拝啓、やがて星になる君へ

 その後、少しずつ人の入りは増えていった。見込み通り、文化祭を回って疲れた人が休憩を目的にやってきて、展示に驚いて冊子に興味を持ち、腰を下ろして休みながら読んでくれる人が多い。

 文芸部の衣装も好評で、部員四人を集めて一緒に写真を撮りたがる人が何人かいた。知らない人に写真を撮られるのは、あまり好きじゃないんだけど……。

 クラスのお祭り屋台の店番担当は、僕と夏美、花部さんと八津谷がそれぞれペアで予定されていた。店番を終えた後は自由時間になり、夏美と二人で文化祭を見て回ることになった。

 演劇部は公演予定の看板を持ちながら怪獣やロボットなどの気合の入った着ぐるみで随所を(かっ)()しており、宣伝効果はすごそうだ。吹奏楽部の衣装も華々しいデザインで統一されていて、どこにいても目を引く。文化系の部活がこのイベントにとても力を入れているのが分かる。

 「ね、これって文化祭デートってやつなのかな」

 夏美にそう言われ、飲んでいたコーヒーが気管に入ってしばらく咳き込んだ。

 「な、なんだよ、突然」

 「二人とも大正ロマンな衣装だし、こうして並んで歩いてると、カップルだって思う人いそうだよね。手でも、繋いでみる?」
 どうしてそんなことを言うんだ。前は、「付き合ってるのか?」と訊いた八津谷に、そういうのじゃないと答えていたのに。

 彼女の顔を見ると、からかって遊んでいるわけではないのは分かった。どちらかと言えば真剣な、静かな寂しさを纏った表情をしている。ここ最近の彼女は、どこか様子がおかしい。

 「……ねえ、何かあったの? もし悩んでることがあるなら、一人で抱えずに……僕に、話してほしい」

 夏美は少し驚いたように目を見開いて、そして、ふわりと笑った。

 「やっぱり、勇輝は優しいね……。ううん、私は大丈夫だよ。文化祭、最後まで頑張って、いっぱい楽しもうね。この先ずっと、忘れないくらいに」

 「……うん」

 大丈夫だと言われると、それ以上踏み込めなくなる。踏み込むことを優しく拒まれているようにも思えて。

 二年の教室で売っているクレープを食べたいと夏美が言うので、二人でそこに向かう。廊下の右手側の窓からはグラウンドが見えて、科学部が派手な実験ショーをして黄色い煙が立ち昇っていた。左側には教室が並んで、中から騒がしい声が聞こえる。

 賑やかな校舎の中をしばらく歩いていると、夏美が急に足を止め、独り言のように言った。

 「あ、そうか、この後……」

 僕も立ち止まり、振り向いて彼女に訊く。

 「何かあった?」

 「えっと、やっぱりあっちに行くのはやめて、外の出店を見てみない?」

 「え? クレープを買いたいって言ったのは夏美じゃないか」

 「そ、そうなんだけど、気が変わったっていうか。ほら、早く!」

 笑顔を浮かべてはいるけれど、どこか焦っているような雰囲気も感じる。

 「ええ、せっかくここまで来たのに……。すぐそこなんだから、行こうよ」

 「詳しい場所は分からないけど、ここにいちゃダメなんだよ」

 「どういうことなの?」

 もどかしさからか、夏美は今にも泣き出しそうな顔をする。その時、すぐ横の教室から悲鳴のような声が聞こえた。反射的にその方向を向く。

 透明な窓ガラスの向こうでは、クラスの出し物なのかプロレスのリングのようなものが設置されていて、そこから投げられた椅子が目の前の窓ガラスに激突する瞬間だった。激しい音を立ててガラスが砕け、破片が飛び散る。教室内の生徒たちが驚愕と恐怖の入り混じる表情でこちらを凝視しているのが、スローモーションのように見えた。

 一つの大きなガラスの破片が、ナイフのように鋭利な先端をこちらに向けて、僕の顔を目掛けて飛んでくる。手で防ぐ? いや、逃げる? (とっ)()のことに体が反応できない。激痛を覚悟して、本能的に瞼が閉じる。

 「勇輝!」

 叫ぶような夏美の声が聞こえた。そしてすぐ、固い物同士がぶつかり合う時の鈍い音がした。

 痛みは、ない。目を開けると、夏美が着ている着物の袖が眼前にあった。

 「……夏美?」

 夏美は、糸が切れたようにすとんとしゃがみ込む。彼女の左肘の辺りに、先ほど飛来してきたガラス片が突き刺さっているのが見え、胸の内側がぎゅっと縮こまって体温が急速に下がるのを感じた。

 「夏美!」

 「勇輝、怪我はない?」と、しゃがんだまま、彼女が訊いた。

 「僕は大丈夫だ。それより、君の腕に!」

 「ああ……着物、ちょっと穴開いちゃったかな。清司さんに謝らないと」

 「そんなのはいいんだ! 早く保健室に行こう! いや、すぐに救急車か?」

 「私なら、大丈夫だよ。びっくりしたのと、ほっとして、ちょっと腰が抜けちゃっただけ。ほら、腕はなんともないよ。着物の生地って丈夫なんだね、すごいね」

 彼女はそう言いながら右手でガラス片を摘まみ、足元に置いた。確かにそこには血が付着しているようなこともなかった。
 「そんなことってあるの……? 本当に大丈夫?」

 「えへへ、大丈夫だって。心配してくれてありがと」

 教室から生徒たちが出てきて、レスラーの格好をした屈強そうな生徒が夏美に向け土下座をした。リーダー的な男子生徒が周りに指示して散らばったガラス片を片付けさせ、そして彼も夏美に謝罪し、腕の具合を訊く。いくつかのやり取りの後、夏美の声のトーンが上がった。

