――以下、書き起こし
「先日はどうも」
「あら? あんた確かこの前の……」
「えぇ、その節はどうも。葦田こずゑさん……いや、吉田こずゑさん、ですか?」
「あっはっは! いややわぁ。わしは名字変えとらんけぇ、その呼び方はやめてぇな」
「失礼しました。では確認だけ。あなたが吉田大岐を引き取られたご親戚、ということで間違いないですか? 」
「ええ、ええ。さいなぁ。あの子の曾祖母がこん島出るときに、葦田は“悪しだ”で縁起悪いいうて、“吉田”に変えていったんよ」
「そうでしたか……《いとまじ》と、大岐くんの事件について、詳しく教えてくださいませんか」
「はぁ。まぁ、ええけどな。どこから話そか」
「黒谷館長から大体の話は聞きました。彼が再現しようとした『月比丘の儀』について、教えてください」
「あぁ。あれな。月夜巳様のために、三人を島の土に還す儀式やね。酒で酔わせて燃やすんよ。わしが教えたんやけど、まさか大ちゃんがあんなことしでかすとはなぁ……」
「三人捧げるのなら、儀式には四人必要なはず。もう一人、現場にいたのでは? 」
「知らん。大ちゃんは自分も捧げて、三人でやろうとしたんじゃろ」
「それは、嘘です。童歌の遊びも『月引三人衆』も、四人でやることになってる。立会人が必要なはずでしょう」
「……さすがに誤魔化せんか。その通り。わしが立会人におった」
「アナタ達は一体、なにをしようと……」
「まぁ。立ち話もなんやから、ウチに寄っていきんさい。すぐ近くじゃ」
“葦田こずゑの家は質素な山小屋だった。玄関から直接通じる部屋は中央の囲炉裏に火鉢を据えた居間で、寝室と思しき奥の部屋に通じる襖は閉まっており、完全な立方体の空間。『月引三人衆』で山のふもとの庵とされていたのは、この山小屋だったのではないかと想像した。”
――建林氏の日記:二〇二〇年四月十一日(水)より一部抜粋。以下、適宜挿入。
「よっこいせ。やっと落ち着けたわ。ほんで、どこまで知ってますのんや? わしらがしようとしたことを説明するには、島の歴史から語らにゃいかんのですけどな」
「役場議事録などの文献も読みました。かつて流れ着いた貴族の一団を殺し、白い御子を占い師の婆さんが引き取ったと」
「よう知ってなさるな。その占い師がわしのご先祖さまじゃ」
「やはりそうですか。葦田、という名字から予想はしていました。葦といえば葦原の中つ国……神の住まう天上の高天原と、死者の住む地下の黄泉国の境にあると言われ、それらの橋渡しとなる国……天の意思や死者の想いを現世に繋ぐ、占いの家系に相応しい名字ですね」
「口が達者やのぉ。そん通りや。有難い名じゃ。どっかのバカは改名しよったけんど……話が逸れたな。わしのご先祖さまは御子を引き取った。太陽が人の姿に写されたから、日の光を写す月の神様から音を借り、干支から文字を借りて、月夜巳と名付けた。月夜巳様は島中の人から大事に育てられた。なんせ、宗教的にも経済的にも、島を救ってくれた神様じゃからの。月夜巳様がなに不自由なく暮らせるように取り計らった。じゃが、無邪気な子どもは事情を知らん。月夜巳様に親はどこじゃと聞いて困らせる。ご先祖さまが取り繕うのにも限界があった。そして、月夜巳様が十二歳になったとき、作り話を聞かせたんじゃ……海から渡ってきた夫婦が、死の間際に産み落とした子じゃと。その瞬間、月夜巳様は体を震わせて、思い出したように《いとまじ》と呟いたそうな」
“恐らく、母親の処刑は月夜巳の眼前で行われたのだろう。そしてそれは強烈なトラウマとして彼の脳内に刻まれた。
処刑した事実を隠すための「死の間際に産み落とした」という嘘が、潜在記憶として残っていた母親の死……処刑の瞬間をフラッシュバックさせ、《いとまじ》というセリフを思い出したと推測される。”
