四方を山に囲まれたのどかなこの町に、まだショッピングセンターやファーストフード店ができる前のことであった。
山のふもとにある寺院には、絹子という名の奥方様がいた。彼女は六十歳ぐらいに見えたが、実際の年齢はもっと上なのかもしれない。絹子はこの寺の住職にあたる息子と共に暮らしていたが、孫はいなかった。だが、絹子を実の祖母のように慕い、週に一度は絹子に会いに来る幼い子供たちがいた。近所に住む小学一年生の男の子と女の子で、名前は銀治と千里といった。
「お絹さん」
「よく来たねえ。お上がり」
「おじゃましまーす」
銀治と千里は、絹子をお絹さんと呼んでいた。
「ねえ、お絹さん。今日は何かお手伝いすることない?」
二人の子供たちは、膝の悪い絹子の手伝いをよくしていた。
「そうだねえ。お社の掃除をしてもらおうかね」
この寺の境内には、古ぼけた社が一つあった。山内に社とは、一見不似合いに思えるが、その社は遠い昔この寺が建立された当初からそこにあったらしい。もしかしたら、それ以前の、神代の時代からあったのかもしれない。絹子は幼い頃から、この社の掃除を欠かしたことはなかったが、膝を悪くしてからは、その役目を銀治と千里に譲っていた。
二人が手伝いを終えると、絹子はいつもおいしいお茶とお茶菓子を出してくれた。ちょうど社が見える縁側に座り、絹子は口癖のように言っていた。
「このお社はね、海の向こうからやってくる神様が、日本にいる間に滞在する場所なんだよ。神様は『まれびと』といってね、その時そばにいた『良き人』の願いを叶えたら、また帰って行ってしまうの。だから、いつ神様がいらっしゃってもいいように、お社を綺麗にしておかなくちゃね」
そして、決まって絹子は、子守唄のように囁くのだ。
「まれびと来りて、良き人の願い叶えたもう」
※
高校二年生になった銀治は、学校帰りに学友と連れ立って、ファーストフード店を訪れていた。窓際の席に腰を下ろした銀治は、注文したハンバーガーセットをテーブルに置いたまま、窓から外を見ていた。雪が降っていた。
「銀ちゃん食わねえの?」
銀治の横に座っている羽鳥拓也が声をかけた。銀治は応えない。物悲しそうに空を見ている。
「どうした? 悩みがあるなら聞くぞ」
心配そうに拓也は尋ねる。
「そうよ。須藤くん最近元気ないし」
銀治の前に座っている梶谷冬美も同調した。その隣にいる柳百花も心配そうな顔をしていた。
「別に、悩みってほどのことでもないんだけど…」
銀治はゆっくりと体の向きを戻した。
「なんでも言えよ。俺と銀ちゃんの仲じゃないか」
拓也の言葉にうっすらと口元を綻ばせながら、銀治は続けた。
「ただ、今日だなあと思って…」
「今日って何が?」
心当たりが何もない冬美に対し、拓也には思い当たることがあるようだ。はっと気付き、眉根を寄せた。
「今日―― 十二月二十日は、俺の幼馴染が失踪した日なんだ」
「…失踪?」
冬美は驚きを隠せないようだ。
「家出とかじゃないくて? ホントにいなくなっちゃったの?」
「うん。まだ見付かってないんだ」
「そうなんだ…」
冬美は悲しそうに視線を下に向けた。
「…早く。見付かるといいね」
「うん」
努めて明るく、銀治は応えた。そして、独り言のように呟いた。
「あの日も、雪が降ってたんだ」
ファーストフード店の前で拓也と冬美と別れ、銀治は百花と並んで歩いていた。雪は止んでいたが、辺りは薄暗くなっていた。二人は山の方ではなく、町の中心の方へ向かっていた。
「雪、止んで良かったね」
百花が静かに言う。
「…うん」
百花は身長が百六十五センチで、女性としては背が高く、歩くたびに長く真っ直ぐな黒髪が揺れていた。銀治と並んで歩いていると、二人の身長はさほど変わらない。銀治の髪は茶色がかっていて、パーマをかけているように見えるが、全て天然である。
「どうしたの?銀ちゃん、店出てから『うん』しか言ってないよ」
百花は足を止めて言った。銀治は数歩進んでから立ち止まり、百花に向き直った。
「百花こそ、さっき俺が言ってたこと覚えてるか?」
周りには住宅街が広がっていたが、不自然なほど静かで、百花には銀治の声しか聞こえなかった。
「うん。覚えてるよ」
百花は少し笑って応える。それを見た銀治は向きを変え、山の方を振り仰いだ。夕日はすっかり沈んでしまったようで、東の空から夜が始まろうとしていた。
「俺の幼馴染の大久保千里は、百花と違って、背は低くて、髪も癖毛で長く伸ばせなくてさ。それが嫌なんだって、いなくなる前に言ってたんだ。けど俺は、それも千里の個性だと思ってるけどね」
銀治は一度視線を足元に下ろし、そしてゆっくりと視線を百花に戻した。暗くて表情はわかりにくいが、微笑しているように思えた。彼は、今まで考えてきた結論を、今まさに言おうとしていた。彼は現実主義者で、怪異や魔法など信じてはいなかったが、ここ数年の彼の周りで起こった出来事は、それらなしには説明がつかなかった。そして、百花とは高校に入学してから出会ったのだが、銀治は彼女がどこに住んでいるのか知らず、彼女の両親や家族に誰も会ったことがないという事実が、銀治の仮説を裏付けていた。
銀治は深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。そして、小声だが、はっきりとした声で言った。
「おまえ、千里なんだろ?」
