──あの時、女の言葉を無視していれば、私の人生は違ったものになっていただろうか。

 それとも、遅かれ早かれ、似たようなことになっていただろうか。
 あの恐ろしく空虚な四年間を思えば、この時の己の軽率な行動を後悔する。しかし、『もし何もなかったら』と思うと、それはそれでまた恐ろしいのだ。


 とにかく私はこの時、愚かにも、ショートボブの女について外に出た。
 なぜと問われると明確な答えはないが……もしかしたら、あの大きな瞳に一瞬、欲望を突き動かされたのかもしれない。

 クラブから外へ出ると、私たちは建物の奥の薄暗い細路地へ向かった。
 壁越しにクラブ内の雑音が漏れてくる他は、比較的静かな落ち着いた場所で、荷物搬入用の扉から時々従業員の行き来はあるものの、ほぼプライベートな空間だ。

 女はすぐに私に縋ってきた。
「私たち、とても情熱的な夜を過ごしたわ……ねぇ、そうでしょう……?」

 陽気なキャリーとは違う、小悪魔のような声で。
 私は女を見下ろし、女は私を見上げていた。愚かな女──そう思いながら冷めた瞳を向ける私に、さらに同情を求めるような台詞を続ける女だ。

「あの夜、私たちは確かに愛し合ったわ……そうでしょう? ずっと、貴方が帰ってくるのを待っていたわ。夫とは別れる。もう話はしてあるの。私は貴方のものよ。だから、もう、変なお遊びはやめて……」

 私の冷酷な視線──アイスブルーの瞳に見下ろされてもなお、女は真実に気付かない。

 いや、震える声から察するに、薄々気付いてはいるのだろう。
 しかし引き返せないところまで来てしまったのか。夫と話はしてある? 私は、この女が既婚者だったことさえ知らなかったし、気にならなかったし、そもそも名前さえうろ覚えだ。
 私は静かに切り出した。

「何を勘違いしているのか知らないが──私に、誰かを愛した覚えはない」
 私の十八番だ。
 冷酷に、人を、傷、つける。
「一度や二度の情事で、つけあがるのはやめて貰おう。私のものになるのは結構だが、私は誰のものにもならない」
「ウィル……」
「なにかお楽しみでもあるのかと思って来てみたが……そんなつまらない話しかないなら、戻らせてもらう。キャリーがいたくご立腹だったからね」
「ウィル!」

 女は蒼白になっていた。
 そして、踵を返そうとした私の胸へ無理に飛び込んできて、「嘘よ、嘘よ……」 と繰り返しながら、泣きじゃくり始める。

「嘘でしょう……? あの夜、私たちは確かに……」
「嘘ではない。私はこんな男だ……さっさと夫とやらの所へ戻るんだ」
「嫌っ!」

 女は金切り声を上げた。
 私はといえば、そんな女を哀れむでもなく、愛しく思うでもなく、鬱陶しく思うでもなく……どこか他人事のように、遠くから眺めているだけのような感覚で、ぼんやりと見下ろしていた。

 ──どうすれば。
 一体、どうすれば、こんな風に無様に泣きながら人に縋れるほど、人を想うことが出来るというのだろう?
 私には到底理解のしようがなかった。私にとって人とは、自分自身も含め、涙一粒にも値しない無価値なものでしかなかったのだ。

「私は戻るよ。君は、好きにするといい」
 そう言って、女の腕を振り解こうとした時だった。
 急に、男の不気味な叫びが背後から聞こえたのは。同時に、わき腹に、焼印を押されたような衝撃が走ったのは。