初めて"彼"と出会った日のことを、いまだに覚えている。あれは、私が3歳の誕生日を迎えた日のことだった。
  
颯姫(さつき)。誕生日おめでとう。これはパパとママからのプレゼントだ」

「うわぁ……!! ありがとう! 開けてみてもいい?」

「えぇ。もちろんよ」

綺麗な袋から取り出した瞬間、私の心はたちまち彼に奪われた。一目惚れだった。薄い茶色に包まれた、モコモコの姿。こちらを見つめる、つぶらな瞳。大袈裟かもしれないが、幼い私にとって、彼が私の王子様だと感じた。

「パパ! ママ! ありがとう! すっごく気に入った!」

「それは良かった。そうだわ。その子に名前を付けてあげたらどうかしら?」

「……名前?」

「それはいい考えだな。名前があれば、もっと愛着が湧くぞ」

「名前、付ける!」

本当は、もっとかっこいい名前を付けたかったが、3歳児に難しい名前が付けられるわけがなかった。シンプルな名前だったけど、私だけの特別な存在ができたようで嬉しかった。

「クマ太。これからよろしくね」

それから時が流れ、12年後。高校生となった今でも、私はクマ太を溺愛していた。

***

「颯姫ー! おはよ!」

香澄(かすみ)ちゃん! おはよう」

私の名前は七瀬颯姫(ななせさつき)。どこにでもいる普通の女子高校生。……いや、ひとつ違う点を挙げるとすれば、ぬいぐるみへの愛が尋常ではないというところだ。あの日、クマ太と出会ってから、私はずっとクマ太のことを手放せないでいた。それは高校生となった今でも変わらない。一緒に登校しているのは、立花香澄(たちばなかすみ)。彼女とは中学時代からの仲だ。私の異常とまでいえるクマ太への愛を理解してくれる、数少ない存在のひとりだ。

「颯姫はどこの部活に入るか決めた?」

入学してから早一週間。そろそろ、どの部活に入るかを決めなくてはならない。

「もう決めてるよ! 私はサッカー部のマネージャーをするつもり!」

「サッカー部? しかもマネージャーだなんて。颯姫にしては珍しいね」

私はあまり運動が得意ではないため、中学時代は手芸部に所属していた。単純に裁縫が好きという理由もあるけれど、運動すること自体、私はあまり好きではなかった。

「実はね……サッカー部にめっちゃイケメンの先輩がいたの!」

「はぁ……。颯姫ったら」

あれ? 私なにか変なこと言ったかな。

「その先輩って神谷先輩でしょ? 神谷隼人(かみやはやと)。颯姫もそっち側の人間だったんだね」

「えっと……多分? それより、香澄ちゃんも知ってたんだね」

「在校生……いや、新入生の中でも結構有名な話だよ。神谷先輩目当てで、サッカー部に入ろうとする女子が多いって」

「そうなんだ……。ライバルが多そうだね」

「ライバル……ってアンタ! まさか狙う気なの?!」

「もちろん! 一目惚れしちゃった♡ 先輩はきっと私の王子様なんだよ」

その言葉を聞いて、またもやため息をつく香澄ちゃん。

「王子様って……。やめといた方がいいと思うけどね」

「えっ? どうして? まさか香澄ちゃんも狙って……」

「それはない」

そんなすぐに否定しなくても……。

「まぁ、すぐに分かるよ」

「えぇ……。気になるじゃん」

「秘密ー! ちょっとくらい痛い目あってもらわないとね!」 

「なによそれー!」

私たちは、軽口を叩きながら学校へと向かった。この時、香澄ちゃんの言葉を真剣に聞いておくべきだった。そう思ったのは、その言葉の意味を痛感した後だった。



その日の放課後。それぞれの部活で部集会が開かれた。といっても、サッカー部はグランドに集まって顔合わせをするだけだった。

「げっ……。凄い人の数」

グランドにいたのは、入部希望の男子生徒。そして、沢山の女子生徒だった。

「まさか、みんな神谷先輩目当てだったり……」

やっぱり、ライバルが多そうだ。そんなことを考えていると、先輩部員がやってきた。あ! 神谷先輩だ。やっぱり、かっこいいなぁ……。声に出していないだけで、周りの女子たちも同じことを考えているのだろう。そんな表情が見て取れた。

「集合!」

その時、低めの声で合図がかかった。あの人も、神谷先輩どタイプは違うけれど、かなりイケメンだな。

「まずは自己紹介から始めるな。俺は部長の桐島北斗(きりじまほくと)だ。よろしく」

桐島先輩に続き、他の部員たちも次々に挨拶をする。ユーモアを交えながら自己紹介をする人もいて、部の雰囲気としては好印象だった。

「じゃあ最後にうちのエースを紹介する。神谷隼人だ」

きた……!!

「エースだなんて照れるな。神谷隼人です。サッカー部のキャプテンを務めています」

「きゃぁぁあ!」

びっくりした……。先輩が挨拶をすると、急に悲鳴が聞こえてきた。確かにかっこいいけど、この状況で歓声をあげるのはマズいんじゃ……。どうやら私の勘は正しかったらしく、どこからか冷ややかな視線を感じた。

「俺たちの自己紹介はこれで終わりだな。じゃあ次は、新入生。自己紹介してもらえるか?」

私たちの番がきた。男子生徒が、次々と自己紹介をしている。あ……次は私の番だ。いよいよ私の番がやってきた。 
 
「私は……」

「はいおっけー。みんな自己紹介ありがと」

……え? 無視……された?

「あのっ……! 私たちは自己紹介しないんですか?」

男子生徒だけ挨拶をして、私たちはしなくても良いのだろうか。

「あぁ……。マネ希望の人たちでしょ。自己紹介なんて必要ある?」

「なっ……」

はぁぁあ? 意味分かんない。そう思ったのは私だけではないらしく、周りの女子たちもザワついている。

「……はぁ。じゃあ今日は顔合わせだから解散。あ、マネ希望の人だけ残ってね」

桐島先輩の言葉は、どこか冷たさを感じた。さっきの視線も、桐島先輩のものなのだろう。私たちだけ残して、何を話すというのだろう。しかし、それが良い話ではないことくらい、その場にいる全員がすぐに分かった。

「マネ希望の子たちは、1、2、3、4………。10人か。去年よりは少ないな」

10人で少ないって……。去年はどのくらいの希望者がいたのよ。

「正直、そんなにマネージャー要らないのよね。というか単刀直入に聞くけど、まさか隼人目当てで入ろうとしてるわけじゃないよな?」

ほんとに単刀直入! どストレート過ぎて、答えに困ってしまう。

「ぶっちゃけ、そういうのマジで迷惑なんだよね。そういう女子多すぎ。俺たち遊びでやってるわけじゃないの。特に今年は俺たちの最後の試合が控えてるから、邪魔をするようならむしろいない方が助かるんだけど」 

