その日、私はあまり気分が良くなかった。
 可笑しなもので──寝たきりの身となった私にも、こうした身体のリズムが脈々と流れていて、調子のいい日は爽快だったし、良くない日は身体が重かった。
 動かせもしない肢体であるのに、重く感じるのだ。

 この日がまさにそうで、私に出来たことといえば、なんとかエリーの声を聞き取ることくらいだった。

 それも意識を研ぎ澄ませてやっと聞こえるというレベルで、視界は薄暗い。
 いつも通りに病院へやってきたエリーが、「気分はどう?」と私に聞くので、最高だよ と心の中で皮肉ったくらいだ。
 すると、エリーは私の腕を優しく撫でた。

 ある男性の声が病室の入り口から聞こえてきたのは、それからすぐだった。

「今日も来ているのかい、エリー。感心だ」
 若くはあるが落ち着いた大人の声で、青年か、ともすれば二十代後半くらいの、教養のありそうな喋り方だった。

 聞こえたのは声だけだが、彼が何者か、私には心当たりがあった。
 私の副担当になっている、今年研修医から上がったばかりの新米医師、ジョン・クラークソンだ。私は彼から何度も検査を受けていたので、声くらいは記憶していた。

「こんにちは、クラークソン先生」
 案の定、エリーは律儀に挨拶をした。

「ジョンでいいよ。私はまだまだ新米だからね」
 クラークソンは穏やかに答える。
 エリーの手が、さっと私の腕から離れた。

 私にはなにも見えなかった──彼らがどんな表情で向き合っているのか、どれほどの距離が二人の間にあるのか、どんな空気が二人の間に流れているのか。

 それにも関わらず、私の胸はざわりと不気味な音を立てて高ぶり、緊張し出したのだ。
 嫌な、予感がした。
 ぞわぞわと、虫が肌を昇ってくるような、不快さがまとわりついて離れなかった。

 エリーはクラークソンに向けて微笑んだ。

「感心だなんて、そんな風に言ってくれるのは貴方だけです。皆、私は馬鹿なことをしてるって思っているみたい」
「言いたい人間には言わせておけばいいさ。誰も、本気で君たちを理解しようとしていないだけだ。僕は、君は正し い事をしていると思う」
「ありがとう……そう言ってもらえると、少し気分が楽になります」
「少し隣に座ってもいいかな? 君たちの邪魔にならなければ」
「ええ、構いません、どうぞ」

 そんな会話を聞きながら、私は彼らの様子を脳裏に想像し、あらぬ焦りを感じ続けていた──二人は何気ない 言葉を交し合っていただけだ。
 クラークソンはエリーに学校の様子などを尋ね、エリーはそれに真面目に答えている。

 言うなれば、それは、年の離れた兄妹のような雰囲気であったが──私はまず、そこに焦りを感じたのだ。

 今の私にはどうしたって出来ないことが、このクラークソンには可能だ、という事実に。
 エリーの兄でいること。
 エリーの質問に答えること。

 こんな、本来なら容易なことが私には出来なかったし、可能だったころも、まったくといっていいほどしなかった。
 もし出来たなら、私はこの時、歯を食いしばっていただろう。──それさえも私には出来なかったが。

 そんな私を尻目に、クラークソンは穏やかな調子で続ける。
「何か悩みがあれば、いつでも相談してくれていいんだよ。出来るだけのことをしよう」
「ありがとう……ジョン」

 そんな風に会話は区切られ、その後、クラークソンは挨拶だけ残して病室を出て行った。
 私と二人きりに戻ったエリーは、ふっと短い溜息を吐いて、私に向かって言った。

「いい先生ね」
 いい先生?
 それだけだろうか?

 エリーの手が再び私の腕に優しく触れるのを感じたが……私の心は、嵐の海のように荒れはじめていた。