百花は変わらず、嫣然たる笑いを浮かべていた。
山のふもとにある寺院には、絹子という名の奥方様がいた。彼女は六十歳ぐらいに見えたが、実際の年齢はもっと上なのかもしれない。絹子はこの寺の住職にあたる息子と共に暮らしていたが、孫はいなかった。だが、絹子を実の祖母のように慕い、週に一度は絹子に会いに来る幼い子供たちがいた。近所に住む小学一年生の男の子と女の子で、名前は銀治と千里といった。
「お絹さん」
「よく来たねえ。お上がり」
「おじゃましまーす」
銀治と千里は、絹子をお絹さんと呼んでいた。
「ねえ、お絹さん。今日は何かお手伝いすることない?」
二人の子供たちは、膝の悪い絹子の手伝いをよくしていた。
「そうだねえ。お社の掃除をしてもらおうかね」
この寺の境内には、古ぼけた社が一つあった。山内に社とは、一見不似合いに思えるが、その社は遠い昔この寺が建立された当初からそこにあったらしい。もしかしたら、それ以前の、神代の時代からあったのかもしれない。絹子は幼い頃から、この社の掃除を欠かしたことはなかったが、膝を悪くしてからは、その役目を銀治と千里に譲っていた。
二人が手伝いを終えると、絹子はいつもおいしいお茶とお茶菓子を出してくれた。ちょうど社が見える縁側に座り、絹子は口癖のように言っていた。
「このお社はね、海の向こうからやってくる神様が、日本にいる間に滞在する場所なんだよ。神様は『まれびと』といってね、その時そばにいた『良き人』の願いを叶えたら、また帰って行ってしまうの。だから、いつ神様がいらっしゃってもいいように、お社を綺麗にしておかなくちゃね」
そして、決まって絹子は、子守唄のように囁くのだ。
「まれびと来りて、良き人の願い叶えたもう」
※
高校二年生になった銀治は、学校帰りに学友と連れ立って、ファーストフード店を訪れていた。窓際の席に腰を下ろした銀治は、注文したハンバーガーセットをテーブルに置いたまま、窓から外を見ていた。雪が降っていた。
「銀ちゃん食わねえの?」
銀治の横に座っている羽鳥拓也が声をかけた。銀治は応えない。物悲しそうに空を見ている。
「どうした? 悩みがあるなら聞くぞ」
心配そうに拓也は尋ねる。
「そうよ。須藤くん最近元気ないし」
銀治の前に座っている梶谷冬美も同調した。その隣にいる柳百花も心配そうな顔をしていた。
「別に、悩みってほどのことでもないんだけど…」
銀治はゆっくりと体の向きを戻した。
「なんでも言えよ。俺と銀ちゃんの仲じゃないか」
拓也の言葉にうっすらと口元を綻ばせながら、銀治は続けた。
「ただ、今日だなあと思って…」
「今日って何が?」
心当たりが何もない冬美に対し、拓也には思い当たることがあるようだ。はっと気付き、眉根を寄せた。
「今日―― 十二月二十日は、俺の幼馴染が失踪した日なんだ」
「…失踪?」
冬美は驚きを隠せないようだ。
「家出とかじゃないくて? ホントにいなくなっちゃったの?」
「うん。まだ見付かってないんだ」
「そうなんだ…」
冬美は悲しそうに視線を下に向けた。
「…早く。見付かるといいね」
「うん」
努めて明るく、銀治は応えた。そして、独り言のように呟いた。
「あの日も、雪が降ってたんだ」
ファーストフード店の前で拓也と冬美と別れ、銀治は百花と並んで歩いていた。雪は止んでいたが、辺りは薄暗くなっていた。二人は山の方ではなく、町の中心の方へ向かっていた。
「雪、止んで良かったね」
百花が静かに言う。
「…うん」
百花は身長が百六十五センチで、女性としては背が高く、歩くたびに長く真っ直ぐな黒髪が揺れていた。銀治と並んで歩いていると、二人の身長はさほど変わらない。銀治の髪は茶色がかっていて、パーマをかけているように見えるが、全て天然である。
「どうしたの?銀ちゃん、店出てから『うん』しか言ってないよ」
百花は足を止めて言った。銀治は数歩進んでから立ち止まり、百花に向き直った。
「百花こそ、さっき俺が言ってたこと覚えてるか?」
周りには住宅街が広がっていたが、不自然なほど静かで、百花には銀治の声しか聞こえなかった。
「うん。覚えてるよ」
百花は少し笑って応える。それを見た銀治は向きを変え、山の方を振り仰いだ。夕日はすっかり沈んでしまったようで、東の空から夜が始まろうとしていた。
「俺の幼馴染の大久保千里は、百花と違って、背は低くて、髪も癖毛で長く伸ばせなくてさ。それが嫌なんだって、いなくなる前に言ってたんだ。けど俺は、それも千里の個性だと思ってるけどね」
銀治は一度視線を足元に下ろし、そしてゆっくりと視線を百花に戻した。暗くて表情はわかりにくいが、微笑しているように思えた。彼は、今まで考えてきた結論を、今まさに言おうとしていた。彼は現実主義者で、怪異や魔法など信じてはいなかったが、ここ数年の彼の周りで起こった出来事は、それらなしには説明がつかなかった。そして、百花とは高校に入学してから出会ったのだが、銀治は彼女がどこに住んでいるのか知らず、彼女の両親や家族に誰も会ったことがないという事実が、銀治の仮説を裏付けていた。
銀治は深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。そして、小声だが、はっきりとした声で言った。
「おまえ、千里なんだろ?」
百花は変わらず、嫣然たる笑いを浮かべていた。