何よこの先輩! 言ってることは正論だけど、言い方ってもんがあるじゃない!香澄ちゃんの言葉の意味がようやく分かったわ。 

「北斗。それは言い過ぎ」

そうだそうだ! 神谷先輩もそう言ってるぞ! これが口に出せたらどれほど楽だろう。

「あぁ? なんか文句あるんか?」

「……別に」

「あ?」

「……あ」 

しまった……。火に油を注いでしまった。

「……とにかく、そういうことだから。分かったならマネージャーを諦めるんだな」

その一言で一斉にその場を立ち去る女子たち。

「……アンタは」

「私? 入部希望です。マネージャーとして」

「おまっ……! 話聞いてたか?」

えぇもちろん。聞いてましたとも。神谷先輩目当て? そうだよ。何が悪い。だけどそれ以上に、この人の言いなりになるのは癪に触った。

「入部希望もしっかり持ってきました!」

カバンから入部届を取り出して、勢いよく先輩に突きつける。

「……それ、先生に提出するやつ」

「……え?」

私は慌てて入部届を確認した。

「ほんとだ……。あ! でも今日までだ。 まだ間に合います!」

「……ははっ! ごめん限界。君、面白いね」

神谷先輩が笑ってる……。しかも私が言ったことに。

「ごめんごめん。君を歓迎するよ。そういえば名前まだ聞いてなかったね。なんていうの?」

「七瀬颯姫です」

「七瀬颯姫……。綺麗な名前だね」

きききき、綺麗?! 今、神谷先輩が綺麗って言った?

「そんなんだから勘違いさせんだよ。変なこと言うな」

「じゃあ、北斗ももう少し言い方変えた方がいいんじゃない?」

私は、二人のやり取りをポカーンとして見つめた。

「あの……お二人は」

「あぁ、僕たちは幼馴染なんだ。北斗の口が悪いのは昔からで」

「マネージャーにそんなこと言わなくてもいい」

「……!! 認めてくれるんですか!」

「うっさい! 俺はもう帰る。お前らも今日はオフなんだから早く帰れ」
 
「だからその言い方が……。はぁ、まぁ今更って感じか。じゃあな。北斗」

神谷先輩がそう言うと、桐島先輩は軽く右手を挙げた。思ったより悪い人じゃないのかも……? 口は超絶悪いけどね!



「ごめんな。北斗が酷いこと言っちゃって。根は悪いやつじゃないんだ。ただ……昔から口が悪いところがあって」

「いえ……! 私は大丈夫です」

それに、桐島先輩の言っていることは間違ってない。申し訳なさそうにする神谷先輩を見ると、私の方が罪悪感でいっぱいになる。

「でも、桐島先輩の言ってることも間違いじゃないって言うか……」

「えっと、それは……」

今、私なんて言ったの?

「……あ! いや、違うんです! 神谷先輩に一目惚れしたとか、そんなことは言ってません!」

「……颯姫さん?」

あぁ……! もう! バカバカバカ!!! 何言っちゃってるのよ私!

「あぁあ! ほんっとすみません。私の口が勝手に動いて……」

「あははっ! やっぱ君、面白いね」 

笑ってくれるのは嬉しいけれど、恥ずかしさでいたたまれない気持ちになる。

「でも、ごめんね。その気持ちには応えられない」

「そう……ですよね。じゃなくて……! こちらこそ、変なことを言ってすみませんでした」

「いや、別にいいんだ。でも、北斗にあそこまで言い返せる女子なんて珍しいから、僕も颯姫さんにちょっと興味はあるかも」

「先輩……」

「ただ、今は部活に集中したいんだ。今は恋愛どころじゃないし、ましてマネージャーとの恋愛だと、部活にも支障が出るでしょ?」

確かに。3年生は最後の大会があるもんね。私の欲で先輩を困らせてはいけない。

「だから、マネージャーとして、僕たちを支えてくれると嬉しいな」

先輩。どこまで神なんですか。こんな先輩を困らせちゃいけない。

「はい! 改めてよろしくお願いします」

「よろしくね」

そう言って再び笑顔を見せてくれる。その表情に胸が高鳴ったものの、何とかして自分の気持ちを押さえ込んだ。 ところで、何か忘れてるような……。
 
「じゃあ僕たちもそろそろ帰ろうか。……って言いたいところだけど、入部届を出さないとなんだっけ?」

「……あ! あぁあ!! すみません! お先します!」

急に思い出した私は、全速力で職員室へと向かった。

「やっぱ面白い子だなぁ」

急いでいた私には、その呟きが聞こえるわけがなかった。 



「ただいまー」

学校から帰ってきた私は、手を洗ってからすぐに自分の部屋へと向かった。入部届は、何とか先生に提出することができた。間に合ってよかった……。そう思うのと同時に、先程の神谷先輩との会話が思い出される。

「あぁもう! なんであんなこと言っちゃったかな……」

先輩は優しく返してくれたけれど、内心は迷惑だったに違いない。

「クマ太ぁ。私フラれちゃったよ。って当たり前だよね。初めて話したわけだし……」

頭で分かっていても、心は受け入れられないらしい。私の初恋だっただけに、ショックが大きかったのだ。

「クマ太がもし人間だったら、私だけの王子様になってくれたのかな……」 

なーんてね。そんなことはあるはずがないのに。

「……眠くなってきちゃったな」

泣き疲れた私は、そのまま眠りに落ちてしまった。目が覚めたのは深夜になってから。そこからは、何とか着替えだけをして、私は再び夢の中へと誘われるのだった。

***

「うぅ……ん」

なんだか体が重たい。そういえば、昨日泣いたんだっけ。
思い出したら、ひとりで恥ずかしくなる。 失恋したからといって、あそこまで泣く必要はなかったというのに。それにしても、今日はいつにもまして温かいな。思わずクマ太を抱きしめてしまう。この温かさとクマ太のふわふわ感が堪らないんだよな。

「……ふわふわじゃない」

なんかいつもよりガッシリしてる? 違和感を感じた私は、ゆっくりと目を開けてみる。

「おはよ」

そう呟く目の前の男の子はまるで天使……。……男の子?

