「……でね、真珠(しんじゅ)くんが、退院したらどこかへ行こうって言ってくれて」

 そう話す姉、有香(ありか)の頬は紅潮していて、有愛(ありあ)は強張った笑みを顔に貼り付けた。

 姉から『真珠くん』の話を聞くたびに、ちくりと有愛の胸は痛みを覚える。

──真珠くんのことは、わたしだって好きなのに──。

 しかし、真珠と最初に顔見知りになり言葉を交わしたのは、有香なのだった。

 有愛は、有香や真珠とは違う階に入院している。

 普通なら真珠と知り合いになることはなかっただろう。

 仲良くなった人がいる、と告げられ、1階下の病棟まで降りてきて有香から紹介された真珠をひと目見て、有愛は彼を好きになってしまった。

 有愛たちと同い年で、幼いころから入退院を繰り返している病人らしく顔色は悪いが、柔和な雰囲気と整った顔立ちが、まるで王子様のようだと有愛は真珠に心を奪われてしまった。

 けれど、それを口にしたりはしなかった。

 姉の有香が彼に恋していることはすぐにわかったし、有香の邪魔をするつもりは毛頭なかった。

 自分の内に灯ったささやかな恋心はこの胸に仕舞っておこう、と密かに決意してもいた。

 なにより、心臓を患う有香が、余命いくばくもないという事実が有愛の決意に影響を与えていた。

 有香の恋が実ってほしい。

 誰よりも幸せになってほしかった。

 そのためなら、自分の恋心などいくらでも誤魔化せる。

 ただ、有愛には、真珠のことで誰にも明かせない秘密があった。

 それに気づいたときには、あまりの衝撃に言葉を失ってしまった。

 だからこそ余計に、この事実と恋心は隠し通さなければいけないと強く誓ったのだった。

「有愛は?
 有愛には、まだ王子様は現れないの?」

 それは、純粋で、無邪気な屈託のない質問だったはずだった。

 少なくとも、有香にとっては──。

 その言葉が、どれだけ有愛の心をえぐったのか、有香は気づいていない。

「いないよ、まだ。
 早く現れてくれればいいのにね、わたしの王子様」

 はにかむように有愛が言うと、そっかー、と気落ちしたように有香が天井を見上げる。

 つられて有愛も天を仰ぐ。

 味気ない真っ白な天井が目に入る。

 無機質なLEDが並んで白々しく空間を照らしている。

 どこかから漂ってくる、消毒の匂いと、純白の壁が自分は病人なのだと思い出させる。

 自動販売機と簡素な丸いテーブルと椅子が置かれただけの部屋とも言えない病棟の廊下の一角に設けられた談話室。

 そこには、入院着を着た瓜二つの少女が向かい合って座っていた。

 長い黒髪の毛先をもてあそびながら憂いを帯びた表情を浮かべる車椅子の少女、有愛と、点滴の針が細い腕に痛々しく刺さっているボブヘアの少女が有香だ。

 ふたりは双子で、姉が有香、妹が有愛。

 髪型が違わなければふたりを区別するのは難しいかもしれない。

 心臓を患う有香と、医師でさえ首を傾げる謎の病で、自分の足で立つと激痛が走り、子どものころから車椅子生活を余儀なくされていた有愛。

 有香が入院する病棟の談話室でふたりはこうして、世間話をしては、慌ただしく廊下を行き交う看護師や点滴を引きずって歩く入院患者を眺めては益体もない時間を過ごしていた。