 「ホントになんともないですから!」

 「でも、傷になっているかもしれない。そしたら責任者としてちゃんと償わないといけないから、確認させてもらうよ」

 彼が夏美の袖に触れようとした時――

 「やめて!」

 悲鳴にも似た声で夏美がそう言い、人だかりを掻き分けるようにして僕のもとに駆け寄ると、右手で僕の左手を掴んだ。
 「行こ、勇輝」

 強い力で手を引かれ、駆け出した彼女に引っ張られるように僕も走った。

 しばらく走って廊下を曲がり、階段を駆け下りた所で彼女は足を止め、二人で息を整える。

 「夏美……」

 「私のことなら、全然平気だから」

 彼女はうつむいていて、髪で隠れて表情が見えない。静かな声で、懇願するように、夏美は言った。

 「怪我もしてないし、傷にもなってない。だからもう、このことには触れないで。心配させたくないから、麻友や慶介にも言わないでね」

 「……分かったよ」

 また、踏み込めない。

 いつも夏美は、人の心に強引に近付いてくるのに、彼女の心の周りには、触れてはいけない境界線が引かれているような気がする。それは、少し、寂しく感じる。

 ようやく呼吸が落ち着いたのか、夏美が顔を上げる。走ったせいか頬が紅潮し、少し泣いた後みたいに瞳が濡れていた。困ったように眉を下げて微笑み、僕に言う。

 「せっかく、勇輝と二人で文化祭デートだって思ってたのに、そろそろ図書室に戻らないといけない時間になっちゃうね。……でも、思ってたのとは違うけど、手を繋いで校内を移動できたし、最後にいい思い出になったかな、あはは……」

 笑ってはいるけれど、どこか悲しそうでもある。胸が痛く、熱くなって、突き動かされるように左手を伸ばして彼女の右手を掴む。夏美が驚いたように僕を見た。

 「行こうよ、今からでも。少しくらい遅れたって、きっと八津谷たちは怒らないよ。どこに行きたい? 行きたい所、全部行こう」

 僕の中で熱く燃えるこの感情が、恋という名を持っていることは、もうとっくに気付いている。けれど、その想いを口にすることなんて、怖くてとてもできなかった。

 でも今は、伝えることで夏美が笑ってくれるなら、伝えたいと思う。気持ちが伝わる恐怖を飛び越えて、言葉が溢れてくる。

 「最後なんかじゃないよ。文化祭は明日もあるし、来年も、その次の年もある。体育祭とか修学旅行とか、文化祭以外のイベントだってこの先沢山ある。冬休みも春休みも夏休みも、またみんなで色々出かけようよ。だから、思い出なんてこれからも、いくらでも作れる」

 少し前の僕は、人との繋がりを失う痛みを恐れて、壁を作って、鎧を纏って、全てを拒絶していた。でも今は、君ともっと繋がっていたいと感じる。

 僕なんかと文化祭デートをしたいと思ってくれるのなら実現したいし、行きたい場所があるなら連れていってあげたい。美味しいクレープを食べて幸せそうに笑う顔を近くで見ていたいし、思い出がほしいのなら、両手で持ちきれないくらいに作ってあげたい。そう、強く思う。

 それなのに、夏美は、泣きそうな顔をした。

 そして溢れそうになる涙を隠すようにうつむいて、静かに言う。

 「……やっぱり、ダメだよ。ごめんね。でも、そう言ってくれて、嬉しいよ、ありがとう。……図書室、戻ろっか」

 力を失った僕の手を優しくほどいて、彼女は歩き出す。

 心にヒビが入ったような気分だった。

 僕のこの想いは、やはり封じ込めて呑み込むべきなのだろうか。好きだという、決定的に関係が変わってしまう言葉を、使わなくてよかった。

 そして同時に、遠ざかっていく夏美の背中を見ながら、どうしても考えてしまう。

 僕は気付いてしまった。以前夏美の行動に対して感じた違和感を。

 冊子の印刷をした頃から、彼女は日常生活において、一切左()()を(、)使()っ(、)て(、)い(、)な(、)い(、)。

 そしてさっき、ガラス片から左腕で庇ってくれたこと。固いもの同士がぶつかるような音がして、傷にもなっていないということ。そしてついさっきの、「最後にいい思い出になった」という発言。まるでもう、未来がないみたいな言い方じゃないか。

 目眩がする。心が黒く重く沈んでいく。まさか、そんな、どうして。

 いや、まだ分からない。直接聞いたわけじゃない。だって、十万分の一だぞ。あり得ない。認めない。そんなこと、認めてたまるか。

 大きく深呼吸をして不安を拭い、一人で歩いていく彼女を追いかけた。

 それから夏美とまともに話せないまま時間は慌ただしく過ぎ、文化祭一日目が終わっていった。