「きゃぁぁぁあ!!!」

「びっくりしたぁ。朝から元気だね」

いやいや、こっちの方がびっくりだよ。くせ毛の明るい茶髪にクリクリとした目、まさに私のタイプ……。

「いや、そうじゃなくて!」

「あはは! さつき、面白い!」 

なんで私の名前を知ってるのよぉ……。そんなことを思っていると、奥から足音が聞こえてきた。

「やっば! ねぇ、早く隠れて!」

そう言いながら、私は、目の前にいる知らない男の子に自分の布団を思いっきり被せた。



「ちょっと姉ちゃん! 朝からうるさい!」

本当にピンチなんだけど。扉の前から弟の(りつ)の声が聞こえる。

「姉ちゃん? 扉開けるよ?」

「待って待って! 本当に今は開けないで!」

私は急いで扉の鍵を閉めようとした。

「着替えてるわけじゃないし、別にいいだろ……って、は?」

「あっ……」

しまった。一足遅かったか。

「ね、姉ちゃん……」

「どうしたのかな?」

私はできる限りの笑顔で聞き返した。お願い……。気付かないで。

「あそこにいるのって……」

「えぇ? どこかなぁ」

こんな風に答えても、内心はとても焦っていた。お願い……。誰だか知らないけど、しっかり隠れてて。そう思いつつ、私も自分の布団の方を見た。

「あ! 君がりつくんだね? おはよ!」

「ね、ね……」

「……終わった」

「姉ちゃんが男連れ込んでるー!!!」

「ねぇ違うってば!! 律ー!!!」

今日って確か休日だったよね。

「絶対面倒くさいやつだ」

そう呟いて、もう一度謎の男の子の方を見る。事態を把握できていないのか、その子だけが何故か満面の笑みを浮かべていた。
 
「…………」

「…………」

この沈黙やめてよ。ほんと気まずいから。相変わらず隣にいる男の子はニコニコしているけど。

「えっと……颯姫。隣の男の子はもしかして、彼氏?」

「ちっ……違うし!」

お母さんの唐突な質問に、食い気味に答えてしまう。

「別に彼氏を作るのは構わんがな、許可もなしに泊まらせるのはちょっと……」

「だから違うって!」

お父さんまで何言い出すのよ。本当に彼氏ならここまで動揺してないよ。

「じゃあさ、そいつは誰なんだよ」

「それは……っ! 私も分からない……。目が覚めたら布団の中にいたの」

「それを信じろって言われてもな……」

律の言うことも一理ある。でも、本当に私も誰だか分からないんだもん。

「あの……つかぬ事を伺いますが、あなたお名前はなんというんですか?」

「ぼく? ぼくの名前は……」

ようやく話し出した男の子に私たちの視線が集まる。

「多分クマ太! いつも颯姫が、ぼくのことをそう呼んでたよ!」

「……クマ太?」

そういえば確かに。この子に気を取られて気が付かなかったけど、いつもは隣にいるはずのクマ太が、今日はいなかった気がする。それに、この明るい茶髪。この色は、クマ太の色とソックリだ。そして私を見つめるつぶらな瞳。
なにより、私の本能がこの人はクマ太で間違いないと言っている。

「そっか。クマ太なんだね。急に人間の姿になるから驚いたよ」

「驚かせちゃってごめんね」

「いや、ちょっと待てよ! 急にクマ太なんて言われて信じられるか? なんで姉ちゃんはすぐ信じるんだよ。それに、ぬいぐるみが人間になるなんて有り得ないだろ?」

「ぼくは人間になったけど……」

「だから、それがおかしいんだって!」

律の言うことも間違ってない。急にぬいぐるみが人間になっただなんて、誰が信じるだろうか。私もああは言ったけれど、完全には信じられない。

「颯姫がクマ太だって言うなら、そうなんじゃないか? 誰よりもクマ太と一緒にいるのは颯姫なんだし」

「お母さんもそう思うわ。というか、そうじゃないと、お母さんの心臓持たない……」

「……信じて、くれるの?」

「あぁ。君は間違いなくクマ太なんだね」

「うん。ぼくはクマ太だよ」

「急に人間になった理由は分からないけど、クマ太もこの家に一緒に住みなさい。人間だからって追い出すのもおかしな話だし」

「いいの!?」 

「あぁ。ただし、クマ太といっても今の姿は完全に男の子だから、休む時は律の部屋を使いなさい」

「はぁ?! どうしてオレの部屋なんだよ」

「仕方ないでしょ。まさか颯姫と同じ布団使わせるわけにはいかないんだから」 

「そゆこと! りつくん。よろしくね」

「…………」

律……。やっぱり信じてくれないの?

「それに、大好きなお姉ちゃん、取られたくないでしょ?」

「……ッ!!」

そんな律に向かって、クマ太は何かを言ったようだが、その声が小さすぎてよく聞こえなかった。

「ったく……。分かったよ! 言っとくけど、お前のこと認めたわけじゃないから!」

「わーい!」

律が受け入れるなんて……。一体クマ太は何を言ったの?

「変なやつ」

律のその言葉が、この話題に区切りをつけた。突然のことで最初こそ驚いてしまったが、なんだか楽しい日々が待っているような、そんな予感がした。



「それで……本当にクマ太なんだよね?」

朝食を終えた私たちは、状況を整理するために一旦部屋へと戻った。

「だからそうだって言ってるじゃん! この話さっき終わりにしなかっけ?」

「そうだけどさぁ。普通、信じられる? ぬいぐるみが人間になったんだよ?」

確かにクマ太が人間になったら……なんてことを考えたこともあったけど、まさか本当に人間になるなんて思ってなかった。

「心当たりはないの?」

「それが分からないんだよね。気が付いたら人間になってたっていうか……」

クマ太にも分からないのか。

「ところでさ、ぼくはキミのことをなんて呼べばいいのかな?」

「なんて呼べばいいって聞かれても……。普通に呼んでいいよ」

「普通って、ご主人様?」

なっ……!

