キィ……と低い音を立てて病室の扉が広げられたとき、私はジョン・クラークソンが入ってきたのだとばかり思っていた。
その日の昼間、彼は今夜夜勤も担当するのだと、エリーにごちていたのを聞いたからだ。
だから大した警戒はしなかった。
ただ、エリーの肩にブランケットを掛けてやれるのは、やはり私ではなくクラークソンなのだと……一人心の中で涙を呑んでいたくらいだ。
しかし、
「ヘッ……寝てやがんな」
という声が聞こえてきたとき、私は異変に気が付いた。
それは若い男の声だったが、クラークソンのように聡明な話し方ではなく、相当に下品なものだった。
声の主は、静かに扉を閉めると、ひたひたと引きずるような足音で近付いてくる。
背は高くないが、横に逞しく、ぎょろついた目をした黒髪の男が、エリーの傍に立ったのが見えた。
エリー!
私は叫んだが、当然声にはならない。
「やっぱ綺麗な顔してんな……一度、こういうお上品なのとヤッてみたかったんだよ……やっとひとりになったな」
なんということだ──
こいつこそが、私が無念さのあまり、高層ビルから逆さ吊りにする夢を見た下衆男だ。私は状況を理解し、焦り出した。
男はさらにエリーへ近付き、彼女の香りを嗅ごうとでもいうように、上半身を屈めてフンと鼻を鳴らす。
私の怒りはすぐに沸点へ達し、この四年間、何千何万回と試してきて一度として成功しなかった努力を、また繰り返していた。
──立ち上がれ、起き上がるんだ、声だけでもいい、動け!
「邪魔モンはいねぇな……」
動け、動いてくれ。
声だけでもいい。声を出し、エリーに、クラークソンに、窮地を知らせるだけでも。
「ひひ」
という笑い声が聞こえたとき、私は全身が総毛立つ思いがした。
男は用意周到な動きでポケットに手を突っ込み、白いガーゼのような長い布切れを取り出した。動け……動くんだ……これが最後で構わないから、立ち上がるんだ。
そう私が煩悶している間にも、男はまるでこれが初めてとは思えないような素早さで、エリーの口に猿ぐつわを噛ませた。
「…………っ!」
目を覚ましたエリーが、男を見上げて凍りつく。
彼女の瞳は驚愕に大きく開かれ、とっさの抵抗を試みて首を大きく左右に振った。くぐもったうなり声がエリーの口から漏れたが、それは病室の外へ届くには小さすぎた。
私はこの時はじめて、この病室が個室であることを後悔した。「ウィルは誇り高いから、相部屋だとあまり気持ち良くないはずだわ」──それがエリーの判断だった。
しかし。
猿ぐつわ越しのくぐもった声で、エリーは悲鳴を上げ続けたが、外には届かない。
男は、思い出したくもないような下品な台詞を吐きながら、そんなエリーの上に圧し掛かっていく。
エリーはそれに強く抵抗しながらも、明らかな腕力の違いに阻まれていた。必死に上半身をねじり、男から逃げようとするエリーと、それを無理矢理抑える男と、だ。
すべては私の横たわるベッドサイドで起こっているというのに、私の身体はぴくりとも動かない。
すると、エリーの手が、私の腕のあたりをまさぐった。
──非常用の押しボタンだ。
プッシュ型の赤いボタンが先端に付いた、成人の手にちょうど収まる程度の大きさのスティックが、患者の緊急時にすぐ手の届くよう、コードに繋がって各ベッドに与えられている。
動けない私には無用の長物だったが、標準装備なのか私のベッドにも転がっているのだ。
いつか、ウィルが目を覚まして、これを鳴らしてくれるといいな。
エリーはそう言って、そのスティックをいつも私の手のそばに添えていた。
そうだエリー……今こそそれを使うんだ。
私は、君の望むようにそれを使うことは出来なかったが、君なら出来る。そして誰かを呼ぶんだ。クラークソンは絶対に、何を置いてでもここへ駆けつけてくるはずだ。
しかし、もうすぐ彼女の手がスティックへ届くか届かないかというところで、男はエリーを無理に押し倒し、二人は床へ崩れ落ちた。
エリーが腰掛けていた椅子が倒れたが、軽いアルミニウム製のそれは、大した音を立てなかった。──くそったれが!
私は心の中で、エリー以外のこの世の全てのものに対して罵声を浴びせた。
しかし。
涙を零しはじめるエリー。
彼女の手を頭の上で拘束し、汚い唇を彼女に押し付けようとする男。
そして、無言で横たわるだけの私。
嗚呼、何が、出来る。今の私に、何が。
私は流せない涙を流しながら、祈った。相手は誰だっただろう。神か、キリストか、クラークソンか。
誰でもいい、エリーを助けてくれ。私の祈りなど聞くに値しないことは分かっている。しかしエリーは違う。彼女は天使のような女性だ。彼女を救ってくれ。引き換えにもう千年こうして苦しみ続けろというなら、そうしてみせよう。
私の命がいるなら、いくらでも渡そう。だから……