「……えっと、何の事ですか?」

 「異世界」──その言葉が《《転生者》》である自分に向けられたのは単なる偶然だろうか。
 ピフラの手にじわりと汗が滲む。
 
「フフッ。わたしはこう見えて、歴史と宗教に興味がありましてね」
 ウォラクは用意したワインをグラスに注いだ。赤黒く僅かにとろみがある赤ワイン、言われなければ血そのものだ。
 ピフラが息を飲むと、ウォラクはグラスを回し不敵に微笑った。

「周知の通り、我々赤目は黒魔力をこの身に宿しています。贄を捧げ、魔界の悪魔と取引し、魔王を崇拝した黒魔法士達の力を……」
「で、でも清らかな赤目も沢山いますよね? ウォラク様のような」
 沈黙に耐えられずピフラが付け加える。
 この不気味な空間で黒魔法士に関する血生臭い話を、これ以上展開させたくなかった。

「フフッ! ピフラ様は慈悲深いお方だ、まるで聖女のよう……。そうそう、このヘルハイム王国の聖女伝はご存知ですよね?」
「ええ。天より舞い降りた聖女様が、魔界との戦いから人間界を勝利に導いたと」
「天? いいえ、聖女は《《異世界から来た転移者》》でした」
 ──異世界転移。ピフラの全身が粟立った。

「一説によると、転移者である聖女には先見の明があり、運命を引き寄せる力があったとか。彼女はそれを《《シナリオ》》と呼んでいたそうです」
 「異世界転移」「シナリオ」──乙女ゲームの定番ワードである。
 殆ど手付かずの紅茶は、すでに湯気も立たずすっかり冷めている。それに負けず劣らずの冷たいものが、ピフラの背筋を流れた。

(まさか、200年前の聖女は乙女ゲームのヒロインだった……? じゃあやっぱり、今の世界にもヒロインがいなきゃおかしいわよね? ここは『ラブハ』の世界なんだから)
 みるみる強張っていくピフラを前に、ウォラクの口角が上向いた。

「魔王や悪魔、黒魔法士達はシナリオによって撃退されてしまいました。ですが、その時に思ったのです。それなら《《こちらに有益なシナリオを作ればいい》》……」
 ウォラクは、ジョッキビールのようにワインをあおった。それを飲み干すと今度はワインボトルを咥え、ゴクゴク音を立てて飲む。勢いのあまり口からはワインが溢れ、口元もシャツもみるみる赤色が染みていった。
 およそ貴公子とは思えぬ振る舞いに、ピフラは動揺を隠せない。

「……ウォラク様……?」
「フフッ! シナリオ通りならね、ピフラ様。今頃、この国の中枢はあのお方に支配されているはずだったんです。王太子や、宰相の息子や、精霊王や……そうそう、貴女の義弟君(おとうとぎみ)である優秀な魔法士も籠絡して。この200年、綿密なシナリオを練ってきたというのに……貴女という人は……フフッ! アハハハッ──!!」
 ウォラクが大笑いすると、パリンッと卓上のボトルやグラスが次々に割れていった。
 弾け飛んできた破片でピフラの指先が切れ、深い切創から血が垂れる。不思議と痛みは感じない。そこでようやく、自身の体が麻痺している事に気がついた。
 ウォラクはやおら立ち上がり、ピフラの方へ来ると彼女の膝の上にしな垂れる。

「まあ、仕方がありません。本来なら公爵様(ガルム)の手でピフラ様は殺される予定でしたが、ここは臨機応変にいきましょう。なぁに、口に入れば(みな)同じ……魔王様もお許しくださるはずです」
 そう言ってピフラの指を加え、垂れる血を(ねぶ)る。するとウォラクの面色に赤みがさし、法悦の表情を浮かべた。

「さあ、蘇生の儀式を始めましょう。我らが練り上げたシナリオの、魔王様のお出ましです」