「有愛にももうすぐ王子様が現れるよ。
 あたしたちみたいに、前世の記憶を持ったまま生まれてきた運命の人が」

 ひざ掛けを指先でなぞっていた有愛の細い指が止まる。

 そう、有香と有愛の姉妹には、前世の記憶がはっきりと残っているのだった。

 そして、有愛を襲った、歩けないという謎の病の元凶も、その前世にあった。

 佐野(さの)有愛の前世、それは『人魚姫』だった。

 長らく童話として親しまれてきた、あの、悲恋を迎えた、話の大筋ならだいたいの人が知っているであろう物語の主人公の生まれ変わりが有愛なのだった。

 有愛が歩けないのは、人魚姫だった名残りだ。

 有愛の足が動かないという病状に何とも病名を付けられず、医師が頭を抱えるのも当然のことであった。

 そして、姉の有香は、人魚姫に声と引き換えに人間の脚を与えた魔女の生まれ変わりだった。

 魔女と人魚姫が双子に生まれ変わるなど、神か運命のいたずらか知れないが、ふたりのあいだに遺恨は残されず、どちらも長い入院生活を励まし合いながら過ごしてきた。

 ただ、ふたりは仲が良いだけの姉妹ではない。

 有香には、踏んではならない地雷があり、少しでも彼女の機嫌を損ねれば、なにを言われるかわからないという恐怖にも似た感覚を有愛は抱いていた。

 だから、有愛は姉の顔色を伺いながら生きてきた。

 それを抜きにすれば、有香はごく普通の優しい姉だった。

 有愛は姉を好きだったし、双子の片割れとしては、もうひとりの自分に、少しでも長く生きてほしかった。

 沈黙が落ちる。

 行き交う人々の忙しない足音が沈黙の間に割り込む。

 特に、息苦しさは感じない。

 ずっと言葉を交わし続けなければ気まずくなるような関係ではない。

 どちらも喋らないなんて、よくあることだ。

 居心地の良い沈黙。

 それによって空気が淀むわけではない。

 しばらく行き交う人を眺めていると、突然有香が、「あっ」と声を上げた。

 廊下の向こうから背の高い、ふたりと同じ入院着を着た細身の少年が談話室に向かって歩いて来たのだ。

「真珠くん!」

 ぱっと顔色を明るくして、有香が立ち上がる。

 有愛は思わず顔を伏せた。

 自分の顔が赤くなっているだろうことがわかるからだ。

「真珠くん、座って座って」

 有香が、甲斐甲斐しく椅子を引いて真珠を座らせる。

「検査結果、どうだった?」

 有香の質問に、有愛は絶句する。

 いくら同じ入院患者同士といえど、デリケートな話を、ずかずかと訊いてしまえる有香に有愛は驚いていた。

 それとも、ふたりは自分が知らないうちに、なんの話題でも話せる関係に昇格したのだろうか。

 真珠は、整った顔に、わずかに疲れを滲ませて、微笑んだ。

「変わりはないって。
 それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないけど」

「悪くなってないならよかった。
 あたしなんか検査のたびに余命宣告ぎりぎりのこと言われるんだもん、病気が悪化するまえに心が折れちゃいそうだよ」

「大丈夫だよ、俺も遠からず有香ちゃんのあとを追うことになるから、天国で一緒に現世でやれなかったことやろう」

 落ち着いた声音で囁くような話し方は真珠の柔らかな内面を表しているようだ。

「やだ!
 縁起でもないこと言わないでよ!
 あたしは、そんな風に諦められない。
 だって、死んじゃったら真珠くんに会えなくなっちゃうじゃん!」

 ほとんど告白のような有香の言葉に、真珠は軽く笑ってみせる。

 長年病気と向き合っているせいか、16歳と、双子と同い年のはずなのに、日常に「死」を身近に感じていることでどこか人生を達観している風でもあった。

 塔田(とうだ)真珠は、徐々に身体の筋肉が衰える難病と闘っている。

 病状が進行すれば、指の一本すら動かせなくなるのだと、特効薬はないんだと、初めて真珠からその話を聞いた有愛は、思わず泣きそうになってしまった。

 真珠を襲った理不尽に、怒りとも、憤りとも同情ともつかない、もしくはそれら全部を含んだ激情が、人知れず有愛の中に生まれた。

 神様は何を見ているのか。

 なぜ真珠にそんな絶望的な試練を課すのか。

 真珠が何をしたというのだろう。

 しかし、ここで真珠とは何の関わりもない、友達ですらない自分が泣くことはおかしいと、何とか涙をこらえたのだった。

