風間さんが紙を捲る音が、静かな晩夏の夜に響いていく。自分の心音さえも聞こえそうなほどの、透明な夜だ。
自分が書いた物語を読まれるというのは、心の内側を覗き込まれているような気分にもなる。物語に押し込めた想いを、読み取られてしまわないだろうか。
やがて彼女は原稿用紙を整え、目元を拭ってから、こちらを振り向いた。優しく微笑んでいるけれど、その目は泣いた後のように濡れていた。
「読ませてくれて、ありがとう。すっごくよかったよ。ページを捲るたびに、主人公のヒロインへの強い想いが流れ込んでくるみたいで、切なくて、苦しくて、嬉しかった。特に、ただ悲しいだけでもないし、手放しのハッピーエンドでもなくって、驚きもある、余韻の残るエンディングがいいね。初めてでこんな素敵な物語を書いちゃうなんて、やっぱり勇輝はすごいよ」
彼女の言葉に、ずっと張り詰めていた気分が一気に弛緩する。深く息を吐いて、座ったまま背中からベッドに倒れ込んだ。
「あははっ、私が読んでる間、ずっと緊張してたの?」
「そりゃあそうだよ。自分で小説を書くのも初めてなら、それを目の前で読まれるのも初めてだし、どこか変じゃないか、どう思われるか、笑われたりしないか、気が気じゃなかった。創作をする人ってみんなこんな緊張に耐えてるのか」
風間さんはまた小さく笑った後、椅子から立ち上がって、僕のいるベッドに近付いた。少しためらうような間を開けた後、仰向けに寝転んだままの僕の左隣にそっと腰を下ろす。二人分の重みで、ベッドがギシリと軋んだ。
「執筆、楽しかった?」
静かな声で、彼女が問う。
「……うん、楽しかった。自分の手で世界を一つ作り上げるって、最高のエンタテインメントだと思う」
「そっか、よかった。また書きたいと思う?」
「そうだなあ。すぐには思い付かないけど、筆が乗ってる時のあの楽しさを味わえるなら、また書きたいと思うよ」
僕の言葉を聞いて、風間さんは嬉しそうな声で言った。
「うん。勇輝にはいっぱい書いてほしいよ。なんせこの部の最終目標は、百年後にも残る物語を創る、だからね」
「さすがに百年後は無理だと思うけど」
「分からないよお? すぐには無理かもしれないけど、いつか部員の誰かがプロの作家になって、本を出して、それが百年先まで読まれていく。そんな未来だってあるかもしれない」
「想像力が豊かだね」
「ふふっ、文芸部部長ですから」
そう言うと彼女は、僕と同じように背中からゆっくりと倒れてベッドに寝転んだ。隣で並んで流星群を見たあの夏の夜を思い出す。
僕の左手に、風間さんの右手の甲が触れた。触れた箇所から電気が流れたように心臓が跳ねて、思わず手を引いて離す。するとすぐに彼女の右手が、僕の左手を捕まえた。
「な、なんだよ」
隣に寝転ぶ彼女の方を見ると、そっぽを向いていて表情が分からない。でも耳が真っ赤になっているように見えた。風間さんはそのまま話し出した。
「私、勇輝のこと、下の名前で勇輝って呼んでるじゃない?」
「あ、ああ、いつの間にかそうなってたね」
「でも勇輝は、私のこと苗字で呼ぶよね」
「まあ、そりゃ……」
「それってフェアじゃないと思うんだ」
「どういうこと」
「私のことも、名前で呼んでよ」
「……なんで」
「私にも、そういう青春っぽい時間があったっていいと思うんだよ」
左手を握る彼女の右手が熱い。放すつもりはないことが、握る強さから伝わってくる。
「ねえ、お願い」
懇願するような切実な声。冗談でからかっているわけではなさそうだ。
心臓の鼓動がうるさい。繋がれた手から、この心音が伝わってしまうんじゃないかと思うほど。
この恋は、決して表に出さない。そう決めた。でも今は、言う通りにしないと解放されないんだろう。だから仕方ない。仕方ないんだ。そう自分に言い聞かせて、晩夏の夜の空気を肺に取り込んだ。そして、声に変える。
「……夏美」
繋いだ手が、ぴくんと小さく跳ねた。
「……うん」
相変わらず表情は見えない。でもその華奢な肩が、小さく震えているように見えた。
「……泣いてるの?」
僕が訊くと、「ぶふっ」と噴き出す。
「なっ、なんで笑うんだよ! やっぱり僕をからかって遊んでたのか!」
「ち、違うの、恥ずかしさと緊張と嬉しさで、なんか感情が変になっちゃって……あはははっ」
「なんだよ、もう……」
僕も肩の力が抜け、可笑しくなってくる。
まったく、変な人だ。こんなにも僕を振り回して、心を引っ搔き回して、無断で踏み込んできて、でも、こんなに、温かい。
「ふふふ」「ははは」と、手を繋いだまま二人して小さく笑い合っていると、突然部屋のドアが開いて祖父が顔を出した。
「勇輝、そろそろ夕飯にするけど――あ!」
驚いて飛び起きた僕たちを見て、祖父は何か勘違いしたのか平謝りしながらそそくさと去っていった。
「じゃ、じゃあ、私、そろそろ帰るね」
慌てたように立ち上がって髪を直しながら、彼女は言った。
「あ、うん、気を付けて」
「今日は、ありがと」
最後まで顔を見せないまま、部屋を出ていった。一人になった僕は、深呼吸のような大きなため息で、胸の中に溜まっていた様々な感情を吐き出した。
