「おお、ここが星乃くんちかぁ」
部長を中心にして三人の文芸部員が僕の家の前に立ち、古めかしい平屋を興味深げに眺めている。その少し後ろに、僕は立っていた。
「味わい深い家だねえ」
風間さんが嬉しそうに言った。
「母方の祖父の家なんだ。素直にボロいって言っていいよ。築百年くらいらしいから」
「ん? お前の家は別にあるってこと?」八津谷が訊く。
「前に住んでいた家はあったけど、もう手放した。今は祖父と僕の二人で、ここに住んでる」
「え、ご両親とかは……?」
花部さんの問いに、僕はすぐに答えられない。言葉を探すようにうつむいていると、風間さんが割り込むようにして言った。
「まあまあ、とりあえず入ろうか。星乃くん、案内お願いできる?」
「どうせ僕に拒否権はないんでしょ」
玄関を開けると、居間から祖父が出てきた。
「おかえり、勇輝。おや、後ろのみなさんは」
「えっと……」
どう紹介したものかと考えていると、僕の後ろから風間さんが躍り出て、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、勇輝くんのおじいさん。突然おじゃましてすみません。私たちは勇輝くんのクラスメイトで、一緒に高校で文芸部を立ち上げまして、私は部長の風間夏美と申します」
「これはこれは、ご丁寧に」と祖父も頭を下げる。
「新しい部活なので部室が用意できず、顧問の教師に相談したところ、ご家族の許可をいただければ部員の自宅を部室として使ってもいいと確認が取れました。つきましては、ご迷惑でなければ、今後こちらの御宅に私たちが集まってもよろしいでしょうか?」
僕は少し、驚いていた。こんなに丁寧な話し方もできるのか、と。
祖父は嬉しそうに顔を綻ばせ、大きくうなずいた。
「ああ、もちろんですよ。勇輝のお友達が来てくれるなら、わたしも嬉しいです。さあ、どうぞ上がってください。今お茶やお菓子を用意しますから」
「ありがとうございます!」
もう今さら追い返すこともできず、僕はひとまず三人を、この家の書斎に連れていった。そこには古くからの本が沢山あるし、祖父も老眼になってからはほとんど使っていない部屋だから、文芸部の活動場所としては最適だろう。
書斎は十畳ほどの広さの和室で、入って左側と正面には縁側に繋がる障子があり、外の光を受けて白く輝いていた。右手側の壁沿いには天井までの高さがある本棚がずらりと並んで、古い本がぎっしり並べられている。それ以外には中央にちょこんと卓袱台が設置されているだけの、読書のためだけに用意されたような部屋だ。この家を作った僕の先祖の趣味なんだろうか。
書斎に入るなり、沢山の本を見て花部さんが突然騒ぎ出した。
「わあ、すごい! 夏目漱石に森鴎外、太宰治、幸田露伴、尾崎紅葉、独歩、藤村、実篤、龍之介、康成……選り取り見取りで楽園のよう! え、ウソ、泉鏡花の初版本もある!? ああ、この黴臭い古本の香り、たまりません……。どうしよう興奮して鼻血出ちゃいます!」
「お、おお、花部、そんなキャラだったのかよ」
八津谷は若干引いている。かくいう僕も、大人しいと思っていた花部さんのその豹変ぶりには驚いた。
「ふふふ、よかったねえ、麻友ちゃん。星乃くん、ありがとね。優しいおじいちゃんだね」
「……まあ」
風間さんに言われ、優しい祖父に冷たく接している自分に少し胸が痛んだ。それをごまかすように、換気のために障子を開けていく。花部さんも言っていたように、この部屋はいつも、少し黴臭い匂いがする。
障子を全部開けると、縁側の向こうに庭が見える。春の昼下がりの柔らかな陽射しが、緑の芝生と、そこに二つ並んだ星塚を優しく照らしている。
風間さんが僕の横に立ち、庭を見る。また何か言うのかと思ったら静かなままで、そっとその横顔を窺うと、彼女は胸の痛みを堪えるような、今にも泣いてしまいそうな、悲痛な表情を浮かべていた。それを見て、僕の胸の中にも、切なさにも似た微かな痛みが生じるのを感じた。
「……星塚、か?」
いつの間にか後ろに立っていた八津谷の静かな声。僕は振り返らずに答える。