「何でそうなるのよ! 普通に名前でいいって意味だよ!」

その呼び方は流石に恥ずかしすぎる。

「あはは! 冗談だよ。じゃあさつきって呼ぶね」

なんの冗談よ……。

「クマ太は……。あ、この姿でクマ太って呼ぶのはおかしいか」

これからどうなるのかも分からないのに、クマ太って呼び続けるのは怪しすぎる。

「ぼくは別にこのままでいいけどなぁ」

「だーめ。誰かに聞かれて怪しまれたらどうするの」

そうかなぁ、と言い続けるクマ太。ぬいぐるみだからその辺の感覚鈍いのかな。

「あ! じゃあぼく、颯太(そうた)って名前がいいな」

「颯太? なにか理由があるの?」

「さつきの()にクマ太の()で颯太! 我ながらいい名前でしょ!」

「颯太か……。うん。ピッタリだと思う」

「やったー!」

そんなに喜ぶなんて、不思議なクマ太。あ、家族の皆に伝えとかないと。

「そういえば、さつきフラれちゃったの?」

「……なんで知ってるの」

「あはは! 変な顔してる。さつきがぼくに話したんじゃん。号泣しながら」

そっか……。人間のクマ太じゃなくて、ぬいぐるみのクマ太に話したんだっけ。それにしても、それを本人に言うことでもなくない? そう思ったけれど、まだ私の心の傷は癒えていないようだった。ぽつりぽつりと、神谷先輩への思いを語り出してしまう。 

「神谷先輩……。私の白馬の王子様だと思ったんだけどな」

最後に出た言葉は、なんとも自分勝手な感情だった。こんなことを急に言われても、クマ太は困るだけなのに。

「さつきは、まだその先輩のことを諦められないの?」

私の考えとは裏腹に、クマ太のその言葉は、私に寄り添おうとする優しさを感じた。

「正直……そうかも。でも、この感情は先輩にとって迷惑になっちゃうから」 

「そっか」

そこから、はなんともいえない沈黙の時間が続いた。クマ太も何を言うべきか迷っているのだろう。

「でも……」

その沈黙を破ったのは、クマ太だった。

「でも、白馬の王子様ならここにいるじゃん!」

「……え? どこに?」

「ほら! ここに! まぁ茶色のクマの王子様なんだけどね」

クマの王子様って……。

「ぷっ! あははっ! クマ太ったら! 急に王子様って!」

「そんなに笑わなくてもいいでしょ!」 

「ごめんごめん」

クマ太が急にそんなことを言い出すから、つい笑ってしまった。でもそっか……。クマの王子様か。

「……ありがと。クマ太。やっぱ、クマ太大好き」 

ありがとうの気持ちを込めて、私はクマ太のことを抱きしめた。無自覚にしたことだった。クマ太は驚きながらも、優しく抱きしめ返してくれた。

「ぼくもさつきが好き。だけど……」

「どうしたの?」

私はクマ太からゆっくり体を離した。

「クマ太じゃなくて、颯太ね。もう! さつきの方こそ気を付けてよね!」

あ……。まさか、クマ太……いや、颯太に怒られてしまうとは。

「うん。気を付ける。ク……颯太も、ぬいぐるみだってこと、他の人には言わないようにね」

「ぼくよりも、さつきの方が怖いんだけどな」

颯太の言葉にまた笑ってしまう。でもこの瞬間が私はとても幸せだった。私の願いが叶った瞬間だったのだから。

***
 
「ねぇ。さつき」

「どうしたの?」

「ぼくさ、さつきと一緒にやってみたかったことがあるんだよね」

「やってみたかったこと……?」

「うん! さつきと一緒にお出かけしたいな!」

「お出かけ、か……。確かにいいかも!」

「やったぁ! じゃあ、案内はぼくに任せて!」

それから私たちは、出かける支度を始めた。どうやら颯太は行きたい場所があるらしく、スマホの地図機能で、必死に場所を探していた。

「……何でよりによってここなのよ」

颯太が最初に連れてきたのは、ぬいぐるみ専門店だった。ぬいぐるみがぬいぐるみ専門店に連れてくるなんて……。

「うわぁ……! さつき! ぬいぐるみが沢山いる!」

そりゃあ、ぬいぐるみ屋さんだからね。颯太は仲間意識を感じたのか、かなりはしゃいでいるようだった。

「それにしても、このお店は初めて来たな」

「こんなに素敵なお店なのに? ぬいぐるみ好きのさつきなら、絶対来たことがあると思ったんだけどな」

「まぁ……颯太がいるからね。あ! 向こうにクマのぬいぐるみがあるよ!」

ぬいぐるみの多さに、私のテンションも上がってきた。私は颯太を連れて、クマのぬいぐるみを見に行こうとした。

「……颯太?」

しかし、颯太はポカンとその場に立ち尽くしていた。

「ぼくがいるからお店に来なかったの……?」

そうだけど……。それがどうしたのだろうか。

「だって、颯太以外に目を奪われてたら、颯太寂しくなっちゃうだろうし」

「寂しく……。確かに!」

よく分からなかったけれど、何だか納得したみたいだ。

「でも見る分にはタダなんだから、ぼくに気を遣わなくていいからね」

「そう? じゃあこれからは遠慮なくこのお店に来ちゃおっかな。もふもふだらけの空間で本当に幸せ!」

その言葉を聞いて、颯太は優しく微笑んだ。それが何を意味しているのか分からなかったけれど、颯太も楽しんでいるようでよかったな。この後も、颯太とのショップ巡りは続いた。印象的だったのは手芸店での出来事だ。私は、糸を調達するために、デパートの一角にある手芸店に訪れた。久しぶりに手芸したくなったのだ。 

「うわぁ……。糸だけでこんなに種類が揃ってる。どれどれ……何色にしようかな」

私が糸の色を選んでいる時だった。

「さつき!」

私の名前を呼ぶ颯太の声が聞こえた。

「あ! ちょうどいい所に。マスコットに使う糸なんだけど、どの色がいいかな?」

「うーん……。やっぱこの色じゃないかな」

颯太選んだのは赤色だった。

「赤かぁ……。って、颯太! 何してるのよ!」

いつの間にか颯太の指には赤色の糸が結ばれた。

「何って……運命の赤い糸、とか?」

そう言いながら、可愛らしく首を傾げる颯太。

「もう……! 私は真面目に聞いてるのに」

「ぼくだって真面目だよ」

全く。颯太ってばムキになっちゃって可愛んだから。結局のところ、他に良い色も見つからなく、赤色の糸を買うことにした。颯太に乗せられたみたいでちょっと悔しいけど。 その後、私たちはケーキ屋へと向かった。なにか甘いものを食べたいという、颯太からの要望だった。 

