指先から伸びる銀色の棒。グラグラと持ち手が揺れている。僕は視覚からくる恐怖に支配されていた。
「ここには俺たちしかいない」
 千佳はそう言って、グラグラと揺れる木製の取っ手を指で押さえた。
「必要なカードは全て揃ったから」
 5本全てを、順に指で押さえて、揺れを止めた。
「まだ、全然揃ってないだろ……」
 翔が言う。
「揃ったじゃないか。『父』『母』『長男』『次女』の四人家族が」
 僕が持っている『長男』は、『父』の下に隠れていて見えない筈だ。千佳は一体、どのタイミングで『長男』があることに気づいたんだろう。
「梨花、こいつを押さえて」
 梨花がうなずいて、僕の側にしゃがんだ。千佳はそれと入れ替わるように立ち上がった。
「あとはカードを、持つべき人に移せばいい」
 スタジアムにはチャラッ、チャララーン、と軽快な音楽が流れている。
「翔くん、きみが野球部を嫌う理由はよくわかる。桐難野球部は横柄で騒がしい。俺の代でもそうなんだから、昔はもっと酷かったんだろうね」
「何を……」
 翔の目が不安定に泳いで、頬がヒクヒクと強張った。
「予選から応援に駆り出されるのも嫌だったろう。応援歌の練習も、きみからしたら馬鹿らしい儀式だったに違いない」
 梨花が秋元さんに似ていることだとか、千佳の苗字が「伊藤」であることが、なんだか重要なことに思えた。
「秋元聖奈、俺とじゃんけんして、勝ってくれるね?」
 千佳はグーを構えた。次に千佳から渡るカードは『母』だ。
「きみは俺たちの母親なんだから」
 秋元さんはぎこちなく首を横に振った。何か言ってよ、と翔に目で訴える。けれど翔は何も言わず、その視線を拒絶するように俯いた。
「俺はグーを出すから、パーを」
 千佳は同意を待たずに、
「じゃん、けん、ぽん」
 グーを出した。秋元さんのおずおずとした手は、しっかりとパーを繕っていた。
 ブン、秋元さんの頭上のカードが『母』に変わった。
 千佳の視線が僕に移った。忌々しげな鋭い視線に、僕は居心地が悪くなる。
「じゃん、けん……」
 串刺しになった僕の手は、血を流しながらパーを維持している。もう片方の手は梨花に押さえられて、パー以外の選択肢がない。
「ぽん」
 千佳の作ったチョキが僕のパーに向けられ、
 ブン、千佳のカードが『長男』に変わった。
「梨花、ここにあるのは『長男』だな?」
 千佳は頭上のカードを指さした。梨花がコクンとうなずくと、千佳は「やっぱり」と呟いて翔を見た。きみのおかげだよ、とでも言うように。
「翔くん」
 千佳に呼ばれ、翔の肩がビクッと反応した。
「次はきみがコイツとやるんだ」
「……で、でも……アキラが持ってるのは……」
 僕が持っているカードは『父』と『ハズレ』の二枚。次に相手に渡るのは『父』だ。
「君なら母さんを幸せにできる」
 翔は赤面した。
「コイツは家族を滅茶苦茶にする」
 千佳は言った。鉛のように低い声で。
「私は……お父さんのこと、嫌いじゃないよ」
 梨花が泣きそうな声で言った。僕を薄黒い瞳で見つめながら。
「でも、お父さんのせいで……私たちは……っ」
「な、なんだよさっきからっ……!」
 僕は喉を震わせた。僕の未来をこの二人が知っていると言うのか? 僕が家族を滅茶苦茶にする悲惨な未来を!
「母さんも母さんだよ。翔くんみたいな優秀な彼から、こんな野球バカに乗り換えるなんて」
 千佳は冷ややかに秋元さんを睨むと、ベンチを跨いで一列上の席に座った。
「プロ野球選手の肩書きに惹かれた? それとも甲子園出場の時からちょっといいなって思ってた?……ふん、そんなこと、中学生の母さんに聞いても分からないか」
 千佳は肩で笑った。
 僕は「プロ野球選手」と「甲子園出場」という華やかな単語にドキッとした。
「幸せなのは最初だけだよ。コイツは有名選手に死球食らわせて、引退に追い込むんだ」
 梨花が「ひうっ」と泣いた。
「過激なファンからの嫌がらせが続いてっ……母さんは疲れ果ててっ……なのにっ……父さんは嫌がらせを恐れて帰ってこないっ!」
 千佳は両手で顔を覆って、俯いた。
「全然帰ってこない……」
 ドッ、ドッ、と叩くように心臓が波打った。「父さん」に実感はない。なのに急激に血液が降下した。
「翔くん……母さんを幸せにできるのはきみだよ。野球一筋のコイツなんかじゃなく、適度な警戒心と学力を持ったきみなんだ……」
 千佳は俯いたまま、言った。
「チョキで勝ってくれ」
 僕のパーは動かない。もう片方の自由を奪う梨花が「ごめんなさい」と泣きながら言った。足が、腕が、水を吸い込んだようにずっしりと重い。
 翔は通路階段を一段上がって、僕のいる列に足先を向けた。
「翔……っ……こんなの、お、おかしいっ」
 一歩ずつ近づく翔に、僕は訴えた。
「全部勝手な妄想だっ!だ、だって僕たちはまだっ、桐難にも合格してないじゃないかっ!」
「……でも俺は、なぜだか野球部が憎いんだ」
 僕の瞳は色彩を失ったようだった。周りがひどく薄暗い。
「それって、これから先の記憶が深層にあるからだと思うんだ。きっと俺たちは、桐難の学校生活を経験してるんだよ」
「違うっ!だって僕の子供はまだ5歳でっ……」
 僕はハッと口をつぐんだ。ザッと全身の細胞が粟立つ。僕に子供なんていない。僕はまだ、中学生で……
 翔は「ほらね」と言わんばかりに、力なく笑った。
「じゃあ、この音楽は?」
「これは……連ドラの主題歌……ほらっ……確か、日曜9時の……っ」
「高三の……時だよね」
 秋元さんが言った。
 翔は硬く目を閉じて、肩を落とした。次に開かれた時、翔の目は涙で滲んでいた。
「俺は、知らないけどな」
 翔の視線が僕のパーに注がれる。
「翔……ダメだ……」
 何がダメ?
 僕は『長男』のはずなのに、『父』が奪われることを恐れている。でも僕にうつ手はない。僕の手はパーで固定されている。
「じゃん、けん……」
 翔がグーを構えた。やめろ、やめろ。心の中で連呼する。僕は『父』を奪われるわけにはいかないっ!だって僕は……僕はっ!
「ぽん」
 出されたグーに、僕は殴られたような衝撃を受けた。
「なんでっ!」
 千佳が立ち上がった。
「翔っ!」
 パチパチと花火のような音を放ちながら、翔の身体が穿(うが)たれていく。翔は眉をハの字に曲げて、痛々しい笑みを僕に向けた。その頬にもポツンと空洞が穿たれる。
「アキラ、お前が聖奈を幸せにするんだ」
「無理だっ! コイツは巨民(きょみん)戦で相手バッターに死球食らわせてっ……巨民ファンを敵に回すっ! 毎晩嫌がらせ電話が掛かってくるようになるんだっ! 巨民ファンの執念にっ、俺たち家族は壊されるんだっ!」
 千佳が声を荒げた。
「アキラ、全てはお前次第だ」
 翔の頬を涙が伝った。それも空洞が壊して、翔の大部分を犯した空洞は翔の存在をも抹消した。