 一目で恋に落ちてしまったのだとは、有香を前にして決して口にするわけにはいかなかった。

 足が動かないという悩みに支配され、病院暮らしが長い有愛は、塔田真珠に生まれて初めての「恋」をした。

 それは、有香も同じで、真珠と顔見知りになってからは、有愛の前で真珠の話しかしなくなった。

 真珠に恋する有愛には、それはかなりつらいことだった。

 けれど、姉の前では、自分を取り繕う。
 
 姉の恋愛話を聞く、献身的な妹を演じる。

 だから今日も、物わかりのいい妹として、笑顔を浮かべ、有愛は言った。

「じゃあ、わたしはそろそろ帰るね」

 そう言って車椅子を動かそうとしたとき、真珠が、有愛の腕を咄嗟に掴んだ。

 意外なほど力強かった真珠の腕を、有愛がぽかんと見つめていると、「せっかく今日は調子が良いから、もう少し話さない?」と真珠が微笑を作りながら言った。

 ぎり、と視界の外で有香が歯噛みする音が聞こえた気がして、肩をすくめながらも、有愛は、初めて触れた真珠の感触に思った以上に高揚していた。

 悪い気がしなかったというべきかもしれない。

 有香を差し置いて、真珠にこんなに積極的な行動を取らせた自分に、興奮していたともいえる。

 有香の顔は見ないようにした。

 造り物のような薄ら笑いを浮かべながら、額には青筋を立てているに違いない。

 大人しく、自分に従順で、自分がいつも優位に立っていると疑いもしない見下していた妹が、真珠にあからさまに好意のこもった視線を向けられている。

 耐えられるはずがなかった。

──いつまで手を握っているの、早く離しなさい! 

 有香は、ありったけの憎悪をこめて、有愛を睨んだ。

 ひりひりするような有香の視線に、申し訳なさそうな困惑した笑みを浮かべる有愛に気づいて、真珠がぱっと手を離す。

「ごめん、つい……」

「いえ、すみません……」

 有愛は、誰にともなく謝って、身を縮こまらせた。

 恐る恐る有香を見上げると、有香は何事もなかったかのように優しげな笑みを貼り付けている。

 気まずい沈黙が降りたとき、ことさら明るい声で、有香がそれを破った。

「有愛、病棟に同年代いないもんね、つまらないだろうし、真珠くんの言う通り、お喋りしていったら?」

「あ、うん、ありがと。
 わたしなんかのために、気を遣ってくれて、真珠くんもありがとう」

「有愛ちゃんは自己主張しないから、色々我慢してるんじゃないかって、心配になるよ」 

 真珠の全てを見通したような言葉に、どきっとする。

 もしかしたら真珠は、有愛が寄せる真珠への好意に気がついているのではないかと、有愛の胸の中で急速に不安の塊が膨張し始める。

 この恋心は、誰にもバレてはいけないはずなのに。

 有香の邪魔をしては、いけないはずなのに。

「……それじゃ、お言葉に甘えて……」

 3人は、それから1時間ほど雑談に興じた。

 病気が治ったらしたいこと、行きたいところ、食べたいもの、担当医や看護師への不満や愚痴。

 話題が、それぞれが患う病のことに移ったとき、有愛は真珠へ、いつもとは違う雰囲気が漂っていることに気づいた。

 達観した空気は変わらないが、どこか違う。

 疲れたような、それでいて今まで見せたことのない、妙に吹っ切れたような、清々しさを真珠から感じたのだった。

「みんな、早く治るといいよね」

 真珠のその言葉を最後に、雑談はお開きとなった。

 疲れた様子の有香を支えながら、廊下を去っていく真珠の後ろ姿に、いつもだったら滲んでいる憂いが、今日は感じ取れなかった。

 真珠の後ろ姿に感じた違和感が心の隅にわだかまったまま、それでも何とか眠りに就き、迎えた翌朝、その報せは突然もたらされた。

 姉の有香が車に轢かれて集中治療室に運び込まれ、治療を受けているが、意識不明の重体だという。

 事故があったのは昨夜、遅くなってからだが、有愛が入院患者であることから、夜中に起こして報せることは避けて、起床時間まで待っていたのだという。

 食事を運ぶとともに、事故の報せを伝える役目を負わされた看護師は、気の毒そうな表情を浮かべると、肩の荷が下りたような足取りで個室を出て行った。

 有愛の頭は、非常に強い勢力まで発達した台風が直撃したような、数センチ前も見えないような荒れ狂う嵐の中にいるような、混乱と疑問という暴風雨が吹き荒れたようになっていた。

 有香が事故?

 車に轢かれた?

 昨夜?