「いい匂いだね! お腹すいてきちゃった!」

相変わらず、颯太はテンションが高いままだ。

「なに注文する?」

颯太はメニュー表をまじまじと見つめた。

「あ! ふわふわだ!」

そう言って指したのはパンケーキの写真だった。

「颯太とパンケーキか……」

うん。絶対似合う。

「これ、パンケーキって言うの? ぼく、パンケーキ食べたい!」

「じゃあ私はモンブランにしようかな」

お互いが注文を終え、ケーキが届くのを待っている間も、颯太はご機嫌だった。

「お待たせしました。パンケーキとモンブランです」

「うわぁ……! 美味しそう!」 
 
颯太ったら。そんなに目を輝かせちゃって。でも、本当に美味しそうだ。
 
「いただきます」

私たちは声を合わせて、同時にケーキを口に運んだ。

「美味しい!」

颯太は幸せそうな表情をしている。そして、やはりパンケーキがよく似合っている。

「……あ」

「どうしたの?」

私は、ゆっくり颯太の方へ手を伸ばした。

「さっ……さつき?」  

「……っと。これでよし。もー、颯太ったらほっぺにクリームつけちゃって」

「びっくりした……」 
 
颯太は何に驚いているんだろう。

「あの……さつき? まだ何かついてる?」

「ん? 颯太の可愛い顔、とか?」

「……ッ! またそんなことを言う!」

あらあら。颯太ったら照れちゃって。 

「まさか、颯太と一緒にこうやって遊べると思ってなかったからさ。夢みたい」

「……現実だよ」  
 
そう言う颯太の声は、今まで聞いた声の中で一番優しかった。

「そっか……。現実か」

「ほらほら! さつきもケーキ食べて! 食べないならぼくが食べちゃうよ?」

「それはダメ!」

その後も私たちの会話が続いた。料金は、私が2人分払った。颯太は申し訳なさそうにしていたけれど、ぬいぐるみがお金を持っているわけがないのだから仕方がない。代わりに最後は私の行きたいところに着いてきてほしいと言ったら、颯太は笑顔で了承してくれた。
 
「この公園って……」

「もしかして覚えてる? 小さい頃、一緒にこの公園に来たこともあったよね」

私は、嫌なことがあると、よくこの公園で泣いていた。でも、ひとりは寂しいから、颯太と一緒にこの公園に来ていたのだ。

「覚えてるよ。でも、楽しそうなさつきと一緒に来るのは初めてだな」

「……そうだね。本当に楽しかった」

確かに、楽しかった。颯太と一緒に出かけるのは夢だったから。でもなんだろう……。この胸のモヤモヤは……。

「さつき? おーい」 

「……え、あ。颯太? どこ見てるの?」

颯太はどこかを見つめているようだった。

「そっちになにか……」

「あぁ! 何でもないよ!」

本当、不思議な颯太。

「ぼくも楽しかったよ!」 

そう言いながら、なぜか顔を近付ける颯太。

「え……颯太?」

「ありがとね」

……へ?

「もう! それ言うだけなら、こんなに近付かなくてもいいじゃない!」

「あれ? さつき、なんか期待したの?」

「してない! もう帰るよ!」

「置いてかないでよ!」

颯太はそう叫んで、私の手をギュッと握った。 ……なんなのよ。なによ。この胸のドキドキは。

「またデートしようね」

颯太は続けて甘い言葉を囁く。 

「またって……」

デート……。そっか。傍から見たらこれはデートになるのか。私はチラッと颯太の方を見た。見た目は完全に私好み。何年も、何十年も大切にしていたぬいぐるみが、今目の前にいる。私は、ふと思い出した。そうだ。彼は元々ぬいぐるみなんだ。今はこの姿だけど、いずれは……。そこで、私は考えるのをやめた。だって、颯太の笑顔があまりにも眩しかったから。

「……もう少し、夢を見ててもいいのかな」

「ん? 何か言った?」

「……なんでもない」

そこからは沈黙の時間が続いた。理由は分からないが、颯太もなにか考え事をしているようだった。それで良かった。今はただ、変なことを考えるよりも、今日の思い出に浸っていたかったから。

***

「颯姫さん」

颯太と出かけてからしばらく経った日のことだった。

「神谷先輩。どうかしましたか?」

部活以外で先輩が声をかけてくるなんて珍しいな。何かあったのだろうか。
 
「あー。えっと……。その……」

「はい?」

先輩にしては歯切れの悪い物言いだ。

「放課後とか……時間、あったりする?」

「大丈夫ですよ」

今日は部活もオフだし、この後の予定も特にない。

「良かった! じゃあ、部活もないし部室に来てもらえるかな?  あんまり、他の人には聞かれたくないというか……」

「それってまさか、こくは……! ん"ん"……。分かりました」 

あっぶな……。また変なことを言うところだった。 今回も、いつもみたいに優しく笑ってくれるのかな。そう思いながら、先輩にそっと目を移すと……。

「……ッ!」

そこにほ、顔を真っ赤に染めた先輩がいた。

「……え。マジで?」

そんなこともあり、今日の私は、ずっと上の空だった。あまりにもボーッとしすぎて、香澄ちゃんにも心配されてしまった。いつも以上に、授業が長く感じられた。ようやく放課の時間となり、私は急いで部室へと向かう。

「……開いてる」

先輩は、既に部室で待っていたようだ。

「お待たせしてすみません」

「いや……! 大丈夫。こっちこそ時間取らせてごめん」

それは全然構いません。むしろ、先輩のためならいくらでも時間を捧げられます。真剣な雰囲気なのに、ついそんなことを考えてしまう。

「それで……。お話というのは」

「……あ! そうそう。なんて言えばいいのかな……」

私は私は、その後に続く言葉をじっと待った。

「颯姫さんはさ、僕のことを好きって言ってくれたでしょ?」

「……はい」

確かに事実だけど、本人に言われると照れるな。

「……その言葉って嘘だったの? それか、もしかしてほかに好きな人ができたの?」

「……はい?」

想像の斜め上をいく先輩の言葉に、思わず固まってしまう。

「……あ。待って! ごめん! 僕が言いたいのはこういうことじゃなくて……」

「……好きです!」

「……え?」

……あ。

今度は、私の言葉に先輩が固まってしまった。

「あ、これは違くて……。いや、違くはないのか? いやいや……。何言ってるんだろ、私」

よく分からない、ヘンテコな空気がこの場に流れる。

「あははっ!」

……!!

その空気を破ったのは、先輩の笑い声だった。

「いや、ごめん。やっぱり颯姫さんって面白いね」

面白いって……。先輩に言われるのは何度目かな。

「緊張が解けた気がする。じゃあ本題なんだけど、今週の土曜日、なにか予定あったりする?」

「今週は……何も予定ありませんよ。どうかしましたか?」

「じゃあさ、僕と"デート"しない?」

「……デート?」

「うん。デート」

「デート……」

……え? 



