拝啓、やがて星になる君へ

 壇上の陽気な実行委員が、マイク越しに捲し立てる。

 「文化祭はこれにて終了、解散となりますが、この後はグラウンドで自由参加のキャンプファイヤーがあります! でもみんなもう疲れたよな。連日の準備でクタクタだし寝不足だよな。うん、帰ってもいい。いいんだよ? でも、今年の文化祭は、一生の中でも今この時だけ! 今日くらいは! 今夜くらいは! 気になるあの人に声かけて、ロマンチックな一夜を過ごしてみないか? 玉砕したって大丈夫、炎が傷を思い出に変えてくれるさ。紳士淑女の諸君、待ってるぜ!」

 案内が終わると、生徒たちがぞろぞろと動き出した。

 「さて、どうするよ。俺らも行くか?」と八津谷が言う。

 僕の心は、とっくに決まっていた。

 会いに行く理由なんて、なくていい。そんなのなくても、いつだって夏美は僕に会いに来てくれた。今度は、僕から――

 「僕は、夏美に会いに行ってくる」

 「あ、じゃあ、あたしも」

 そう言って歩き出そうとした花部さんの腕を、八津谷が掴んだ。

 「一人で行かせてやれよ。ほら、行ってこい、星乃」

 「うん。ありがとう」

 歩き出すと、心が早く行けと急き立てる。

 体の内側からドアを乱暴に叩くみたいに心臓が高鳴る。

 歩くのさえもどかしくて、人波を掻き分けて走り出した。

 廊下を走るなんて生まれて初めてだ。保健室はもうすぐ。

 やがて辿り着いた扉をノックして、返事も待たずに開く。中には中年女性の養護教諭が一人、椅子に座っていた。

 「すみません! 夏美の――風間夏美さんの具合は、どうですか?」

 「風間さんって、あのかわいいハイカラさんね? 彼女ならついさっき、もう大丈夫と言って出てったわよ」

 元気になったのなら、本当によかった。ひとまず(あん)()したけれど、入れ違いになってしまった。礼を言って、保健室を後にする。

 勇輝:どこにいる? 話したいことがある

 夏美にメッセージを送っても、既読はつかない。

 八津谷と花部さんに連絡して確認したけれど、二人の所には行ってないらしい。

 図書室に駆け込んでも人はおらず、図書準備室ももぬけの殻。まさかもう帰ってしまったのだろうか。そういえば僕は、彼女がどこに住んでるのかも知らない。

 それとも、さっきのキャンプファイヤーの案内を聞いて、グラウンドに行ったのかもしれない。外はもう暗く、今頃グラウンドは人で溢れているだろうから、探すのは大変だ。一人ずつ確認していくとしても、そもそも彼女がそこにいなければ徒労でしかない。

 ひとまず僕は屋上に繋がる階段を上がった。屋上からグラウンドを見下ろせば、特徴的な着物姿の人間を見つけることができると思ったからだ。

 でも、階段を上がり切って、屋上に出る重い扉を開けて、そこで、無数の星が広がる夜空の下、フェンスの近くに立つ彼女の後ろ姿を見つけた。

 「夏美……ここにいたのか。探したよ」

 「……うん」

 アスファルトの地面を歩き、夏美の右隣に立つと、グラウンドの中央でキャンプファイヤーの炎が赤く揺れて、周りに沢山の生徒がいるのが眼下に見えた。

 「アンケートの結果、聞いた? 文芸部は五位だったよ。残念だけど、八津谷も花部さんも、もちろん僕も、手応えは感じてるから、来年はもっと頑張ろう」

 「……そうだね」

 もう元気になったのかと思っていたけれど、声に力がない。

 彼女の方を見ると、右手の指をフェンスにかけて、寂しげな表情でキャンプファイヤーを見下ろしている。その視線は動かさないまま、遠い炎に照らされた彼女の艶やかな唇が動いて、静かな声を紡いだ。

 「勇輝、こんな所にいていいの? 勇輝のことを気にしてる子が、今頃探してるかもしれないよ?」

 「……そんなのは、いいんだ。僕は、君が――」

 「私ね、ずっと、勇輝に言ってなかったことがあるんだ」

 そう言われて、思い出した。彼女はこれまで何度か、僕に何かを伝えようとして思い留まることがあった。夏美は、一人で何かを抱え込んでいる。

 「うん……何?」

 「私、子供の頃に、大好きな家族が、星化症になったんだ」

 「……え」

 「小学生の時に、お姉ちゃんが。中学生の時に、お母さんが……。勇輝と一緒だね。だから、最初に知った時、びっくりしたよ。私たち、すごく似てるんだなって」

 驚いた。星化症の発症率は、十万人に一人。家族二人が星化症になる確率はどれほど低いのだろう。そんな境遇の人が、こんなに近くにいたなんて。

 「二人が星になった後、私、すっごくつらくて、悲しくて、寂しくて、生きてる理由も分かんなくて……自分も星になれたら楽なのに、なんて思ってた」

 それも、同じだ。

 大好きな二人を奪った星化症が許せなくて、残酷な世界が憎くて、孤独と憎悪の炎に心が焼き尽くされて、やがて僕は人との繋がりを捨てることを選んだ。でも。

 「でも、そんな時、一冊の本を読んだんだ。何気なく手に取った小説だったんだけど、読んでて引き込まれた……。悲しいけれど、すごく優しくて、温かい愛と思いやりに満ちた、素敵な物語」