 入院しているはずなのに、どうして事故などに遭ったのだろう。

 有香と車という組み合わせが結びつかない。

 そこで、はっとあることに思い至った。

 子どものころから病院での生活が長かった有香は、好奇心から夜間になると病院を抜け出し、すぐに連れ戻されるということが何回かあったのだ。

 回を重ねるにつれ、悪知恵が働き始めた有香は、双子であることを最大限に活かして、黒髪のウィッグを被って有愛を装っていた。

 バレても有愛だと言い張ることができるし、それが通用しなくても、そこまでして外に出たいのだと、看護師たちの同情を誘うための道具にもなる。

 すぐに息が切れてしまうから、移動に車椅子は欠かせない。

 おそらく、今回も同じように外へ出て、運悪く事故に遭ってしまったのだろう。

 意識不明の重体だと看護師は言っていた。
 
 有香は、死んでしまうのだろうか。

 神様、そんなの、あんまりです……。

 有愛の頬を、大粒の涙が溢れ伝う。

 子どものように、しゃくりあげそうになる。

 ぐ、と呼吸を止めて、涙を堪えると、居ても立っても居られず、慣れた動作でベッドから傍らの相棒、車椅子に乗り移る。

 呼吸を乱しながら、病室を飛び出し、廊下を駆け抜けてエレベーターで1階まで降りる。

 集中治療室は、病院の正面入口とは別の、救急車で搬送された患者を受け入れる別棟にあった。

 平和な朝の風景のように、鳥のさえずりが空から降りてきて、絶望の海に投げ出された有愛は、呪いをかけるように窓の外を自由自在に飛び回る小鳥たちを睨みつけた。

──有香が大変な目に遭っているのに、何でそんなに呑気に鳴けるの?

 八つ当たりだとはわかっていたけれど、何かのせいにしなければ、メンタルが保たないというのも事実だった。

 一度も足を踏み入れたことのない集中治療室へ辿り着くと、ガラス張りの向こうには、ベッドがあり、忙しなく働く看護師の姿があった。

 あそこに有香が……?

