千佳と妹がやってきた。千佳は妹をゲートからすぐの客席に座らせ、妹の肩に手を置いた。千佳の頭上には、『母』のカードがある。
「妹の梨花(りか)だ。この『母』のカードは梨花から奪った」
 梨花の頭上には『ハズレ』のカード。
 梨花は僕らを見ようとせず、膝に拳を乗せて俯いている。ゆるくウェーブが掛かった長い髪で、顔はほとんど分からない。
「翔くん、『次女』を、梨花に譲って欲しい」
 千佳は僕の横を通って、翔に向かった。
「『次女』の後ろにハズレがあるだろう。まずはそのハズレを俺がもらう」
 翔は怪訝に目を細めた。
「俺が、アンタみたいに卑怯な手を使うとでも?」
 千佳が首を傾げ、翔は続けた。
「先に妹とじゃんけんしたのは、カードがゼロになるリスク回避だろう」
 千佳は「ああ、そういうことか」と安堵するように笑った。
「梨花が何のカードを持っているのか知りたかったんだ。きみを信用してないわけじゃない」
 千佳は『ハズレ』と『母』の二枚
 翔は『ハズレ』と『次女』の二枚
 カードは後尾から相手に渡るから、『次女』を手に入れる前に『ハズレ』を受け取る必要がある。
 翔は梨花に目を向けた。梨花は相変わらず俯いている。僕らが聞いたのは「おにいっ!」と千佳を呼ぶ声だけだ。
「……わかった」
 再び千佳に視線を戻して、翔は言った。
「でも『次女』だけだ。『長男』も、『父』も渡さない」
 千佳の眉がピクリと反応し、翔は重大なミスを犯したようにハッとした。
「ああ、次女だけでいい」
 千佳はグーの構えをとって、「今度こそグーを出す」と宣言した。
「待ってくれ」
 翔は僕を向いた。
「先にアキラ、俺とじゃんけんして負けてくれ」
 僕は『最初のカード』『長男』『父』と三枚のカードを持っている。翔が僕に勝てば、『最初のカード』が明らかになる。
「う、うん」
「じゃあ、俺はグーを出すから、アキラはチョキを」
 僕はうなずいて、グーの構えをとった。
「じゃん、けん、ぽん!」
 宣言通りに勝敗がついた。ブン、と翔の装置が鳴って、そこに『ハズレ』のカードが入る。
「なんだった?」
「……ハズレだ……ごめん」
 まだ『長男』は一枚しかない。このまま、『長男』が手に入らなければ?
 心臓が、嫌な感じにドクンと鳴った。『ハズレ』が翔に渡って、僕は『長男』と『父』の二枚。次にじゃんけんで負けた場合、『長男』が奪われる。
 それに誰かの父が現れた場合、『父』を渡すためにはまず『長男』を手放す必要がある。一度『長男』を手放して、もう一度手に入れられるだろうか? カードは一枚ずつかもしれないのに?
「じゃあ翔くん」
 千佳が言って、翔はコクンと頷いた。二人が会話するのをぼんやり眺めながら、僕はポケットに手を入れる。持ち手と、ひんやりと冷たい棒を指で触って、僕にも二人と同じ武器があることを確かめる。
「じゃん、けん、ぽん!」
 二人の声に、僕は慌ててポケットから手を抜いた。
 千佳はグーを、翔はチョキを出して、千佳の装置がブン、と鳴った。
「梨花っ」
 千佳はクルッと階段を上がって、梨花を向いて通路にしゃがんだ。膝の上で握った梨花の拳を上から握る。
「『次女』が手に入る。もう大丈夫だから」
 そう言って振り返る。
「翔くん、いいかな」
 頷きかけた翔の視線が、素早く逸れた。翔の視線を辿ってそこを見る。隣のゲートの前、『ハズレ』のカードを付けた秋元(あきもと)聖奈(せいな)が立っていた。愛らしい顔立ちにポニーテールがチャームポイントの、僕が密かにいいなと思う同級生。秋元さんは確か……
「聖奈っ……」
 翔は客席を縫うようにそこへ急いだ。千佳は地面に弾かれたようにゲートを飛び出す。
「翔っ!」
 秋元さんが翔の元へ駆け寄ろうとしたのを、背後から伸びた手が止めた。コンコースから先回りした千佳の手だ。
「翔くん、梨花に『次女』を譲ってくれるね?」
 千佳は秋元さんを乱暴に引き寄せ、両手を後ろ手にまとめると、客席から通路に出たばかりの、3段下にいる翔に言った。
「……できない」
「それはこの子が『次女』だから?」
「ああ」
「翔くん、きみにとってこの子は、家族よりも大切なもの?」
 翔はそれを肯定するように頬を赤らめた。千佳は口元を歪ませて、ポケットに手を伸ばした。
「……っ!」
 僕は目を疑った。秋元さんの喉元に千佳がアイスピックを突きつけたことに……ではなく、肩を揺らすほど千佳が笑っていることに。
「おにい?」
 梨花が顔を上げ、僕はまともに梨花の顔を見た。大きな目とか、小さな鼻とか、どことなく秋元さんに似ている。けれど瞳は薄暗く、頬は固そうで、血色がない。
 梨花は席を立って、千佳の元へ向かった。
「アキラ!そいつを捕まえろっ!」
 翔の怒声が飛んだ。言われてやっと、梨花が秋元さんを救う交換材料になることに気づいた。
 僕は梨花を追いかけ、手を伸ばす。
「梨花に触るなっ!」
 今度は千佳が怒鳴った。地響きのような恐ろしい声で。桐難野球部三年の本気の声は、翔の比じゃない。筋肉がギュッと固まって、僕はその場に立ちすくんだ。そうしているうちに、梨花は千佳の背後に隠れてしまった。
