ夢で見たってだけだからな)
 さすがに聖も挫けそうになっていたが、気合を入れなおす様に首を振った。
(いや、あきらめるな。あの夢には絶対に意味があるはず……)
 そして、一度、昼食を取りに叔母夫婦の家に戻り少し休んでから、また午後から聞き込みを再開した。
 自分でも、なぜこんなにやる気になっているのか分からなかったが、今は亡き親友が呼んでいる気がしたのだ。

 聖は、村の外れにある老夫婦の家で話を聞いていた。
 井戸の絵を見せると、その家の爺さんは顎に手をあてて考え込む。
 そして、こんな事を言い出した。
「もしかしたら、俺が子供のころに使っていた井戸かな」
「心当たりがあるんですか」
 聖はようやく掴んだ手掛かりに、思わず息を呑む。
「どこにあるか教えてください」
「少し離れた場所にある雑木林の中にあるはずだけど、どうしてこんなもんを探してるんだ?」
 お爺さんは、突然やって来るなり井戸について尋ねてきた青年を、訝し気な顔で見ていた。
「俺は小さい頃に、この村に住んでいたんですけど……ふと、子供の頃に遊んでいる最中に見つけた井戸の事を思い出して懐かしくなって、せっかく来たのでひと目見たいんです」
 聖は即興で考えた言い訳を必死で話した。日賀村に住んでいたのは本当のことで半分は真実みたいなものなので、自分でも驚くほどスラスラと作り話が口から出てきた。
「ふうん、兄ちゃんこの村に住んでたのか。しょうがねぇな、車で近くまで乗せてってやるよ」
 昔この村に住んでいたと聞いて親しみを感じたのか、お爺さんは車で送ってやると言い出した。
「ありがとうございます、とても助かります」
 聖は一刻も早く話に聞いた井戸を確認したかったので、この申し出はありがたくお爺さんに頭を下げた。

 そして、ボロボロの軽自動車を走らせて十数分、雑木林の前でお爺さんは車を停めた。
「ほれ、そこに道があるだろ。道沿いに少し歩けば井戸があるはずだから」
 そう言って、お爺さんは雑木林の中を指差す。しかし、それは道と言っても獣道で、密集している草木を掻き分けてようやく進めるくらいの有様だった。 
「ここですか……」
 聖は昼間でも薄暗い雑木林を見て躊躇した。
「ここで待ってるから、はよ行っておいで」
 どうやら、お爺さんは付いて来てくれる気はないらしく、聖に懐中電灯を渡すと自分はさっさと車に乗り込んだ。 
 
(えぇい、せっかくここまで来たんだ)
 聖は心細さを感じたが、意を決して獣道に足を踏み入れると、道を塞いでいる草木を退けながら奥を目指した。
 そして、必死の思いで獣道を進んでいくと、日光が差し込むひらけた場所に出た。
 その中央には、お爺さんが言っていた通り、古びた井戸があった。
 
 打ち捨てられてからどれくらい経っているのだろうか、井戸は伸びきった草木に浸食され、上に乗せられている木の蓋も度重なる雨水にさらされたためか腐食していた。

「これだ……探していた井戸だ」

 それはまさに、夢で見た光景だった。
 聖は引き寄せられるように、ふらふらと井戸に近づくと、木の蓋を外して井戸枠の輪郭をなぞるように触れる。
 井戸枠の石材は、表面はざらざらとして、ひんやりと冷たかった。
 すると、天啓の様に、聖の頭の中にとある古い記憶が蘇った。


 ―それは、小学六年生のまさに卒業式の前日の事であった。
 聖は、いつもの様に一番の仲良しである裕介を連れて、冒険ごっこをしていた。
 木の枝を片手に振り回しながら、雑木林の中を散策する遊びが、当時の二人の少年の間で流行していた。
「おい、見てみろよ」
 裕介は、古びた井戸を見つけて近づく。
「中に宝物があるかもしれないよ」
 聖にそそのかされて、裕介は身を乗り出して井戸の中を覗き込んだ。
「おーいっ、馬鹿がみる」
 いつもの冗談のつもりで、聖は裕介の背中をどんと押した。
 すると、裕介はバランスを崩して、頭から飲み込まれるように井戸の中に落下する。
 バシャーン
 少し間をおいて、激しい着水音が聞こえてきた。

(はぁっ、はぁっ、大変だ……)
 大人たちを呼びに雑木林を走っている間、聖の視界はぐにゃりと歪み、どこか現実感がなかった。
 途中で何度も足がもつれて転びそうになりながらも、聖は何とか集落に辿り着いた。
 そして、白井家の屋敷に飛び込んで助けを呼ぼうとした所で、彼の心の中に迷いが生じた。
 このまま大人たちを呼んで裕介が無事に救助されたとしても、自分は村の名家の子に危害を加えたとして非難されるのではないか。もしかしたら、そのせいで自分の家族ごと村八分にされるかもしれない。
 そして、聖は悪魔のような決断をした。
 裕介を見殺しにして、自分は何も知らないフリをする事にしたのだ。
 空は夕暮れに赤く染まっていた。
 聖は、その足でそのまま自分の家に帰ると、何事もなかったかのように家族と食卓を囲んで温かいご飯を食べた。
 その日は、今も暗い井戸の底で人知れず冷たい水の中に沈んでいるであろう裕介の事は、必死で頭の外に追い出した。
 そうして、いつしか聖はその強靭な意志の力で裕介の忌まわしい記憶を完全に封印してしまった。
 彼の葬式では、他の同級生と同じ様に涙を流して、その死を悼んだ―
 
 
「俺だったのか・・・」
 裕介は神隠しにあったのではなくて、自分が殺したのだ。
 きっかけは子供の無邪気な悪戯ではあったが、この事実を自分の胸の内に封印したのだ。そして、いつしか都合良く忘れていた。
「ぅ……っ」
 聖は、井戸の中を覗き込んだまま、嗚咽を漏らした。罪悪感に胸が押しつぶされそうだった。

(えっ……)
 すると、聖は突然、何者かに背中をぐいっと強く押された。
 バランスを崩し、そのまま真っ逆さまに暗い井戸の中に落下していく。
 聖の体は勢い良く黒い水面に叩きつけられ、必死でもがいて顔を何とか水面から出した。
 しかし、その手を上空に伸ばして絶望した。
(ああ・・・)
 はるか頭上に、黒い円の様に井戸の入り口が見えるだけで、どう頑張ってもここから脱出するのは無理であった。
 そして、次第に闇に呑み込まれる様に、聖の体は井戸の底に沈んでいった。