やがて階段は尽き、僕らも見晴らし台まで辿り着いた。僕も花部さんも息は絶え絶えで、真夏の蒸し暑さもあって汗だくだ。

 「おせーぞ、星乃」「お疲れー」

 先に到着していた二人は、転落防止用の柵の辺りに立っていた。太陽はもうとっくに沈んでいて、空には群青色の夜が広がっている。

 自分も柵の近くまで行くと、住んでいる町が眼下に見えて、街灯や家々の明かりが、空から切り離されて地上に落ちた(ほし)(くず)の集まりみたいに思えた。小学校の遠足で見た景色とは違って、新鮮な感動が胸の中に生じる。

 「ね、ね、綺麗だよね! 頑張って上ってきてよかったよね!」

 風間さんが駆け寄り、隣に立つ。腕が少し触れ合って、心臓が跳ねた。さっきの花部さんの言葉をどうしても思い出してしまう。あんなのは花部さんの勘違いだと自分に言い聞かせて、少し距離を開けた。

 しばらく夜景を堪能した後、持ってきたレジャーシートを敷いて、花部さん、風間さん、僕、八津谷、の並びで四人で寝転んだ。僕の左隣が風間さんで、右が八津谷だ。

 辺りに照明がほとんどないので、星がよく見える。花部さんが丁寧に教えてくれるので、詳しくない僕にも代表的な星座が分かった。夏の大三角の隅で、羽を広げる鷲と白鳥。三角形の頂点で音を奏でる琴座。うっすらと見える光の帯は、あれが天の川というものだろうか。十万光年の川幅に引き離されたベガとアルタイルが、泣いているように瞬いていた。

 夜の風が吹いて、汗ばんだ肌を気持ちよく撫でていく。いつしか僕たちは黙り込んで、ただ空を見上げていた。この静かな夜に、重力までが眠りについて、大地の鎖から解き放たれ、このまま落ちていってしまいそうな星空に、見入っていた。

 そして、夜空に一筋の(せん)(こう)が翔けた。

 「あっ、流れ星!」「おお」「わあ」

 風間さん、八津谷、花部さんの感動の声が重なる。

 流星は続けて二個、三個と、澄み通った星空を駆け巡った。

 「すげえな、流星群って本当にあるんだな」と八津谷が言う。

 「あたしも、知ってはいたけど、こうしてちゃんと見るの、初めてです」

 「私も……」

 話している間にも、いくつもの光が尾を引いて、遥か天空を彩っていく。

 「こんだけ流れてたら、どれか一個くらいは願い叶えてくれそうだよな」

 「ふふ、八津谷くんって、意外とロマンチストですね」

 「あ? べ、別に、マジで信じてるわけじゃねえし!」

 盛り上がる二人をよそに、風間さんが静かなのが意外だった。流星に()()れているのだろうか。そんなことを考えていたら、

 「……勇輝」

 囁くような静かな声で名前を呼ばれ、再度心臓が跳ねた。

 「な、なに」

 「流れ星は願いを叶えるって、言われるじゃない?」

 「ん、まあ、迷信だろうけど」

 「うん。でね、星化症で星になる人は、最後の瞬間に、願いを一つ、叶えてもらえるんだよ」

 最後の瞬間。

 その言葉に、姉と母が光になって暗い空に消えていく光景が目の前にフラッシュバックし、心臓の辺りがギシリと(きし)んだ。

 胸の痛みを堪えるように両手の(こぶし)をきつく握っていると、僕の左手が、温かなものに包まれた。左隣にいる風間さんの右手が、僕の震える手を優しく握っていた。その温もりに溶かされるように、心の痛みが薄くなっていく。

 「ごめんね、つらいこと思い出させて。でも、大事なことだから、勇輝に知っていてほしいんだ」

 「……大事な、こと?」

 「どういう仕組みかは分からないけど、星になっちゃう代わりに、神様みたいな存在が叶えてくれるのかな……。でも、自分に関することはダメみたい。星にしないでくださいって願っても、それは叶わない。だから、自分以外の、他者のこと――。大切なあの人が、幸せでありますように、って感じで。……勇輝は、勇輝のお姉さんやお母さんが、どんなことを願ったと思う?」

 「……そんなの、分からないよ」

 星化症による硬化の始まりは、発症者によって様々だ。姉は背中で、母は胸だった。そこから硬化症状が全身に拡がっていく。人によっては最後の時まで会話をできる場合もあるそうだけど、姉も、母も、星になる数日前にはもう簡単な言葉を交わすこともできなくなっていた。だから何を考えていたか、何を願っていたか、なんて、誰にも分からないだろう。

 「星化症患者は最期に願いが叶う、か。おもしれえ考えだが、それもお前の持論か?」と八津谷が訊いた。「最後の瞬間だったら、願いが叶ったかどうかなんて誰にも分からねえし、確かめようがねえもんな」

 「うん、そうだね……。私はそう思ってる、ってだけ」

 「でも、素敵ですね」花部さんが言う。

 「星になる最後の時、自分以外の誰かのために祈る願いは、きっと、とても綺麗で、優しいものですよ」

 「うん、私も、そう思うよ」

 彼女はそう言うと、僕と繋いだままの手を、強く握った。左手で感じる優しい痛みが、胸の内側を熱くしていく。

 繋がりは、怖い。

 その絆が深く、強くなればなるほど、壊れた時の痛みが耐え難いものになるから。

 でも、今、繋がれた手を、振り払えない。

 他者との関わりは怖い。でも、独りは寂しい。

 その矛盾の狭間で、どうすればいいのかずっと分からなかった。

 孤独が友だと強がっていても、心はずっと震えていた。

 だから、握られた手の温かさが、泣いてしまいそうなくらい心地いい。

 独りじゃないんだと、教えてくれているようで。

 でも、分からない。どうしてこの人は、僕なんかにここまで構うのか。

 階段で花部さんが言ったことが心を離れない。もしかしたらこの人は、ずっと僕と共に、生きてくれるのだろうか。それを望んでくれているのだろうか。分からない。

 そのまま僕らは、明け方まで星を見続けた。

 その間ずっと、風間さんは僕の手を離さなかった。