何度も涙を拭った頬が、摩擦でヒリヒリ痛む。
 ピフラは牢の隅に膝を抱えて座っていた。

 それを知ってか知らずか、ピフラが泣いた時はいつもガルムが優しく拭くのが習慣だった。
 あの優しく温かい手が、まるで遠い昔のように感じる。
 ──ブルッと体が収縮するように震えた。
 この震えは恐怖か、あるいは地下の気温のせいなのか、もう自分のことさえ解らない。

『姉上を守るためです』

 そう言って寂しく微笑ったガルムの顔が思い出される。
 この10年、曲がりなりにも義姉として彼を手塩にかけてきた。
 ガルムのあの表情は、強がりと何かを切実に訴える時の顔である。
 それくらい判って当然だ。ずっとずっと、彼を見てきたのだから。
 だからきっと、この状況にも考えがあるはず。
 ガルムを信じたい。けれど──

「言ってくれなきゃ……分かんないよ」
 彼の意図を汲み取れない自分が腹立たしい。
 情けなく鼻水を啜れば、鼻腔がズキッと痛む。
 ピフラは自身の膝に顔を埋めた。
 ──その時、バンッ! と向こうで破壊音が聞こえた。

「ピフラ様!!!!」
 地下通路で跫音がけたたましく鳴り、薄闇から現れたのはウォラクだった。
 脈絡もなく現れたウォラクにピフラは驚愕した。

「ウォッ、ウォラク様? どうしてここに?」
「説明は後です!! 一緒に逃げましょう!!」
 ガルムがしたようにウォラクも錠前に触れる。
 すると、バリバリッ! と鼓膜を裂くような音と共に黒光が現れ、稲妻のように鉄格子を駆ける。
 巨大な錠前はいとも簡単に砕かれた。

「さあ早く!!」
 差し出されたウォラクの手を掴もうとした時、ピフラの目にあるものが映った。
 彼のシャツの袖に着いた赤いシミ。鼻詰まりで気づかなかったが、改めて息を吸えばほのかに鉄臭さを感じた。
(でもウォラク様が怪我をしてる様子はない。じゃあ一体誰の──?)

「あの、ウォラク様。ガルムはどこに……?」
「行きますよ!!」
「きゃっ!?」

 ウォラクが性急にピフラの手首を引っ張り上げ、腕の中に彼女をすっぽり包んだ。
 ウォラクの体温を感じると、同時に絵の具を溶かすように、視界が黒く染まっていく。
 物の輪郭がぼやけ、全身が重力を無視してふわりと浮いた。
 そして瞬きする間に、ピフラは見知らぬ部屋に転移していた。

 ◇

 呆気に取られたピフラは辺りを見回した。
 蜘蛛の巣が張ったシャンデリア、黒に塗られた壁と調度品、髑髏を模した置き物の数々。
 良く言えば個性的、悪く言えばかなり趣味が悪い。

「ようこそ、我が屋敷へ」
 ハッと我に返って翻ると、ウォラクは穏やかな笑みを返した。シルクハットと外套をコートラックに掛け、暖炉の火に薪を焚べていく。
 パチパチと音を立て懸命に(もゆ)る火だが、この闇夜の中では心許ない。
 ウォラクはその場でパンッパンッと拍手した。乾いた音が壁で反響し、すると部屋の至る所で灯燭された。
(そっか。ウォラク様も黒魔法士だものね)
 次々に灯されるシャンデリアやアロマキャンドル。中でも目に止まったのは、テーブルに直置きされた赤黒い蝋燭達だ。
 溶け落ちる蝋は血のようにも見える。

 ──気持ち悪い。
 吐き気を催しよろけたピフラは、そのテーブルに手をついた。ウォラクはすかさず彼女の腰に手を回す。

「おっと! 大丈夫ですか? ピフラ様」
「あ……っ」
 そして、ピフラはふと気がついた。
 婚前の娘が独身男性の部屋に2人きりでいるなど、あってはならない事だ。
 誰かに知られれば、問答無用で《《傷物扱い》》されるのだから。

「わっわたし、すみません……! すぐお(いとま)しますので」
「ハハッ! 行く当てはないでしょう? 大丈夫ですよ、ここは《《わたししかいません》》ので」

(だから、それが問題なんです!)
 ……と思うも、それは図星だった。
 今のピフラに行く当ては1つもない。
『外は危険が一杯ですから』
 ガルムの言葉が頭を過ぎる。

「突然こんな事になって驚かれましたよね。まずはお茶をどうぞ。さて、何をお話しましょう……」

 ウォラクに勧められるがまま、ピフラはその紅茶に口をつけた。
 覚えのあるこの香りと、ジャムと相性がいい、角のないまろやかな味わい。紅茶好きのピフラは直感した。
 これは昔、マルタが淹れてくれた紅茶だ。

(どうしてこの茶葉を知ってるの? 偶然……なわけないわよね。購入履歴でも見たのかしら)
 
 ──しかし、そんな事があるだろうか? 
 今日初めて知り合った女の何年も前の顧客情報をわざわざ見返すなど不自然だ。
 まるで、こうなる事を予め知っていたかのように。
 ピフラはティーカップについた口紅を指で拭う。上等なティーカップだが、かなり年季が入っている。数十年や、その程度のアンティークではない。

(博物館にでも置いていそうなレベルよね……100年前か……いや、もっと前の物かしら)
 ピフラはしげしげとティーカップを観察する。
 すると、正面に席取ったウォラクが赤目を細めて言った。

「ピフラ様は、《《異世界》》という存在をご存知ですか?」