「その日から、月夜巳様は占いやら呪いの勉学に没頭した。数ヶ月で、ご先祖さまも知らんようなあらゆる秘術を網羅する勢いだったそうじゃ。そして月夜巳様が十三歳になるその前夜に、彼は島の子供を三人殺した。十二年前、島の人たちが処刑した三人を弔うために建て直した神社で、今度は島の子供を惨たらしく殺し、そして神社ごと亡骸を燃やしたんじゃ。轟々と燃え上がる火を見つけ、集まった人々が言うことには、月夜巳様はずっと《いとまじ、いとまじ》と唱えとったそうな。島の人は、恐れ慄きながら尋ねた。その呪文の意味は? 」
――ズッ、ズッ、ズッ――(引きずるような音)
「《いたまし》じゃと、月夜巳様は仰った。つらい、苦しいと母上が嘆いている。我はその嘆きを託されたのだ。お主らには聴こえんか? この声が……」
――ズルッ、ズルッ、ズルッ――(徐々に水気を含み、鼻をすするような音に変化する)
「月夜巳様がそう言うと、山が大きく泣いたような、おそろしい音が響き渡った。どんな妖術を使ったか分からんが、まるで月夜巳様の言葉に合わせて、山中の蛇が体を震わせたようじゃった。その迫力に人々は一歩も動けず、一言も喋れず、ただその場にひれ伏すしかなかったそうじゃ。それ以降、月夜巳様はとんでもない霊力を身につけたそうな。自由自在に天気を変え、ときに土を肥やし、ときに病を治した。未来の予知もして、地震や台風、津波に備えさせたりもした。まさに島の守り神といえる御業じゃった。十二年に一度、《いとまじ》と唱えながら行われる贄の儀式を除けばな……月夜巳様がいとまじ様と呼ばれたのは、そういう理由じゃ」
“この老婆の話を聞いていると、まるで催眠術でも受けたかのような感覚に陥る。話し方によるものか、それとも火鉢の中で、麻薬成分のある植物でも焚いていたのだろうか。月夜巳様の秘術とやらを受け継いでいるのかも……
話から察するに月夜巳は、非常に知能の高い快楽殺人鬼だったと推測できる。
彼は記録を読んで島の過去を知り、裁かれずに好きなだけ殺人を続けられる方法を思いついた。自分の立場と母親の言葉《いとまじ》を巧みに扱うことで、島の人々の罪悪感を利用できると考えたのだ。
定期的な殺人衝動を満たす一方で、天気予報や医療など自分の得意分野で島に尽くす。十二年という期間は、干支と紐づけて神懸かりに見せるのと、人々からの不信感を払拭するのにちょうど良いスパンだったのだろう。その間、本性をひた隠して聖人のように振る舞っていた点が、彼の知能の高さを証明していると言える。”
「月夜巳様は、そうして六十年以上島を守り続けた。そのうち島に住む者の世代は移り変わり、月夜巳様への信仰がない者も生まれる。そして、ある乙巳の年。ついに恐ろしいことが起きた」
「島の若者が、月夜巳を殺したんですね」
「その通り。彼らには《いとまじ》の儀式が理解できんかった。月夜巳様のことを、島の民を誑かす妖術使いだと言って、殺してしまった。それから起きたことは前に話したな」
「蛇の大群、病の流行、女性の一斉妊娠……」
「月夜巳様は自分を裏切った報復に、島全体に《いとまじ》の呪いをかけた。そのために、今度は島の人々が自らの手で、十二年ごとに三人の生贄を捧げる儀式をすることになった。それが、『月比丘の儀』じゃ」
「『月比丘の儀』は、島の人達が自主的に始めたものだったんですか」
「その通り。まず、島人全員で酒盛りをするんじゃ。そのうち頃合いを見て、毒の入った盃が三つ回される。皆んなが酔い潰れる中、看取り役が斃れた三人を確認したら、焼いておしまい。これを十二年に一回やることで、島のみんなに月夜巳様……いとまじ様の加護があるとされた」
「なるほど。『月引三人衆』で酒を飲ませる話はそこからきたんですね」
「そのうち、自然と儀式の規模は小さくなった。そこで初めから毒を飲ませて、わしらの一族が看取り役をすることで落ち着いた。島全体の酒盛りだけは、毎年のとんど焼きに移ったんじゃ」
「葦田家はいつも、そういう手間のかかる仕事ばかり押し付けられてきたんですか」
