あの日から二日が経った。●●島のことを報じている記事は見当たらない。あの日の出来事は本当に現実だったかと不安になるが、手元には揺るがぬ証拠が残っている。山を降りる途中で拾った、古ぼけた手帳……八剱翔平の手記だ。
手記には彼の生い立ちについてと、月夜巳との出会い、そして彼の考えていたある計画について書かれていた。ひと通り読んだ内容を以下にまとめる。
彼は幼い頃に両親を亡くしていた。
父親は非常に愛国心の強い人物で、第二次世界大戦中、神風特攻後続隊として志願し本土に渡るほどだった。結果、一九四五年八月十五日の玉音放送で降伏が発表されたあと、十月に帰還。島の人々は彼が生きて帰ったことをいとまじ様の加護と喜んだが、本人は「国のために身を尽くせなかった」と悔やんだという。その後、島の娘と結婚して一九六五年に八剱翔平が産まれると、立派な日本男児として育つよう厳しい教育を施した。
本人はこの幼少期について「父の躾は、およそ子供に向けられるべきでない暴力だったが、母にとって父は神風から帰還した英雄であり、自分もそれを信じて疑わなかった。今でも父の教育が、自分に強靭な精神を与えてくれたと感謝している」と綴っている。
そして八剱翔平が五歳の時……一九七〇年の冬、彼の人生を変えてしまう事件が起きる。三島事件……戦後を代表する作家、三島由紀夫が憲法第九条の破棄を目的に、自衛隊にクーデターを呼び掛け自殺をしたのだ。ラジオでそのことを知った彼の父は目の色を変え、それから二、三日のうちに妻と心中を遂げた。
いとまじ様に救われた命を粗末にしたと、島の人々からの父に対する評価は一転。一人残された翔平に対する風当たりも当然、厳しいものとなった。
母方の家に引き取られたが、延々と聞かされる父への嫌味に彼はたまらず山へと逃げた。そして、寒さを凌ぐため駆け込んだ小屋の中で、彼は初めて月夜巳様と対面する。
この時のことを本人は「一生に一度の、美しい初恋」と記している。月夜巳様に心を奪われた彼は、こずゑ嫗に弟子入りし、●●島で行われる儀式や葦田家に伝わる秘術について十年かけて学んだ。そして突如、島を出た。こずゑ嫗と袂を分かった理由については「島のためと語りながら、月夜巳様の力を葦田家が独占している。僕の使命は明白だ」と記している。
他にも本土で刑務官として働くのを決めたときのことや、吉田大岐が収監された話についても書かれていたが、長くなるので詳細は省く。
ひとつ、分かったのは彼が《いとまじ》を恨み言と解釈していた理由が、ただ月夜巳を盲信していただけではなかったということだ。
手記を読んでいると、彼の歪んだ愛国心は本人のエゴによるものではなく、父親の意志を継ごうと努力した結果だと感じる。彼にとって親の死は、子がその志を受け継ぐことで昇華されるものだった。
彼の行動の根底にあったのは、自分の親と、月夜巳の親、そして何より月夜巳へ向けた弔いの気持ちだったのだろう。
酒井刑務官と草間刑務官、そして手塚の件について、八剱が具体的にどう関与したか、手記では明記されていない。ただ彼がそれらを吉田の死刑執行に関連づけて、自身の壮大な計画を成就させるための礎と捉えていたことは確かだ。
【追記】 手塚は翌朝、無事に意識を取り戻した。事情聴取に付き添ったところ、以下のように説明した。
深夜に酒井刑務官の自殺について考えていると陰鬱とした気分に囚われ、突発的な自殺衝動に駆られた……と。
結果、事件性はないと判断された。
《いとまじ》の呪いは、言葉の意味を読み解く行為が、いわば死者との交信に置き換わることで起きると考えられる。メカニズムとしては精神科医が患者と接し続けるうちに、自らも精神病を発症してしまうといった状況に近いだろう。
記憶の中の故人との対話は、内省の反復と同じだ。繰り返し死者の立場に立って思考を巡らせることで自己乖離を引き起こし、無意識の希死念慮に囚われるのかも知れない。
日本という国には、例えば水子供養やお地蔵さまなど、この世に産まれなかった命や直接関わりのない人の死にも同情する文化、精神性が多分にある。手塚のように、少し関わった相手にすら感情移入してしまうことは珍しくない。
愛する人が相手ならば、尚更、誰もそれを止めることはできない。
俺は、この件についてこれ以上は考えるのをやめようと思う。他人がこの話をきいて、俺の意見に賛同してくれるとは限らない。もし、八剱のような考えをした輩が大量に現れたら……それこそ、呪いがなくてもこの国は終わる。そんな可能性があると考えるだけで、もう二度と関わりたくない。