 そう思って室内をよく見ようと、ゆっくり近づいていくと、「来ないで!」と金切り声が鼓膜を揺らし、有愛は動けなくなった。

「お母さん……」

 集中治療室の前には、すでに泣きはらした母親の裕香子(ゆかこ)と、父親の俊章(としあき)の姿があった。

「あんたのせいよ、有香がこんな目に遭ったのは、全てあんたのせい!」

 裕香子が涙を吸収したハンカチを震えるほど握りしめ、世界の終焉を告げた理不尽な神様に向けるような、憎悪のこもった視線で有愛を睨みつける。

「同じ病院にいたのに、どうして有香を止めなかったの?
 あんたが、しっかりあの子を見ていたら、こんなことにはならなかったのに!」

 突然浴びせられた罵倒に、有愛の表情は強張り思考は完全に停止していた。

 長い黒髪を乱雑に束ね、ほとんど部屋着のまま飛び出してきたことがわかる裕香子は、制止しようとする俊章の手を振り払いながら、有愛を罵り続けた。

「何よ、その顔。
 どうして有香は余命わずかなのに有愛、あんたは歩けないだけで自分が1番可哀想だって顔をしてるの?
 その寿命を有香に差し出しなさいよ!」

「おい、さすがにちょっと、こんなところで……」

 見兼ねて裕香子を制した俊章は、これから仕事に向かうのかスーツ姿だ。

 ガラス張りの向こうに管に繋がれた細い身体が横たわっているのが、ちらりと目の端に入った。

 酸素マスクをつけられたあれが有香だろう。

 有愛は、身近に迫った姉の死に、身体を震わせ戦慄していた。

 その間も、裕香子は実の娘である有愛への罵倒を止めない。

 いつもこうだ。

 裕香子は、有香ばかり溺愛して、足が動かない有愛をお荷物扱いし、有香が幼いころから妹に意地悪していても、決して有香を怒らなかった。

 それどころか、歩けない有愛の手が届かないところに食事を置いたり、介助が必要な有愛を放置したりと、幼いころから、有香と裕香子は有愛に虐待寸前のことをしていた。

 親がいなくては生きていけないと本能的に悟った幼い有愛は、無関心を貫く俊章も含め、家族の前では笑みを絶やさなかった。

 親に捨てられたら、自分は死ぬ、だから、両親のご機嫌取りをしなくてはならない。

『人魚姫』と『魔女』としてともに前世を過ごし、双子として生まれ変わったものの、有愛と有香には苦楽をともにした絆のようなものは生まれなかった。

 有香が有愛に攻撃的なことには、理由があった。

 有香は、魔法が使える。

 有愛の動かない足が前世からの名残りであるのと同じように、魔女だった有香は、今でも魔法が使えるが、その代償として、命が削られ、短命という無慈悲な運命を定められたのだった。

 魔法を使いたいなんて望んでいないのに、また自分のために魔法は使えないのに、勝手に運命に背負わされた短い余命。

 どうして自分だけが、と有香が有愛を恨むのも、仕方のないことではあった。

 足が動かないだけで、有愛にはその他に不自由なところはない。

 裕香子は、有香が有愛に向ける憎悪の理由を知らないはずだが、これもやはり運命がそうさせるのか、有香の味方をする。

 
 自分は長く生きられるという負い目から、有愛は有香に強く出られない。

 だから、真珠のことも、有香には悟らせまいと必死に押し隠してきた。

 もしかしたら、有香の理不尽な運命は、自分に降りかかった可能性だってあるのだ。

 そう思うと、有香には幸せになってもらわないと、有愛の中で罪悪感がわだかまり続けてしまう。

 結局は、自分の罪悪感を減らしたくて、ほとんど自分のためにそう焦っているだけなのかもしれないけれど。

「ああ……有香……、可哀想に、どうしてこんな目に遭わないといけないの……」

 裕香子は堪えきれないというように、目元を押さえて泣き崩れた。

 俊章が、わずかに面倒臭そうに、裕香子の肩に手を置く。

 ──自分は、こんなにも愛されていなかったのか。

 裕香子と自分の間に、視えない強固な膜が張ったように、泣き声が遠く聞こえる。

 貧血を起こしたような、耳鳴りがするような感覚が襲い、身体の端々が、血の一滴が秘めたる悲鳴を上げる。 

 息が苦しい。

 ──お母さん、わたしを見てよ。

 幼いころから、幾度となく心の中で叫んできた言葉。

 飲み込んできた言葉。

「……自殺未遂なんて、世間体が悪いこと、近所にも会社にも知られるわけにはいかないな。
 面倒なことになった」

「また、あなたは世間体、面倒だなんて言うのね!
 自殺しようとするくらい有香は追い詰められていたのよ、可哀想だと思わないの?
 いつもいつも、自分のことばかり!」

 俊章がぽつりと零した呟きに、噛みつかんばかりの勢いで裕香子が叫ぶ。


 静まり返った寒々しい廊下に、裕香子の慟哭だけが響き渡り、ひりひりと、有愛の頬を、焼いていく。

──有香が自殺を図った?

 有愛の脳が殴られたように揺れ、衝撃が背骨に沿うように全身に走る。

──真珠との会話を、あれだけ楽しみにしていた有香が?