「颯太ぁぁぁ!!」

「さつき!? どうしたの?」

「やばいよ! やばいよ!!」

「さつきの情緒の方がやばいと思うけど……」

「いや、それはいつものことでしょ。……じゃなくて!」

ひとりツッコミをする私を見て、颯太は目をぱちくりとさせている。

「さつき、もしかして何かいいことでもあったの?」

「デートだよ! デート!」

「デート? さつきが?」

「うん!」

「……誰と?」

「神谷先輩に決まってるでしょ! 土曜日にデートしないかって誘われたの!」

いまだに信じられない。まさか先輩の方から遊びに誘ってもらえるなんて。しかも先輩ははっきりと"デート"と言っていた。

「これってもしかして……期待してもいい感じ?」

「そうかもね」

そうかもねって……。

「なんか颯太冷たくない? どうしたの?」

「……別に」

「ほらぁ! やっぱり冷たいよ。大丈夫?」

「……はぁ。鈍感なのか、バカなのか」

……バ、バカぁ!?

「ちょっ! ほんと、颯太どうしたのよ!」

「さつきはさ、ぼくのことどう思ってるの?」

「どうって……好きだけど」

今更、なに当たり前のことを聞いているのだろう。私が颯太のことを好きだということは、颯太も知っているはずなのに。

「ぼくもさつきのことが好きだよ」

「うん。知ってるよ」

やっぱり、今日の颯太はどこか変だ。どうして急にこんなことを言うのだろう。

「本当に分かってる?」

「何当たり前のこと言ってるの?」

「じゃあ、僕たち両思いってこと?」

「だからそう言ってるじゃん! 颯太は何を言いたいの?」

「じゃあさ、ぼくにキス、できる?」

……え?

「キ……ス?」

「うん。いつもぼくにしてくれてたでしょ?」

「あっ……あれは、颯太がぬいぐるみの姿だったから……」

「でも、ぼくのこと好きなんでしょ? じゃあこの姿でもできるんじゃない?」

……そうだ。颯太はクマ太なんだ。前みたいに、自然にキスをすればいい。そう思いながら、私はゆっくりと颯太の方へと近付く。

「…………」

「さつき?」

確かに私は颯太のことが好きだ。でも、それは異性として好きかと聞かれれば……。

「さつき」

「……ごめん!」

颯太はビクッと身体を震わせた。

「やっぱり……できない」

颯太の顔を見るのが怖い。だって、颯太を拒んだのはこれが初めてだったから。だからといって、恋人でもない人にキスなんかできなかった。

「……やっぱりね。さつきはぼくの気持ちを分かってないんだよ」

「…………」

「ぼくは、この姿でもさつきとキスしたいって思ってるよ。ぼくはひとりの女性としてさつきのことを見ているから」

「……ッ!」

さっきの言葉から薄々感じてはいたが、こうやって口に出されると、不思議な感覚に包まれた。

「それなのに、さつきはいつもぼくをぬいぐるみ扱いして、ぼくの気持ちを弄んでいたの?」

「……違う!」

「違うわけないでしょ! 好きな人が他の男の話を嬉しそうにしている……。それが、どんなに辛いことか分かる?」

「……ッ! それは……」

だから、あんなに冷たかったんだ。それでもやっぱり、私にとって颯太はぬいぐるみだから……。

「ねぇ、さつき」

「……なに」

「ぼくのこと好き……?」

「…………」

何も言えなかった。颯太の気持ちに気付いてしまったから。

「姉ちゃん……!」

その時、律が急に飛び込んできた。

「……!! お前……! 姉ちゃんに何をした!」

「律! 落ち着いて」

「落ち着けるわけねぇだろ! なんで姉ちゃんがそんなに怖がってるんだよ!」

私が……怖がってる? そんなはずがない。だって相手は颯太だよ?

「……さつき、ぼくのことが怖いの?」

「お前は黙ってろ! なんか嫌な予感がしたから来てみたら……。一体姉ちゃんに何を言ったんだ!」

「りつはぼくがさつきと一緒にいるのが気に入らないみたいだね。まぁ、いいや。僕の気持ちは伝えられたからね。だからりつもそんな怖い顔しないでよ」

「……ッ! はぁ……。急に怒鳴って悪かったな。姉ちゃん、こいつのこと連れてくな」

「う、うん……」

「あ! 最後に」

そう言って、颯太は振り返った。

「好きだよ。さつき」

「……ッ!」

「何言ってんだ。ほら、行くぞ」

律に連れられて、颯太は私の部屋から出ていった。

「……好き、か」

同じ言葉。違う意味。今まで颯太がそんな素振りを見せたことがあったっけ? ……あ。思い返せば、颯太は私に何度も甘い言葉を囁いていた。でも、あれは私が颯太の性格だと思っていたのに。

「……もう、わけわかんない」

聞かなかったことにしたかったけれど、それもできそうにない。颯太の気持ちを知ってしまった以上、これまで通りの関係には戻れないかもしれない。颯太の好意を受け止めきれない割には、離れ離れになるのも嫌と考えてしまう自分の身勝手さが、今の私を余計に醜くさせた。



颯太の告白を受けてから2日後。私はいまだに、彼の言葉が頭から離れなかった。あれから颯太とは話せていない。
向こうも私に気を使っているのか、私に話しかけようとはしなかった。それはそれでショックを受けている自分が嫌になる。

「はぁ……。もう一度整理しようかな」

悩んでいたってしょうがない。この問題としっかり向き合わなければ。

「まず、私は颯太のことが好き。でもそれは、ぬいぐるみとしての颯太が好きだということ。颯太も私のことが好き。でも、颯太は私のことを女性として見ている……」

考えれば考えるほどおかしなことだ。そもそも、ぬいぐるみが人間になるだけでもおかしな話なのに、そのぬいぐるみが恋愛感情を抱くことがあるのだろうか。颯太が私にそれらしい態度をとってなかったから、気が付けないのも当然のことだ。でも、もし颯太の言葉が本当なら……。

「私……かなり酷いことをしたよね」

私だって颯太のことが好きだ。なんなら、強い愛情を抱いている。 しかし、それが恋愛感情かと言われたら、反応に困ってしまう。 それに、あくまで颯太はぬいぐるみだ。
私だって、「颯太が人間だったら付き合えたのかな」と、想像したことがある。でも、それは叶わない願いと分かっていたからだ。ここで私が、颯太の気持ちを受け入れれば、付き合うことになるのだろう。だけど、それがいつまで続くのかは分からない。また急に、ぬいぐるみに戻ってしまうかもしれない。