「まぁ、そうやね。島に来る前……葦田家は元々、国お抱えの占術師やった。それがお上の権力争いでもみくちゃになって、結局はワシらも、この島に逃げてきた身なんよ。どうにか島の有力者に取り入って、生かしてもろて。やから、ご先祖さまは似た境遇の月夜巳様のことを目に掛けたんかもしらんね」
「それは、確かにそうかもしれません。日食と重なって劇的な誕生をした子供。自然現象に疎い島民たちから見れば、まさに神話だ。きっとご先祖さまは全て分かっていた上で、彼を神格化し、持ち上げたんでしょう。葦田家にとって月夜巳様は、島の勢力図を一気に塗り替えられる起爆剤だった。事実、この島の伝承は全て彼に起因した物語だ。見方を変えれば、葦田家はこの島で独自の宗教を作り上げたことになる。そう考えると、大変な偉業ですよ」
「ほんまに兄さんは口が上手いなぁ。なんや嬉しゅうて涙出てきたわ。そうやね。わしは母さんから、母さんは祖母から、ずーっとしきたりを伝えて、この島の宗教を護ってきたんよ」
「童歌の『いとまじ』も、葦田家のご先祖さまが考案したんですか? 」
「あぁ、どうやったかなぁ……たしか、そう。役場の記録から歌詞とったて聞いたことあるから、最初に考えたんはご先祖さまやろうね」
「なるほど、質問ばかりで悪いんですが、もうひとついいですか。こずゑさんは《いとまじ》の意味は、なんだと思いますか? 」
「それは、さっきも言いましたやろ。《いたまし》やて。苦しいとか、つらいって意味じゃ」
「いえ、その解釈は月夜巳様のものです。アナタは、どう考えてるんですか? 」
「そんなん言われても、困るわ。考えたことない」
「では、質問を変えて……本当に《いたまし》だと思いますか? 母親が、我が子に贈った言葉が、本当にそんな恨み言だと思いますか? 」
「それは……」
――ズッズッズッ――
「あなたのご先祖さまが、童唄にしてまで島と後世に広めた言葉が、悪い意味を持っていると? 」
「……うぅ」
「こずゑさん。ご自分の気持ちに、正直に答えてください」
――ズッズッズッ――(音が次第に大きくなる)
「さあ! 」
「……言えん! 月夜巳様の御前で、そんな畏れ多いこと、わしには言えん! 」
「御前? なにを――ズズズズズ……ドンッ!
“このとき、俺は確かにその音を聞いた。こずゑ嫗の背後。締め切られた襖の奥から、地響きのような強い音が響いた。明らかに怒りの感情を伴ったその音と振動に一瞬、肝が冷えたのを覚えている。”
「……誰か居るのか」
「やめといた方がええ」
「……開けるぞ! 」
“俺は竦む脚をどうにか奮い立たせ、奥の襖を勢いよく開けた。その刹那、微かな熱気が肌を撫で、目の前に神々しく光る曼荼羅が浮かび上がった――
部屋には、窓がなかった。暗闇の中、何十本もの蝋燭が幾重も円を描くように並べられ、小さな灯を揺らしている。中心で黒い法衣を身にまとい、坐禅を組む人物。月のように白く、妖しい輝きを放つ美しい青年……一目見て、月夜巳様だと直感する。
視線を奪われたように自然と目が合い、俺は生唾を飲み込んだ。彼の口が、ゆっくりと開く。「い……と……ま……じ……」なにが起きているのか、理解が追いつかない。彼はとっくの昔に死んだはずだ。それも、生前時点でかなりの老体。こんな若い姿で現代に生きているはずがない。思わず、存在を確かめようと手を伸ばした瞬間。
「貴様! 汚い手で触れるな! 」
八剱看守長の怒号で我に返る。気づけば羽交い締めにされ、居間へと引きずり出されていた。必死に振り解きながら奥の部屋を見ると、さっきまでの光景は消え失せ、代わりに眼孔がぽっかりと空いた、死蝋化した老人の遺体が鎮座しているのが見えた。”
「即身仏……」
「見たな! 貴様ァ! 」
「翔平、やめんか! 」
「せやけど婆、こいつ」
「やめ言うたら、やめぃ! 」
“いつの間にか八剱の手に握られた拳銃が、俺に狙いを定めていた。こずゑ嫗に制止された彼はこめかみに青筋を立て、血走った目で俺を睨みつける。このとき八剱看守長が現れることを、俺はなんとなく予感していた。
