授業を終え、放課後に制服姿で僕の家に集まるのも、約ひと月ぶりだ。

 とはいえ昨日までほぼ毎日集まっていたから、久しぶりという気分よりも、昨日までの延長でみんなの服装が私服から制服に変わっただけという感覚の方が強い。それくらい、文芸部活動は日常として僕の中に定着してしまった。

 いつもの書斎で卓袱台を囲み、祖父が出した熱いほうじ茶を啜ってから、風間さんは切り出した。

 「さあ、寂しいけれど夏休みも終わったということで、今日からは十月の文化祭に向けて準備を進めていくよ」

 「十月の、いつだっけ?」八津谷が訊く。

 「十月の第三週の土日だね。だから、あと一か月半くらい」

 「ちょっと気が早くね? そんなに準備することあるか?」

 「ダメダメ、一か月半なんてあっという間に経っちゃうんだからね。光陰矢の如し。青春は一瞬。吹奏楽部なんかは、文化祭に向けた練習を春からやってるんだから」

 「でも、文芸部の準備ってなんですかね? 冊子を作るだけじゃないんですか?」

 花部さんの問いに、風間さんは「待ってました」と言うようにニヤリと笑った。

 「うちの高校の文化祭は、部活の出し物の中でどれが一番よかったか、生徒や来場者にアンケートを取るんだよ。最終日に集計して、優勝すると、なんと、次年度の部費予算にボーナスが付きます!」

 「ふうん」と、八津谷のリアクションはそっけないものだった。

 「あれれ、反応薄いね」

 「だってよ、部費が増えるって言われても、部員にはあんまし実感が湧かねえっつうか、旨味を感じねえっつうか」

 「部費をもらえればちょっとお高めな本も買えるし、もっと言えば、合宿で素敵なお宿に泊まれちゃうかもしれないよ?」

 「おお、それは楽しそうだな」

 「でしょ! あとね、みんなは〝総文〟って知ってるかな?」

 僕は首を横に振った。八津谷や花部さんも知らないようだ。

 「全国高等学校総合文化祭の略ね。いうなれば、文化系の部活のインターハイみたいなものだよ。文芸部門もあって、持ち寄った作品の合評会をしたり、コンクールではプロの作家さんとかが選考してくれたりするらしいよ」

 「へえー、そんなんがあるのか」

 「最優秀賞には文部科学大臣賞が授与されるとか、かなり本格的だよ。受賞したらサイトに公開されて、全国の人が作品を読むだろうね」

 自分が書いた物語を、プロの作家や、全国の人が読む……そんな可能性を思うと、空恐ろしいような、自分の中の世界が広がって奮い立つような気分で、心が震えた。

 「で、話を戻すと、文化祭のアンケートで成績がよかった文化系の部活は、その〝総文〟への推薦候補として検討されるんだってさ。私たちの文芸部は実績も経験もなくて、生まれたての赤ちゃんみたいな部活だけど、どうせやるなら、全国目指したいじゃない?」

 「なるほどね。野球やってた俺からしたら、〝全国〟をぶらさげられると燃えるな」

 「うんうん、慶介はそう言ってくれると思ったよ」

 「部長はお見通しかよ、恐れ入るね」

 風間さんが八津谷を下の名で呼んだことに、微かな痛みが胸の中に発生したのを感じた。誰にも聞こえないような小さなため息で、その痛みを吐き出す。なんだ、この、幼稚な感情は。

 「アンケートでいい結果を出すには、冊子の内容はもちろんなんだけど、それだけじゃなくて、展示スペースの飾り付けや演出とか、導線を工夫して少しでも多くの人に来てもらうとか、そういうところでも頑張らないといけないと思うんだ。演劇とか吹奏楽とか軽音とかの花形に、どうしてもお客さん持ってかれちゃうからね」

 「そっか、それで、早めの準備が大事なんですね」

 「そうと決まればさっそくどうすっか話そうぜ。面白くなってきたな!」

 身を乗り出して話し合う八津谷と花部さんを満足そうに眺めて、風間さんは立ち上がった。縁側でサンダルを履き、庭に下りると、二つの星塚の前で膝を抱えてしゃがみ込む。そのままじっと動かなくなったから、気になった僕は同じように庭に下りて、彼女の後ろに立った。