「ああ、うん……。知ってるんだね」
「そりゃあ、たまにテレビとかでも特集されてるからな。アストロニアシス、別名、星化症。発症率は十万人に一人。原因は不明、治療法は皆無、罹患者は最終的に光になって空に消え、体は岩の塊になって地上に残る。意味の分からんレアな奇病だから、印象に残ってる。実際にこの目で見るのは初めてだけどな」
僕は視線を落とした。姉が、母が、光になって空に昇って消えていく光景は、瞼の裏に焼き付いていて、いつまで経っても消えていかない。
「あ、わりい……。配慮がなかったな。お前にとっちゃ他人事じゃねえもんな」
「いや、大丈夫……」
「星乃くん」
静かな声で名前を呼ばれ風間さんの方を見ると、彼女は今も、星塚を真っ直ぐに見つめていた。
「ご挨拶、しても、いい?」
「……別に、構わないけど」
「ありがと」
みんなで玄関から靴を持ってきて、縁側から庭に下り、星塚の前に立つ。
「僕の、母と、姉だよ」
「……うん」風間さんは静かにうなずいた。
「そんな、ご家族が二人も星化症に? だから、おじいさんと二人で……」
驚きからか、花部さんは両手で口元を押さえている。
八津谷は頭をかきながら言った。
「こういう時、どうすんのが正解なのか分かんねえや。手を合わせりゃいいのか?」
そういえば身内以外の人がここに立つのは初めてだった。他人からしたら、悲劇の象徴のようなこの星塚を前に、どんな態度を取ったらいいか難しいのだろう。
「星塚は、星化症で亡くなった人の墓標みたいなものだから、お墓にするみたいに手を合わせるでいいのかも――」
「生きてるよ」
囁くように静かに、けれど確かに響く声で、僕の言葉を遮って風間さんがそう言った。
「……え?」
「星化症で星になっても、死んじゃったわけじゃないんだ」
彼女が空の方を向いたので、つられて僕たちも上を見上げる。どこまでも広がる柔らかなホリゾンブルーの中に、綿雲がぽつぽつと浮かんでいる。彼女は静かに澄んだ声で続ける。
「ずっとずっと遠くの、火星と木星の間に、アステロイドベルトって呼ばれてる小惑星帯があって、そこに行くんだよ。沢山の星々の海の中で、星になった人は、長い、長い、夢を見てるんだ」
風間さんは空から視線を戻し、真剣な表情で真っ直ぐに僕を見つめる。そして薄桃色の唇が、優しい音を紡いだ。
「だから、生きてるんだよ」
風が彼女の髪を揺らし、陽光が潤んだ瞳を煌めかせる。
心臓を優しく掴まれたような熱い痛みが胸に生じ、僕はたじろいで、思わず一歩後ずさった。逃げるように視線を逸らして、言う。
「……そう、なんだ。詳しいんだね」
「ふうん、面白い考えだな。でもそんな話は、テレビでも聞いたことなかったぜ? 風間、お前の自説か?」
八津谷が訊いた。
確かに、僕も星化症遺族として、その病についてそれなりに調べたことがある。けれど、どんな書籍にも、インターネット上のサイトにも、そんな情報はなかった。
「あ、えーっと、そうそう。そうだったらいいなあって、私が勝手に思ってるの!」
風間さんはいつもの溌剌とした笑顔に戻り、どこか取り繕うような声でそう言った。
「そういうわけで、仏前みたいに手を合わせるんじゃなくて、普通にご挨拶するよ。はい、文芸部一同、気を付け!」
星塚の方を向きビシリと姿勢を正した風間さんに、花部さんと八津谷も続いた。仕方なく僕も真似をする。
「勇輝くんのお母さん、お姉さん、今日からこのお家を、文芸部出張部室として使わせていただきます。ちょっとうるさくなるかもしれませんが、寂しいよりはずっといいかなって思うので、どうか見守っていてください」
風が一つ吹いて、庭の草木を揺らした。なぜか今の僕には、それが誰かからの返事のように感じられた。
「さあ、書斎に戻って今後の活動計画を立てるよ! ほら行った行った」
風間さんに追い立てられ、僕らは縁側に向かう。小さく声が聞こえた気がして振り向くと、風間さんはまだ一人で、星塚と向き合っていた。
――私、頑張るからね。
零すようにそう言った彼女の言葉が、僕の耳に残り続けた。