だが後腐れのないよう、対抗策となり得るこれらの資料は全て託すことにする。あとは頼んだ。
手記には彼の生い立ちについてと、月夜巳との出会い、そして彼の考えていたある計画について書かれていた。ひと通り読んだ内容を以下にまとめる。
彼は幼い頃に両親を亡くしていた。
父親は非常に愛国心の強い人物で、第二次世界大戦中、神風特攻後続隊として志願し本土に渡るほどだった。結果、一九四五年八月十五日の玉音放送で降伏が発表されたあと、十月に帰還。島の人々は彼が生きて帰ったことをいとまじ様の加護と喜んだが、本人は「国のために身を尽くせなかった」と悔やんだという。その後、島の娘と結婚して一九六五年に八剱翔平が産まれると、立派な日本男児として育つよう厳しい教育を施した。
本人はこの幼少期について「父の躾は、およそ子供に向けられるべきでない暴力だったが、母にとって父は神風から帰還した英雄であり、自分もそれを信じて疑わなかった。今でも父の教育が、自分に強靭な精神を与えてくれたと感謝している」と綴っている。
そして八剱翔平が五歳の時……一九七〇年の冬、彼の人生を変えてしまう事件が起きる。三島事件……戦後を代表する作家、三島由紀夫が憲法第九条の破棄を目的に、自衛隊にクーデターを呼び掛け自殺をしたのだ。ラジオでそのことを知った彼の父は目の色を変え、それから二、三日のうちに妻と心中を遂げた。
いとまじ様に救われた命を粗末にしたと、島の人々からの父に対する評価は一転。一人残された翔平に対する風当たりも当然、厳しいものとなった。
母方の家に引き取られたが、延々と聞かされる父への嫌味に彼はたまらず山へと逃げた。そして、寒さを凌ぐため駆け込んだ小屋の中で、彼は初めて月夜巳様と対面する。
この時のことを本人は「一生に一度の、美しい初恋」と記している。月夜巳様に心を奪われた彼は、こずゑ嫗に弟子入りし、●●島で行われる儀式や葦田家に伝わる秘術について十年かけて学んだ。そして突如、島を出た。こずゑ嫗と袂を分かった理由については「島のためと語りながら、月夜巳様の力を葦田家が独占している。僕の使命は明白だ」と記している。
他にも本土で刑務官として働くのを決めたときのことや、吉田大岐が収監された話についても書かれていたが、長くなるので詳細は省く。
ひとつ、分かったのは彼が《いとまじ》を恨み言と解釈していた理由が、ただ月夜巳を盲信していただけではなかったということだ。
手記を読んでいると、彼の歪んだ愛国心は本人のエゴによるものではなく、父親の意志を継ごうと努力した結果だと感じる。彼にとって親の死は、子がその志を受け継ぐことで昇華されるものだった。
彼の行動の根底にあったのは、自分の親と、月夜巳の親、そして何より月夜巳へ向けた弔いの気持ちだったのだろう。
酒井刑務官と草間刑務官、そして手塚の件について、八剱が具体的にどう関与したか、手記では明記されていない。ただ彼がそれらを吉田の死刑執行に関連づけて、自身の壮大な計画を成就させるための礎と捉えていたことは確かだ。
【追記】 手塚は翌朝、無事に意識を取り戻した。事情聴取に付き添ったところ、以下のように説明した。
深夜に酒井刑務官の自殺について考えていると陰鬱とした気分に囚われ、突発的な自殺衝動に駆られた……と。
結果、事件性はないと判断された。
《いとまじ》の呪いは、言葉の意味を読み解く行為が、いわば死者との交信に置き換わることで起きると考えられる。メカニズムとしては精神科医が患者と接し続けるうちに、自らも精神病を発症してしまうといった状況に近いだろう。
記憶の中の故人との対話は、内省の反復と同じだ。繰り返し死者の立場に立って思考を巡らせることで自己乖離を引き起こし、無意識の希死念慮に囚われるのかも知れない。
日本という国には、例えば水子供養やお地蔵さまなど、この世に産まれなかった命や直接関わりのない人の死にも同情する文化、精神性が多分にある。手塚のように、少し関わった相手にすら感情移入してしまうことは珍しくない。
愛する人が相手ならば、尚更、誰もそれを止めることはできない。
俺は、この件についてこれ以上は考えるのをやめようと思う。他人がこの話をきいて、俺の意見に賛同してくれるとは限らない。もし、八剱のような考えをした輩が大量に現れたら……それこそ、呪いがなくてもこの国は終わる。そんな可能性があると考えるだけで、もう二度と関わりたくない。
だが後腐れのないよう、対抗策となり得るこれらの資料は全て託すことにする。あとは頼んだ。