 晩夏の太陽が赤く燃えて、彼女の繊細な首筋を焼いていく。陽の光の下に出るだけで、まだ汗が滲んでくる暑さだ。

 風間さんはまだ動かない。彼女の背中が小さく震えているように見えて、もしかして泣いているのだろうか、と、僕は心配になる。何か、声をかけたい、と思った。

 「……暑くない? 部屋、戻ろうよ」

 月並みなことしか言えない自分に、少し嫌気が差す。

 「勇輝」

 小さな声で僕の名前を呼ぶので、その声を聞き逃さないように、彼女の横にしゃがみ込んだ。こうしてしゃがんで近くで見ると、二つの星塚は隕鉄のように鈍色の輝きを(まと)っているのが改めて分かる。

 「運命って、本当にあると思う?」

 彼女の言葉の意図が、僕には汲み取れなかった。横顔を窺うと、涙を流しているわけではないことに、少しだけほっとする。彼女はただ静かに澄んだ表情で、星塚を見つめていた。

 「……どうだろう。それが運命という必然なのか、ただの偶然なのかは、当事者には判断がつかないよ。ずっと未来の人間が過去を顧みて、運命のような出来事だと考えることはできるだろうけど、それさえも勝手なレッテルでしかなくて、本当の運命かどうかなんて、誰にも分からない」

 「……そっか」

 「少なくとも僕は、神様みたいな存在に勝手に決められたシナリオをなぞってるんじゃなくて、自分の意思で考えて、悩んで、迷って、傷付いて後悔したりしながら、これまでも、これからも、今を生きてる。僕はそう思う。……君に引っ張り回されてばかりの僕が言っても、説得力ないかもしれないけど」

 「ふふふっ」

 風間さんは小さく笑った後、うつむいて、言う。

 「……勇輝は、私に引っ張り回されて、楽しい? ムリヤリ文芸部に入れられて、後悔してない? ちゃんと、自分の意思で、いてくれてる?」

 少し、驚いた。周りの感情なんてお構いなしに巻き込んで突っ走っていく人かと思っていたけれど、そんな心配をしていたのか。

 僕はこれまでのことを考えてみた。一緒に部活を創ろうとしつこく付きまとわれて、脅迫気味なことも言われて、渋々付き合った。勝手に家を部室にされて、毎日入り浸って、経験もない小説の執筆を強要されて、夏休みも休むことなくあちこち連れ回されて……。

 でも、考えてみて分かる。いや、考えるまでもなく、分かっていた。

 「……うん、楽しいよ。八津谷も、花部さんも、いい人だし。物語を創るってのも、やってみると面白くて、自分に合ってる気がする。あちこち連れ回されたのも、僕一人だったら見れないような景色や、経験できないことばかりで……そういう感情を表に出すのに慣れてないから、分かりにくいかもしれないけど、すごく、楽しかったんだ。だから、ちゃんと、僕の意思で、ここにいるよ」

 彼女は僕の言葉を聞いて、表情を隠すように膝を抱く腕の中に顔を埋めた。そして呼吸一つ分の時間を空けて顔を上げ、僕の方を見る。その顔は、とても優しく微笑んでいて、それがあんまり綺麗だから、僕は息をするのを忘れてしまう。

 「うん、私も、文芸部のみんなが大好きだし、ちゃんと私の意思で、ここにいるよ。決められたことじゃなくて、私があなたに会いたくて、会いに来たんだよ」

 硝子みたいな透明な雫が彼女の目尻から溢れ、頬を伝った。それは終わりゆく夏の夕陽に照らされて、ルビーのように美しく輝く。
 胸の中が熱くて、痛くて、僕は僕の中にいつしか息づいていたこの感情の正体に、どうしようもなく気付いてしまう。

 その瞬間に、世界が音を立てて弾けるように色彩を増したのを感じた。

 自分の命の意味が否応なく変わったのが分かった。

 心が震えるような、舞い上がるような、全身を満たす幸福感。

 けれど、同時に、冷たい恐ろしさが心を縛ってもいく。

 こんなにも強い感情を持ってしまったら、いつか来る終わりが、よりつらく苦しいものになる。きっと僕は、もうその痛みに耐えられない。

 だから心を閉ざして、誰とも繋がらないようにしてきたのに。


 どうして僕は、恋なんてしてしまったのだろう。


 自分がどんな表情をしていたのか分からない。風間さんは少しだけ悲しげに目を伏せて、それから立ち上がった。

 「さ、戻ろっか。麻友と慶介が文化祭準備について話し合ってくれてるのに、私たちが参加しないのは悪いもんね」

 「……そうだね」

 僕も立ち上がり、歩き出した彼女の背中を眺めながら、この恋を胸の中に閉じ込めることを、心に決めた。