 考えられない。

 動機がわからない。

──いや、自分が気づかなかっただけで、姉は将来を悲観して、悩んでいたのかもしれない。

 一番近くにいた自分が気づけなかったなんて、裕香子になにを見ていたのかと、責められても仕方がないのかもしれない。

──そのとき。

 微かな足音がリノリウムの床を打つ音が聞こえて、有愛は顔をあげた。

「真珠、くん……」

 相変わらず生気の薄い顔色の真珠が立っていた。

「有香ちゃん……怪我したって聞いて……大丈夫なの?」

 囁くような真珠の声が憂いを帯びている。

 ガラス越しに有香を見つめると、悲しそうに大きな瞳を伏せた。

「怪我なんかじゃないわ」

「え?」

 裕香子の言葉に、真珠が戸惑った様子で有香から目線を外す。

「病状が悪化したの。
 有香が怪我をしたというのは間違いね。
 ……あなたは?」

「あ、すみません……。
 有香さんと同じ病棟に入院している塔田といいます。
 あの、怪我じゃないって……」

「誤った情報が伝えられたのね、心配してくれてありがとう」

 裕香子には、微笑んでみせるだけの余裕さえあったことに、有愛は素直に驚いていた。

 なぜ俊章に同調したのか。

 裕香子も、結局は世間体を気にしているだけなのか。

「自殺なんて、するわけがないもの」

 裕香子の呟きは、有愛の耳に届くに留まった。

「そう、ですか。
 僕の聞き間違いですね、早とちりしてすみません。
 ……有愛ちゃん、ちょっといいかな」

 裕香子たちに軽く頭を下げると、真珠はいつもよりもはっきりとした声音で告げた。

「え?
 はい、なんでしょう」

 両親から離れた位置までくると、真珠は有愛を真っ直ぐに見つめて言った。

「昨夜は、ありがとう、助けてくれて。
 今朝ね、治験に参加できることが決まったって担当医から知らされて……。
 昨日、あのまま死んでたら、後悔して死んでも死にきれなかったかもしれない。
 治験でどこまで治るかわからないけど、今まで治る見込みすらなかったから、大きく前進したと思う。
 自殺なんて馬鹿なこと考えて、有愛ちゃんにも迷惑かけてごめん。
 有愛ちゃんに怪我がなくて本当によかった」

 息つく暇もなく早口で語る真珠に目を丸くしながらも、有愛はひたすら困惑していた。

 真珠の話が理解できない。

「あの……ちょっとなに言ってるか意味が……」

 申し訳なさを顔に貼り付けて訊くと、真珠は苦笑いした。

「気、遣わなくていいよ。
 俺が自殺しようとしてたこと、隠そうとしてくれてるんだろ?
 希望の光もようやく見えたし、俺はもう大丈夫。
 本当にありがとう、有愛ちゃん」

 有愛は愕然とした。

──真珠が自殺しようとした?

 そして、なぜか彼は有愛が自分を助けたのだと思い込んでいる。

 そこで、はっと有愛は息を呑んだ。

 昨夜、自分が寝ている時間に起きたであろう出来事が、パズルのピースを埋めるがごとくあるべき形にはまっていく。

 昨夜、真珠は自殺するため病院を抜け出した。

 そして、車道に飛び出し車に轢かれそうになったそのとき、彼を突き飛ばし代わりにはねられた人物がいた。

──おそらく、それが有香だ。

 有香は普段から、外に出るときは基本車椅子に乗っている。

 体力が極端になくて、歩くとすぐに息が上がってしまうからだ。

 有香は脱走の常習犯だ。

 脱走するときは長い黒髪のウィッグをかぶり、車椅子に乗っていた。

──そう、一見すれば、その姿は有愛のようにしか見えない。

「俺、あのとき、一瞬気を失っちゃって、次に気づいたときは病室で……。
 だから、有愛ちゃんがどうなったか心配で……」

 有愛の頭の中にイメージが浮かぶ。

 車に向かって飛び出した真珠、真珠を突き飛ばした人物、横倒しになる車椅子、風になびく長い黒髪……。

 おそらくそれが、真珠が意識を失う前に見た最後の光景なのだろう。


 真珠が勘違いするのも無理はない。

 真珠を救ったのは有香だ。

 正さねばならない。

──だが。

 このときの有愛を的確に表すなら、『魔が差した』だろうか。

「わたしは、大丈夫。
 真珠くんが無事でよかった」

 すると、真珠が今まで見たこともないような、心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「やっぱり有愛ちゃんだったんだね!
 ありがとう、有愛ちゃんは命の恩人だね」

 有愛がくすぐったそうに笑う。

「そんな……大袈裟だよ。
 わたしは大したことしてない。
 気づいたら身体が勝手に動いてて……。
 それより、治験、よかったね、頑張って」

「うん、ありがとう。
 ……俺、もう間違えないから」

「え?」

「前世で俺は、本当に命を助けてくれたのは、人魚姫である君だったのに、別の人だと思い込んで結婚までしてしまった。
 人魚姫を──君を傷つけた」

 有愛は固唾を呑んで真珠を見上げる。

「まさか……」

「うん、思い出したんだ。
 俺は、童話、『人魚姫』に出てくる王子様の生まれ変わりなんだって」 

 そう言って、真珠は晴れ晴れと笑った。


「運命の人は、有愛ちゃんなんだって」