静まり返った部屋の中、メロディー時計が音楽を奏でた。華やかな調べが、やけに虚しく鳴り響く。
ローテーブルの上に置かれたカップに、ピフラは手を伸ばした。すでに飲み干したため中身は空っぽだが、飲むふりをして、さりげなくガルムを横目で見る。
彼は置物のようにこじんまりと座っていた。もっと楽にしてほしいのだが、何度言っても変わらない。お茶は手付かずのまま、すっかり冷めている。
ここに来てから、はや一時間が経過した。二人の間にはいまだ静寂が流れ、居心地の悪い状態が続いている。自分という人間を知ってもらうため、ピフラはあえて私室へ招いたのだが、的外れだったようである。重い空気が背中にのしかかった。
「お父さまが本当にごめんなさい。急に連れてこられて……怖かったでしょう?」
「……別に。貴族に買ってもらうのが、孤児の幸せなんで」
手指のあかぎれをかきむしりながら、不愉快そうにガルムは言った。
(はあ、わたしったらとんだ無神経ね……)
迂闊な言葉を後悔し、ピフラは続く言葉を失った。
ゲームの回想や、実際の言動から察するに、ガルムの半生は人権がなかったのだろう。自分がぬくぬくと育つ時、彼はどれだけ酷遇されたのか。暮らしも、生い立ちも、その差は歴然だ。何を話していいか──それすら分からなかった。
ガルムはソファの端に貼りつき、可能な限りピフラと距離を空けている。腕を伸ばせば届く範囲だが、心は遥か彼方にあるようだ。指遊びをしながら所在なく視線を泳がせるが、しかしぴたりと静止した。枕元に横たわる、犬のぬいぐるみを熟視している。
「人形が好き?」
ピフラはベッドへ向かうと、そっと枕元のぬいぐるみに手を伸ばした。
灰色の毛並みは年代物で、しかし赤い目だけは妙に新しく光って見える。
母の遺品だが、聞いた話では、先々代の頃から受け継がれてきた家宝だという。
(おかしな話よね。ぬいぐるみが家宝なんて)
もっとも奇妙なことは、これを抱いて眠るのが義務ということだ。
物心ついた頃から「夜はこれを抱いて休みなさい」と言い聞かされてきた。理由は誰も教えてくれないが、なぜか心が静まるので良しとしている。
「かわいいでしょう? お母さまの遺品なの」
──ようやく会話の糸口を見つけられた! 長かった!
安堵のため息をもらし、ガルムへぬいぐるみを手渡す。すると意外なほど念入りに眺め回され、途端に羞恥心が湧いてくる。……汚れてはいないだろうか。
(よだれとか付いていないわよね!?)
戦々恐々とするピフラを流し見て、ガルムは言った。
「ヒビ入ってますね。右目のほう」
「あら、本当ね……その赤い目が好きだったのに」
年代物だし避けては通れない。そう理解しつつ、母の遺品が壊れたことは心痛い。
すると噛み付くようにして、ガルムは、
「……嘘つけ」
と言った。苛立ちが滲む、変声前の明るい声が掠れるほどの低音だ。
目尻を上げ、ガルムは眼光を鋭くピフラを見る。赤い瞳は、じわじわと水彩が滲むように明度を落とした。
「イヴィテュール帝国に、悪魔に忠誠を誓う魔法士がいたことは知ってるよな?」
「ええ、聞いたことがある。黒魔法士よね」
ピフラの薄紫色の瞳を見据え、ガルムは言う。
「赤は、生贄の血の色だって言われてる。だから赤目は、″悪魔と契約した魔法士″だって勝手に決めつけられて、二百年前まで狩られてたんだ。そんな色を好き?……バカにするな」
「狩られていた!? だって赤い瞳は遺伝変異的なもので、凶事とは無関係だわ。学説だって二百年前に発表されているのにっ……」
「殺人鬼にやさしくするバカがいる?」
「でも……そんな……」
そう言われては、何も言えない。かける言葉が見つからない。
返事に窮しピフラは口を閉ざした。また迂闊なことを口走って、彼の傷口に塩を塗りたくない。
塩は、手塩にかけるぶんだけで十分だ。
ふとガルムを見れば、彼はまなじりに涙を浮かべていた。
ああそうか。彼は今、自分で自分を傷つけたのだ。
″不幸″を口にして、耳で聞いて体で覚えこませる。
「自分は不幸」だと自分自身に知らしめる。
──境遇を語ること自体、ガルムにとっては自分に刃を突き立てる行為。
抱き抱えたぬいぐるみに顔を埋め、彼は小さく震えていた。
(悪役義姉に出会う前から、心に闇を抱えていたのね……)
そのとき唐突に、ピフラはゲームの回想シーンを思い出した。
──ガルムの人生は赤い瞳に呪われていた。
生まれてすぐ孤児院に送られ、汚物のように扱われ、公爵家では義姉に「赤目賎民だ」と踏みにじられた。
彼の生い立ちのすべてが、侮蔑と拒絶で染まっていた。
そんな男に、初めて光を向けた女がいた。
『その赤い瞳、綺麗だね』そしてガルムはその者に依存し、溺れ、壊れていく──。
(コンプレックスを解消させてあげないと……)
ヒロインに出会うまで、きっと心を病み続ける。いや最悪の場合、一生だ。
他人の言葉ひとつで救われる程度の苦しみなら、そもそも人間歪まない。幼少期から積み重なった自己嫌悪は、簡単に消えるものじゃない。
──苦しむ彼を放って置けない。自分はどうすればいい?
一点を見つめ微動だにしなくなったピフラ訝しみ、ガルムは眉根を寄せた。
「お、おい」震える細い腕が、岩になった姉へと伸びていく。
するとピフラはぴくりと反応し、獲物を仕留めるようにガルムの手を掴んだ。そして物理的に距離を詰め、彼のそばに掛け直す。
薄紫色の瞳は眼光鋭く、ガルムを追い詰めた。
正解かはわからない。けれど、これが今の自分に出来る精一杯だ。
「わたしはね、赤色が好きなの」