「翔くん、きみのアイスピックを貰えるかい」
 アイスピックの先端がチョン、と秋元さんの首に触れた。
「翔っ……」
 秋元さんの顔がザッと青ざめる。翔は唇を噛み締めて、ポケットからアイスピックを取り出すと、それを千佳の足元に放り投げた。
「じゃあ翔くん、梨花に『次女』を」
 先端が皮膚を裂き、秋元さんの首を赤い糸が引いた。翔の切長の目が射るように千佳を睨む。
「グーを出すっ!」
 翔はグーの構えを取った。
「梨花、パーを」
 千佳が言うと、梨花はうなずいた。
「じゃん、けん、ぽん!」
 宣言通りのグーとパー。
 梨花の装置がブン、と鳴って、そこに『次女』が入った。
「梨花っ」
 千佳は秋元さんを解放するなり、梨花を抱きしめた。
「もう大丈夫だ。あとは俺が、全て元通りにするから」
「元……通り?」
「分かったんだよ」
 千佳は僕を見た。
「このゲームは、俺たちのためのものだって」
 その目が潤む。間も無く涙が溢れ出す。
「もう……怒り狂ったファンに怯える必要はないんだ。俺たちはっ、平穏に……普通の暮らしを送れるっ……歪んだ悪意をぶつけられることなくっ!」
 僕らが困惑する中で、梨花が「本当?」と場違いに明るく言った。
「ああっ……俺たちはやり直せるんだ」
「アキラ、聖奈、行こう」
 翔が秋元さんの背中を押した。上段の客席にいる僕に目配せして、先を進む。
「こんなおかしな奴らに構ってる暇はない。早く、他の人を探さないと」
「他には誰もいないっ!」
 千佳の声が飛んだ。翔の足が、通路に出たところでピタッと止まる。きっと翔も、内心ではその可能性を認めていて、それを確信している千佳の意見を聞きたいのだ。
「どうしてそう言い切れる?」
 千佳は薄く笑った。
「それを教える前にまず、俺の『ハズレ』を貰って欲しい」
 千佳は僕を向いた。
「アキラくん、俺とじゃんけんして勝ってくれ」
 千佳のカードは『ハズレ』『母』『ハズレ』の三枚
 僕は『長男』『父』の二枚
「ダメだアキラ、負けたら『長男』が奪われる」
 翔が言った。
「知りたくないのか? これがどういうゲームなのか。なぜ、俺たち以外に誰もいないのか」
「いないと決まったわけじゃない」
「いないよ、俺たち以外には」
 翔は黙った。
「勝てば、良いんですね?」
 僕は足先を反転させた。
「アキラっ!」
 翔の手が前を阻むように伸ばされた。
「他に誰もいないってことは、アイツが欲しいのは『長男』だけ。アイツはきっと勝つつもりなんだ」
「そうだよ伊藤くん。あの人、負けるつもりなんてないよ」
 秋元さんが言うと、千佳は肩で笑った。
「さすが桐難を目指す学生は違うな」
 千佳は「なぁ?」と僕に同意を求めた。
「野球バカの俺たちとは頭の出来が違う」
 僕はそんなふうに自分を卑下したことはない。有名大学を目指す翔と違って、僕の目標はプロ野球。僕はひたすら野球を頑張ればいい。
「翔くん、きみはどうして俺が裏切ると思った?あの時俺たちは互いのことを何も知らなかった。何を判断材料にして、グーを出した?」
 視線が、一斉に多方向を向いた。僕は千佳を、秋元さんは翔を、翔は僕を、そして躊躇うように翔は、口を開いた。
「……野球部が、嫌いだから」
 翔は巻き込むように唇を噛んだ。
「翔……」
「ち、違う……アキラ、お前は別だよ。俺は組織としての野球部が嫌いなんだ。応援に強制参加させられるのとかっ、甲子園に熱くならなきゃいけない空気とかっ……」
 翔は自制するように口を閉ざした。その目は困惑で揺らいでいる。
「アキラくん、きみは俺を信じてくれるか?」
 千佳が言った。
「俺はグーを出すから、パーを出してほしい」
 僕はうなずいて、千佳に向かって客席を進んだ。千佳がグーの構えを取ったのは、僕と千佳の距離が1メートルほどに縮んだ時だ。
「じゃん、けん……」
 僕はショックを受けていた。だから細かいことを精査する余裕がなかった。翔の口から「甲子園」が放たれたことだとか、
 千佳が僕に「パーを出してほしい」と、パーにこだわっていることだとか。
「ぽん!」
 僕はパーを、千佳はグーを。
 ブン、と装置が音を放ったのと同時か、それより早く、鋭利な銀色が僕の目の前を横切った。
 ズプン、とアイスピックの先端が、パーを形成したままの僕の親指を貫いた。
「ひっ」
 ズプン、2本目は小指を。その勢いのまま、僕のパーは青いベンチに押し付けられる。
「アキラっ!」
 翔が駆けつける間に、3本目が僕の中指を刺した。ベンチのゆるやかな窪みに血が溜まる。
「やめろ!」
 翔の静止を無視して、4本目が人差し指に下される。
「な、なんでこんなこと……っ」
 千佳は僕のポケットに手を突っ込んで、5本目を取り出した。
「なんでって」
 次は薬指だ。僕の目はジリジリと熱くなった。予想できる痛みほど怖いものはない。
「パーしか出せないようにするためさ」
 ズプン