「いっそ、颯太が人間だったら……」

その言葉を発した途端、はっとした。頭に浮かんだのは、颯太の言葉だった。

「さつきはいつもぼくをぬいぐるみ扱いして、ぼくの気持ちを弄んでいたの?」
  
……そうだ。私は、颯太のことをぬいぐるみとして見ていた。颯太は、私をひとりの人間として扱ってくれた。だけど私は? 口では颯太と言っているけれど、実際は、"クマ太"として接していたではないか。

「……最低だ。私」

颯太があんなことを言うのも無理はない。"ぬいぐるみだから"ではなく、"颯太のことをどう思っているか"を考えなくてはならない。

「……はぁ。私って、颯太のことをどう思ってるの?」

頭の中でずっと同じような疑問が駆け回る。いつもなら、私の悩みは颯太が聞いてくれる。だけど、その悩みの種が颯太になってしまうとは、思ってもいなかった。  

***
 
「すみません! お待たせして」

「大丈夫だよ。僕も今来たところ。じゃあ行こうか」

あれから何日か経ったけれど、結局答えは出ないままだった。

私が颯太に対する「好き」の意味がわからなければ、この問題は解決しないような気がする。

「でも、来てくれて安心した」

神谷先輩が、急にそんなことを言い出す。 

「どうしてですか? 私、すごく楽しみにしてました」

「……ッ! そんなストレートに……。なんか、最近颯姫さんが元気なさそうだったから。もしかしたら、僕と出かけるのが本当は嫌なんじゃないかって思ってたんだ」

「そんなはずありません!」

「そうみたいだね。良かった。僕も楽しみにしてたんだよね」

神谷先輩……。やっぱり私は先輩の笑顔に弱いらしい。沈んだ気持ちが一気に明るくなった。

「確かに少し悩み事がありましたけど、先輩の顔を見たら吹き飛びました!」

ごめんね、颯太。でも、これは事実だった。

「颯姫さんって、自分の気持ちを素直に伝えられて尊敬するな。僕も見習いたいよ」

尊敬だなんて……! むしろ、私が先輩のことを見習いたいくらい。

「……そんなこと、ありません」 

それに、自分の気持ちを素直に伝えられるだなんて。 本当にそうなら、颯太のことで悩むことはなかったはずだ。

「僕からすれば、颯姫さんは十分すごいよ」

その言葉は、まるで全てを知っているかのようだった。きっと、聞きたいことは沢山あるだろうに、私の気持ちを尊重してくれる。それが先輩の良いところだ。

「それで、どこに行きますか?」

「あ! それが……動物園とか? ちょうど2枚チケットがあるんだ」

ふふっ。 そのチケット、予約して買ったチケットだよね。
先輩の嘘、バレバレだよ。 私のために考えてくれたんだ。なんだか嬉しいな。

「良いですね! 私、動物好きです!」

「そっか……。それなら良かった」

それから私たちは動物園へと向かった。それほど距離が遠くないため、歩いて向かうことにした。と言っても、待合場所から5キロくらいは離れていた。 しかし、移動時間中も色々話したいとなったこともあり、歩いて移動することにしたのだ。元文化部の私にとっては、5キロは地獄のような距離だった。けれども、先輩が隣に居てくれたから、それほど苦にはならなかった。

「着いた! 颯姫さん、大丈夫?」

「はい……。これでも、サッカー部のマネージャーですから」

サッカー部では、何故かマネージャーまで基礎的なトレーニングをさせられる。おかげで、私も大分体力が付いたのだ。

「それより、ここは……」

「どうかした?」

「いえ……。懐かしいなと思って。小さい頃に、1度ここへ来たことがあるんです」

「そうなんだ。小さい頃ってことは……最近は来てないの?」

「両親が忙しいので、なかなか家族揃って出かけられることが少ないんです」

確か、私の記憶では小学生頃のことかな。律はまだ入学前のことだった気がする。

「私の中の、幸せだった記憶の中のひとつです」

そう言いながら、私はスマホを取りだした。

「写真も残ってるんですよ」

「僕が見てもいいの?」

「もちろんです」

私は自分のスマホを先輩に渡した。

「ありがとう」

先輩は、まじまじと私のスマホを見つめた。

「……ほんとだ。颯姫さん、幸せそうに笑ってる。それで、この男の子が弟さん?」

「そうです。このふたりが私の両親です」

久しぶりに写真を見て、まるで過去に戻ったかのような気持ちになった。また家族揃って出かけたいな。そう考えていた時だった。

「颯姫さん。このぬいぐるみは……?」

「……えっ?」

私は、反射的にスマホを奪い取ってしまった。

「颯姫、さん?」

「……ッ! ごめんなさい。つい……」

私ったら何してるのよ! こんなことしたら、先輩に失礼でしょ? 案の定、先輩は驚いた顔をしていた。

「まぁ、見られたくない写真もあるよね」

「そうじゃないんです……!」

傷付いた先輩の表情に耐えられなく、私はおずおずとスマホを差し出した。

「……誕生日プレゼントで貰ったぬいぐるみです。ここにもクマがいることを知って、この子も一緒に連れて行きたかったんです」

画面に写っているのは、クマ太を抱えながらクマコーナーで笑っている私の姿だった。

「今も大切にしてるんです。でも、中学の時にそれでバカにされたから……。また何か言われるのが怖かったんです」

もちろん先輩がそんなことをしないとは分かっている。でも、一度染み付いた悪い癖は、中々治らないものだ。先輩の顔を見るのが怖かった。急にこんなことして……絶対嫌われたよね。

「名前、なんて言うの?」

「……え?」

先輩から発せられた言葉は、想定外のものだった。

「ぬいぐるみの名前。そんなに大切にしているなら、名前付けてるんじゃないかなって思って」

……!!

「……クマ太。クマ太って言います。安直だけど、私は気に入っています」

「クマ太……か。うん。僕も良い名前だと思うよ」

「……笑わないんですか?」

こんな反応をした人は家族と香澄ちゃん以外で初めてだ。

「笑う? どうして?」

「だって、高校生にもなってぬいぐるみが好きとか……。皆、子供っぽいって笑うんです」

「その皆って誰のことかな? 少なくとも僕は笑ったりなんかしない。人の好きなものを否定したくないしね」

そうだ。先輩はこういう人だ。私は何を恐れていたのだろう。

「それに、僕だってボールに名前を付けてるよ」

「そうなんですか? なんて言う名前ですか?」

「ダニエルって言うんだ。いい名前だろ?」

「ふふっ。そうですね。素敵な名前です」

口調からして、私を励ますための冗談ということはすぐに分かったけれど、先輩なりの優しさが心地よかった。
 
「やっと笑ってくれたね。せっかくのデートなんだから、思いっきり楽しもうね」

「はい!」

それから私たちは動物園を目一杯楽しんだ。可愛らしい動物から、マニアックな動物まで、そして、最後はやっぱりクマコーナーを見て終わった。久しぶりの動物園に、私も先輩もテンションが上がっていた。