もし仮に《いとまじ》という呪いが存在するとして、その性質は直接的に作用するものではなく、ゆっくりと、蝕むように影響を与えるものだと感じた。つまり、ここ数ヶ月で立て続けにおきた事件は、呪いを信じさせたい誰かが、人為的に引き起こしたものではないかと疑っていたのだ。
事実、●●島の歴史上に起こった人死にの主な原因は《いとまじ》そのものではなく、《いとまじ》に影響された人々が引き起こしたものだった。”
「八剱さん……大体の予想はついてました。最近この島に訪れた草間賢治は、アンタの自作自演でしょう? 草間は七年前、既にこの島に来て文献を手に入れていた。時期がぜんぜん合わない」
「一丁前に語っとるが、そうやって悠長にしとる間に、こっちの仕事は済んだんぞ」
「……草間賢治を殺したんですか? 」
「奴は、許し難い男や。僕の立場を横取りしようと狙っとった」
「慕っていた酒井さんも、アナタが殺したんですね。何故ですか? 」
「仕方なかった。あの死刑執行の日、僕ら全員が月夜巳様の意思に選ばれたんや。僕も、あの二人も巳年生まれ。これは月夜巳様の後継者争いやった……酒井くんには荷が重かった思うわ」
「だからって殺すことは」
「直接手に掛けたわけやない。自分が選ばれるよう願って《いとまじ》を唱えた。そしたら、勝手に逝きよったんじゃ」
「ありえない。明日菜の事故も、アンタが直接やったんだろ! 」
「明日菜て……翔平!おまえ、あの娘にも手ぇ出したんか! 」
「婆は黙っとれ! 僕こそが、月夜巳様の力を受け継ぐに相応しい器の持ち主なんや」
「どういう意味だ」
「僕はな、この島の出身や。あの事件が起きるずっと前から、わしは月夜巳様のことを婆に教わっとった。才能がない言われて島を出てからも、ずっと信じて機を窺っとったんじゃ」
「翔平、落ち着いて聞きんさい、あんたはな」
「隠しても無駄や、婆。僕には自分の役割が分かっとる。婆が僕を見限ったんは、才能がないからとちゃう。別の理由やろ」
「月夜巳様の御力は皆のもんや! 誰か一人が受け継ぐものと違う。それが分かっとらんから、わしは……」
「うっさいわ! もうええ。婆もこいつと一緒に片づけたるからな」
「アンタ、一体なにがしたいんだ」
「そんなもん決まっとるやろ。この力を世に知らしめて、日本を復権させるんや」
「おまえ、まだそんなバカなことを」
「バカは、おどれらじゃ! 十二年に一度、たった三人の供物で島の加護が得られる。それだけで満足しとんじゃからな。愚かや。どれだけ自分勝手なんじゃ。僕はそんなセコい使い方はせん。月夜巳様の力で日本全土を護ったる。ほんで、世界が《いとまじ》を信じたら、今度は世界中を救ったってもええ思うとるんで! 」
「やっぱりお前はなにも分かっとらん。破門じゃ! お前に月夜巳様の加護は、二度とやらん! 」
「あんたに決められる筋合いはない言うとんじゃ! クソババァ! 」
「ぎゃっ」
“八剱は叫ぶや否や、こずゑ嫗を蹴飛ばした。不意を突かれた老婆は受け身を取れず、床を転がる。
彼の眼はぎらついて、まるで高熱にうなされているようだ。俺は、彼がいつ引き金を引くかとヒヤヒヤしながら、逃げる隙を窺った。”
「八剱さんは……《いとまじ》の、本当の意味を知ってるのかい? 」
「あぁ? んなもん当然や。《いたまし》やろう。けど僕は草間が考えた《厭呪》の意味も加えたってええ思うとる。月夜巳様の霊力の源は、全てを飲み込む憎しみじゃからの」
「違うな。アンタが信じてる《いとまじ》はニセモノだ。全ては月夜巳の虚言。そこから生まれた憎しみの連鎖と、歪んだ解釈が生み出した紛い物なのさ」
「はっ! 貴様みたいなぽっと出が、なにを知ったクチ叩きよる」
「新参者だからこそ、柔軟な発想ができるんだ。アンタの考えが正しいなら、俺の意見に反論できるよな。それとも自信が揺らぐのが怖くて、なにも聞かずに否定するつもりか? 」
「好き勝手ほざきやがって。聞かしてみぃ、真っ向から反論したる! 」
「《いとまじ》は、《いたむまじ》だ」
「……はぁ? 」