部長を中心にして三人の文芸部員が僕の家の前に立ち、古めかしい平屋を興味深げに眺めている。その少し後ろに、僕は立っていた。
「味わい深い家だねえ」
風間さんが嬉しそうに言った。
「母方の祖父の家なんだ。素直にボロいって言っていいよ。築百年くらいらしいから」
「ん? お前の家は別にあるってこと?」八津谷が訊く。
「前に住んでいた家はあったけど、もう手放した。今は祖父と僕の二人で、ここに住んでる」
「え、ご両親とかは……?」
花部さんの問いに、僕はすぐに答えられない。言葉を探すようにうつむいていると、風間さんが割り込むようにして言った。
「まあまあ、とりあえず入ろうか。星乃くん、案内お願いできる?」
「どうせ僕に拒否権はないんでしょ」
玄関を開けると、居間から祖父が出てきた。
「おかえり、勇輝。おや、後ろのみなさんは」
「えっと……」
どう紹介したものかと考えていると、僕の後ろから風間さんが躍り出て、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、勇輝くんのおじいさん。突然おじゃましてすみません。私たちは勇輝くんのクラスメイトで、一緒に高校で文芸部を立ち上げまして、私は部長の風間夏美と申します」
「これはこれは、ご丁寧に」と祖父も頭を下げる。
「新しい部活なので部室が用意できず、顧問の教師に相談したところ、ご家族の許可をいただければ部員の自宅を部室として使ってもいいと確認が取れました。つきましては、ご迷惑でなければ、今後こちらの御宅に私たちが集まってもよろしいでしょうか?」
僕は少し、驚いていた。こんなに丁寧な話し方もできるのか、と。
祖父は嬉しそうに顔を綻ばせ、大きくうなずいた。
「ああ、もちろんですよ。勇輝のお友達が来てくれるなら、わたしも嬉しいです。さあ、どうぞ上がってください。今お茶やお菓子を用意しますから」
「ありがとうございます!」
もう今さら追い返すこともできず、僕はひとまず三人を、この家の書斎に連れていった。そこには古くからの本が沢山あるし、祖父も老眼になってからはほとんど使っていない部屋だから、文芸部の活動場所としては最適だろう。
書斎は十畳ほどの広さの和室で、入って左側と正面には縁側に繋がる障子があり、外の光を受けて白く輝いていた。右手側の壁沿いには天井までの高さがある本棚がずらりと並んで、古い本がぎっしり並べられている。それ以外には中央にちょこんと卓袱台が設置されているだけの、読書のためだけに用意されたような部屋だ。この家を作った僕の先祖の趣味なんだろうか。
書斎に入るなり、沢山の本を見て花部さんが突然騒ぎ出した。
「わあ、すごい! 夏目漱石に森鴎外、太宰治、幸田露伴、尾崎紅葉、独歩、藤村、実篤、龍之介、康成……選り取り見取りで楽園のよう! え、ウソ、泉鏡花の初版本もある!? ああ、この黴臭い古本の香り、たまりません……。どうしよう興奮して鼻血出ちゃいます!」
「お、おお、花部、そんなキャラだったのかよ」
八津谷は若干引いている。かくいう僕も、大人しいと思っていた花部さんのその豹変ぶりには驚いた。
「ふふふ、よかったねえ、麻友ちゃん。星乃くん、ありがとね。優しいおじいちゃんだね」
「……まあ」
風間さんに言われ、優しい祖父に冷たく接している自分に少し胸が痛んだ。それをごまかすように、換気のために障子を開けていく。花部さんも言っていたように、この部屋はいつも、少し黴臭い匂いがする。
障子を全部開けると、縁側の向こうに庭が見える。春の昼下がりの柔らかな陽射しが、緑の芝生と、そこに二つ並んだ星塚を優しく照らしている。
風間さんが僕の横に立ち、庭を見る。また何か言うのかと思ったら静かなままで、そっとその横顔を窺うと、彼女は胸の痛みを堪えるような、今にも泣いてしまいそうな、悲痛な表情を浮かべていた。それを見て、僕の胸の中にも、切なさにも似た微かな痛みが生じるのを感じた。
「……星塚、か?」
いつの間にか後ろに立っていた八津谷の静かな声。僕は振り返らずに答える。