「あ! あそこにお土産コーナーがありますよ」

「ほんとだ。せっかくだから、僕たちもなにか買おうか」

お土産コーナーには、ぬいぐるみや、動物をモチーフにしたキーホルダーが沢山あった。

「全部可愛くて迷っちゃうね」

意外だ。先輩もこういう可愛いデザインが好きなんだな。 

「そうですね。……あ! これとか、先輩にピッタリじゃないですか?」 

私が見せたのは、サッカーのユニフォームを着たクマのキーホルダーだった。

「可愛い……! じゃあ僕はそれを買おうかな」

「私に買わせてください。今日は凄く楽しかったので、そのお礼です」

「颯姫さんのプレゼントか……。じゃあ僕からも、これをプレゼントさせて」

そう言いながら先輩が手に取ったのは、私が選んだものと色違いのキーホルダーだった。

「お揃いってことですか……?」

「そう。お揃い。嫌……かな?」

「いえ! むしろ光栄です!」

「ははっ! 光栄って」

そう笑う先輩の表情は、心做しか嬉しそうだった。それぞれの買い物を終えた私たちは、そろそろお開きにすることにした。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか。家まで送るよ」

「ありがとうございます」

私は、先輩の厚意に甘えることにした。帰る途中も、私たちはたくさん話をした。今日の動物園でのこと、それぞれの好きなこと。本当に楽しい時間だった。

「先輩? 私の家はもう少し先ですけど……」

その時、先輩が急に立ち止まった。

「あぁ……。ちょっとごめん」

「ごめん……って、ここは……」

そこは、私と颯太の思い出が詰まったあの公園だった。よりによって今……。また、颯太のことを思い出してしまう。

「……ちょっと話したいことがあったんだ。正直、こっちが本題」

何やら先輩は、深刻そうな顔をしていた。

「この公園でですか?」
 
「……うん」

先輩がわざわざこの場所を選んだ理由はなんだろう。それに、楽しそうだった先輩が、どうして急にこんな表情になっているのだろう。また私が、何かやらかしてしまったのではないかと、気が気でなかった。

「分かりました。あそこのベンチに座りましょう」

それから私たちは公園の隅にあるベンチに座った。夕暮れ時の公園。夕日が私たちを照らす。ここにいるのは、先輩と私の2人だけだった。

「先輩」

呼びかけても、先輩は微動だにしない。何かを考え込んでいるようだった。

「……颯姫さん」

どれくらい時間が経ったか分からなくなった時、先輩はゆっくりと話し出した。

「どうかしましたか?」

「颯姫さんはさ、誰かと付き合ってたり……する?」

「どうして急に……」

単純な好奇心……という割には、表情が暗かった。

「北斗から聞いたんだよね。颯姫さんが彼氏らしい人と一緒にいたって」

……え?

「彼氏らしい人……? 私にそんな人はいませんけど……」

「それに僕も見たんだ。数週間前かな。この公園で颯姫さんが、その……キス、してるところ」

「……キ、ス?」

そんなのしていない。第一、私に彼氏はいない。数週間前に、確かにこの公園に来たことがある。でも、その時一緒にいたのは……。

「……あ。あの時か」

「……やっぱり!」

きっと先輩は、颯太が顔を近付けて私に話しかけた姿を見たのだろう。あの場所に先輩がいたことは驚いたけれど、確かに、角度によってはキスをしているように見えるかもしれない。

「多分、明るい茶髪の人ですよね? 違いますよ! あれは、単純に距離が近かっただけです」

「ほんと?」

「本当ですよ。嘘をつく理由がありません」

やっぱり先輩も勘違いしちゃったんだな。 

「そっか……。それなら安心した。颯姫さんが他の人に取られちゃうんじゃないかと思ったから……」

「それって……」

もしかして、嫉妬してたの? 神谷先輩が? これは……期待してもいいの?

「もう……! もしかして嫉妬ですか? 神谷先輩、私のこと好きなんですか?」

いつもみたいに、冗談を言ったつもりだった。そしたら先輩がまた照れて、「可愛いな」とか考えるのだと思っていた。

「うん。そうみたい」

「……え?」

しかし、予想とは反して、先輩の表情は真剣そのものだった。

「好きだ」

「……へ?」

誰が……誰を好きだって?

「あの……先輩?」

「僕は、七瀬颯姫のことが好きだ」

「……ッ!」

嘘……でしょ。今間違いなく私のことが好きって言ったよね? ……何してるのよ私。私も好きですって、早く言いなさいよ。ずっと好きだったんでしょ。私が好きっていえば、恋人同士になれるのよ。なのに何故か、「好き」の二文字がなかなか出てこなかった。理由は分かっている。颯太のことがあったからだ。もしかしたら、私が考える「好き」の意味と、先輩が考える意味は違うのかもしれない。
そう思うと、また傷つけてしまいそうで怖かった。

「颯姫さん……? 大丈夫?」

「大丈夫……です」

「ごめんね。急に言われて驚いたよね? 返事が欲しいとかじゃないんだ。ただ、僕の気持ちを伝えたかっただけ」

「…………」

なんか、先輩に謝らせてばっかりだな。
 
「じゃあ……今度こそ帰ろうか」

ダメ……。ダメダメ……!! 今帰ったらどうなる? もしかしたら、明日にはこの話はなかったことになるかもしれない。 私に気を使って、明日からも何事もなかったかのように接してくるかもしれない。優しい先輩のことだから十分に有り得る。それに、私が曖昧だから颯太との関係はどうなった? いまだにギクシャクしたまま。先輩とも、そういう風にはなりたくない。

「……先輩!!」

私は、立ち上がろうとする先輩の手を掴んだ。

「さっ、颯姫さん?」

「あっ……」

思わず手を掴んでしまった。

「あっ……あの……」

引き止めても何をいえばいいの? 実はぬいぐるみに告白された? そんなことを言っても、、信じてもらえるわけがない。私も先輩のことが好きだけど、これが恋心かは分からない? これもまた馬鹿げた話だ。

「……颯姫さん?」

いや、悩んでいてもしょうがないよね。まずは、私の気持ちを素直に伝えよう。

「神谷先輩。私は……」

この選択が正解だったことを信じて。いや、この選択が正解となるよう、私はしっかりと向き合っていかなければならない。先輩への言葉と共に、そう心に誓った。