 そう語る彼女の横顔は、当時を思い出しているのか、優しく微笑んでいる。

 「読みながら自然に涙が流れて、読み終えてから声を出して泣いた。泣きながら、涙と一緒に悲しみが少しずつ溶けていくのを感じたんだ。物語が、そこに(つづ)られてる言葉が、自分の心についた大きな傷に、寄り添って温めてくれてるみたいだった。誇張じゃなくて、その本が、私を救ってくれたんだよ。物語ってすごい力を持ってるって、その時分かった」

 そうか。僕を変えて僕を救ってくれた、僕にとっての夏美の存在は、君にとっては、その物語だったんだな。夏美を救ったその本に興味が湧いたし、同時に、少し嫉妬もした。そして、彼女が文芸部に強くこだわった理由も、少し分かった気がする。

 「今まで隠してて、ごめんね」

 「いや、そんな。つらいことだろうし、わざわざ言いふらすようなことでもないし……。むしろ、僕には話してくれて、ありがとう」

 同じ境遇だからこそ、その悲しさも寂しさも、心に残る傷の深さも、胸が痛いくらいに共感できる。でも夏美は僕と違って、その傷を乗り越えて、あんなに強く、あんなに明るい笑顔で、僕をここまで引っ張ってくれた。

 胸の中に再び熱い感情が満ちていく。

 どうすればこの感謝を、一つも取りこぼすことなく伝えられるのだろう。

 どんな言葉を使えば、誤解やすれ違いなく、この想いを伝えられるのだろう。

 小説の展開やセリフを考えるよりも、よほど難しい。

 でも、僕は、嘘や偽りのない僕の本当の言葉で、今、君に伝えたいんだ。

 「夏美、僕からも、聞いてほしいことがある」

 「……うん」

 「僕も、星化症で姉と母を喪って、その悲しさや寂しさに耐えられなくて、失うことがこんなにつらいなら、始めから何もいらないって思った。だから人との繋がりを拒絶して、孤立して、それで自分は無敵だと思ってた。だから、君から文芸部を創ろうって言われても、乗り気じゃなかったし、迷惑だとさえ感じたんだ」

 今思えばその頃の僕は、なんて嫌なやつだっただろうか。

 「でも、強引に入部させられて、人との繋がりを強要されて、うんざりするくらい毎日話して、色んな所に連れ回されて、慣れない創作もやらされて……そんな日々の中で、少しずつ、僕は変わっていった。楽しかったし、嬉しかったし、みんなと一緒に見た世界は、どれも綺麗で素敵だった。僕一人じゃ、絶対にここまで来れなかった。僕が変われたのは……夏美の、おかげなんだ」

 胸が苦しい。心臓がずっと暴れてる。心をさらけ出すのが、こんなに怖いなんて。

 「すごく感謝してるし、尊敬もしてる。笑っていてほしいって思うし、幸せでいてほしいと思うよ。そばにいたいし、触れていたい。君のことをもっと知りたいし、僕のことも知ってほしい。……つまり……要するに……僕は……」

 秋の夜の優しい空気で肺を満たして、精いっぱいの、けれどとてもシンプルな、たった八音の言葉に変える。

 「君が、好きなんだ」

 彼女の目から涙が溢れ、頬を伝う。遠くで揺れる炎が、涙の跡を輝かせた。夏美が泣いたことに衝撃を受けながら、こんな時でも、とても綺麗だと感じてしまう。

 「……なんで、泣くの? 嫌だったかな……」

 「違うよ」

 首を横に振って、夏美は右手で涙を拭う。けれどすぐに雫は溢れ、止めどなく頬を濡らしていく。

 「めちゃくちゃ嬉しいよ……でも、嬉しく思うことが、すごく、つらくて」

 「どうして? 僕は君に、笑ってほしいよ」

 「私が勇輝に言ってなかったことが、もう一つあるんだ」

 ようやく彼女は炎から視線を外して、正面から僕と向き合い、静かに涙を流しながら、優しく微笑んだ。そんなに悲しげな笑顔を、見たかったんじゃないのに。

 「私がそれを言ったら、きっと勇輝は、私を恨むよ。私を、許せなくなるよ」

 「僕が君を恨むなんて、絶対にない」

 「ううん。私は、勇輝をすごく傷付けてしまう。でも、もう、隠せない」

 そう言って彼女は、右手で左の袖を持ち、ゆっくりとたくし上げていく。

 昨日、その可能性を考えて、認めてたまるかと無理矢理に封をした。考えないようにしていたその最悪の予感が、悲しい確信に変わっていく。

 世界から音が消える。息が止まる。血の気が引いていく。膝から崩れ落ちそうになる。

 彼女の左腕は手首まで包帯で巻かれ、その包帯でも隠し切れないくらい、淡く光を発していた。白く、冷たい、残酷な光を。

 ああ。どうして。どうして。どうして。

 こんなことが、あっていいのか。

 そして音の消えた世界で、彼女の優しい声だけが、僕の鼓膜を悲しく揺らした。

 「私ね、もうすぐ、星になるんだ」