「《悼むまじ》……嘆いてはいけない、悲しんではいけないと諭す言葉さ」
「はっ! なにを言うかと思えば。ええか? 月夜巳様の母君はな、長い旅の果てにようやく辿り着いたこの島で、せっかく産まれた子供を奪われた挙げ句、島民に殺されたんや。どれほど辛かったか。どれほど無念やったか。想像できんほどアホとちゃうやろ。我が子にその恨みを晴らしてもらおうと、伝えた言葉が《いとまじ》や。歴史の勉強し直してこんかい! 」
「……同じ人の気持ちを考えているのに、ここまで正反対の解釈になるとは驚いた」
「なんや、まだなんか言いたいんか」
「確かに彼女の境遇はアンタの言う通りだ。この島で月夜巳を産むまで一年以上、過酷な旅を続けてきた。では、その旅の目的は? 」
「権力争いに敗れ、再起を賭けて逃げ延びたんやろが」
「その通り。すなわち、当初の目的は御家の再興だ。おそらくきっかけは彼女の夫。南北朝争いの最中に両親を殺された彼は、再び権力者として成り上がることこそが、両親の無念を晴らす唯一の方法と考えた。姫君もはじめは、夫を応援していただろう。だが、彼はあまりにその考えに固執しすぎた。再興を諦めて新たな土地で、夫婦仲睦まじく暮らす道もあったはず……死者の想いに寄り添い続け自らの人生を疎かにする夫に、彼女は段々と嫌気が差した。両親の亡霊に憑かれた夫より、旅のなかで今を必死に生き、活躍する家来の方が眩しく見えたのも当然だ。夫に愛想を尽かした彼女は家来と結ばれ子を授かった……そうして産まれた我が子に、“両親の無念を晴らせ”なんて言うと思うか? そんなことをすれば夫の二の舞だ。当の夫ですら、最期はその虚しさに気づいて“自分の人生を謳歌しろ”と言い残している。当然、彼女も同じことを――“私の死を嘆くな”と伝えたかったはずだ」
「……長々とご高説どうも。一応、意味は通っとるようやけどな。《いたむまじ》? そないに音も文字数も変えて、こじつけもええとこやないか」
「“む”の音が抜けたんだ。『●●島町役場議事録』には“母親の声が掠れていたために、聞こえる範囲で記した”と書いてあっただろう。“た”の子音が詰まって“と”に聞こえ、直後の“む”の音が飛んだ。文字数は問題じゃない。実際口に出してみれば分かるだろう。それより《いたまし》の方が問題だ。どう発音したら“し”の音が“じ”に聞こえる? 字面だけ似せた、明らかなこじつけだ。残念ながら、月夜巳は健全な精神の持ち主じゃなかった。自らの殺人衝動を正当化するために、母の気持ちを捻じ曲げた呪文を捏造したのさ」
「確かにそうかも知れん……けど、それでもや! この島の歴史が《いとまじ》を呪いの言葉として育てた、それも事実やろ! 言葉は成長する。もはや《いとまじ》は血塗られた言葉になっとるんじゃ! 」
「だからこそ! お前らが歪ませた言葉を本来の意味に戻すことだってできるはずだ! 」
「翔平。もう、やめや」
「婆! なにを――シュッ……ドサッ
「……こずゑさん」
「兄さん、ありがとうなぁ。なんやスッとした気分や。ずっと、ずぅっと、納得できんかった。それがようやく腑に落ちたわ」
「よかった。まぁ俺のも仮説に過ぎませんが……あの、なぜ拳銃を? 」
「こうするのが一番ええ。死にとぉなかったら、はよ出ていき」
“こずゑ嫗に拳銃で脅され、山小屋を出た。謎の霧を吹きつけられた八剱はその場で倒れ込んだまま、ぴくりとも動かなかった。
彼女の計らいを無碍にしないよう急いで山を降り、そろそろ町が見えるかという頃、山の中腹から、蛇のような煙が天にむかって昂るのが見えた。
俺はあのときどうすべきだったのか、これを書いている今もまだ、正解が分からない。ただ、しばらく呆然と煙を眺めていたときに、どこからか鐘の音が響いてきたのを覚えている。緊張から解放されたことによる幻聴だったのかも知れない。けれど確かに、耳に残っているのだ。
全てを包みこむ温かい優しさに、どこか寂しいような、哀しいような、一抹の陰りを感じさせる……そんな鐘の音が。”
