草間の持っていた古書に共通する年号、“応永(おうえい)”とは室町時代のもので、後小松(ごこまつ)天皇、称光(しょうこう)天皇の代に使用されたものだった。『██従者(じゅうしゃ)()日記(にっき)』の記録は応永十八年(西暦1411年)から約一年間続いた逃避行(とうひこう)の記録だ。日記の持ち主は南朝(なんちょう)(がた)についていた貴族か武家の家来だったのだろう。 
 日記の日付と照らし合わせると、確かに後小松天皇が実仁親王の譲位(じょうい)を行っている記録がある。書かれた時期と、記されている歴史的事実に齟齬(そご)は見られない。
 一方で『●●島診療録(しんりょうろく)』と『●●島町役場(まちやくば)議事録(ぎじろく)』においては、島での出来事しか書かれておらず、参照(さんしょう)可能な歴史上の出来事が全く書かれていないため、資料として扱ってよいものか悩ましい。『██従者之日記』と関係する部分だけ抜き出し、何かしらの根拠がないか考える。
 共通しているのは、応永二〇年(西暦1413年)一月一日に起こった日食と思われる記録だ。この時期に、本当に島根県で日食が観察されたのか調べてみる。
 結果、この時期の日食についての歴史的な文献は残っていなかった。が、ダメもとで“島根県 日食”と検索してみると、天体軌道を計算した日食のデータを載せているサイトが見つかった。それによると、過去に島根県を中心に日食が観測された可能性があるのは、皆既日食(かいきにっしょく)が七回と、金環日食(きんかんにっしょく)が九回。問題の日付を探す。

 “皆既日食……1413年……02月01日”

 どっと疲労が押し寄せる。他にめぼしい記録はない。日付が違うということは、草間の持っていた資料は、誰かが後付けで考えた創作だったのだろう。よく出来ていたが、最後にボロが出たな。今日はもう休んで、明日に備えよう。



【追記】夜中にふと、思いついた。旧暦と新暦で日付がズレているのでは? 調べてみると、思った通りだった。新暦の1413年2月1日は、旧暦で1413年1月1日。つまり応永二〇年一月一日に、皆既日食はあったのだ! 

 資料は本物だ。となれば、『██従者之日記』の従者が姫から誘惑をうけ、彼女を(はら)ませたことも事実なのだろう。十月十日(とつきとおか)で逆算しても、●●島で産まれたのは従者の子としか考えられない。御子は高貴な血を継ぐ子ではなかった。資料館がこれらの資料を蔵書と位置付けて、公開を避けていたのはこれが理由かも知れない。
 『●●島診療録』によれば、生まれた子供はアルビノだ。白い御子、そして『いとまじ様』の白蛇のイメージとも一致する。
 『●●島町役場議事録』に書かれた、御子の出産についての記録。姫君がお産で身体をくねらせる描写は、『いとまじ様』の伝説における蛇が鐘を鳴らすシーンを彷彿(ほうふつ)とさせる。蛇が脱皮して白蛇になったとは、姫君が白い御子を産んだことを言い換えたのではないか。 
 同じく、議事録で三人が処刑されたときの記録。姫君の遺言にある「いとまじ」が伝わって、白い御子は『いとまじ様』と呼ばれることになった? “月夜巳”と名付けられたとあるが、霊的な理由から後世に真名(まな)が隠された可能性は十分に考えられる。

 三人の遺言は、どこか童唄(わらべうた)の『いとまじ』を彷彿とさせる。もしや歌詞の「おつきさま」とは月夜巳の「お付き様」つまり処刑された三人のことを言っているのではないか。

 段々と、あの島にまつわる話が(ひも)()けてきたように思える。だがなぜ草間は、この資料を見た上で《いとまじ》を呪いの言葉と解釈したのだろう? 《いとまじ》は母が子に伝えようとした言葉だ。それが果たして、悪意のある言葉になり得るだろうか?