「ああ、うん……。知ってるんだね」
「そりゃあ、たまにテレビとかでも特集されてるからな。アストロニアシス、別名、星化症。発症率は十万人に一人。原因は不明、治療法は皆無、罹患者は最終的に光になって空に消え、体は岩の塊になって地上に残る。意味の分からんレアな奇病だから、印象に残ってる。実際にこの目で見るのは初めてだけどな」
僕は視線を落とした。姉が、母が、光になって空に昇って消えていく光景は、瞼の裏に焼き付いていて、いつまで経っても消えていかない。
「あ、わりい……。配慮がなかったな。お前にとっちゃ他人事じゃねえもんな」
「いや、大丈夫……」
「星乃くん」
静かな声で名前を呼ばれ風間さんの方を見ると、彼女は今も、星塚を真っ直ぐに見つめていた。
「ご挨拶、しても、いい?」
「……別に、構わないけど」
「ありがと」
みんなで玄関から靴を持ってきて、縁側から庭に下り、星塚の前に立つ。
「僕の、母と、姉だよ」
「……うん」風間さんは静かにうなずいた。
「そんな、ご家族が二人も星化症に? だから、おじいさんと二人で……」
驚きからか、花部さんは両手で口元を押さえている。
八津谷は頭をかきながら言った。
「こういう時、どうすんのが正解なのか分かんねえや。手を合わせりゃいいのか?」
そういえば身内以外の人がここに立つのは初めてだった。他人からしたら、悲劇の象徴のようなこの星塚を前に、どんな態度を取ったらいいか難しいのだろう。
「星塚は、星化症で亡くなった人の墓標みたいなものだから、お墓にするみたいに手を合わせるでいいのかも――」
「生きてるよ」
囁くように静かに、けれど確かに響く声で、僕の言葉を遮って風間さんがそう言った。
「……え?」
「星化症で星になっても、死んじゃったわけじゃないんだ」
彼女が空の方を向いたので、つられて僕たちも上を見上げる。どこまでも広がる柔らかなホリゾンブルーの中に、綿雲がぽつぽつと浮かんでいる。彼女は静かに澄んだ声で続ける。
「ずっとずっと遠くの、火星と木星の間に、アステロイドベルトって呼ばれてる小惑星帯があって、そこに行くんだよ。沢山の星々の海の中で、星になった人は、長い、長い、夢を見てるんだ」
風間さんは空から視線を戻し、真剣な表情で真っ直ぐに僕を見つめる。そして薄桃色の唇が、優しい音を紡いだ。
「だから、生きてるんだよ」
風が彼女の髪を揺らし、陽光が潤んだ瞳を煌めかせる。
心臓を優しく掴まれたような熱い痛みが胸に生じ、僕はたじろいで、思わず一歩後ずさった。逃げるように視線を逸らして、言う。
「……そう、なんだ。詳しいんだね」
「ふうん、面白い考えだな。でもそんな話は、テレビでも聞いたことなかったぜ? 風間、お前の自説か?」
八津谷が訊いた。
確かに、僕も星化症遺族として、その病についてそれなりに調べたことがある。けれど、どんな書籍にも、インターネット上のサイトにも、そんな情報はなかった。
「あ、えーっと、そうそう。そうだったらいいなあって、私が勝手に思ってるの!」
風間さんはいつもの溌剌とした笑顔に戻り、どこか取り繕うような声でそう言った。
「そういうわけで、仏前みたいに手を合わせるんじゃなくて、普通にご挨拶するよ。はい、文芸部一同、気を付け!」
星塚の方を向きビシリと姿勢を正した風間さんに、花部さんと八津谷も続いた。仕方なく僕も真似をする。
「勇輝くんのお母さん、お姉さん、今日からこのお家を、文芸部出張部室として使わせていただきます。ちょっとうるさくなるかもしれませんが、寂しいよりはずっといいかなって思うので、どうか見守っていてください」
風が一つ吹いて、庭の草木を揺らした。なぜか今の僕には、それが誰かからの返事のように感じられた。
「さあ、書斎に戻って今後の活動計画を立てるよ! ほら行った行った」
風間さんに追い立てられ、僕らは縁側に向かう。小さく声が聞こえた気がして振り向くと、風間さんはまだ一人で、星塚と向き合っていた。
――私、頑張るからね。
零すようにそう言った彼女の言葉が、僕の耳に残り続けた。