その日の夕飯の時間が、気まずさでいたたまれなかったのは、言うまでもない。
自分が書いた物語を読まれるというのは、心の内側を覗き込まれているような気分にもなる。物語に押し込めた想いを、読み取られてしまわないだろうか。
やがて彼女は原稿用紙を整え、目元を拭ってから、こちらを振り向いた。優しく微笑んでいるけれど、その目は泣いた後のように濡れていた。
「読ませてくれて、ありがとう。すっごくよかったよ。ページを捲るたびに、主人公のヒロインへの強い想いが流れ込んでくるみたいで、切なくて、苦しくて、嬉しかった。特に、ただ悲しいだけでもないし、手放しのハッピーエンドでもなくって、驚きもある、余韻の残るエンディングがいいね。初めてでこんな素敵な物語を書いちゃうなんて、やっぱり勇輝はすごいよ」
彼女の言葉に、ずっと張り詰めていた気分が一気に弛緩する。深く息を吐いて、座ったまま背中からベッドに倒れ込んだ。
「あははっ、私が読んでる間、ずっと緊張してたの?」
「そりゃあそうだよ。自分で小説を書くのも初めてなら、それを目の前で読まれるのも初めてだし、どこか変じゃないか、どう思われるか、笑われたりしないか、気が気じゃなかった。創作をする人ってみんなこんな緊張に耐えてるのか」
風間さんはまた小さく笑った後、椅子から立ち上がって、僕のいるベッドに近付いた。少しためらうような間を開けた後、仰向けに寝転んだままの僕の左隣にそっと腰を下ろす。二人分の重みで、ベッドがギシリと軋んだ。
「執筆、楽しかった?」
静かな声で、彼女が問う。
「……うん、楽しかった。自分の手で世界を一つ作り上げるって、最高のエンタテインメントだと思う」
「そっか、よかった。また書きたいと思う?」
「そうだなあ。すぐには思い付かないけど、筆が乗ってる時のあの楽しさを味わえるなら、また書きたいと思うよ」
僕の言葉を聞いて、風間さんは嬉しそうな声で言った。
「うん。勇輝にはいっぱい書いてほしいよ。なんせこの部の最終目標は、百年後にも残る物語を創る、だからね」
「さすがに百年後は無理だと思うけど」
「分からないよお? すぐには無理かもしれないけど、いつか部員の誰かがプロの作家になって、本を出して、それが百年先まで読まれていく。そんな未来だってあるかもしれない」
「想像力が豊かだね」
「ふふっ、文芸部部長ですから」
そう言うと彼女は、僕と同じように背中からゆっくりと倒れてベッドに寝転んだ。隣で並んで流星群を見たあの夏の夜を思い出す。
僕の左手に、風間さんの右手の甲が触れた。触れた箇所から電気が流れたように心臓が跳ねて、思わず手を引いて離す。するとすぐに彼女の右手が、僕の左手を捕まえた。
「な、なんだよ」
隣に寝転ぶ彼女の方を見ると、そっぽを向いていて表情が分からない。でも耳が真っ赤になっているように見えた。風間さんはそのまま話し出した。
「私、勇輝のこと、下の名前で勇輝って呼んでるじゃない?」
「あ、ああ、いつの間にかそうなってたね」
「でも勇輝は、私のこと苗字で呼ぶよね」
「まあ、そりゃ……」
「それってフェアじゃないと思うんだ」
「どういうこと」
「私のことも、名前で呼んでよ」
「……なんで」
「私にも、そういう青春っぽい時間があったっていいと思うんだよ」
左手を握る彼女の右手が熱い。放すつもりはないことが、握る強さから伝わってくる。
「ねえ、お願い」
懇願するような切実な声。冗談でからかっているわけではなさそうだ。
心臓の鼓動がうるさい。繋がれた手から、この心音が伝わってしまうんじゃないかと思うほど。
この恋は、決して表に出さない。そう決めた。でも今は、言う通りにしないと解放されないんだろう。だから仕方ない。仕方ないんだ。そう自分に言い聞かせて、晩夏の夜の空気を肺に取り込んだ。そして、声に変える。
「……夏美」
繋いだ手が、ぴくんと小さく跳ねた。
「……うん」
相変わらず表情は見えない。でもその華奢な肩が、小さく震えているように見えた。
「……泣いてるの?」
僕が訊くと、「ぶふっ」と噴き出す。
「なっ、なんで笑うんだよ! やっぱり僕をからかって遊んでたのか!」
「ち、違うの、恥ずかしさと緊張と嬉しさで、なんか感情が変になっちゃって……あはははっ」
「なんだよ、もう……」
僕も肩の力が抜け、可笑しくなってくる。
まったく、変な人だ。こんなにも僕を振り回して、心を引っ搔き回して、無断で踏み込んできて、でも、こんなに、温かい。
「ふふふ」「ははは」と、手を繋いだまま二人して小さく笑い合っていると、突然部屋のドアが開いて祖父が顔を出した。
「勇輝、そろそろ夕飯にするけど――あ!」
驚いて飛び起きた僕たちを見て、祖父は何か勘違いしたのか平謝りしながらそそくさと去っていった。
「じゃ、じゃあ、私、そろそろ帰るね」
慌てたように立ち上がって髪を直しながら、彼女は言った。
「あ、うん、気を付けて」
「今日は、ありがと」
最後まで顔を見せないまま、部屋を出ていった。一人になった僕は、深呼吸のような大きなため息で、胸の中に溜まっていた様々な感情を吐き出した。
その日の夕飯の時間が、気まずさでいたたまれなかったのは、言うまでもない。
